順序が逆になってしまいましたが、時代を少し遡って見ましょう
中学校時代
陸上競技をやっていました、(主として“走り幅跳び”)校内大会や長野市内の大会では常時優勝でしたが、県大会では常に2位でした、飯山に内藤君というとんでもない強い人がいて、敵わなかった。
(当時文部省は、生徒達の宿泊を伴う遠征試合を禁じており、長野から精々松本、上田へ遠征するのがやっとでした。それを補う為か、「全国放送陸上競技大会」が開催されていました。中学生が泊りの大会を開催することが許されなかった時代、私たちには憧れの大会でした。)
高校・大学時代、昭和31年頃から昭和38頃のことです。
当時は、父平六は健在で、毎朝、庭に出て、上半身裸で気合を入れて“竹刀”を振っていたのを記憶していますが・・・、父は、長野商業・横浜高商時代、剣道の名選手だったそうで、卒業してからも、多分身体を鍛えるつもりで毎朝竹刀を振っていたのでしょう・・・。私の記憶のなかでは、商売のことやどこかへ遊びにいったという記憶はなく、父はひたすら仕事、私はひたすら遊びだったように思います。でも言い訳じみていますが、後半は親父の病気のせいか、あまり勉強に身を入れてはいませんでした。
60年安保の時代、日米安全保障条約について、親父がどんな意見の持ち主だったか・・・聞く機会はありませんでした。
大学時代、一度だけですが、私も人並みにデモにも参加し、東京・三宅坂で、スクラムを組んで、シュプレヒコールやジグザグ行進をした記憶があります。
シュプレヒコールの内容な「安保!!!!岸よ!やめろ」でした。
東大生の樺美智子さんが、国会前で圧死されたのは、そんな時期でした。
葬儀の前後、一応、株主総会をやったことにして、私が炭平の社長に就任しました。
本願寺長野別院から呼びだされて、責任役員に就任したことは、既にお話しました。
そして、三月、早稲田大学商学部卒業しました。
(前年昭和37年4月、父の病が重くなっていたので、周りが心配して、学生のまま、炭平へ入社して、社員になっていました。)
まあ本来は大学を卒業したら、アメリカへ行ってみたい。留学なんて格好良いことではないのですが、暫く遊んできたい・・・と夢見ていたのですが・・・。父の病気が重くなったこともあって、諦めざるをえませんでした。親父に、病床の親父に、「留学は諦めて、卒業したら、直ちに仕事をする」と伝えたら、えらく喜んでくれたこと、私の出来た唯一の親孝行だったかなあ・・・と思っています。
会社の経営のほうは、親父の病気療養中から、番頭さん(幹部社員)達が纏まって頑張って頂いたお陰で、炭平の“のれん”を守ることが出来ました。私が今日あるのは、まさに番頭さん達のお陰だったと、今でも感謝しています。
仕事の方は、東京オリンピックが終わった直後、山一証券や山陽特殊鋼の倒産騒ぎがありましたが、右肩上がりの状況、私が目論んだ生コン業への進出は順調に推移しました。