2014年2月26日水曜日

徒然の記 №12 商工会議所副会頭時代

ある日、長野商工会議所の夏目会頭から呼びだされ、副会頭になれと言われました。
会議所の副会頭なんて、当時の私には目もくらむような役職で、なりたい先輩も沢山おられると思いましたので辞退したのですが・・・「お前は人が笛を吹いた時、黙って踊れないのか?」とまで言われ仕方なく就任させて頂きました。

もともと私は、商工会議所の議員には早くから任命されており(長野青年会議所会員になった直後頃でしょう)、当時の小坂武雄会頭から「君は、多分日本一若い会議所議員だろう。」と言われたくらい、正確には記憶がありませんが多分昭和39年、24歳の頃だったようです。
小坂会頭さんは、「最近会う相手の“名前”がでてこなくて・・・困る(私も今そんな状況になって困っています)。そこで誰と会う時にも、こちらから先に『小坂です』と名乗ってしまうことにしているのだ。そうすれば相手も、自分の名前を言わざるをえないから、そこでわかるから・・・。」とおっしゃっていらっしゃったのが印象に残っています。偉い方から先に名乗られたらこちらも答えざるをえないのですから、これは良い方法だと思い、真似をさせていただいていたのですが、最近は自分の名前を何となく、ぐにゃぐにゃ・・・と、はっきりおっしゃらない人が増えてしまい、自分の耳が遠くなったせいもあるのでしょうが・・・困っています。

議員に選ばれた当座は、青年会議所(JC)の活動の方が面白くて、事務所は同じ建物内でしたが商工会議所にはあまり顔を出さなかったように記憶しています。

それが副会頭ですからびっくりでした。(調べてみたら少し前に常議員(役員))には任命されていました)夏目さんの、若い者にどんどん仕事をさせようという御意志だったのでしょう・・・。常議員への指名は昭和62年、47歳の若僧の時だったようです。

その後、夏目会頭さんに続いて、神津会頭、仁科会頭と続きまして、私は三代の会頭さんに副会頭としてお仕えしましたが、神津会頭以後は4人の副会頭の中で、“筆頭”という名前まで頂いてしまいました。ちなみに4人の副会頭の順番ですが、会議所の職員に聞くと、あれは年齢や仕事の内容には関係なく、副会頭になった順番という事でした。ということは、長くやっていれば筆頭になるという事なのでしょうが、若僧の私が年長の副会頭に指示をすることはやりにくいことが多く、つい自分でやってしまうことが増えたように感じます。

特に神津会頭には、何かやるべき事があると「ハイ、わっしゃん、よろしくネ・・・。」とおっしゃって、実質的に仕事を命じられていました。随分勝手に行動させていただいたようにも思いますが、特に問題は生じなかったように思います。会議所の青年部をつくろうという動きが日本商工会議所から出てきたとき、私はこれに反対しました。理由は長野JCがあるではないか。会議所の青年部とJCがどう違うのか、そこに変な差別をつける事になるのではないか、それこそ問題だと主張しました。会議所の青年部の役割は、JCが十分果たしてもらえると考えたからです。

私の副会頭時代の時代背景を考えてみますと、私の年齢は50歳代、オリンピック招致活動、さらに招致決定後の準備活動が佳境に入っていた時期でしたので、忙しかったなあと記憶しています。
またある先輩社長さんから「わっしゃん、50歳を過ぎたら年なんて関係ないよ。遠慮なくやりなさいよ。」と言って下さった方がおられました・・・。それが出来るかどうかは別にして、個人とすれば本当に嬉しかったことを記憶しています。

私が担当した事で一番重かった仕事は、文化プログラム等を成功させるための寄付金集め、もうひとつはオリンピックボランテイア組織“チーム98”の会長としてフレンズクラブの代表を含めて、長野オリンピック全体の盛り上げに努力した事です。

オリンピック前のひと頃、私は10くらいの金集めのプロジェクトを抱えていました。
ある時、ある会社の社長さんに直接電話して、「お会いしたい。」と申し入れましたら「ああ鷲澤さんか・・・。今度は何の金集めかね?」と先手を打たれてしまった事もありました。でも、殆どの皆さんに気持ち良く受けていただいた事、有難かったです。オリンピックを前にして、「皆さん、オリンピックは世界のイベントだ。長野としてしっかりやらなくては。」という義務感、高揚感があったように感じています。

金集めで一番苦労したのは「アスペン音楽祭」だったかなあと思っています。金額も大きかったし、期間もほぼ10年間、毎年同じような資金集めにまわった事、個人的にも大変苦痛でした。

この音楽祭は塚田前市長さんの頃、広告会社の博報堂が持ち込んできたプロジェクトだったそうです。アメリカのアスペンで毎年夏行われている音楽祭で、ニューヨークのジュリアード音楽院が音楽家を派遣し、日本も含めたアジアから音楽志望の学生をアスペンに集めて音楽指導をして、最終日に音楽会を開催するというもので、その日本版をやろうというプログラムでした。過去ジュリアード音楽院で学んだ日本人学生なども協力して下さるとの事で、音楽祭だけでなく、将来はアスペンで行われている学術会議なども日本に持ってきたいといった大きな構想もあったようで、80年代の末頃から始められたものでした。会場は飯綱高原。長野市街地から30分~一時間足らずで標高1000メートルまで行ける絶好の環境という事でした。

91年オリンピック開催が正式決定後、このプロジェクトはオリンピックの時に併崔される「文化プログラム」に格上げされ、1998年長野冬季オリンピックの前の年まで、即ち1997年夏まで、毎年大きなお金をかけて開催したものです。成績優秀者には翌年、アスペンへ派遣してさらに勉強出来るというシステムにもなっていました。
オリンピック終了後の経過はわかりませんが、勝山グループさんが財団法人をつくられ、アスペンの名前を引き継いでおられるようです。

いつの事か分かりませんが、皇后陛下から「長野は素晴らしい音楽会をやっておられるそうで・・・。」とのお言葉を頂いたそうで、最後まで(オリンピック開催まで)きちんとやらなくてはと覚悟したことは事実です。

費用は、集まる学生の授業料は別にして、長野市(行政)と実行委員会(民間)が経費を半分ずつ負担する事になっていまして、なぜか私が寄付金集めの責任者みたいになってしまい毎年苦労しました。オリンピック前年の1997年の夏、オリンピック開催の前年、最終回を前にして企業関係の皆さんから「まだお金、集めるの・・・???」「いやーあと一回だけお願いしますよ。」そんな会話で何とか締めくくりました。始めた時は、1万円、5万円、10万円といった単位で細かく寄付をお願いしていたのですが、当時の商工会議所の柄澤専務さんから、「来年以降細かい金集めでは、数千万円単位の金は絶対に無理。企業にお願いして大口の募財をするより仕方ない。」との話がありました。
そこで私は、企業寄付となれば、企業の損金算入が絶対に必要ということで、商工部長と相談し、「企業は長野市に寄付する。その金額を長野市は議会議決を経て、アスペン音楽祭実行委員会に補助金として渡す。」という仕組みを作りました。オリンピックという大きな目標があったから出来た事でしょう。

この構図で長野市の商工部長中心に、企画を練り直してスタートしたのですが、税務署の御機嫌はかなり悪かったようです。「そんなことをされたら税収が減ってしまう・・・」商工部長が私に嘆いてきたくらいですから、税務署との対応は相当困ったのでしょう。

募財の企画書も二通用意しました。
     1通目は、長野市の商工業発展のため寄付をお願いしますという趣旨。
     2通目は、アスペン音楽祭に寄付してくださいという趣旨。
何故かアスペンという固有名詞だけでは、税務所に否認される危険性があるとのことでしたが・・・二重帳簿みたいで忸怩たる思いがあったことは事実です。

全額長野市費で出来れば問題はないのでしょうが、行政も財政的には大変ですから、「長野市が半分出すから、あとは実行委員会さん、集めて下さい。行政・企業・市民が一緒に行うプロジェクトにするという意味でも、なんとかご協力頂きたい。」・・・この案を会議所が了解して約10年間続いたのですから、民間とすればかなりの負担でした。
損金算入の方法をめぐって税務署が文句をいうのも無理はないなとも感じました。
一方私腹を肥やすわけではないのだから、税務署も、もう少し“おうよう”になってほしいと思ったものです。私個人の立場を申し上げれば資金集めが大きな負担になり、長野アスペン音楽祭の中味については“わからない・・・”まったく無関心でした。
最近は、私も税法の研究はしていませんのでわかりませんが・・・かなり税務署も鷹揚になったと言われていますが・・・どんなものですか・・・。

同じような問題は、県全体の話しですが、オリンピック本番の時も「オペラ信濃の国善光寺物語」の時もありました。
税務署の姿勢はかなり緩くなってきたという話ですが、企業寄付と損金の問題、企業寄付や交際費問題は常に税務署さんとの間で論争になりました。なにしろ会社の損金になるかならないか・・・かなり大きな違いがあるものですから皆真剣でした。

私腹を肥やす話しではなく、社会のために使うのだという事がはっきりしているのですから、税務署ももうすこし考えてほしいものだと昔から感じています。同じことがNAOCのスタートの時もありました。NAOCが出来たばかりの時で、まだ大蔵省から認可を得ていない段階で、企業からの職員派遣が企業の経費になるかどうかで揉めているという話を聞いた事があります。

それはそうと、一般の方にもうひとつ理解してほしい事があります。
何かの折に申し上げたことがありますが、即ち会議所の議員歳費というのは議員が頂くものではなく、逆に議員が一種の負担金として会議所に支払うものなのです。支払う会費、言葉を変えれば、寄付金と同じです。

会頭さんの年会費、最近の金額は正確には知りませんが、多分、年間100万円~200万円以上くらい、あるいはもっと多額の負担金を毎年支払っているはずですし、副会頭も議員も勿論、歳費を頂くのではなくて組織を維持するための負担金を払って、言葉を変えれば、名誉を買っているという感じでしょうか。
加えて会費だけでなく、えびす講花火の寄付金、御開帳時の寄付金、新聞広告、独自プロジェクトの負担金等々・・・、かなりの金額を徴収されていますから、会議所の運営はかなりお金がかかります。ただ、寄付金の存在は社会をスムースに動かすための潤滑油だと考えるべきなのでしょう。

今になればまったく意味の無い話ですが、アスペン音楽祭をうまく企画・リードすれば、松本市の「サイトウキネン」のような存在にすることが可能だったかどうか?・・・夢みたいなことを考える事があります。
アスペンの知名度・権威の問題もありますし、やっぱり目玉、即ちスターがいて、皆の気持ちが一つになるようなものが必要ですよね。それと継続的にスポンサーになっていただける企業、ほしいですよね。加えて市民の盛り上がりも絶対に必要なことでしょう。時代が違いますが、オリンピックの時、ヒーローをつくれなかったことが残念です。

私は過去「スポーツを軸にしたまちづくり」を主張してきました。全体のレベルを上げることも大切ですが、全ての種目で頑張ることは難しい・・・特化が必要かもしれない、でもなかなか絞れない・・・難しいですよね。

ようやくサッカーやスケート、さらに野球といった可能性もでてきたように思いますし、スポーツ以外の事でも良いと思うのですが、市民皆が継続的に夢を見ることが出来るプロジェクト、あるいは誇りを感じることができるプロジェクトがほしい。
新市民会館、サッカースタジアム、考えるともう一度オリンピックを招致したいという話に行きついてしまうのですが・・・アイデイア不足でしょうか?

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平青学園の創立。
夏目会頭さんから頼まれた事がもう一つ。夏目さん達が経営する協同組合アークスの中にコンピューター関連の専門学校を創ってほしいという事でした。「お前の会社はコンピューター部門をもっているのだから、是非学校を創ったらどうか。アークスの活性化の為にもすごく良い話だと思う。」・・・ただ、これは夏目さんらしく無い。ちょっと乱暴な意見で難問でした。確かにコンピューター学校は必要かもしれませんが、学校を創るとなれば許認可の関係もありますし、施設・教師をどうするか・生徒募集のターゲットはどこにおくのか・重要予測もしなくては・・・。
最初の段階で準備不足のまま、事態はどんどん進んでしまったきらいはありますが、現在既に専門学校平青学園として新しい教育カリキュラムをもとに学校は元気に頑張っています。今後、外国人留学生が増えてきていますので、きちんと教育をしていきたい。

ただ考えなくてはならないことは、学校法人を含めた公益法人や社会福祉法人などは、個人や企業のものではない、社会の公器であることの自覚でしょう。
社会福祉法人は老人社会が進展していますから当分はやっていけるでしょうが、学校は人口減少時代ですから難しい時代でもあると思っています。