2014年2月5日水曜日

徒然の記 №7 <長野JCのこと>

商売から離れて 「長野JC」

商売のことから少し離れて、社会活動の話しにしましょう。
私が社会に出た頃から、時代の要請もあったのでしょう。色々な団体が出来てそのお手伝いをさせていただくようになってきました。もちろん一種のボランテイア活動ですが、それなりに社会を動かしているのだ(特に長野市を)という誇りを持てる活動で、ある程度企業に余裕があったからできたことだったと思っています。

まず、長野青年会議所(JC)の活動です。私の人生に仕事以外で一番大きな影響を与えてくれたのはJCでした。社会に出てもう70歳を過ぎましたが、未だにJCから受けた強烈な洗礼は忘れられません。オーバーな言い方をすれば、私が長野市長になれたのも、長野JCのお陰だったし、あのときJCに入会したことが運命だったのかもしれないと考えることがあります。良き先輩・仲間、理念・・・本当に素晴らしかった。

昭和37年四月、炭平に入社、38年1月社長就任、3月に大学を卒業し、すぐ社会人一年生として社業に取り組みはじめました。暫くしたら、先輩の皆さんにゴルフをやれとすすめられ、30万円出せと言われました。良く分からないままお金を出しましたら、大浅間ゴルフ場の会員権の購入でした。そしてその頃のJCの大先輩、木村恕さんや井田義幸さんなどに連れられて、ゴルフに行きました。
「まあ、お前はまだJCに入会していないけれど、どうせ入るのだから、今日は特別に連れてってやる」そんなことを言われて、軽井沢へ行った記憶があります。あれが入会審査だったとすれば、当時は随分いい加減なものだったなあ、と感じています。

長野JCでの生活は本当に楽しく、有意義なものでした。そして私の人生を大きく決めてくれました。色々な要素はあったと思いますが、繰り返しますが、市長になれたのも、JCのお陰だと今でも思っています。

北野幾造さん、小野正孝さんのお二人、共に鬼籍に入られていますが、私たちのJC時代の初期、際立った活躍をされ、大きな影響を与えてくださいました。
北野さんは北野建設副社長で、JCでは社会開発運動に取り組まれました。市民アンケートという手法を採用し、市民のニーズ調査を行い、二つのテーマを浮き彫りにしました。
    車の勃興期だったゆえに、車の混雑・事故等が多発し、市内交通の問題が重要である。
    「隣は何をする人ぞ」という時代、何とか地域コミュニティを再生したい。

まず交通問題ですが、具体的には市内交通の障壁になっていた長野電鉄の線路を立体化すべきという意見でした。大変な事業で、立体化とは、地下鉄化か、階上化か、随分激論がありましたが、JCの提言を受けて、夏目市長の英断と政治力で「踏切の連続立体化事業」というのが採択され、“地下鉄化”が正式にきまりました。完成はかなり経って柳原市長さんの時代でしたが、長野市の交通問題としては最大のものだったと思います。

コミュニティ運動については、道路を広場として使って中心市街地でのお祭りの創設をやろう。地域や企業ごとに「祭連」を作って参加する祭り、それらがコミュニティの再生につながるはず・・・と私たちは信じて運動に取り組みました。象徴になったのが「長野びんずる」です。

北野さんは、これらのCD(社会開発)活動の実績をひっさげて、長野JC・日本JCをリードし、JCIの世界では「CDドクター」と綽名されました。JCIのハワイでの世界大会で、最高賞(ペプシコーラ賞)を獲得したのも思い出深いものがありました。

40歳定年のJCで、彼にもう一年余裕があったら、多分会頭職も含め遥かに大きな活動をされたでしょう。残念ながらJCの活動に入る前、彼は大病を患って長期に入院生活をされていたとのことで、退院してからJCに目覚められたのですが、副理事長・理事長・地区会長(日本JC常任理事)の役職をそれぞれ1年ずつで通過されて卒業されました。定年制のためとはいえ、本当に惜しい英才だったと思います。その合間に会社経営の在り方等について、我々を教育して下さいましたこと、私は一生忘れません。

小野さんは、甲州屋の常務(三男)として、若者の心をつかむ能力と、自分の喋ったことを常に録音して、話し方を常に研究しておられた努力家で、本当に名演説に長けておられました。小野家の伝統として、兄弟のうち誰か一人は社会の為に貢献するべきであるとの家訓があったように聞いています。

四国の地区会員大会の壇上で血を吐いて倒れ、病気になってしまわれ、一旦は小野ちゃんの会頭挑戦は終わったと皆が感じたのですが、四国のJC仲間の献血で回復し、執念で病後にも関わらず会頭選挙に打って出て、京都の立石さんや横浜の勝さんという、当時の大企業、大LOM所属の方々を打ち破り、長野という田舎の中小企業出身の小野さんが、日本JCの会頭に上り詰めたこと、画期的なことでした。

高輪プリンスホテルでの選挙当日、推薦演説での土屋磯司長野JC理事長の演説は卓越していましたし、「小野正孝の青の計画」は、北野さんのCDと並んで、LD(リーダーシップ・デイベロップメント)として、素晴らしい構想でした。彼の演説はJCを含め、若者を大いに勇気づけたものでした。

小野さんの会頭選挙はいろいろなエピソードがありました。当時日本JCの会頭選挙については規程はありましたが、それまでは実際に選挙になったことは無く、小野さんが第一号でした。
選挙運動として電話戦術は当然でしたが、長野JCのメンバーだけでなく、周辺JCのメンバーの応援もあって、担当地域を決めて手分けして各地LOMを訪問し、それぞれの理事長に投票を依頼して歩きました。ある意味選挙活動の常道だと思いました。私も関東地区担当ということで群馬・栃木そして千葉県一周の遊説をしたこと、懐かしい思い出です。

たまたま小野さんの選挙は、昭和46年、長野びんずる創立の年でした。長野JCは選挙とお祭りの創設という大きな活動を二つ抱えていました。土屋理事長のもと、びんずる大魔王と言われた青木恵太郎さんと塩沢堅吉さんがびんずる担当副理事長、土屋理事長はデーンと構えて動かず、私等が手分けして選挙担当で全国回り・・・高輪プリンスホテルでの選挙結果は、小野さんの当選ということで本当に嬉しかったことを思い出します。

そして小野さんは一年間会頭職を務めて、JCの若い会員や若者達を鼓舞し、最後の甲府での全国会員大会では、長野JCの仁科理事長が全国の会員に向かって感謝の言葉を、名演説で締めくくられたのを、記憶しています。あれは1971年秋、昭和46年のことでした。(実は長野JCの歴史の中で、唯一この年の年史が存在していません。正直に言って疲れてしまって、年史を作る気力がなかったのだと自らを慰めていました。)

残念ながら、暫く後、小野さんは知事選の応援等で元気に飛んで歩いておられたのですが、完全に回復しておられなかったのでしょうか、帰らぬ人となりました、
葬式の日、国鉄のスト権ストの当日にもかかわらず、善光寺忠霊殿で行われた葬儀(忠霊殿で葬儀が行われたのは、このときが最初だったそうです)には、全国から仲間が弔問に訪れました。私たちは彼の功績をたたえて、一年後に東京高輪プリンスホテルで「偲ぶ会」を開催し、「小野正孝君を偲ぶ」ための本を発刊したことを覚えています。
そう言えば北野さんもずっと後になりますが、お亡くなりになりました。あまり長命とはいえなかった方で残念なことでした。

いずれにしろ市民ニーズの調査などということは、現在でこそいろいろな手法が採用され世論調査は当たり前になっていますが、当時は異端視されていました。
京都等で革新首長が出現したのですが、議会は保守勢力が強く、思うような施策が出来ない。そこで首長は、市民アンケート調査をやって“民意はわれにあり”ということで議会を説得していく、そんな手法に使われていたと言われていました。(最近はさらにエスカレートして、一旦辞任して再度立候補する・・・公職選挙法では想定していない手法が生まれているようです)

長野JCが市民ニーズを把握するためアンケート調査を実施しようと提案したとき、長野市役所内が大反対でした。夏目市長の後援会みたいなJC組織が何を考えているのか・・・ということでした。そんな中でただ一人、JCが社会開発をやるなんて「蛮勇!」だなあ、なんて言っておられた故夏目市長が、若い者がやるというならやってみようではないか、と言って下さったそうで、そのお陰で実現できたと聞いています。

選管で選挙人登録簿を見せてもらい、名簿からアンケートの送り先のリストを作成しました。今では個人情報保護法の関係で絶対に見せてはもらえないでしょう・・・。アンケート結果は、最初に申し上げた通り、二つのテーマに集約されました。

日本JCは毎年正月に、京都会議を行っています。いつだったか京都でJCI世界会議が行われた時、その直前に神戸で全国会員大会が行われ、ほとんどのメンバーは神戸での大会が終わってからその足で京都の世界会議に参加しました。当時、日本JC会頭は秋田の辻兵吉さんでした。彼の肝いりで持ち込まれた「竿灯」の素晴らしさを懐かしく記憶しています。その時以来、JCは毎年京都会議がおこなわれるようになり、長野JCにとっても京都は懐かしい場所になりました。

毎年行われる京都会議での長野JCのたまり場は、祇園みの家。藤井裕さんが皆を紹介して下さったのだと記憶していますが、当時中居の“おいっちゃん”(伊都子さん)に、長いことお世話になりました。京都のおもてなし、これは長い間に洗練されてきたもので、祇園の舞妓さん、素晴らしい料理、芸能、素晴らしい景観、あの雰囲気や客あしらい・・・他都市ではなかなか真似が出来ないものと思います。それなりにお金がかかりますがね。

小野さんの会頭選挙のあと、選挙のしこりを残さぬようにという北野さんの発案で、京都JC,横浜JCを招待し、「たんくま」から料理を取り寄せて一席設けたのも、“みのや”でした。“おいっちゃん”は、その後独立して、「今村」というお茶屋を開かれ、元気にやっているそうです。

私は、40歳で長野JCを卒業するにあたり、記念に定款のコンメンタールと「40分の18」という本を書いて後輩に残しました。コンメンタールというのは、定款の説明書、解説書みたいなもので、塩沢さん達と定款・細則を整備したものですから、皆に書けよと言われてしまったものです。その過程でコンメンタールなんて堅苦しいだけで面白くない、もっと自由にJCライフについて書こうという気持ちが強くなり、“40分の18”になりました。

少しでも私たちがやってきたことを、理解してほしい、忘れないでほしい・・・そんな気持ちでした。今でもJCルームにはあるそうです。

話はかわり、選挙の話です。
JCが一般選挙にかかわることは、JCの定款で禁じられているのですが、それはどうしても応援する人がいろいろで、一生懸命になり過ぎるとJCが分裂することもあり得るということを恐れたからで、一種の防衛本能が働いていたのだと思います。しかし実際には形を変えて、かなり一生懸命取り組んできたことも事実です。

私が経験した最初の選挙は、故夏目忠雄さんの市長選だったように思います。
大門町にあった「すずかけ」の二階ホールを借りて「若い力の会」を結成し、JCの現役・OBは一体となって選挙運動に取り組みました。代表は塩沢壮吉さん、私は副だったと記憶しています、大先輩の木村さん、井田さん、松橋さん(当時理事長)等に引っ張られて応援活動をしたこと、懐かしい思い出です。

JCの定款で選挙活動が禁じられている以上、別働隊をつくる以外に方法はないわけですが、本音と建前でいろいろ問題があったことは事実でしょう。一番は困るのは、保守系の立候補者が複数の場合、会員の中に派閥が出来てしまうことです。衆・参の議員選挙、県会議員選挙・市会議員選挙はやりにくく、あまり盛り上がることはないようです。

そこへいくと首長選挙(県知事選や市長選)は、立候補者があまり多くなく、保守・革新の対決になる構図のせいか、盛り上がるかどうかは別にして、内部で争いがおきることは少なかったと思います。私の市長選もあまり問題にはならず応援していただきました。ただ若さと行動力があると思われているJCメンバーは、各選挙陣営から応援を期待されていることは事実でしょうし、そのことがJCの社会的地位を高めてきたことも事実と感じています。

いろいろなことがありましたが、過去何十回かの選挙で、失敗したのは県知事選挙二回だけで、あとは真正保守系を応援したおかげで、よかったのかなあ・・・と思っています。

世の中にはJC以外にもいろいろの団体・組織があります。私が主として関係した組織は、どうしても経済界中心の組織が多く、その仲間意識のなかでいろいろな社会活動に踏み込んでいくことが多いのです。JC、ロータリークラブ、ライオンズクラブ、はその典型ですが、一種の社交団体の場合もありますし、何か目標を提示してその趣旨に賛同して活動を行うこともありますし、組織維持のために若者、あるいは異分子を入れて発展したいということもありますし、それが崇高な社会貢献活動に繋がることも少なくないと思います。

ただこれらの団体に共通することがあります。
    例会のとき、政治の話、特に選挙の話題はしない。
    例会のとき、商売の話はしてはいけない。

普段、政敵として争っている間柄、あるいは同業者間で熾烈な競争をしている関係、これらが仲良くすることはなかなか難しい。ロータリークラブなどは、同一業種からは一人だけ、二人目は入会出来ないという会則が昔はあったはずです。エリート集団をつくるこが目的ならばこれでも良いのでしょうが、厳密にこれを実施するとすれば今の組織は極端に少ない人数の組織になってしまいますから、社会的な力も生まれないでしょう。

長い間には知恵を働かして抜け道はつくられてきました。例えば私の業種でいえば、ある先輩が「建材商」で既に登録している場合、後から入会したいという私は「セメント配布業」なんて名前になったように・・・いい加減な規則ですが、例会時、喧々諤々やり合うことや気まずい思いをしないように考えられていたことは事実です。
仲良くすることが目標ですから、この二つが入ってくると、利害、好みが関係してきて、どうしても言い争いがおきてしまう。そうでなくとも、気まずい思いが出てしまうのです。

いずれもアメリカから入ってきた組織であり、ルールでしょうが、まあ日本的にうまくこなしてきたということでしょう。