2010年1月21日木曜日

無駄とは何か


 この年末年始、本や新聞、雑誌、テレビ、インターネットなどを
見ながら、メルマガの話題を少しゆっくり考える時間を持つことが
できました。政治向きのものは避けたいと思いつつも、結果的には
適当な話題が思い当たらなかったのですが・・・8年間市長を務め
させていただきますと、行政のことが頭から離れない、そんな自分
を痛感しています。“風雅の心”なんて遠い話です。
 結局、休暇中も行政から離れられませんでした。ただ、普段の生
活で慌ただしく時間に追われている分、良い意味での余裕が市長職
には必要だということを学んだようにも思います。逆説的に言えば、
必要な“無駄”もあるということです。

 “無駄”と言えば、以前、私の友人が言っていたことがすごく気
になっています。それは、歴史的に残っている文化とか美術品とか
建物とか、有名なモノ、名のあるモノは、多くは金持ちの道楽の結
果である・・・確かにそんな気もしますよね。
 過去、ルーマニアやフィリピンの独裁者が倒れた時、その豪華な
暮らしぶりと国民の生活レベルの格差には、考えさせられるものが
ありました。為政者は、1億人から1人100円ずつ収奪すれば
100億円になる。しかし、すべての人に100円ずつ配ろうとす
れば100億円支出しなくてはならない・・・。独裁者というもの
は前者なのでしょう。

 日本では、明治以降の中央集権社会までに、金持ちが道楽できる
社会は終焉(しゅうえん)したのだと思います。民主主義の社会、
税制による金持ちに対する嫉妬(しっと)の社会、結果として大金
持ちがいない社会・・・良し悪しは別として、私たちのつくってき
た社会には、歴史上の人物がしてきたような道楽をする余裕が無く
なっているのでしょう。

 昨年の政権交代により、前政権の“無駄”を洗い出すために「事
業仕分け」が行われました。大いに注目を集めましたが、私とすれ
ば、その時の議論は必ずしも納得がいくものではありませんでした。
また、その後の展開を見ていても、大山鳴動して鼠(ねずみ)一匹
と感じているのは私だけではないでしょう。実務的には、一気には
変えられない、4年間かけようということでしょうか。
 “無駄”というのは、先ほどの、金持ちの道楽が“無駄”かどう
か、みたいなもので、それぞれの人によって、あるいは立場によっ
て、そして時代によって随分違うものだとつくづく考えさせられて
います。

 あの「事業仕分け」では、多くの事業が俎上(そじょう)に載せ
られました。しかし、すべての事業ではありません。私が問題と感
じているのは、どのような基準で対象になった事業が俎上に載った
のか・・・載らなかった事業に“無駄”はないのかということです。

 私の考える最大の“無駄”は、税金で賄われている政治資金、す
なわち“政党交付金”だと思っています。なぜ、これが対象になら
なかったのか、大きな疑問です。
 政治活動にはお金が掛かるから、企業や団体からの政治献金を無
くすことは難しい。しかし、それでは企業や団体と政治の癒着が無
くならない。何とか正常な民主主義社会をつくろうということで、
税金を使って政党へ政治資金を配る代わりに企業・団体献金を制限
しようということが、この交付金の趣旨だったはずです(企業・団
体が献金できるのは、政党および政党の政治資金団体のみで、政治
家個人などへの献金は一切禁止。献金できる金額なども制限されて
います)。

 では、結果として企業・団体献金をめぐる問題は無くなったので
しょうか。
 残念ながらNOです。あまりよくは知りませんが、禁止されてい
るはずの政治家個人への企業・団体献金にも抜け道があり、政党支
部を介して実質的に受け取ることができるようです。これでは制限
していることにはならないでしょう。

 政党交付金を受け取ることができる政党とは、所属している国会
議員が5人以上、または直近の国政選挙での得票率が2%以上とい
う要件を満たす政治団体のことです。
 つまり、このような政党に属さない人は、企業・団体献金、そし
て政党交付金も受けられないわけです。故に、新たに挑戦しようと
する人は資金的に圧倒的に不利で、既存政党におもねるより仕方な
いですよね。
 いっそのこと企業・団体献金はすべて禁止して政党交付金も廃止、
選挙運動はすべて公営で行い、それ以外は行ってはいけない。違反
したら立候補禁止にする。これくらいにしないと駄目でしょう(政
治活動と選挙運動の違いについても分かりにくい話ですが・・・)。

 この制度では、地方議員や首長のことはまったく考慮されていま
せん。私は長野市長選で「市民党」を名乗りました。これは、思想
・信条・政策はもちろん、資金の面でも個人の皆さんによって支え
ていただいているとの宣言なのです。特定の政党の公認があれば選
挙運動で応援していただけるでしょうから、人的にも資金的にも楽
になるのだとは思いますが・・・。
 ただ、たとえ政党に属していなくても、国・県の施策に合わせて
いかなくてはならないことは、地方自治体の宿命です。地方の場合
は、市民の皆さんとじかに接するわけですから、特定の政党に偏っ
てしまうよりは、政党を超えてより幅広く支持していただける「市
民党」の方が良いと私は信じています。

 確か、政党要件を満たすために議員が移籍・・・なんてこともあ
りました。政党の所属国会議員数や選挙での得票率が基準を下回る
と、政党交付金を受けられなくなってしまいます。そこで、人数が
減って政党要件を満たさなくなった政党に、他党が議員を貸し出し、
その政党の資金確保に協力したということでしょうが、想定外、問
題外の話です。

 そして、配られた政党交付金の監査が行われていないことは、最
大の問題です。この交付金は何に使っても良く、1件5万円未満の
支出は領収書も不要なのだそうです。ですから監査は行わないので
しょうが、民間企業を経営していた私とすれば、そんなことは考え
られません。ほぼ毎年税務監査を受け、随分きつい、そして面倒な
思いをしてきました(企業の利益も税金に関係するわけですから、
監査があるのは当然です)。

 行政の首長になってからは、会計検査院の検査が怖いですね。怖
いというのは、何も悪いことをしているという意味ではなく、解釈
の違いなどによって、いろいろと指摘されることがあるからです。
 税金の使われ方をチェックすることは大切だと思います。ただ、
我々とすれば、国民や市民の皆さんに納めていただいた税金を市政
のために有効に活用しようとしているだけなのですが、非常に細か
な検査が実施され、あたかも無駄遣いをしているように指摘される
のです。大きな視点で見れば、もっと大切なことがあるのではない
かと何度も感じています。

 何に使っても追及されない、勝手にどうぞということは、本当は
恐ろしいことです。監査があるからこそ適切に処理され、秩序が保
たれている面があると私は信じています。
 ちなみに、長野市議会の各会派に交付される政務調査費は、すべ
ての支出に領収書などの証拠書類の添付が義務付けられています。

 政治資金に絡んだ問題でよく耳にするのですが、「秘書がやった
ことで、私は知りません。私には責任はありません」という政治家
の発言もいかがなものでしょうか。
 以前、宮沢元首相(当時は大蔵大臣)がリクルート事件に絡んだ
国会答弁で、「秘書が」「秘書が」と連発してひんしゅくを買った
ことを記憶しておられる方も多いでしょう。秘書が行ったことは、
本人が行ったことと同じだと思っていましたが・・・(この事件を
きっかけに内閣は総辞職。以後「政治改革」が重要な政治テーマと
なりました。政党交付金ができたのはこの改革の一環だったようで
す。政治が流動化するようになったのもこのころからでしょうか)。

 確かに何人もいる秘書のすべての行動を監督することは難しいの
でしょうが・・・鳩山首相の場合、税金を6億円も払ったというこ
とですから、手続き的には許されるのかもしれません。でも、脱税
との意見もありますから、道義的な責任の有無は難しい問題です。
 政治資金のことではありませんが、私も、秘書課の支援なしに市
長の仕事すべてに対応することはできません。ただ、もし秘書課が
間違った対応をしてしまったとしたら、たとえ私の知らないことで
も責任は取る覚悟です。当たり前の常識でしょう。

 “井戸塀政治家”という言葉をご存じでしょうか。意味は、政治
に熱心なあまり自分の家まで失い、残ったのは井戸と塀だけ・・・
この言葉には、その政治家を小ばかにしたようなニュアンスがある
と思っていましたが、最近ではまったく逆です。このようなことが
期待できない政治家像ばかりになってしまい、残念に思っています。
 私の知る範囲でこういう政治家の代表は、昭和30年代に活躍さ
れた藤山愛一郎さんです。私の記憶が間違っていなければ、藤山さ
んは、昭和20年代の三白景気(砂糖・肥料・セメント)と言われ
た時代に大製糖会社を興され、昭和30年代に入って政治の道に入
られて、外務大臣も務められたり、自民党の総裁選にも何度か挑戦
されたりもしました。

 しかし、結果的には会社も含めすべてを失い、首相になれなかっ
た当時、“絹のハンカチが泥にまみれた”と評された方でした。今
となっては、その清廉潔白な姿が懐かしく思い出されます。