6月26日、株式会社エムウェーブの土橋文行社長が、お亡くな
りになりました。
本当に突然の死でした。篠ノ井信里地区元気なまちづくり市民会
議の最中に連絡が入り、耳を疑いました。つい先日も元気に打ち合
わせをしていた彼が・・・なぜだ?
市民会議終了後、詳細を聞いてみましたが、その時点では、分か
りませんでした。
翌日、お通夜に行かせていただいて、少しずつ話を聞いて分かっ
てきましたが・・・今でも信じられない思いです。
彼のエムウェーブ社長としての活躍ぶりは、多くの皆さんがご存
じのとおりです。
それ以前は、JTB長野支店長として、長野冬季オリンピックの
招致段階からオリンピック開催まで、商売熱心であったことは言う
までもありませんが、本当に寝食を忘れて招致活動に、そして開催
決定後は、オリンピックの盛り上げに、また、世界各国からのお客
さんを長野市で受け入れるための計画づくりに、一生懸命取り組ん
でおられました。オリンピック成功の陰の功労者であったと思って
います。
オリンピック終了後、彼は縁あって設立間もないエムウェーブの
営業部長に招聘(しょうへい)されました。私がたまたまNUPR
I(長野都市経営研究所)の代表としてエムウェーブの副会長だっ
た時で、当時会長だった塚田佐前市長と相談して招聘させていただ
いたものでした。
彼の活躍は、群を抜いて素晴らしいものがありました。その後私
が市長に就任したため、形式的には私が代表取締役会長になりまし
たが、株主の了解を得て、彼は代表取締役社長に昇任しました。
社長就任当時、エムウェーブは赤字経営でありましたが、間もな
く黒字に転換しました。「エムウェーブ、そして長野市をスケート
の拠点にしよう」との熱意から、懸命の努力をしてくれました。
オリンピック後、長野市で開催される国際的なスポーツイベント
などを資金面で補助してきた「長野オリンピック記念基金」が、平
成21年度で枯渇してしまったため、長野市では昨年度から新たな
基金「ながの夢応援基金」を創設しました。土橋社長の努力で、エ
ムウェーブからこの基金に、既に3,000万円の寄付を頂いてい
ます。
7月25日には、土橋社長の思いの詰まったエムウェーブでお別
れの会を開催させていただき、私も代表取締役会長としてお別れの
あいさつをさせていただきました。300人を超える大勢の皆さん
にお集まりいただきましたが、あらためて土橋社長が多くの皆さん
に愛されていたことを伺い知ることができました。
くしくも土橋社長がお亡くなりになったその日、ふるさとNAG
ANO応援団のメンバーの一人、故花岡信昭さんの四十九日の法要
に、東御市まで行ってきました。長野市ご出身の元産経新聞論説委
員で、亡くなるまでは、拓殖大学大学院の教授を務めておられまし
た。昨年彼に頼まれて、同大学院で、現職首長の立場で、90分間
授業の講師をさせていただいたり、彼にも、職員の研修で講演して
いただいたり・・・結構厳しい先生だったようです。
彼の死も突然で、東京での葬儀は、公務でどうしても弔問に行け
なかったので、四十九日法要が行われるとお聞きし、お参りしてき
ました。
初めて奥さんにお会いし、お悔やみを申し上げ、少し思い出話を
して、帰ってきました。これからまだまだ活躍される方と思ってい
ましたし、長野市としていろいろ支援を頂きたいと思っていました
ので、本当に残念です。
今年もびんずるの季節になりました。この時季になると、“びん
ずる大魔王”こと故青木恵太郎さんのことが思い出されます。
1971(昭和46)年、夏祭り「長野びんずる」が誕生しまし
た。祭りの当日、歩行者天国になった大門町から末広町まで、踊り
手で埋め尽くされた風景を感無量の面持ちで見渡していた恵ちゃん
の姿、今でも懐かしく思い出されます。
長野市の夏祭りと言えば、江戸時代初期から始まったといわれる
伝統の「祇園(ぎおん)祭(通称、御祭礼)」が有名でした。
その後、1959(昭和34)年に祇園祭を盛り立てようと、そ
の前夜祭として企業や商店による「広告祭」が始まり、さらに、
1967(昭和42)年には広告祭に替わり「火と水と音楽と若者
たち」という若者たちの祭典が登場しました。しかし、この祭りは、
4年で幕を閉じています。
長野びんずるは、こうした変遷を経て、「市民総和楽の祭り」と
して生まれたのです。街の真ん中で、見るだけの祭りではなく、み
んなが参加できる祭りをつくろうということで、実質は半年余りで
つくり上げた祭りです。その間、長野青年会議所(長野JC)の市
民祭企画委員長だった青木さんの努力は大変なものでした。企画だ
けでなく、自ら実践して祭りを取り仕切りました。
まず構想を練り、祭りの日を決め、資金の調達を長野商工会議所
に依頼しました。肝心の音楽と踊りについては、作詞を森菊蔵さん
に(実は歌詞があるのです)、作曲を真木陽さんにお願いし、そこ
にお囃子(はやし)を入れ、「長野びんずるばやし」が完成しまし
た。踊りの振り付けは、全国の有名な祭りに匹敵するような踊りに
していくためにも、一流の人にお願いしたいということで、岩井半
四郎さんに依頼しました。区長会などの地域の皆さんには、「連」
づくりをお願いし、さらに、長野市民踊舞踊連盟に市内で参加の名
乗りを上げた多くの連の踊りの指導を依頼しました。まあ、長野J
Cの他のメンバーも手を出して一緒に行動したことは事実ですが、
青木さんはまさに八面六臂(ろっぴ)の活躍でした。
実は、あの年の長野JCは、故小野正孝先輩が日本青年会議所
(日本JC)の1972(昭和47)年の会頭選挙に立候補すると
いうことで、メンバーは日本中のJCを訪ねて投票を依頼していた
年でした。願いがかない、先輩は見事会頭に当選しました。長野J
Cは、二方面作戦を見事に成功させたのです。
今、思い出しても、“びんずる大魔王”恵ちゃんの活躍は、本当
にすごいものでした。その後、請われて周辺の市へ祭りの宣伝指導
に歩いていました。そうしたことから、長野市の“びんずる”に似
たような内容の祭りが県内にはかなりあります・・・青木さんの影
響力は大変なものでした。
私は昨年70歳になったせいか、お盆を前にして、少しセンチメ
ンタルになっているのかもしれません。お亡くなりになった方で、
私が今日あることを支えてくださった友人は、たくさんいらっしゃ
います。懐かしく思い出して、鎮魂の意味で書かせていただきまし
た。
どういう基準で選んだなんて、やぼなことは言わないでください。