2014年2月26日水曜日

徒然の記 №12 商工会議所副会頭時代

ある日、長野商工会議所の夏目会頭から呼びだされ、副会頭になれと言われました。
会議所の副会頭なんて、当時の私には目もくらむような役職で、なりたい先輩も沢山おられると思いましたので辞退したのですが・・・「お前は人が笛を吹いた時、黙って踊れないのか?」とまで言われ仕方なく就任させて頂きました。

もともと私は、商工会議所の議員には早くから任命されており(長野青年会議所会員になった直後頃でしょう)、当時の小坂武雄会頭から「君は、多分日本一若い会議所議員だろう。」と言われたくらい、正確には記憶がありませんが多分昭和39年、24歳の頃だったようです。
小坂会頭さんは、「最近会う相手の“名前”がでてこなくて・・・困る(私も今そんな状況になって困っています)。そこで誰と会う時にも、こちらから先に『小坂です』と名乗ってしまうことにしているのだ。そうすれば相手も、自分の名前を言わざるをえないから、そこでわかるから・・・。」とおっしゃっていらっしゃったのが印象に残っています。偉い方から先に名乗られたらこちらも答えざるをえないのですから、これは良い方法だと思い、真似をさせていただいていたのですが、最近は自分の名前を何となく、ぐにゃぐにゃ・・・と、はっきりおっしゃらない人が増えてしまい、自分の耳が遠くなったせいもあるのでしょうが・・・困っています。

議員に選ばれた当座は、青年会議所(JC)の活動の方が面白くて、事務所は同じ建物内でしたが商工会議所にはあまり顔を出さなかったように記憶しています。

それが副会頭ですからびっくりでした。(調べてみたら少し前に常議員(役員))には任命されていました)夏目さんの、若い者にどんどん仕事をさせようという御意志だったのでしょう・・・。常議員への指名は昭和62年、47歳の若僧の時だったようです。

その後、夏目会頭さんに続いて、神津会頭、仁科会頭と続きまして、私は三代の会頭さんに副会頭としてお仕えしましたが、神津会頭以後は4人の副会頭の中で、“筆頭”という名前まで頂いてしまいました。ちなみに4人の副会頭の順番ですが、会議所の職員に聞くと、あれは年齢や仕事の内容には関係なく、副会頭になった順番という事でした。ということは、長くやっていれば筆頭になるという事なのでしょうが、若僧の私が年長の副会頭に指示をすることはやりにくいことが多く、つい自分でやってしまうことが増えたように感じます。

特に神津会頭には、何かやるべき事があると「ハイ、わっしゃん、よろしくネ・・・。」とおっしゃって、実質的に仕事を命じられていました。随分勝手に行動させていただいたようにも思いますが、特に問題は生じなかったように思います。会議所の青年部をつくろうという動きが日本商工会議所から出てきたとき、私はこれに反対しました。理由は長野JCがあるではないか。会議所の青年部とJCがどう違うのか、そこに変な差別をつける事になるのではないか、それこそ問題だと主張しました。会議所の青年部の役割は、JCが十分果たしてもらえると考えたからです。

私の副会頭時代の時代背景を考えてみますと、私の年齢は50歳代、オリンピック招致活動、さらに招致決定後の準備活動が佳境に入っていた時期でしたので、忙しかったなあと記憶しています。
またある先輩社長さんから「わっしゃん、50歳を過ぎたら年なんて関係ないよ。遠慮なくやりなさいよ。」と言って下さった方がおられました・・・。それが出来るかどうかは別にして、個人とすれば本当に嬉しかったことを記憶しています。

私が担当した事で一番重かった仕事は、文化プログラム等を成功させるための寄付金集め、もうひとつはオリンピックボランテイア組織“チーム98”の会長としてフレンズクラブの代表を含めて、長野オリンピック全体の盛り上げに努力した事です。

オリンピック前のひと頃、私は10くらいの金集めのプロジェクトを抱えていました。
ある時、ある会社の社長さんに直接電話して、「お会いしたい。」と申し入れましたら「ああ鷲澤さんか・・・。今度は何の金集めかね?」と先手を打たれてしまった事もありました。でも、殆どの皆さんに気持ち良く受けていただいた事、有難かったです。オリンピックを前にして、「皆さん、オリンピックは世界のイベントだ。長野としてしっかりやらなくては。」という義務感、高揚感があったように感じています。

金集めで一番苦労したのは「アスペン音楽祭」だったかなあと思っています。金額も大きかったし、期間もほぼ10年間、毎年同じような資金集めにまわった事、個人的にも大変苦痛でした。

この音楽祭は塚田前市長さんの頃、広告会社の博報堂が持ち込んできたプロジェクトだったそうです。アメリカのアスペンで毎年夏行われている音楽祭で、ニューヨークのジュリアード音楽院が音楽家を派遣し、日本も含めたアジアから音楽志望の学生をアスペンに集めて音楽指導をして、最終日に音楽会を開催するというもので、その日本版をやろうというプログラムでした。過去ジュリアード音楽院で学んだ日本人学生なども協力して下さるとの事で、音楽祭だけでなく、将来はアスペンで行われている学術会議なども日本に持ってきたいといった大きな構想もあったようで、80年代の末頃から始められたものでした。会場は飯綱高原。長野市街地から30分~一時間足らずで標高1000メートルまで行ける絶好の環境という事でした。

91年オリンピック開催が正式決定後、このプロジェクトはオリンピックの時に併崔される「文化プログラム」に格上げされ、1998年長野冬季オリンピックの前の年まで、即ち1997年夏まで、毎年大きなお金をかけて開催したものです。成績優秀者には翌年、アスペンへ派遣してさらに勉強出来るというシステムにもなっていました。
オリンピック終了後の経過はわかりませんが、勝山グループさんが財団法人をつくられ、アスペンの名前を引き継いでおられるようです。

いつの事か分かりませんが、皇后陛下から「長野は素晴らしい音楽会をやっておられるそうで・・・。」とのお言葉を頂いたそうで、最後まで(オリンピック開催まで)きちんとやらなくてはと覚悟したことは事実です。

費用は、集まる学生の授業料は別にして、長野市(行政)と実行委員会(民間)が経費を半分ずつ負担する事になっていまして、なぜか私が寄付金集めの責任者みたいになってしまい毎年苦労しました。オリンピック前年の1997年の夏、オリンピック開催の前年、最終回を前にして企業関係の皆さんから「まだお金、集めるの・・・???」「いやーあと一回だけお願いしますよ。」そんな会話で何とか締めくくりました。始めた時は、1万円、5万円、10万円といった単位で細かく寄付をお願いしていたのですが、当時の商工会議所の柄澤専務さんから、「来年以降細かい金集めでは、数千万円単位の金は絶対に無理。企業にお願いして大口の募財をするより仕方ない。」との話がありました。
そこで私は、企業寄付となれば、企業の損金算入が絶対に必要ということで、商工部長と相談し、「企業は長野市に寄付する。その金額を長野市は議会議決を経て、アスペン音楽祭実行委員会に補助金として渡す。」という仕組みを作りました。オリンピックという大きな目標があったから出来た事でしょう。

この構図で長野市の商工部長中心に、企画を練り直してスタートしたのですが、税務署の御機嫌はかなり悪かったようです。「そんなことをされたら税収が減ってしまう・・・」商工部長が私に嘆いてきたくらいですから、税務署との対応は相当困ったのでしょう。

募財の企画書も二通用意しました。
     1通目は、長野市の商工業発展のため寄付をお願いしますという趣旨。
     2通目は、アスペン音楽祭に寄付してくださいという趣旨。
何故かアスペンという固有名詞だけでは、税務所に否認される危険性があるとのことでしたが・・・二重帳簿みたいで忸怩たる思いがあったことは事実です。

全額長野市費で出来れば問題はないのでしょうが、行政も財政的には大変ですから、「長野市が半分出すから、あとは実行委員会さん、集めて下さい。行政・企業・市民が一緒に行うプロジェクトにするという意味でも、なんとかご協力頂きたい。」・・・この案を会議所が了解して約10年間続いたのですから、民間とすればかなりの負担でした。
損金算入の方法をめぐって税務署が文句をいうのも無理はないなとも感じました。
一方私腹を肥やすわけではないのだから、税務署も、もう少し“おうよう”になってほしいと思ったものです。私個人の立場を申し上げれば資金集めが大きな負担になり、長野アスペン音楽祭の中味については“わからない・・・”まったく無関心でした。
最近は、私も税法の研究はしていませんのでわかりませんが・・・かなり税務署も鷹揚になったと言われていますが・・・どんなものですか・・・。

同じような問題は、県全体の話しですが、オリンピック本番の時も「オペラ信濃の国善光寺物語」の時もありました。
税務署の姿勢はかなり緩くなってきたという話ですが、企業寄付と損金の問題、企業寄付や交際費問題は常に税務署さんとの間で論争になりました。なにしろ会社の損金になるかならないか・・・かなり大きな違いがあるものですから皆真剣でした。

私腹を肥やす話しではなく、社会のために使うのだという事がはっきりしているのですから、税務署ももうすこし考えてほしいものだと昔から感じています。同じことがNAOCのスタートの時もありました。NAOCが出来たばかりの時で、まだ大蔵省から認可を得ていない段階で、企業からの職員派遣が企業の経費になるかどうかで揉めているという話を聞いた事があります。

それはそうと、一般の方にもうひとつ理解してほしい事があります。
何かの折に申し上げたことがありますが、即ち会議所の議員歳費というのは議員が頂くものではなく、逆に議員が一種の負担金として会議所に支払うものなのです。支払う会費、言葉を変えれば、寄付金と同じです。

会頭さんの年会費、最近の金額は正確には知りませんが、多分、年間100万円~200万円以上くらい、あるいはもっと多額の負担金を毎年支払っているはずですし、副会頭も議員も勿論、歳費を頂くのではなくて組織を維持するための負担金を払って、言葉を変えれば、名誉を買っているという感じでしょうか。
加えて会費だけでなく、えびす講花火の寄付金、御開帳時の寄付金、新聞広告、独自プロジェクトの負担金等々・・・、かなりの金額を徴収されていますから、会議所の運営はかなりお金がかかります。ただ、寄付金の存在は社会をスムースに動かすための潤滑油だと考えるべきなのでしょう。

今になればまったく意味の無い話ですが、アスペン音楽祭をうまく企画・リードすれば、松本市の「サイトウキネン」のような存在にすることが可能だったかどうか?・・・夢みたいなことを考える事があります。
アスペンの知名度・権威の問題もありますし、やっぱり目玉、即ちスターがいて、皆の気持ちが一つになるようなものが必要ですよね。それと継続的にスポンサーになっていただける企業、ほしいですよね。加えて市民の盛り上がりも絶対に必要なことでしょう。時代が違いますが、オリンピックの時、ヒーローをつくれなかったことが残念です。

私は過去「スポーツを軸にしたまちづくり」を主張してきました。全体のレベルを上げることも大切ですが、全ての種目で頑張ることは難しい・・・特化が必要かもしれない、でもなかなか絞れない・・・難しいですよね。

ようやくサッカーやスケート、さらに野球といった可能性もでてきたように思いますし、スポーツ以外の事でも良いと思うのですが、市民皆が継続的に夢を見ることが出来るプロジェクト、あるいは誇りを感じることができるプロジェクトがほしい。
新市民会館、サッカースタジアム、考えるともう一度オリンピックを招致したいという話に行きついてしまうのですが・・・アイデイア不足でしょうか?

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平青学園の創立。
夏目会頭さんから頼まれた事がもう一つ。夏目さん達が経営する協同組合アークスの中にコンピューター関連の専門学校を創ってほしいという事でした。「お前の会社はコンピューター部門をもっているのだから、是非学校を創ったらどうか。アークスの活性化の為にもすごく良い話だと思う。」・・・ただ、これは夏目さんらしく無い。ちょっと乱暴な意見で難問でした。確かにコンピューター学校は必要かもしれませんが、学校を創るとなれば許認可の関係もありますし、施設・教師をどうするか・生徒募集のターゲットはどこにおくのか・重要予測もしなくては・・・。
最初の段階で準備不足のまま、事態はどんどん進んでしまったきらいはありますが、現在既に専門学校平青学園として新しい教育カリキュラムをもとに学校は元気に頑張っています。今後、外国人留学生が増えてきていますので、きちんと教育をしていきたい。

ただ考えなくてはならないことは、学校法人を含めた公益法人や社会福祉法人などは、個人や企業のものではない、社会の公器であることの自覚でしょう。
社会福祉法人は老人社会が進展していますから当分はやっていけるでしょうが、学校は人口減少時代ですから難しい時代でもあると思っています。

2014年2月12日水曜日

徒然の記 №11 <教育界のこと③>

信濃教育会出版部の再建について

PTAとは違いますが、教育のことで信濃教育会出版部の再建に携わったことにも触れさせていただきます。
いつだったかはっきり記憶していませんが、私が30歳代後半ぐらいのある日、「会いたい」という故夏目忠雄参議員さんから電話がありました。
お伺いすると、「(社)信濃教育会出版部が経営不振で困っている。給料遅配になりそうだそうで、「鷲澤君、何とか面倒をみてくれないか」という趣旨でした。先生は当時、出版部の理事長でした。

調べてみると当時出版部は、義務教育の学校をお得意先にして、教材・教具の販売を行うことがメインの仕事で、そのほか夏冬季練習帳の編集・販売、理科教科書の作成等もやっていました。編集作業は先生方が担当し、出版部の職員は各学校を回って販売業務をしていました。パソコンも教育現場に入り始めた時期でもあったようです。

伝統ある先生方の組織である(社)信濃教育会とはいろいろ関係がありますが、別組織であり、出版部は別働隊的な組織でした。それは当然で、教育会は職能団体で先生方の払う会費によって運営されており、それだけでは運営が困難なことから、出版部が利益を上げて得た利益の中から教育会に手数料ないしは支援金を御払いする。あるいは運営に資するための役務を提供するといった関係でした。ですから出版部は、会社(利益集団)に近い組織で誰からも支援はうけられない、最終的に赤字が続けば倒産もあり得る組織でした。

それとは別に信教印刷(株)という会社も出版部の兄弟会社みたいな形で存在していました。組織は別々なのですが、会社の財産は入り組んでいる部分もあり、まあ全体としては夏目グループと言ってもよい状況だったと思います。
私の父も、終戦後、教育会が教科書を作る紙もないような状況をみるにみかねて、戦後しばらく出版部のお手伝いをしていたというご縁もあったようでして、夏目先生からのご依頼もそんなことがあったからでしょうか。(戦後暫くの間でしょうが、信濃教育会がすべての教科の教科書をつくっていた時期もあったようで、世の中が落ち着くに従って教科書会社がいろいろ出来て販売の在り方も複雑になり、信教は徐々に撤退を余儀なくされました。地域独自の内容ももつ「理科」教科書だけを守りぬこうとしてきたと聞いています)

私がやったことは、まず出版と印刷を峻別し、印刷は株式会社なのだから自らの手で再建すべきことを提案しました。
私が夏目先生から再建をまかされたのは(社)出版部ですから、他の会社のことに口をはさむことは出来ませんし、逆に支援をしてもらうわけにもいかないということで、なかなかの難問でした。かなり困ったことは事実です。

職員のこと、資金繰りのこと、販売不振のこと・・・通常の会社と同じような悩みがありました。まず損益のバランスを回復しなくてならない・・・当たり前でしょう。経費節減(人減らし)と儲からない仕事の縮小、新商品を開発しての売上の増進(扱い商品の選択・増加と学校現場への売り込み方法の改善)・・・学校現場も(社)出版部だからと言って全ての教材を買ってもらえる時代では無くなっていましたので、職員はかなり苦労したはずです。

そんな仕事に取り組み始めた矢先、県から公益法人の業務内容についての監査が入り、商売の方法を大きく変えざるをえなくなりました。即ち商品の販売は、教材や教具であっても組織の目的、即ち公益事業にはなじまないと認定されてしまいました。要はこの組織で商売をしてはいけないということでしょう・・・泣き面に蜂のような状況でした。

どうすれば良いか、県はそこまでは考えてくれません。その少し前に知ったことですが、教職員組合が実質的に運営してする学校用品販売株式会社(正確な名前は?)がありました。こちらは株式会社ですから県の監査には関係なく、学校相手の商売を行っていました。私はここに目をつけ、つまらない競争しても意味がないので、公益法人出版部の仕事を分離してその会社と一緒になって株式会社にしてしまうことを計画しました。

その会社は優秀な社員もいましたがやはり売り上げが上がらず、規模は縮小傾向にあったようで発展は望めない状況だったようです。そこでその会社の社長と何度か打ち合わせをし、出版部と実質合併することを承知してもらいました。
新しい会社は「信教NET」とすることは後で決まった話しですが、両方が良くなければ駄目ということでいろいろ議論しましたが、首尾よく了解点に達しました。

最初だけ私が社長になり、先方の専務を役員としてきてもらい一緒に仕事をすることになりました。
信教ネットを増資して(金額の規模はわすれました。資本金は私の500万円を含めて、みんなで出資しました)、出版部系の出資が大きくなりました。

出版部の仕事のうち、出版の仕事だけを(社)信濃教育会出版部に残して、あとは全てその会社に委譲、実質的に新しい会社として発足しました。社名の「信教NET」というのも良かったかなあと今では思っています。軌道にのるまで私が少しの間、社長に就任しました。結果として前の会社を乗っ取った形ではありますが、皆さん喜んでくれたと思っています。(社)出版部の仕事も規模を小さくして再建をはかり、高野専務さんが一人で切りまわせる規模になりましたので、危機は脱したと感じました。

私が市長になるとき、(株)夏目の社長、夏目潔君に社長を譲りました。故夏目忠雄先生からの依頼物件だから、夏目さんの親戚のあなたが面倒をみるべきだ・・・なんて理由にならない理由をつけて社長就任を依頼した記憶があります。
その後どんな運営をされているか全く知りませんが、少なくとも夏目先生からのご依頼は何とか果たしたのかなあ・・・信濃教育会のためにもよかったはず・・・とホッとしています。

2014年2月10日月曜日

徒然の記 №10 <教育界のこと②>

()長野県学校給食会について

次にPTA活動のなかで印象深かったのは、(財)長野県学校給食会の改革です。たまたまPTAの役員をやらせていただいていたとき、当て職で給食会の役員になっていたのですが、たまたま給食会の事務局の職員から、「現在の理事さんの運営方針が、どうしても理解できない。PTAの力を貸してほしい。」という趣旨の陳情がありました。
その一年ぐらい前に、長野市の中村教育長から「給食会の運営がでたらめだ。人を入れ替えなくては駄目」といった話があったのですが、その時点では、私は「給食会の中はしりませんが、営業をやっている組織なのですから、お役所の発想で理事を変えろというのは無理でしょう」という主旨のお話をしていました。

それが今回は事務局の方からの陳情ということでしたので、事情を調べた上で、改革のお手伝いをさせていただくことになってしまいました。

 きっかけは、年度総会は三月の期末終了後、通常は5月か6月には開催すべきなのに、10月を過ぎても理事長が松本から来てくれないから開催できない。困っているというものでした。その前年もそうだったということで理事会では問題になっていたようです。

私の調査した結果の判断は次の通りです。
1)県教育委員会の監督のもとにある財団法人ですから、まずは運営をきちんとやることは常識ですが、それが出来ていないと感じました。
2)給食会には本部の土地建物以外には財産が何もない。倉庫等は全て借り物、役員も学校関係者も多いのですが、当て職の理事は順番まわりの方は別として、古くから経営に携わっている方は、学識経験者のご老人ばかり・・・、この組織は、給食センターや単独学校給食実施校に対し、食材の供給販売を行っているわけですから、安定した経営をしていくには、経済・経営がわかる人がいないとうまくいかないのではないか・・・と感じました。
3)また矛盾した話しですが、給食会から販売される食材は、県下同一価格でなければいけない・・・運賃差を無視した話しですし、販売量も考慮しない矛盾だらけの感じでした。しかも価格は入札で安くなくてはいけない・・・。給食会にとっては、学校の給食センターが一番のお得意先でしたが、ある時、市の担当課長から「学校給食会の役目は終わったので、もういらないのではないですか・・・」と言われたこともありました。
  ただ、私は組織の理事である以上、職務専念義務があるわけで、いらないという意見は無視し、改革してやろうという意志を強くいたしました。

非情ではありましたが、古い役員さんには全て辞めていただくように根回しをし、理事長職は学校の先生から新たに選ぶことにして、役員に外部の経営のわかる方をいれて、強引に新しい体制をつくりました。
私はPTAの代表で給食会の役員になっていましたので、あまり遠慮することもなかったせいか、かなり強引に作業を進めさせていただきました。
激論の結果、ご老体の理事長さん方に辞めていただいたことなどについては、若干配慮が足りなかったかなあと後味の悪い思いをしたものです。
ただ監督官庁の県教委の教育長と話し合ってみると、早く辞めてもらうべく何度も職員を派遣したが、鼻であしらわれてしまって困っていたとのことでしたので、ちょっと申し訳なかったのですが荒手術に踏み切ったわけです。

理事長先生が交代して新しい活動がはじまりました。組織の整備、施設の整備です。新理事長を車にお乗せして、組織の支部や倉庫をどこに建設するか、場所の候補地を探して歩き、投資を決断していただきました。
理事長さんは「教員は借金するのが怖くて・・・」と心配そうでしたが、私は「前向きの借金は怖くない。それに個人の借金ではなく給食会の借金です。今やらなくては組織の将来に禍根を残します。もし理事会で土地購入の了解を得られなければ、私が買い取ります。それに県管轄の財団法人給食会ですが、過去県から補助をもらって運営してきたわけではない。だから最悪の場合、県教育委員会から補助をもらってもよいはずです」とまで・・・親しい先生でしたからあんな口を効けたのでしょうが、随分乱暴なことを申し上げたものです。(結果は本部土地の買い上げ価格について、県は若干色をつけてくれたようにも感じていますが、あくまで独自団体の誇りは保ったはずです)

県庁のそばにあった本部事務所は、古い役員さんには思い出のある事務所だったようですが、県に買ってもらって(オリンピックが近づいていて、県も欲しかった土地のはずでした)、新たな土地を若穂の流通団地内に求め、長野の倉庫を兼ねて本部事務所を建設、さらに松本にも倉庫と事務所を建設しました。私がPTAの役員を辞めてからの動きは詳しくはわかりませんが、立派に経営されているはずです。
事務所と倉庫(現場)は、相互の交流がよくなるから一体でつくるべきである。というのが私の昔からの主張で、そのことを実践したもので成功だったと思います。

PTAの活動は、何もない年なら平凡に過ぎていくのでしょうが、私が会長時代、あまり平穏には終わりませんでした。総合選抜制度の動きは経済団体にも波及し、特に長野県経営者協会やJCも、PTAを応援してくれたように記憶しています。
JCの活動とは違いますが、JCメンバーは個々の立場で、PTA活動に熱心に取り組んできました。JCメンバーの年齢が子供さんの親の年代が多いのは当然で、そのためか自分のこととしてPTA活動に取り組めたようにおもいます。

2014年2月9日日曜日

徒然の記 №9 <教育界のこと①>

PTAの活動について

城山小に子供がかよっているころのある晩、子供のクラス担任の先生が家にこられて、学校PTAの副会長就任を要請されてしまいました。忙しいから駄目と何度もお断りしたのですが、それでは私は学校へ帰れないとまで言われてしまい、やむなくPTAの役職の任期は“一年”ですよねと何度も念をおして引き受けました。
30歳後半のことだったと思いますが、

ところが一年なんてとんでもない話で、城山小学校のPTA副会長を振り出しに、会長に選出され、その後、柳町中学校PTA会長、長野市PTA連合会会長、長野県PTA連合会会長・・・と次々に出世(?)させられてしまいました。PTA役員の義務、あるいは仕事そのものについては良くわからないこともあり、手さぐり状況でしたが。

市P連、県P連の役員をやっているとき、高校入試問題が大きな課題になって大論争に発展しました。すなわち高校入試について「総合選抜制度」、続いて「高校入試改善案」が県教育委員会から提案されたのです。

当時、高校入試が生徒たちの大きな負担だったこともあり、推進派の皆さんの“15の春を泣かせない”というキャッチフレーズは、なかなか衝撃的でした。しかし、私たちPTAは、内部討議をやり、先輩の意見をお聞きするなかでこの案には反対を表明、県教委と対立してしまいました。

県の案は次の二点でした。
地域指定案 (受験できる高校を制限し、有名校に受験生が集中することがないようにする、高校はすべて平等であるという前提案)
調査書重視案(中学が普段の授業・テスト等での成績を9点法で評価するいわゆる内申書・調査書と入学試験の点数を合計する案で、性質の違う数字の合計には違和感がありました)

私たちは、教育の世界は、「結果の平等を求めるべきではなく、機会の平等を求めるべきである」ことを主張しました。
この2案について、長野県内全ての地域で、PTAと県教委との間で討論会を開催し、議論になったのです。
参加者の中には一般の会員にまじって、高教組関係の人が参加していて、強硬な意見(県教委案に賛成派)が目立ったように感じました。
いずれにしても、県教委とPTA会員や高教組の間で、喧々諤々の論争を行ったこと、
おそらくPTAの史上でははじめてのことでしょう。

最後に出席者全員にアンケートに答えていただき、その結果を県教委に提出しました。PTAの主張に、賛成の方が圧倒的に多かったことはもちろんです。PTAの役員は手分けして各地の討論会に参加し、県教委さんと議論しました。私もPTA代表のパネラーとして、長野市内二か所、佐久地域で一か所、討論に参加しました。一緒に参加したPTAの役員の中には、高教組の方の強行意見にびっくりしてしまう方もいらっしゃいましたが、私は討論の過程に手ごたえを感じていました。

県教委を挟んで、高教組が一番の論争相手でしたが、地域指定案をなんとか廃案にし、「機会の平等」の大切さをなんとか守り切ったということで、PTAは自分たちの主張を通させていただいたことになります。(調査書重視はしばらく続いていたようですが、これとて調査書の評価点数と学力試験の点数を合計するという案ですから、異なった性質の数字を合計するのは、もともとおかしいと考えていました。私どもの主張は二つの数字は、相関でみるべきであるということでした。)

総合選抜制の動きは、高校の教職員組合の根強い運動があり、東京をはじめ全国でこの運動が行われ一部採用されてもいましたが、報道によりますと、本年度、総合選抜制度が全国で廃止になったということで、ようやく論争に終止符がうたれたようです。問題の性質上、“高校全入制”という言葉と混同しやすいこと、どうしても保守・革新という政治問題になることが避けられなかったのは事実です。

2014年2月6日木曜日

徒然の記 №8 <善光寺さんのこと>

善光寺さん

商売とJCについて書いてきましたが、それ以外のことでもいろいろなことに携わらせていただきました。高度経済成長の真っただ中で、企業も祖父からの伝統があったからでしょうか、ボランテイアの私の社会貢献活動を認めようとする多少の余裕があったのでしょうか、お陰さまで社会の中でいろいろな団体・組織等の運営に携わらせていただきました。

まず“善光寺さん”との関係ですが、
宗教法人・善光寺の信徒総代・営繕局長、及び宗教法人・善光寺・大本願の信徒総代・責任役員ということで、長野を代表する大きなお寺の役職を務めさせていただきました。全て20歳代に任命されたような記憶がありますから、これも先祖が築いてきた人間関係でしょうし、さらに言えば私の父が早く亡くなった故の役回りだったのでしょう。

前にものべましたが、私は「浄土真宗」の本願寺長野別院の責任役員をやらしていただいていますので、「浄土宗」あるいは天台宗の善光寺関係のお寺の役員やるのは、少し変だとお感じになるかもしれませんが、これは善光寺さんという大寺がある長野独特の風習なのでしょうか、キリスト教のような一神教の世界と違い、多神教である仏教界のいい加減さとまでは言えませんが、あまり厳密には考えていない風習と申し上げるべきなのでしょう・・・

浄土真宗の長野別院は、我が家の菩提寺で先祖代々の檀家であり、檀家の軒数も1000件以上あるお寺で、我が家のお墓もありますのでわかりやすいのですが、善光寺関係の役職は、宗派に関係なく信徒の代表ということで皆さんに選ばれて就任するようです。したがってキリスト教でもかまわないと聞いたことがあります。信仰というよりお寺の護持が優先されている、感じとしては長野の宗教という意味合いが強いのかもしれません。

ただ私の性分で、お飾りの役員をやるのは好きではありませんので、それぞれのお寺の方向を考え、今何が大切なのか、お寺の意向を受けて諸問題の解決に一生懸命取り組んできたつもりです。(ただ政教分離ということもあり、大本願の責任役員だけは、市長就任と同時に辞任させていただきました。)
善光寺の和尚さんたち、即ち宿坊関係者も時代が変わり随分若くなり、JCやロータリークラブ、ライオンズクラブなど世俗の団体に参加される方が多くなり、世慣れてきたというか、昔とはかなり変わってきたように思います。

 善光寺の営繕局長をさせていただいた二年間、いわゆる昭和の大修理(本堂の屋根替え)にかかわらせていただきました。
桧皮葺の屋根は、正確には知りませんが、大正末期に当時、栃葺だった屋根(古い写真が残っていました)が、桧皮葺きに葺き替えられて以来、修理はされていませんでした。桧皮葺の寿命は約50年と言われており、葺き替えの時期が迫っていたことは事実でしょう。

営繕局長としていろいろ勉強させていただきながら、国の文化庁との交渉をさせていただきました。
まず国宝ですから現状変更をしてはいけない。以前が栃葺だからと言っても、現在は桧皮葺なのだから、現状変更は認められないということを言われました。簡単に替えてはいけないということです。京都の西本願寺の屋根替えも見学しましたが瓦葺でした。見るからに重そうな瓦で、重量の違いから建物の強度に関係するのは当然で、簡単には変えられないことをしりました。

桧皮葺の建物としては、奈良・吉野の蔵王堂を見学しました。山奥のあまり大きなお堂ではありませんでしたが、恰好がよく、桧皮葺の建物としては善光寺本堂に次ぐ大きさとの話でした。その視察でみた屋根のことよりも、周辺の吉野の山が真っ赤だったことが記憶に残っています。松食い虫の被害で松が枯れているとのことでした。
善光寺も、境内の松や大峰山の緑が真っ赤になってしまったら・・・どうなるのだろうかということを真面目に心配したものです。

善光寺本堂は桧皮葺の建物としては、日本一大きく、屋根の面積も広いのだそうで、使用する桧皮の量の確保が問題でした。ただ文化庁が全国の桧皮の生産量を把握しており、また全国にある桧皮葺の文化財についても調査をしていましたから、どういう順番で工事を行うかということが検討されていたようです。蔵王堂が終わったら次は善光寺ですと文化庁に言われました。

 問題はお金です。屋根替え問題が浮上してから、長野商工会議所の夏目会頭から、どのくらい金がかかるのかと何度も聞かれて困りました。
国宝の修理は、原則的には国が50%、県・市が合わせて25%~30%ぐらいが常識的な線だそうですが、それでは地元負担が大きくなるということで(加えて国の補助対象にならない修理項目が沢山あり、善光寺側ではこの際全てやりたいとの意向もありました)、羽田代議士を通じて、当時の竹下大蔵大臣にお願いして、「国負担の特別割り増し」と「時期をなるべく早くしてほしい」という二点をお願いにいきました。
大勧進の御貫主さんと大本願のお上人様の字を、立派な表装をして額に入れ、竹下事務所にお伺いしてお願いしてきました。竹下大蔵大臣にはそのとき初めてお目にかかりました。

善光寺営繕局長の任期は2年でしたので、私が主体になった作業はそこまで、工事そのものは次の役員の時代になって行われました。実際の工事は文化庁の監督のもと、現在の本堂がすばらしい姿を見せてくれ、御開帳もあったと記憶していますが、落慶法要行われたこと、嬉しいことでした。

そう言えば善光寺裏のツバメ池についても、周りの土地の地主さんが高利貸しから借金で動きがとれない状況になっていたのを、私が一山会の了解をとって解決し、善光寺の所有にすることができました。昔三つあった池ですが、今は放生池がひとつだけ、かぎ型の道路も直して、二つの池は駐車場として、善光寺参拝客の利便に貢献しています。

ただ昔からいわれているように、善光寺は裏から入ってお参りし、裏から帰ってしまうという問題の解決にはなっていません。

2014年2月5日水曜日

徒然の記 №7 <長野JCのこと>

商売から離れて 「長野JC」

商売のことから少し離れて、社会活動の話しにしましょう。
私が社会に出た頃から、時代の要請もあったのでしょう。色々な団体が出来てそのお手伝いをさせていただくようになってきました。もちろん一種のボランテイア活動ですが、それなりに社会を動かしているのだ(特に長野市を)という誇りを持てる活動で、ある程度企業に余裕があったからできたことだったと思っています。

まず、長野青年会議所(JC)の活動です。私の人生に仕事以外で一番大きな影響を与えてくれたのはJCでした。社会に出てもう70歳を過ぎましたが、未だにJCから受けた強烈な洗礼は忘れられません。オーバーな言い方をすれば、私が長野市長になれたのも、長野JCのお陰だったし、あのときJCに入会したことが運命だったのかもしれないと考えることがあります。良き先輩・仲間、理念・・・本当に素晴らしかった。

昭和37年四月、炭平に入社、38年1月社長就任、3月に大学を卒業し、すぐ社会人一年生として社業に取り組みはじめました。暫くしたら、先輩の皆さんにゴルフをやれとすすめられ、30万円出せと言われました。良く分からないままお金を出しましたら、大浅間ゴルフ場の会員権の購入でした。そしてその頃のJCの大先輩、木村恕さんや井田義幸さんなどに連れられて、ゴルフに行きました。
「まあ、お前はまだJCに入会していないけれど、どうせ入るのだから、今日は特別に連れてってやる」そんなことを言われて、軽井沢へ行った記憶があります。あれが入会審査だったとすれば、当時は随分いい加減なものだったなあ、と感じています。

長野JCでの生活は本当に楽しく、有意義なものでした。そして私の人生を大きく決めてくれました。色々な要素はあったと思いますが、繰り返しますが、市長になれたのも、JCのお陰だと今でも思っています。

北野幾造さん、小野正孝さんのお二人、共に鬼籍に入られていますが、私たちのJC時代の初期、際立った活躍をされ、大きな影響を与えてくださいました。
北野さんは北野建設副社長で、JCでは社会開発運動に取り組まれました。市民アンケートという手法を採用し、市民のニーズ調査を行い、二つのテーマを浮き彫りにしました。
    車の勃興期だったゆえに、車の混雑・事故等が多発し、市内交通の問題が重要である。
    「隣は何をする人ぞ」という時代、何とか地域コミュニティを再生したい。

まず交通問題ですが、具体的には市内交通の障壁になっていた長野電鉄の線路を立体化すべきという意見でした。大変な事業で、立体化とは、地下鉄化か、階上化か、随分激論がありましたが、JCの提言を受けて、夏目市長の英断と政治力で「踏切の連続立体化事業」というのが採択され、“地下鉄化”が正式にきまりました。完成はかなり経って柳原市長さんの時代でしたが、長野市の交通問題としては最大のものだったと思います。

コミュニティ運動については、道路を広場として使って中心市街地でのお祭りの創設をやろう。地域や企業ごとに「祭連」を作って参加する祭り、それらがコミュニティの再生につながるはず・・・と私たちは信じて運動に取り組みました。象徴になったのが「長野びんずる」です。

北野さんは、これらのCD(社会開発)活動の実績をひっさげて、長野JC・日本JCをリードし、JCIの世界では「CDドクター」と綽名されました。JCIのハワイでの世界大会で、最高賞(ペプシコーラ賞)を獲得したのも思い出深いものがありました。

40歳定年のJCで、彼にもう一年余裕があったら、多分会頭職も含め遥かに大きな活動をされたでしょう。残念ながらJCの活動に入る前、彼は大病を患って長期に入院生活をされていたとのことで、退院してからJCに目覚められたのですが、副理事長・理事長・地区会長(日本JC常任理事)の役職をそれぞれ1年ずつで通過されて卒業されました。定年制のためとはいえ、本当に惜しい英才だったと思います。その合間に会社経営の在り方等について、我々を教育して下さいましたこと、私は一生忘れません。

小野さんは、甲州屋の常務(三男)として、若者の心をつかむ能力と、自分の喋ったことを常に録音して、話し方を常に研究しておられた努力家で、本当に名演説に長けておられました。小野家の伝統として、兄弟のうち誰か一人は社会の為に貢献するべきであるとの家訓があったように聞いています。

四国の地区会員大会の壇上で血を吐いて倒れ、病気になってしまわれ、一旦は小野ちゃんの会頭挑戦は終わったと皆が感じたのですが、四国のJC仲間の献血で回復し、執念で病後にも関わらず会頭選挙に打って出て、京都の立石さんや横浜の勝さんという、当時の大企業、大LOM所属の方々を打ち破り、長野という田舎の中小企業出身の小野さんが、日本JCの会頭に上り詰めたこと、画期的なことでした。

高輪プリンスホテルでの選挙当日、推薦演説での土屋磯司長野JC理事長の演説は卓越していましたし、「小野正孝の青の計画」は、北野さんのCDと並んで、LD(リーダーシップ・デイベロップメント)として、素晴らしい構想でした。彼の演説はJCを含め、若者を大いに勇気づけたものでした。

小野さんの会頭選挙はいろいろなエピソードがありました。当時日本JCの会頭選挙については規程はありましたが、それまでは実際に選挙になったことは無く、小野さんが第一号でした。
選挙運動として電話戦術は当然でしたが、長野JCのメンバーだけでなく、周辺JCのメンバーの応援もあって、担当地域を決めて手分けして各地LOMを訪問し、それぞれの理事長に投票を依頼して歩きました。ある意味選挙活動の常道だと思いました。私も関東地区担当ということで群馬・栃木そして千葉県一周の遊説をしたこと、懐かしい思い出です。

たまたま小野さんの選挙は、昭和46年、長野びんずる創立の年でした。長野JCは選挙とお祭りの創設という大きな活動を二つ抱えていました。土屋理事長のもと、びんずる大魔王と言われた青木恵太郎さんと塩沢堅吉さんがびんずる担当副理事長、土屋理事長はデーンと構えて動かず、私等が手分けして選挙担当で全国回り・・・高輪プリンスホテルでの選挙結果は、小野さんの当選ということで本当に嬉しかったことを思い出します。

そして小野さんは一年間会頭職を務めて、JCの若い会員や若者達を鼓舞し、最後の甲府での全国会員大会では、長野JCの仁科理事長が全国の会員に向かって感謝の言葉を、名演説で締めくくられたのを、記憶しています。あれは1971年秋、昭和46年のことでした。(実は長野JCの歴史の中で、唯一この年の年史が存在していません。正直に言って疲れてしまって、年史を作る気力がなかったのだと自らを慰めていました。)

残念ながら、暫く後、小野さんは知事選の応援等で元気に飛んで歩いておられたのですが、完全に回復しておられなかったのでしょうか、帰らぬ人となりました、
葬式の日、国鉄のスト権ストの当日にもかかわらず、善光寺忠霊殿で行われた葬儀(忠霊殿で葬儀が行われたのは、このときが最初だったそうです)には、全国から仲間が弔問に訪れました。私たちは彼の功績をたたえて、一年後に東京高輪プリンスホテルで「偲ぶ会」を開催し、「小野正孝君を偲ぶ」ための本を発刊したことを覚えています。
そう言えば北野さんもずっと後になりますが、お亡くなりになりました。あまり長命とはいえなかった方で残念なことでした。

いずれにしろ市民ニーズの調査などということは、現在でこそいろいろな手法が採用され世論調査は当たり前になっていますが、当時は異端視されていました。
京都等で革新首長が出現したのですが、議会は保守勢力が強く、思うような施策が出来ない。そこで首長は、市民アンケート調査をやって“民意はわれにあり”ということで議会を説得していく、そんな手法に使われていたと言われていました。(最近はさらにエスカレートして、一旦辞任して再度立候補する・・・公職選挙法では想定していない手法が生まれているようです)

長野JCが市民ニーズを把握するためアンケート調査を実施しようと提案したとき、長野市役所内が大反対でした。夏目市長の後援会みたいなJC組織が何を考えているのか・・・ということでした。そんな中でただ一人、JCが社会開発をやるなんて「蛮勇!」だなあ、なんて言っておられた故夏目市長が、若い者がやるというならやってみようではないか、と言って下さったそうで、そのお陰で実現できたと聞いています。

選管で選挙人登録簿を見せてもらい、名簿からアンケートの送り先のリストを作成しました。今では個人情報保護法の関係で絶対に見せてはもらえないでしょう・・・。アンケート結果は、最初に申し上げた通り、二つのテーマに集約されました。

日本JCは毎年正月に、京都会議を行っています。いつだったか京都でJCI世界会議が行われた時、その直前に神戸で全国会員大会が行われ、ほとんどのメンバーは神戸での大会が終わってからその足で京都の世界会議に参加しました。当時、日本JC会頭は秋田の辻兵吉さんでした。彼の肝いりで持ち込まれた「竿灯」の素晴らしさを懐かしく記憶しています。その時以来、JCは毎年京都会議がおこなわれるようになり、長野JCにとっても京都は懐かしい場所になりました。

毎年行われる京都会議での長野JCのたまり場は、祇園みの家。藤井裕さんが皆を紹介して下さったのだと記憶していますが、当時中居の“おいっちゃん”(伊都子さん)に、長いことお世話になりました。京都のおもてなし、これは長い間に洗練されてきたもので、祇園の舞妓さん、素晴らしい料理、芸能、素晴らしい景観、あの雰囲気や客あしらい・・・他都市ではなかなか真似が出来ないものと思います。それなりにお金がかかりますがね。

小野さんの会頭選挙のあと、選挙のしこりを残さぬようにという北野さんの発案で、京都JC,横浜JCを招待し、「たんくま」から料理を取り寄せて一席設けたのも、“みのや”でした。“おいっちゃん”は、その後独立して、「今村」というお茶屋を開かれ、元気にやっているそうです。

私は、40歳で長野JCを卒業するにあたり、記念に定款のコンメンタールと「40分の18」という本を書いて後輩に残しました。コンメンタールというのは、定款の説明書、解説書みたいなもので、塩沢さん達と定款・細則を整備したものですから、皆に書けよと言われてしまったものです。その過程でコンメンタールなんて堅苦しいだけで面白くない、もっと自由にJCライフについて書こうという気持ちが強くなり、“40分の18”になりました。

少しでも私たちがやってきたことを、理解してほしい、忘れないでほしい・・・そんな気持ちでした。今でもJCルームにはあるそうです。

話はかわり、選挙の話です。
JCが一般選挙にかかわることは、JCの定款で禁じられているのですが、それはどうしても応援する人がいろいろで、一生懸命になり過ぎるとJCが分裂することもあり得るということを恐れたからで、一種の防衛本能が働いていたのだと思います。しかし実際には形を変えて、かなり一生懸命取り組んできたことも事実です。

私が経験した最初の選挙は、故夏目忠雄さんの市長選だったように思います。
大門町にあった「すずかけ」の二階ホールを借りて「若い力の会」を結成し、JCの現役・OBは一体となって選挙運動に取り組みました。代表は塩沢壮吉さん、私は副だったと記憶しています、大先輩の木村さん、井田さん、松橋さん(当時理事長)等に引っ張られて応援活動をしたこと、懐かしい思い出です。

JCの定款で選挙活動が禁じられている以上、別働隊をつくる以外に方法はないわけですが、本音と建前でいろいろ問題があったことは事実でしょう。一番は困るのは、保守系の立候補者が複数の場合、会員の中に派閥が出来てしまうことです。衆・参の議員選挙、県会議員選挙・市会議員選挙はやりにくく、あまり盛り上がることはないようです。

そこへいくと首長選挙(県知事選や市長選)は、立候補者があまり多くなく、保守・革新の対決になる構図のせいか、盛り上がるかどうかは別にして、内部で争いがおきることは少なかったと思います。私の市長選もあまり問題にはならず応援していただきました。ただ若さと行動力があると思われているJCメンバーは、各選挙陣営から応援を期待されていることは事実でしょうし、そのことがJCの社会的地位を高めてきたことも事実と感じています。

いろいろなことがありましたが、過去何十回かの選挙で、失敗したのは県知事選挙二回だけで、あとは真正保守系を応援したおかげで、よかったのかなあ・・・と思っています。

世の中にはJC以外にもいろいろの団体・組織があります。私が主として関係した組織は、どうしても経済界中心の組織が多く、その仲間意識のなかでいろいろな社会活動に踏み込んでいくことが多いのです。JC、ロータリークラブ、ライオンズクラブ、はその典型ですが、一種の社交団体の場合もありますし、何か目標を提示してその趣旨に賛同して活動を行うこともありますし、組織維持のために若者、あるいは異分子を入れて発展したいということもありますし、それが崇高な社会貢献活動に繋がることも少なくないと思います。

ただこれらの団体に共通することがあります。
    例会のとき、政治の話、特に選挙の話題はしない。
    例会のとき、商売の話はしてはいけない。

普段、政敵として争っている間柄、あるいは同業者間で熾烈な競争をしている関係、これらが仲良くすることはなかなか難しい。ロータリークラブなどは、同一業種からは一人だけ、二人目は入会出来ないという会則が昔はあったはずです。エリート集団をつくるこが目的ならばこれでも良いのでしょうが、厳密にこれを実施するとすれば今の組織は極端に少ない人数の組織になってしまいますから、社会的な力も生まれないでしょう。

長い間には知恵を働かして抜け道はつくられてきました。例えば私の業種でいえば、ある先輩が「建材商」で既に登録している場合、後から入会したいという私は「セメント配布業」なんて名前になったように・・・いい加減な規則ですが、例会時、喧々諤々やり合うことや気まずい思いをしないように考えられていたことは事実です。
仲良くすることが目標ですから、この二つが入ってくると、利害、好みが関係してきて、どうしても言い争いがおきてしまう。そうでなくとも、気まずい思いが出てしまうのです。

いずれもアメリカから入ってきた組織であり、ルールでしょうが、まあ日本的にうまくこなしてきたということでしょう。