2013年12月26日木曜日

徒然の記 №1 <退職の経験>

退職の経験


平成25年12月25日、舵取り応援団最後のイベントということで「鷲澤正一 感謝の会」を開催し、合わせて「かじとり通信第11巻、第12巻」を発行させていただきました。300名を大幅に超える会員があつまっていただき、楽しい一夜を過ごしました。私は全会員にお酌をさせていただく計画だったのですが・・・人数が多いため全員というわけにはいきませんでした、お許しください。すっかり酔ってしまって失礼があったとすれば申し訳ありません。


なお、「市政に参加する市民の会」と「舵取り応援団」の解散もさせていただきました。「市政に参加する市民の会」は昭和40年代、故夏目忠雄市長を生み出すために作った組織で、以後、商工会議所の会頭が会長就任するなどして、ほとんどの市長選に一定の機能をはたしてきたものであり、私が整理するのはいかがなものか迷ったのですが、そろそろ幕を引いたらどうかの声が強まり、その声に従ったものです。


私は73歳の今日まで、退職という経験はありませんでした。大学卒業前に父親の死に直面し、社長就任してから大学を卒業するという特異な経歴は、通常の方々にとってはあまり経験しないことだろうと思います。(もっとも最近は在学中にベンチャー企業を立ち上げる例はあまり珍しくないかもしれませんが、ある程度の規模になっている家業を社長として継ぐのは、周囲も不安視するし、通常は親戚か番頭さんが、一時的にあずかるのかもしれません)


市長選に立候補するとき、息子だけには相談しました。私のやってきたことを“全て”引き継いでくれるなら市長選に立候補する、そのかわり私は一切会社のことに口は出さない、これが私と息子の暗黙の契約だったように思いますし、以来今日まで会社も順調に、私の時代よりはるかによくなっている感じです。

同族会社の家業ですから、それしか仕方がなかったし、お互いにその責任ははたしてきたと今感じています。


 市長選前の経緯を少しお話しますと、

 平成13年の三月、定例市議会を前にして、塚田市長さんからお使いが来て、「今議会で市長職を辞任する、次はお前だ」という晴天の霹靂のような話がありました。トンデモナイ話と感じましたが、だんだんのそんな雰囲気になっていたのでしょうか・・・・・7月中旬、尊敬する石田県会議員から「わし、もうあきらめろよ」と言われ、覚悟を決めざるを得ない状況に追い込まれました。たまたま7月末に、アメリカで生活していた次男を訪問することになっていましたので、サンフランシスコの薄暗いホテルの一室で、女房にこんな話があると打ち明けたところ、激怒されてしまい、成田空港に着くまで一言も口をきいてもらえませんでした。

半月後、盆明けだったのですが、一部の市会議員さんが来られて日を限っての立候補を促されてしまいました。

そこで藤沢博さん宅を訪問し、事情を話し、政策を皆で作ってほしいとお願いしました。数人のJC・OBの若い方があつまり、短期間ではありましたが、市長選立候補のための政策作りを行いました。いろいろの意見があり、やるなら政党などとは関係なく、単独で宣言しようということで、9月1日、記者会見で立候補宣言をさせていただきました。

そのとき現れた新聞記者の人達からこの会場には「政治家はだれもいませんね」と言われたことを記憶しています。「入りをはかりて、出をなす」という言葉は藤沢さんからお聞きしたものです。


素人集団の選挙は、いろいろ問題もあったのでしょうが、皆さん一生懸命頑張ってくださいました。立候補者は私を含めて6人だったように記憶しています、でも4人は供託金没収ということで、人数の割に激戦とは言えず、私は安泰でした。

一番びっくりしたのは、9・11のテロでした。市内回りをして夜帰宅したとき、テレビで大きな飛行機がビルに突っ込む映像を見た瞬間、これで市長選なんて吹っ飛ぶぞと感じたくらいの衝撃でした。でもまあ無事に当選を果たしました。


社長歴40年間の退職は、市長就任の慌ただしさのためか、あまり実感がありませんでした、そして市長歴12年間を終わって、約50年間、初めて退職という実感をともなった経験をしています。(あまり下積みの仕事をしたことが無いことが、私の弱点かもしれません)

そして今、過去一緒に仕事をした人達、部下だった人達が、定年退職で辞めていかれた、それぞれがどんな思いで辞められたのか、ようやくわかりかけてきたような気分です。

勿論、私の場合、炭平という息子が社長をしている会社があり、いつでも小生を迎えてくれるはずとは思いながら、でも会社も変わってしまっているでしょうし、そこで意義のある仕事ができるのか、給料はどうなるのか、いずれにしろ不安があり、息子の邪魔はしたくないし・・・ここ数週間あまり落ち着いた仕事はできなかったのが実感です。


友人も過去沢山いましたから、遊ぶのに不便はなかろうとは思っていました・・・・これからどうなるか、亡くなった方もいらっしゃるし、73歳の老人(そんな気は毛頭ありませんが)の面倒は見きれないということもあるだろうし・・・・


少し前の文芸春秋に、高齢になって企業の相談役とか顧問になっていつまでも会社にしがみついている役員がいる、その理由は ①個室が無くなる、②秘書がいなくなる、③車が無くなる それらが困ると言った理由なのだそうで、私自身がその立場に立ってみて、その辺の心境はよくわかる気がします。でも個室は何とか確保し、秘書は市長時代とは違いますが、まあ何とかやってもらっています。③の車ですが、周りは運転はやめろという意見とリハビリのつもりで、運転せよとの意見があって、迷っています。いちいちタクシーを呼ぶのは億劫ですし面倒です。かといって以前のように運転手と専用車を用意してもらうのは無駄、コストを考えろと叱られそうです。


趣味を生かした生活も魅力的ではあります。

私の場合、冬のスキー、雪が消えたら乗馬、そして囲碁、カルチャーセンターで何かさがしてみる、読書、またジムに通って身体を鍛えることも必要だと思っています。

競馬も大好きですから、土日はPC・テレビとにらめっこ・・・・・・こうやって書くと結構忙しいのですが。


市長を辞める前、メルマガを継続すると宣言したのですが、よく考えてみたら、辞めた市長が何を書くか・・・なかなか難しいことに気がついたのです。

12年間、きっちり市長職をやってきたつもりですので、女房に「市政以外の話題、何か無いの?」と言われたぐらい、他の話題が作れない、社会復帰するまでに相当時間がかかりそうです・・・・・・・長野市政に関するメルマガならいろいろ書けそうですが、それをやると別に批判する気はないけれど、現市長に迷惑をかけそう、まあ数年後にどうなったか書いてみたい気はするのですが、私は職を辞す前、本年8月の六回のメルマガで長野市の将来にかかわる事柄はすべて吐き出してしまったので、それ以上のことは、書くつもりはありません。


個人的に大切なことは、早く社会復帰をすることでしょう。12年間、大勢の秘書団に囲まれて何から何までやってもらう生活に馴染んでしまったので、この社会復帰は意外に大変です。具体的には、挨拶一つとっても、私が大筋さえ示せば優秀な職員が素晴らしい挨拶原稿を書いてくれる、私はそれを読むだけ・・・・女房に言わせると「議会も含めて下を向いて原稿を読むだけでつまらない」という評価でした。はじめのころ、議会などで結構アドリブを使っていたのですが、揚げ足取りなどがあったのであまり多用しないことにしてきました。記者会見の時なども「皆さん私の会見はあまり面白くないでしょ」とこちらから先手を打って、なるべく問題を起こさないようにしてきたつもりです。


いずれにしろ市長メルマガだから皆さんが読んでくださったことをかんがえると、一市民になった小生のメルマガなんて読んでくださる人はいないだろう・・・・・。

でもいろいろ考えた末、市行政からはなるべく離れて、鷲澤流のメルマガ、すなわち日経新聞にある私の履歴書みたいな自叙伝みたいなもの、あるいは折に触れて感じたこと、随筆みたいなもの、そんなことを私の記録として、記憶にある限り、書いておこうと決めました、今でもご登録していただいている方に、そんなことをご承知いただいて読んでいただければ、これに勝る幸せはありません。


新年から始めさせていただきます。

なお、炭平本社内に相談役室を確保しましたので、お気軽にお立ち寄りくださり、アドバイス等も歓迎ですし、遊びのお誘いは大歓迎です。