斎藤英四郎さんについては、良くご存知の方もいらっしゃると思
います。新日鉄社長・会長、そして財界総理ともいわれる経団連会
長として、その足跡は大変な方です。特に我々にとっては、あの長
野オリンピック冬季競技大会組織委員会(NAOC)の会長として
ご活躍され、長野オリンピックを大成功に導いた立役者としての記
憶がまだ残っていると思います。その斎藤さんが去る4月22日、
90歳の天寿を全うされ永眠されました。数年前に奥様に先立たれ
たということで、その頃からお寂しくなっていらっしゃったという話を
聞いておりました。告別式では、長野市民を代表して心から感謝と
哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りしてまいりました。
個人的には斎藤さんとの接点はそれほどあるわけではありません。
しかし、斎藤さんがNAOCで会長を務め、私はその下部組織の実
行委員会の委員でしたので、何度かお会いする機会がありましたし、
一度だけですがお話する機会もありました。その機会というのは、
オリンピックの表彰式会場にセントラルスクゥエアを使って欲しい
ということを長野都市経営研究所(NUPRI)が提言していた頃、
突然、斎藤さんが視察に来られるという連絡が入り、急きょ現地
でお会いしました。斎藤さんは秘書と思われる方とお二人で車に乗っ
て現れ、数分でしたが会場を見学し、私が「ここで表彰式をやれば
絶対に盛り上がると思いますし、街のためにもなります。」と申し
上げると、「こんな素晴らしい場所を提供いただけるのは、ありが
たいことです。」と一言おっしゃり車に乗り込まれたことを今も覚
えています。
当時、セントラルスクゥエアでは表彰式会場には狭いとか、お
金がかかるとかいろいろ言われており、もしや違う場所でやるとい
う話になったらどうしようかと思っていた時期でした(私たちは、この
広場を無償でお貸しすると申し上げていましたが、通信回線や会場
装飾などにお金がかかるのは事実だったでしょう)。本当に嬉しか
った。私たちが無理をしてあの広場を作った行為がようやく報われ
る、正直そう思ったことは事実です。
斎藤さんとのご縁にお許しをいただいて、オリンピックの表彰式
会場になったセントラルスクゥエアについて話させていただきま
す。あの土地はオリンピック前、第一生命・鈴木土地・昭和建物
さんの所有地で、ホテルを作る予定だったことは皆さんご承知のと
おりです。しかし、バブル崩壊に伴いその計画は水泡に帰してしま
い、一等地であるあの場所が工事用の塀囲いのまま何年も放置され
ていました。
ある日、地主でありホテル建設の関係者でもある方から「俺はあ
そこにあった自分の家を移して、都市型ホテルをつくることに全力
をあげたが失敗した、二度と失敗を繰り返したくない、お前に活用
方法はまかすからなんとかしろ。」と言われ、また、NUPRIの
仲間は「オリンピックを今のままで迎えるのは何としてもまずい、
なんとかならないか」ということで、様々な活用方法を研究しまし
た。そして考えたのがオリンピックの表彰式会場でした。
新聞でサマランチIOC会長の「表彰式はなるべく多くの人が集
まる場所でやるべきだ」という発言を知り、ここが一番良いと判断
し、長野市に土地購入を提案しました。当時、長野市でもいろいろ
検討をしていたようですが、結論として有効活用は困難ということ
でした。しかし、私たちはあきらめきれませんでした。オリンピッ
ク施設は全て郊外にある、このままでは街の中でオリンピックの火
が燃え上がらない、なんとしても何かオリンピック施設を街の真中
に欲しい。それが将来の中心市街地活性化のきっかけになると私た
ちは信じ、長野市が買収しないなら、我々でなんとかしようではな
いかということで衆議一決、みんなで資本を出し合って新会社を作
り、第一生命さんの土地は借金をして不動産鑑定の価格で買収、鈴
木土地・昭和建物さんの土地は借りて、あのセントラルスクゥエア
を作ったのです。
会社の最初の取締役会での決議は、役員は全て無報酬であり配当
は期待しないということでした。要するに、私たちは儲け仕事です
るのではない、街のために、企業の武士道を発揮しようではないか
という気持ちでした。もちろん当時は、現在ほど景気が落ち込んで
はいなく、オリンピックを前にして皆の気持ちが高揚していた時期
だから可能だったということは事実でしょう。
結果はオリンピック時の中央通りの盛り上がりは想像以上であり、
すっかり有名な場所になりました。街のにぎわいも皆さんご記憶の
とおり、長野にあんなに人がいたのだろうかというほどでした。
オリンピックが終ってからの会社経営は、苦しいものがありまし
た。表彰式の舞台は、市民の皆さんからぜひ残してほしいとの声が
多かったので、手直しをして長野市に寄附しました(底地は無償の
使用貸借契約)。また、施設の維持管理費を捻出するため、舞台裏
の土地は原則有料駐車場、前面の広場は土・日・祭日は市民開放し
ていますが平日は有料駐車場として活用したり、ピンバッジ販売や
イベントの開催、さらに看板広告を設置したりと会社としてはいろ
いろな工夫をして赤字を出さないように頑張っているのですが、や
はり最大の誤算はバブル崩壊がここまで深刻であることを予測でき
なかったことで、土地価格が値下がりした分だけ含み赤字になって
しまいました。まぁ長野市との契約は平成15年3月までというこ
とになっていますので、そろそろどうするかを考えなければならな
い時期になっています。
今後もあの場所が、地元や街づくりを推進する組織(TMO)と
も相談しながら、街の活性化のために役立てば良いなあ、と思って
います。
故 斎藤英四郎さんのことを書き始めましたが、故人のことを思
い出す中でもっとも印象深く、長野市における大いなる資産となっ
たご功績を皆様に知っていただきたいと思っているうちに、思わぬ
方向に話がいってしまったことをお許しください。