2014年11月10日月曜日

徒然の記 №40 青春時代・・・


順序が逆になってしまいましたが、時代を少し遡って見ましょう

 私の青春時代

中学校時代

陸上競技をやっていました、(主として“走り幅跳び”)校内大会や長野市内の大会では常時優勝でしたが、県大会では常に2位でした、飯山に内藤君というとんでもない強い人がいて、敵わなかった。

(当時文部省は、生徒達の宿泊を伴う遠征試合を禁じており、長野から精々松本、上田へ遠征するのがやっとでした。それを補う為か、「全国放送陸上競技大会」が開催されていました。中学生が泊りの大会を開催することが許されなかった時代、私たちには憧れの大会でした。)

高校・大学時代、昭和31年頃から昭和38頃のことです。

当時は、父平六は健在で、毎朝、庭に出て、上半身裸で気合を入れて“竹刀”を振っていたのを記憶していますが・・・、父は、長野商業・横浜高商時代、剣道の名選手だったそうで、卒業してからも、多分身体を鍛えるつもりで毎朝竹刀を振っていたのでしょう・・・。私の記憶のなかでは、商売のことやどこかへ遊びにいったという記憶はなく、父はひたすら仕事、私はひたすら遊びだったように思います。でも言い訳じみていますが、後半は親父の病気のせいか、あまり勉強に身を入れてはいませんでした。

 60年安保の時代、日米安全保障条約について、親父がどんな意見の持ち主だったか・・・聞く機会はありませんでした。

 大学時代、一度だけですが、私も人並みにデモにも参加し、東京・三宅坂で、スクラムを組んで、シュプレヒコールやジグザグ行進をした記憶があります。
 

 シュプレヒコールの内容な「安保!!!!岸よ!やめろ」でした。

 東大生の樺美智子さんが、国会前で圧死されたのは、そんな時期でした。

  親父の病気が徐々に重症化し、眼の病気と思われていたのが、脳腫瘍と診断され、(アメリカのテレビ映画で「ベン・ケーシー」という脳外科のお医者さんの映画を、夢中になって見た記憶があります。昭和37年夏、東大病院で脳の開頭手術を行いましたが・・・約半年ほど寿命は延びたのかもしれませんが・・・昭和337年12月25日、48歳で、帰らぬ人となりました。

  新年になって、即ち昭和38年一月、松が取れて、確か葬式は一月中旬だったように思います。
 

 葬儀の前後、一応、株主総会をやったことにして、私が炭平の社長に就任しました。

 本願寺長野別院から呼びだされて、責任役員に就任したことは、既にお話しました。

そして、三月、早稲田大学商学部卒業しました。

(前年昭和37年4月、父の病が重くなっていたので、周りが心配して、学生のまま、炭平へ入社して、社員になっていました。)

 まあ本来は大学を卒業したら、アメリカへ行ってみたい。留学なんて格好良いことではないのですが、暫く遊んできたい・・・と夢見ていたのですが・・・。父の病気が重くなったこともあって、諦めざるをえませんでした。親父に、病床の親父に、「留学は諦めて、卒業したら、直ちに仕事をする」と伝えたら、えらく喜んでくれたこと、私の出来た唯一の親孝行だったかなあ・・・と思っています。

 会社の経営のほうは、親父の病気療養中から、番頭さん(幹部社員)達が纏まって頑張って頂いたお陰で、炭平の“のれん”を守ることが出来ました。私が今日あるのは、まさに番頭さん達のお陰だったと、今でも感謝しています。

 仕事の方は、東京オリンピックが終わった直後、山一証券や山陽特殊鋼の倒産騒ぎがありましたが、右肩上がりの状況、私が目論んだ生コン業への進出は順調に推移しました。