2011年8月25日木曜日

住民投票条例の直接請求(その1)

 
 9月市議会定例会(今年は9月に市議会議員選挙が行われるため、
8月に開催されました)に提出された市民グループの直接請求によ
る「市役所第一庁舎・長野市民会館の建て替えの是非を問う住民投
票条例」と議員提案による「第一庁舎・長野市民会館建設基本計画
に基づく建て替えに関する住民投票条例」の両議案は、活発な審議
の結果、否決されました。

 今回の直接請求の背景としては、3月に発生した東日本大震災に
より、事業の実施に対して市民の皆さんの中に漠然とした不安が生
じているという面もあろうかと思います。  
 市としては、震災発生直後に消防局職員(延べ173人)、上下
水道局職員(延べ18人)、保健師(延べ18人)を被災地へ派遣
することはもとより、市民の皆さんからの義援金および救援物資を
受け入れて被災地に届けるとともに、被災した岩手、宮城、福島県
の各市長会、盛岡、郡山、いわき市の中核市、そして栄村に合計1
億円の見舞金を支出しました。現在も、罹災(りさい)証明書発行
事務などに伴う行政事務職員(延べ88人)を派遣したり、被災地
からは市営住宅などに70世帯227人を受け入れたりしていると
ともに、夏休み期間中には一時的な避難として保科温泉に延べ
1,694人、1日平均48人(8月23日現在)を受け入れまし
た。震災発生以来継続的にこのような支援を行っていますし、今後
もできる限りの支援を行っていくことは、言うまでもありません。

 その一方で、本市の将来を見据えたとき、市役所第一庁舎および
長野市民会館の建て替えは、安全・安心で活力あるまちづくりの実
現に向けて、必要かつ重要な事業であると考えています。
 市の防災拠点としての機能を持つ庁舎建設が必要であることはも
ちろんのこと、「育む」「楽しむ」「創る」「つなぐ」の4つの役
割を持つ新市民会館は、市の文化力をさらに発展・向上させ、地域
文化を創造・発信し、都市としてのレベルアップをも担う、市民の
皆さんにとって大切な文化芸術拠点になるものと確信しています。
また、財政計画も考慮しながら着実に事業を実施していくことが、
行政の責務であると考えています。

 本件につきましては、既に3年もの間、議論してきた経過があり、
関係資料の全戸配布や説明会などで市民の皆さんに説明し、十分に
ご意見を伺ってきました。その上で、市民代表である議会と協議し、
方針を決定するというように、丁寧に手続きを重ね、議論を尽くし
て決定したものです。
 その結果、議会では、本年1月の臨時会で現市民会館の廃止を出
席議員の3分の2以上の特別多数議決で決定し(条例で定める重要
な公の施設を廃止する際は議決のハードルが高いのです)、また、
3月の定例会では、大震災後の3月23日、新しい市民会館の基本
設計費や現市民会館の解体費などを盛り込んだ平成23年度予算を
議決していただき、建て替えの意思を明確にお示しいただきました。

 今回の定例会でのご決定により、議論には一定の区切りが付いた
ものと考えていますので、今後も市民の皆さんに分かりやすく丁寧
に事業計画を説明するとともに、地方自治の二元代表制の一翼を担
う議会との協議を通じ、平成26年度の完成を目指して、事業を進
めていきたいと考えています。
 当面は、現在進めている施設の設計者選定を進め、設計作業に着
手するとともに、今年度予算で認められた現市民会館の解体工事に
も取り掛かる予定です。

 なお、投資不足、需要不足とも言われるわが国経済の中にあって、
老朽化した社会基盤の整備や維持補修などへの投資は、需要喚起、
雇用吸収などの点で有効な施策です。本市としても、健全な財政を
堅持しつつ、必要な社会資本への積極的な投資などを通じ、まち全
体の活性化も図っていきたいと考えています。

 住民投票が議論された今議会でしたが、都市内分権を進めている
本市としては、真の市民参加によるまちづくりを進めていくために、
住民自治協議会の成熟状況などを十分に見極めながら、近い将来、
自治基本条例の制定と向き合う時期が来るものと考えています。

 その際は、自治基本条例の目的から始まり、法的な位置付け、ま
ちづくりの主体とその権利や責務、情報の公開や共有、市民との協
働の手法や機会、さらには住民投票に関する規定を盛り込むか否か
など、二元代表制との調和も考えながら、多岐にわたる分野での検
討が必要になるだろうと感じています。

 いずれにしても、この条例制定は、将来の市政の根幹に関わる極
めて重要な事項でありますので、市民・議会・行政、それぞれの立
場での議論を尽くし、その集大成として制定に至ることが、単なる
理念にとどまらず真に実効性のある条例としていく上で不可欠だと
思っています。また、今後の国・県、そして世論の動向も注視しな
がら、検討していく必要があると考えています。

 市議会定例会の質疑の中で、住民投票を「恐れてはいけない」と
の意見がありました。
 私は、「恐れてはいない」とお答えしました。なぜなら、議会の
議決に至るまでには、市も議会も市民全体の意向をお聴きし、それ
を十分にくみ取ってきたわけですし、その上で両者が協議を行い、
理解し合った上で、修正すべきものは修正しています。過去の議決
は全てこの過程を踏んでおり、今回は、より丁寧にこの手続きを重
ねてきたのです。
 このように市役所第一庁舎及び長野市民会館の建て替えについて
は、本来の手法で進めてきた事案ですから、この段階で住民投票と
いう単に賛否だけを問う方法で決めるべき問題ではないということ
を、ご理解いただきたいと思うのです。

 以上、今回のかじとり通信では、9月市議会定例会での閉会のあ
いさつで申し上げた内容を中心に述べさせていただきました。
 次回のかじとり通信では、引き続きこのテーマで私の考えを述べ
たいと思います。

2011年8月18日木曜日

盆明けのかじとり通信(最近の読書)


 3月11日の東日本大震災、翌日の栄村を中心とした地震で、世
の中が変わってしまった感がありますよね。3月から4月にかけて、
あらゆることが自粛ムードになってしまいました。
 本市では、長野オリンピック記念長野マラソンの中止が代表的で
したが、私個人でも泊まりがけで予定していたスキー旅行を自粛し
ましたし、3月から4月の市職員の人事異動時期の送別会や歓送迎
会も、ほとんど自粛になってしまいました。被災地の惨状を思えば
当然のことと思いますが、約40年間も勤務して退職する市職員に、
単に記念品だけを渡して送り出してしまうことは、すごく申し訳な
い気持ちでした。

 私個人とすれば、前述のように歓送迎会などの中止により空いた
時間を家でかじとり通信の執筆や読書に充てていましたが、このま
までは、日本の元気が失われていく一方だと心配していたのも事実
です。
 
 4月末ぐらいから、自粛の行き過ぎは、日本全体の萎縮につなが
り、震災の復興のためにならないといったムードが出てきて、長野
市では、ゴールデンウイークあたりから、少し元気が出てきました。
現在は8月、大震災以来ほぼ5カ月が経過しています。
 今、時代は大きな転換期にありますが、今回のかじとり通信では、
日本の将来の道しるべともなる素晴らしい書物をいくつか紹介させ
ていただきます。

 新田次郎・藤原ていという作家をご両親に持つ数学者である藤原
正彦さんの「国家の品格」を読んで感銘を受け、その一部をかじと
り通信などで時々紹介させていただいていることは、皆さんもご存
じのとおりです。

 その藤原さんが「日本人の誇り」(文春新書)という本を書かれ
ました。読ませていただき、またまた深く感銘を受けました。
 藤原さんは、同書の中で政治、経済、外交、教育など全てにおい
て危機的状況にある今の日本を憂い、祖国再生の鍵として、以下の
とおり述べていらっしゃいます。
 「一般に多くの困難を解決しようとする場合、一つ一つ着実に片
づけて行こうと誰でもまず考えますが、大ていの場合、労力がかか
るばかりで成功しません。いかなる個人や組織であろうと、さらに
はいかなる国、世界であろうと、多くの困難が噴出しているという
のは、それら全てを貫く何か一つの基軸が時代や状況にそぐわなく
なっているということを意味します。従ってその基軸を変えること
で諸困難を一気に解決する、というのが最も効果的なばかりか容易
でもあるのです。そして最も美しいのです。(略)美しいものを目
指すことが万事において真へ達する道であり善に到達する道なので
す。」つまり、「真・善・美は同じ一つのもの」とおっしゃってい
ます。

 さらに、「この世のあらゆる事象において、政治、経済から自然
科学、人文科学、社会科学まで、真髄とはすべて美しいのだと私は
思っています。何故だかよく分かりませんが、私の経験では常にそ
うなのです。」と述べておられます。

 そして、日本が戦後どのような基軸で歩んできたかについて、以
下のとおり言及しています。「日本近代史における戦争を考える時
に、満州事変頃から敗戦までを一くくりにした十五年戦争や昭和の
戦争がありますが、このように切るのは不適切と思います。その切
り方はまさに東京裁判史観です。(略)私の考えは(略)、ペリー
来航の1853年から、大東亜戦争を経て米軍による占領が公式に
終ったサンフランシスコ講和条約の発効、すなわち1952年まで
の約百年を『百年戦争』とします。」

 その上で、「百年戦争は日本の大敗北となりました。しかし(略)
大局的見地から見ると、実は百年戦争は日本の大殊勲だったのです。
ペリー来航以来、日本が希求してきたものは、第一に独立自尊でし
た。そして第二には、そのためのアジア主義、すなわち日中朝が連
帯して白人によるアジア支配を食い止めることでした。第一のもの
について日本は、百年戦争の最後の6年半ほどアメリカによる統治
を受けただけで、曲がりなりにも有史以来の独立自尊を保つことが
できました。(略)第二のものについても、日本はほぼ独力で達成
してしまいました。(略)アジアを食い物にしていた白人勢力に日
本が敢然と立ち向かう姿を見て、アジアの人々はもはや白人への畏
怖や恐怖を持たなくなりました。(略)1941年には独立国がア
ジアでは日本、タイ、ネパールの3国、アフリカではエチオピア、
リベリア、南ア連邦の3国しかなかったのが、その11年後、百年
戦争の終る時点では合わせて100カ国を超えたのです。」と述べ
られています。
 この本を通読してみて、「百年戦争」という時代認識はそのとお
りだなあと感じるとともに、日本は素晴らしい国家、美しい国なの
だとの藤原さんの主張に深く感銘を受けました。それ故、「自国へ
の(略)誇りと自信こそが、現代日本の直面する諸困難を解決する
唯一の鍵」と藤原さんは訴えておられるのです。
 
 また、藤原さんは、アメリカが占領政策・言論統制・徹底した検
閲を通して実施した、「終戦のずっと前から練りに練っていたウォ
ー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(WGIP(*)
=戦争についての罪の意識を日本人に植えつける宣伝計画)(略)
『罪意識扶植計画』」について述べられています。このことについ
ては、江藤淳さんの「閉された言語空間」(文春文庫)でその実態
についてつづられており、少し前にそれを読んだ時、唖然(あぜん)
としたことを思い出します。江藤さんも、アメリカの検閲政策は、
「古来日本人の心にはぐくまれてきた伝統的な価値の体系の、徹底
的な組み替えであることはいうまでもない。」と述べられています。
 その後、自虐史観(江藤さんによると、「日本人のアイデンティ
ティと歴史への信頼(略)崩壊」)なるものが、「今日に至るまで
脈々と、多くの善良な日本人の精神の奥深くに、気づかぬうちに根
を張っているのです。」という藤原さんの言葉を痛感しています。
 失った自国への誇りと自信を取り戻し、何とか藤原さんのおっし
ゃる「美しい国」を目指したいものです。

 本棚を整理していたら、「自分の品格」(三笠書房)という本が
出てきました。2008年に出版された上智大学名誉教授の渡部
(わたなべ)昇一さんの著書です。
 「その道で『一流』になっている人は、必ずその人なりの『品格』
や風格が顔や背中に滲みでているものだ。また、そういう人は、人
から厚く信頼され、盛り立てられ、人間的にも魅力が増し、さらに
いい仕事、大きな仕事をしている。そのような人に共通しているこ
とが、一つある。それは自分の手に負えそうもない壁にぶつかって
も、けっして諦めないことである。」

 人生訓のような本はいろいろな人が書いており、それぞれ立派で
すが、渡部さんの主張は、昔から納得のいく論であると感じている
ところです。最近出版された「日本の歴史」(WAC BUNKO)
全7巻も楽しく読ませていただきました。

 遠山啓さんの「文化としての数学」(光文社文庫)。これは藤原
さんが数学者だったので、他の数学者の本を読んでみたくなり、読
んでみました。遠山さんは、数学の持つ性格、正確さと厳しさが、
子どもたちの中に「正邪(せいじゃ)を見分ける判断力、不正や虚
偽を憎しみこれと妥協しない強固な性格、困難と戦ってこれを征服
する忍耐力を(略)形造る」とおっしゃっています。
 美しい精神にこそ、「美しい国」に通じるものがあると思います。

 山本七平さんの「『あたりまえ』の研究」(ダイヤモンド社)、
「勤勉の哲学」(PHP文庫)、「『常識』の研究」(文春文庫)
などは昔読んだ本ですが、ユダヤ教や日本教という言葉に引かれて、
夢中になって読んだ本です。
 「『あたりまえ』の研究」によると、「日本人は無宗教でもけっ
して無規範ではない。(略)世界で最も厳しい個人的規範をもって
おり、それであるがゆえに世界で最も秩序立った犯罪の少ない社会
を形成しているはずである。だがこれが、宗教=規範の世界には理
解されず、(略)しばしば誤解される。(略)では、それを説明し
相手を納得さすにはどうすればよいか。」宗教=規範というような
前提を持っている外国人からすれば、なぜ、「泥棒もせず、嘘もつ
かず、悪いこともせず、だれも見ていないのに日々誠実に働き、ま
じめな日常生活を送っているのか」と述べられています。
 このような国際社会における「説得力」の問題のほか、日本の歴
史上の人物を分析することなどを通して、日本人を考察された傑作
です。

 阿久悠さんの「清らかな厭世(えんせい)」(新潮社)という本
も読みました。彼の歌詞は、カラオケで大好きですが、文章も素晴
らしい、納得できるものでした。美しい日本語を大切にされた希代
の作詞家が、多くの警句をつづられています。

 その他、私の好きな作家は、司馬遼太郎さん、梅原猛さん、童門
冬二さん・・・夢中になって読んだ時代がありました。いずれも、
美しい文章で、そして真面目に考えさせられる本でした。     
 今回紹介した本は、人生の教訓、そして生きていく糧になる本で
した。

*WGIP:War Guilt Information
 Program

2011年8月11日木曜日

今年の夏祭り


 7月下旬からお盆にかけて長野市は、夏祭り真っ盛りです。また、
スポーツ大会などさまざまなイベントもめじろ押しです。

 権堂町では、先月22日から今月7日まで「長野七夕まつり」が
開催され、権堂アーケード通りは、東日本大震災の被災地を応援す
る作品などが色とりどりに飾られ、今年も華やかな雰囲気でにぎわ
っていました。
 昔の活気に比べれば、それほどではないのですが、地元商店会の
皆さんが頑張っている伝統の七夕祭りで、これからの権堂再生へつ
なげていこうという心意気が感じられます。浴衣姿で七夕祭りを楽
しむ市民の数も、もっと増えてほしいですね。

 週末の7月30日と31日には、いろいろなイベントが市内各地
で行われ、私も開会のあいさつなどのため、両日市内を駆け回りま
した。

 30日は、最初に、「第45回長野市少年野球大会」開会式に出
席しました。
 大会前日の29日から、新潟県や福島県で人的被害が出るほどの
大雨が続いていましたので、当日の天気が心配でしたが、何とか開
会式を行うことができました。あいさつでは、選手の皆さんに、
「東日本大震災により、野球をやりたくてもできない仲間がいる中
で、野球ができることへの感謝の気持ちを忘れないでほしい」とお
願いしました。
 大会は、小学生の部78チーム、中学生の部25チームが参加し
て12日間の日程で熱戦が繰り広げられ、昨日閉幕しました。

 その日の夕方以降は、毎年の恒例行事になった3つの祭りの“は
しご”です。
 まず、「若穂ふれあい踊り」に行きました。年々、規模が大きく
なり、にぎやかになっている祭りです。湯島天満宮の祭りと一緒に
開催しているもので、県道を歩行者天国にして、新しい踊りの連も
加わってとても盛況でした。本市では、夏休み期間中、福島県から
一時避難された皆さんに保科温泉を無料開放して滞在していただい
ていますが、そうした皆さんも祭りに招待されていました。私から
は、「長野市の夏祭りを楽しんでください」とお伝えしました。こ
うした皆さんを温かく迎えていただいている若穂地区の皆さんには、
感謝の気持ちでいっぱいです。

 次に向かったのは、「第41回篠ノ井合戦まつり」です。篠ノ井
駅前通りはすごい人出で、AC長野パルセイロの監督、選手も加わ
って、大変にぎやかでした。パルセイロは、翌日、南長野運動公園
総合球技場でV・ファーレン長崎との試合を控えていました。開会
のあいさつで、篠ノ井イヤーも順調に進んでいるので、この夏の祭
りの成功、そして、明日のパルセイロの勝利を願うとともに、ぜひ
みんなで篠ノ井を盛り上げましょうと申し上げました(ちなみに、
パルセイロの試合は、0対0の引き分けでした)。

 最後は、「第32回大豆島甚句まつり」です。
 大豆島甚句は、350年以上も前から、うたい、踊り継がれてき
た郷土芸能であり、昭和55年に長野市の無形文化財に指定された
ことを記念して、大豆島甚句まつりが始められたと聞いています。
 以前は、大豆島の狭い通りで踊っていたのですが、一昨年からは
新設された広い大豆島公園で、にぎやかに甚句と踊りが披露される
ようになり、たくさんの人が参加できるようになったものです。会
場を変更した新しい形の祭りが徐々に地域に根付いてきていること
が感じられました。
 お聞きすると、甚句が残っている地域の連帯を考えておられるよ
うで、当日は中条地区の皆さんも参加されて、伊折(いおり)甚句
を披露しておられました。

 翌31日は、もんぜんぷら座にあるこども広場「じゃん・けん・
ぽん」で同広場利用者50万人達成の式典を行い、50万人目の親
子に記念品を差し上げました。その後、式典に集まった親子連れの
皆さんとじゃんけん大会をやったのですが・・・私は早々に敗退し
てしまいました。

 その後、浅川地区のボブスレー・リュージュパーク“スパイラル”
に向かいました。ここでは、「夏フェスタinスパイラル2011」
が長野県ボブスレー・リュージュ連盟の主催で開催されていました。
ボブスレー、リュージュ、スケルトンといったそり競技の普及など
を目的に開催され、子どもたちの滑走体験コーナーもあったようで
す。また、浅川スパイラル友の会の皆さんの呼び掛けにより、みん
なで会場内の草刈りをし、その後行われた焼肉パーティーにご招待
いただきました。地元の市議会議員さんもご出席になり、楽しい語
らいがありました。

 それから、篠ノ井駅前まで移動し、「長野市近郊の獅子の祭典」
を観覧しました。篠ノ井イヤーのイベントの一環ということで、今
年は、篠ノ井の大獅子2基(内堀区と芝沢区)に加え、権堂町の勢
(きおい)獅子、千曲市上山田温泉の勇(いさみ)獅子を迎えて、
4基の獅子が篠ノ井駅前通りを勇壮に練り歩きました。

 篠ノ井にこんな大獅子があることを知らなかったのですが、一昨
年の善光寺御開帳の際に、大勢の篠ノ井地区の皆さんと一緒に大獅
子が中央通りを練り歩き、善光寺に奉納されたことで知ることがで
きました。篠ノ井の大獅子は、これをきっかけに一躍長野市の名物
になったと思います。今回は篠ノ井に4基がそろうという大イベン
トに成長したわけです。上山田温泉の芸妓(げいこ)衆も屋台の上
で踊りを披露し、獅子を操る若い衆も、暑い中張り切って練り歩い
ていました。
 私もそれぞれの獅子を見て回りましたが、地域の皆さんに歓迎し
ていただき、熱く楽しいひとときを過ごすことができました。篠ノ
井イヤーが成功するように、みんなで努力したいものです。

 翌週末もイベント続きです。
 8月5・6日には、「長野駅東口ゆめりあ祭り」が行われました。
 長野オリンピック直後から始まった祭りで、市の駅周辺整備局も
一緒になって、長野駅東口商店街や、芹田地区住民自治協議会の皆
さんが盛り上げています。長野駅東口の土地区画整理事業は、完成
までもう少し時間がかかりますが、全部できる前でも、まちづくり
を進めていこうという皆さんの心意気は大切にしたいと考えていま
す。

 6日には、本市の夏の風物詩である一大祭り「長野びんずる」が
盛大に開催されました。びんずる踊りには、254連・約1万
2,000人が参加し、沿道も多くの観客でにぎわっていました。
私は、名誉実行委員長として、千数百年間ともされ続けている善光
寺さんの法燈(ほうとう)から祭りの火を頂く儀式「採火式」に参
列し、それから中央通りをTOiGO(トイーゴ)広場まで歩きま
した。そこで分火式を行い、各火釜に点火され、祭りがスタートし
ました。踊りは2時間30分続き、フィナーレには花火が威勢よく
打ち上げられました。最後に、参加連のうち19連を対象とした踊
りコンテストの表彰式があり、最優秀賞の連の連長に私から賞状な
どをお渡ししました。今年もさまざまな趣向が凝らされ、大勢の踊
り手、観客の皆さんが祭りを堪能したことでしょう。
 また、7日には「豊野ヨイショコまつりとサマーフェスティバル
・煙火大会」が、さらに、10日には「飯綱火まつり」が開催され
ました。

 これからも、長野市の夏祭りは、まだまだ続きます。
 12日は、伝統の「お花市」。お盆の花を買い求める人のために、
中央通りで昔から開かれているものです。
 15日には、「第59回信州新町納涼大会」です。
 第二次世界大戦中の昭和17年から続く歴史のある祭りで、ろう
かく湖に映る花火と犀川をゆっくりと流れる色とりどりのとうろう
は大変奇麗で、お客さんも大勢集まる、信州新町の一大イベントで
す。
 今年は信州新町イヤーでもありますので、ぜひ見物したいと思っ
ています。

 14・15日には「善光寺お盆縁日」が開催され、14日には大
岡地区で「ひじり三千石祭り」、15日には「鬼無里ふるさと夏ま
つり」が開催されます。

 長野の夏は、連日、数多くのイベントや夏祭りで、いっぱいです。
毎日、どこかで何かやっているヨ・・・そんなイベント都市に一歩
近づいたかなあと感じています。

 「祭り」は、まちに活気を、人々に元気を与えてくれる。少し理
屈っぽい言い方をすれば、人と人との交流が生まれ、地域のコミュ
ニティーが再生される。特に今年は、東日本大震災の被災地から一
時避難されている皆さんにも参加してもらえるような工夫もされて
いるようで、被災地に活力と勇気を届けるほどの意気込みを持って、
長野市の「元気」を爆発させてほしいと思っています。
 これら真夏のイベントに、ご家族とともにお出掛けいただき、大
いに盛り上げていきましょう。

2011年8月4日木曜日

友人の死


 6月26日、株式会社エムウェーブの土橋文行社長が、お亡くな
りになりました。
 本当に突然の死でした。篠ノ井信里地区元気なまちづくり市民会
議の最中に連絡が入り、耳を疑いました。つい先日も元気に打ち合
わせをしていた彼が・・・なぜだ?
 市民会議終了後、詳細を聞いてみましたが、その時点では、分か
りませんでした。
 翌日、お通夜に行かせていただいて、少しずつ話を聞いて分かっ
てきましたが・・・今でも信じられない思いです。

 彼のエムウェーブ社長としての活躍ぶりは、多くの皆さんがご存
じのとおりです。
 それ以前は、JTB長野支店長として、長野冬季オリンピックの
招致段階からオリンピック開催まで、商売熱心であったことは言う
までもありませんが、本当に寝食を忘れて招致活動に、そして開催
決定後は、オリンピックの盛り上げに、また、世界各国からのお客
さんを長野市で受け入れるための計画づくりに、一生懸命取り組ん
でおられました。オリンピック成功の陰の功労者であったと思って
います。

 オリンピック終了後、彼は縁あって設立間もないエムウェーブの
営業部長に招聘(しょうへい)されました。私がたまたまNUPR
I(長野都市経営研究所)の代表としてエムウェーブの副会長だっ
た時で、当時会長だった塚田佐前市長と相談して招聘させていただ
いたものでした。

 彼の活躍は、群を抜いて素晴らしいものがありました。その後私
が市長に就任したため、形式的には私が代表取締役会長になりまし
たが、株主の了解を得て、彼は代表取締役社長に昇任しました。
 社長就任当時、エムウェーブは赤字経営でありましたが、間もな
く黒字に転換しました。「エムウェーブ、そして長野市をスケート
の拠点にしよう」との熱意から、懸命の努力をしてくれました。
 オリンピック後、長野市で開催される国際的なスポーツイベント
などを資金面で補助してきた「長野オリンピック記念基金」が、平
成21年度で枯渇してしまったため、長野市では昨年度から新たな
基金「ながの夢応援基金」を創設しました。土橋社長の努力で、エ
ムウェーブからこの基金に、既に3,000万円の寄付を頂いてい
ます。

 7月25日には、土橋社長の思いの詰まったエムウェーブでお別
れの会を開催させていただき、私も代表取締役会長としてお別れの
あいさつをさせていただきました。300人を超える大勢の皆さん
にお集まりいただきましたが、あらためて土橋社長が多くの皆さん
に愛されていたことを伺い知ることができました。

 くしくも土橋社長がお亡くなりになったその日、ふるさとNAG
ANO応援団のメンバーの一人、故花岡信昭さんの四十九日の法要
に、東御市まで行ってきました。長野市ご出身の元産経新聞論説委
員で、亡くなるまでは、拓殖大学大学院の教授を務めておられまし
た。昨年彼に頼まれて、同大学院で、現職首長の立場で、90分間
授業の講師をさせていただいたり、彼にも、職員の研修で講演して
いただいたり・・・結構厳しい先生だったようです。

 彼の死も突然で、東京での葬儀は、公務でどうしても弔問に行け
なかったので、四十九日法要が行われるとお聞きし、お参りしてき
ました。
 初めて奥さんにお会いし、お悔やみを申し上げ、少し思い出話を
して、帰ってきました。これからまだまだ活躍される方と思ってい
ましたし、長野市としていろいろ支援を頂きたいと思っていました
ので、本当に残念です。

 今年もびんずるの季節になりました。この時季になると、“びん
ずる大魔王”こと故青木恵太郎さんのことが思い出されます。
 1971(昭和46)年、夏祭り「長野びんずる」が誕生しまし
た。祭りの当日、歩行者天国になった大門町から末広町まで、踊り
手で埋め尽くされた風景を感無量の面持ちで見渡していた恵ちゃん
の姿、今でも懐かしく思い出されます。

 長野市の夏祭りと言えば、江戸時代初期から始まったといわれる
伝統の「祇園(ぎおん)祭(通称、御祭礼)」が有名でした。
 その後、1959(昭和34)年に祇園祭を盛り立てようと、そ
の前夜祭として企業や商店による「広告祭」が始まり、さらに、
1967(昭和42)年には広告祭に替わり「火と水と音楽と若者
たち」という若者たちの祭典が登場しました。しかし、この祭りは、
4年で幕を閉じています。
 長野びんずるは、こうした変遷を経て、「市民総和楽の祭り」と
して生まれたのです。街の真ん中で、見るだけの祭りではなく、み
んなが参加できる祭りをつくろうということで、実質は半年余りで
つくり上げた祭りです。その間、長野青年会議所(長野JC)の市
民祭企画委員長だった青木さんの努力は大変なものでした。企画だ
けでなく、自ら実践して祭りを取り仕切りました。

 まず構想を練り、祭りの日を決め、資金の調達を長野商工会議所
に依頼しました。肝心の音楽と踊りについては、作詞を森菊蔵さん
に(実は歌詞があるのです)、作曲を真木陽さんにお願いし、そこ
にお囃子(はやし)を入れ、「長野びんずるばやし」が完成しまし
た。踊りの振り付けは、全国の有名な祭りに匹敵するような踊りに
していくためにも、一流の人にお願いしたいということで、岩井半
四郎さんに依頼しました。区長会などの地域の皆さんには、「連」
づくりをお願いし、さらに、長野市民踊舞踊連盟に市内で参加の名
乗りを上げた多くの連の踊りの指導を依頼しました。まあ、長野J
Cの他のメンバーも手を出して一緒に行動したことは事実ですが、
青木さんはまさに八面六臂(ろっぴ)の活躍でした。

 実は、あの年の長野JCは、故小野正孝先輩が日本青年会議所
(日本JC)の1972(昭和47)年の会頭選挙に立候補すると
いうことで、メンバーは日本中のJCを訪ねて投票を依頼していた
年でした。願いがかない、先輩は見事会頭に当選しました。長野J
Cは、二方面作戦を見事に成功させたのです。

 今、思い出しても、“びんずる大魔王”恵ちゃんの活躍は、本当
にすごいものでした。その後、請われて周辺の市へ祭りの宣伝指導
に歩いていました。そうしたことから、長野市の“びんずる”に似
たような内容の祭りが県内にはかなりあります・・・青木さんの影
響力は大変なものでした。

 私は昨年70歳になったせいか、お盆を前にして、少しセンチメ
ンタルになっているのかもしれません。お亡くなりになった方で、
私が今日あることを支えてくださった友人は、たくさんいらっしゃ
います。懐かしく思い出して、鎮魂の意味で書かせていただきまし
た。
 どういう基準で選んだなんて、やぼなことは言わないでください。