2014年4月11日金曜日

徒然の記 №22 オリンピックが終わって新しい長野がスタート (2/6)

** 地方自治(地方分権一括法) **

2000年以降、地方自治体にとっては大きな制度変更があり、市独自の取り組みが増えてきているように思いますが、論理的には2004年に成立した、「地方分権一括法」が、地方、特に市町村にとって大きな可能性を秘めた法律だと思っています。
この法律は、市長メルマガでも書きましたけれど、国の機関委任事務制度が廃止され、一方で自治体が行う事務は自治事務と法定受託事務に再編成されたものです。

従来地方は、国が法律にもとづいて行う事務を地方はきちんと行うことが義務でしたから、地方独自の工夫は原則なかったと言うことでしょう。はっきり言えば、地方行政組織は、原則としてすべて国の定めたことを正確に行うことだったと感じていますし、それはいまだに続いているものが多々あり、これが「法定受託事務」ということでしょう。
それとは違う「自治事務」ということが明記されたということは、自分の都市の裁量で事業をやってもよろしいということになったわけで、市町村の自己決定権が大きく拡大したことになると感じています。

地方と言っても、「県」は政策官庁としての事務事業がかなりあったようで、職員は過去からそれなりに鍛えられていたようですが、市町村職員は政策を独自に造り上げていく訓練をあまりしていませんでしたから、言われたことを正確に実行することのみ(即ち法定受託事務を行う)が期待されていたのだと私は感じています。

オリンピックを前にして、NAOCという組織が出来ました。この組織はオリンピックをやるためにつくられた組織で、国・県・市、そして民間からも、多くの役員・職員が集まってきて創設された組織、即ち一種の集合体でしたから、次にやってくるのであろう本当の意味での“地方の時代”を考えたとき、先駆的で一種の実験装置の役割を果たしていたのではないか・・・、自ら工夫して行っていく事務事業というのは、まずなかったはずの市町村職員が、集合体の組織に入って大いに鍛えてもらったということかもしれません。よせ集めの集団(NAOC)組織の中で、市町村職員は苦労したでしょうが、又凄く鍛えられたはずで、特に政策への取り組みについてはかなり成長したはずと私は感じています。

NAOCという組織は、JOCが中心になって出来た「組織委員会」が上部構造で、県・市町村・民間などがつくる実行委員会が下部構造となっており、二重構造の組織になっていました。組織委員会会長は斎藤英四郎さん(新日鉄会長)、事務総長は小林実さん、実行委員会は確か吉村知事さんだったと記憶しています。私は実行委員会の委員に任命されていたように記憶しています。
実行委員会は、実働部隊として、オリンピックを成功させようという一点だけが目標で、特にマニュアルなどは無く、自分達のアイデアを打ち出して仕事をしていたように記憶しています。即ち、新しい組織ですから自らの工夫によって仕事に取り組むことが必要で、且つそれが可能だったということです。

しつこいようですが、「地方分権一括法」の成立のよって、法定受託事務は今まで通り、国が定めたことをやるのでしょうが、自治事務というのは、地方が主体的に行う事務ということになったわけですから、決まった通りの事務事業をやるだけでなく、何をやるか、自分達で考えることが、必要になったはずです。

例えば、職員の給料や組織などは国が決めた通りに行うことだったのが、地方事務になったことで地方独自に決めて良いということですから、人事院勧告はあっても論理的には、無視して独自に決めてもかまわない(多分労働組合の話し合いは必要とは思いますが)と、私は思っています。対立が発生し、混乱はするでしょうがね・・・。

さらに、そこまでやるなら、市長なんて必要ないから、市長制度を廃止したらどうか・・・でもそういうことについては、一括法とは別に地方自治法や公職選挙法というのがあって、そちらの決めごとがあって、駄目なようですが・・・、まあ、矛盾していますし、中途半端な改正ではありますが、徐々に地方の自主性が発揮出来るようになるはずと私は信じています。

アメリカに、サンデースプリングスという10万人ぐらい(?)の市がありますが、そこの行政職員は市長を含めて数人しかいないという極端な例について、現役時代にお話ししたことがあります。全てが自治事務という法律が成立したとすれば、論理的には、市民の合意があれば、制度なんてどうにでもできるのではないか、そんなことを考えたことがありました。長野市長選では、たった一人の市長を選ぶために、市の予算ですが約8千万円もかかる(これは事実です)。先日終わった東京都知事選や大阪市長選は、何十億もかかるという報道に接するたびに、もったいないなあ!本当の行政改革とは、民主主義とは・・・、なんだろうかと考えてしまいます。おまけに、今のは公費だけの話しですが、選挙のために個人や政党などが使う資金は、又別に必要になるはずですから・・・、しかも猪瀬都知事の選挙資金問題とか、最近話題になっているみんなの党の渡辺党首の資金問題・・・、誤魔化すためにいろいろなことを仰っていますが、変な話が多いですよね・・・。汚職とまではいかないのかも知れませんが・・・、政治の世界における「金」と「女」の問題については(こういう表現は差別用語だと言われる可能性がありますが)、法律はとにあれ、政治の世界では絶対に許せないテーマでしょう。選挙に出る人は、清廉潔白でなくてはならない・・・。第二部の舵取り通信を読んでいたら、「井土塀・政治家」のことを、私は書いていました・・・。

長野市が中核市に昇格したのは、多分平成14年だったと記憶しています。中核市になって何が変わったのか。目に見えるものとすれば、県の権限であった保健所について、中核市の長野市に設置することが可能になった結果、市民の保健需要に素早く対応できるようになったことは事実ですが、ただ私は、都市計画の権限、道路などをつくる権限、義務教育の先生の人事権、高等教育施設の認可権、等々、市町村に欲しい権限は他にも沢山ありそうで、市町村に任せてもらった方が随分効率的だろうなあ、ただし、財政の権限と職員(市長も含めて)の能力もついてこなければ・・・駄目でしょうがね。

加えて民主主義とは、その国の国民のレベル以上の政府は出来ないことも残念ながら事実だと、これはJCの時代からいつもそんな議論をしていましたけれど、国だけでなく、地方政府でも同じことでしょう。

私は、指定市と中核市の間の垣根をもっと下げて欲しいという要望を国へ出していました。指定市の権限は、県の権限と同等ということですから、市にとってはかなり大きなことで自由度は上がりますよね。

地方自治の制度は、原則として、人口の多さによって制度が決まっているようで、多い順に幾つかの区分になっていて・・・「指定都市」・「中核市」・「特例市」・「普通市」。さらに、その下に、町・村があり、それぞれ権限が違うのですが、中核市が今後中心的な存在になると言われています。
ただ、かなりいい加減な部分があり、北海道の昔の産炭地などでは、数千人の「市」がありますし、私の息子が住んでいる愛知県の東郷「町」は、十万人以上の人口なのに、「町」だそうです。“町”の方が“市”より何かメリットがあるのかよくわかりませんが、一旦、「市」に昇格すると、人口が減っても降格(?)するルールはないようですし、逆の場合もあって、さらに現在話題の道州制も含めて、地方制度、都市制度は、長い目でみれば固定したものではないのではないかと思います
地方都市の持つ自由度が増えて独自性が出てくる、そのときどんな姿を、あるいは夢を描くのか楽しみですよね。