善光寺さん
商売とJCについて書いてきましたが、それ以外のことでもいろいろなことに携わらせていただきました。高度経済成長の真っただ中で、企業も祖父からの伝統があったからでしょうか、ボランテイアの私の社会貢献活動を認めようとする多少の余裕があったのでしょうか、お陰さまで社会の中でいろいろな団体・組織等の運営に携わらせていただきました。
まず“善光寺さん”との関係ですが、
宗教法人・善光寺の信徒総代・営繕局長、及び宗教法人・善光寺・大本願の信徒総代・責任役員ということで、長野を代表する大きなお寺の役職を務めさせていただきました。全て20歳代に任命されたような記憶がありますから、これも先祖が築いてきた人間関係でしょうし、さらに言えば私の父が早く亡くなった故の役回りだったのでしょう。
前にものべましたが、私は「浄土真宗」の本願寺長野別院の責任役員をやらしていただいていますので、「浄土宗」あるいは天台宗の善光寺関係のお寺の役員やるのは、少し変だとお感じになるかもしれませんが、これは善光寺さんという大寺がある長野独特の風習なのでしょうか、キリスト教のような一神教の世界と違い、多神教である仏教界のいい加減さとまでは言えませんが、あまり厳密には考えていない風習と申し上げるべきなのでしょう・・・
浄土真宗の長野別院は、我が家の菩提寺で先祖代々の檀家であり、檀家の軒数も1000件以上あるお寺で、我が家のお墓もありますのでわかりやすいのですが、善光寺関係の役職は、宗派に関係なく信徒の代表ということで皆さんに選ばれて就任するようです。したがってキリスト教でもかまわないと聞いたことがあります。信仰というよりお寺の護持が優先されている、感じとしては長野の宗教という意味合いが強いのかもしれません。
ただ私の性分で、お飾りの役員をやるのは好きではありませんので、それぞれのお寺の方向を考え、今何が大切なのか、お寺の意向を受けて諸問題の解決に一生懸命取り組んできたつもりです。(ただ政教分離ということもあり、大本願の責任役員だけは、市長就任と同時に辞任させていただきました。)
善光寺の和尚さんたち、即ち宿坊関係者も時代が変わり随分若くなり、JCやロータリークラブ、ライオンズクラブなど世俗の団体に参加される方が多くなり、世慣れてきたというか、昔とはかなり変わってきたように思います。
善光寺の営繕局長をさせていただいた二年間、いわゆる昭和の大修理(本堂の屋根替え)にかかわらせていただきました。
桧皮葺の屋根は、正確には知りませんが、大正末期に当時、栃葺だった屋根(古い写真が残っていました)が、桧皮葺きに葺き替えられて以来、修理はされていませんでした。桧皮葺の寿命は約50年と言われており、葺き替えの時期が迫っていたことは事実でしょう。
営繕局長としていろいろ勉強させていただきながら、国の文化庁との交渉をさせていただきました。
まず国宝ですから現状変更をしてはいけない。以前が栃葺だからと言っても、現在は桧皮葺なのだから、現状変更は認められないということを言われました。簡単に替えてはいけないということです。京都の西本願寺の屋根替えも見学しましたが瓦葺でした。見るからに重そうな瓦で、重量の違いから建物の強度に関係するのは当然で、簡単には変えられないことをしりました。
桧皮葺の建物としては、奈良・吉野の蔵王堂を見学しました。山奥のあまり大きなお堂ではありませんでしたが、恰好がよく、桧皮葺の建物としては善光寺本堂に次ぐ大きさとの話でした。その視察でみた屋根のことよりも、周辺の吉野の山が真っ赤だったことが記憶に残っています。松食い虫の被害で松が枯れているとのことでした。
善光寺も、境内の松や大峰山の緑が真っ赤になってしまったら・・・どうなるのだろうかということを真面目に心配したものです。
善光寺本堂は桧皮葺の建物としては、日本一大きく、屋根の面積も広いのだそうで、使用する桧皮の量の確保が問題でした。ただ文化庁が全国の桧皮の生産量を把握しており、また全国にある桧皮葺の文化財についても調査をしていましたから、どういう順番で工事を行うかということが検討されていたようです。蔵王堂が終わったら次は善光寺ですと文化庁に言われました。
問題はお金です。屋根替え問題が浮上してから、長野商工会議所の夏目会頭から、どのくらい金がかかるのかと何度も聞かれて困りました。
国宝の修理は、原則的には国が50%、県・市が合わせて25%~30%ぐらいが常識的な線だそうですが、それでは地元負担が大きくなるということで(加えて国の補助対象にならない修理項目が沢山あり、善光寺側ではこの際全てやりたいとの意向もありました)、羽田代議士を通じて、当時の竹下大蔵大臣にお願いして、「国負担の特別割り増し」と「時期をなるべく早くしてほしい」という二点をお願いにいきました。
大勧進の御貫主さんと大本願のお上人様の字を、立派な表装をして額に入れ、竹下事務所にお伺いしてお願いしてきました。竹下大蔵大臣にはそのとき初めてお目にかかりました。
善光寺営繕局長の任期は2年でしたので、私が主体になった作業はそこまで、工事そのものは次の役員の時代になって行われました。実際の工事は文化庁の監督のもと、現在の本堂がすばらしい姿を見せてくれ、御開帳もあったと記憶していますが、落慶法要行われたこと、嬉しいことでした。
そう言えば善光寺裏のツバメ池についても、周りの土地の地主さんが高利貸しから借金で動きがとれない状況になっていたのを、私が一山会の了解をとって解決し、善光寺の所有にすることができました。昔三つあった池ですが、今は放生池がひとつだけ、かぎ型の道路も直して、二つの池は駐車場として、善光寺参拝客の利便に貢献しています。
ただ昔からいわれているように、善光寺は裏から入ってお参りし、裏から帰ってしまうという問題の解決にはなっていません。