2014年2月12日水曜日

徒然の記 №11 <教育界のこと③>

信濃教育会出版部の再建について

PTAとは違いますが、教育のことで信濃教育会出版部の再建に携わったことにも触れさせていただきます。
いつだったかはっきり記憶していませんが、私が30歳代後半ぐらいのある日、「会いたい」という故夏目忠雄参議員さんから電話がありました。
お伺いすると、「(社)信濃教育会出版部が経営不振で困っている。給料遅配になりそうだそうで、「鷲澤君、何とか面倒をみてくれないか」という趣旨でした。先生は当時、出版部の理事長でした。

調べてみると当時出版部は、義務教育の学校をお得意先にして、教材・教具の販売を行うことがメインの仕事で、そのほか夏冬季練習帳の編集・販売、理科教科書の作成等もやっていました。編集作業は先生方が担当し、出版部の職員は各学校を回って販売業務をしていました。パソコンも教育現場に入り始めた時期でもあったようです。

伝統ある先生方の組織である(社)信濃教育会とはいろいろ関係がありますが、別組織であり、出版部は別働隊的な組織でした。それは当然で、教育会は職能団体で先生方の払う会費によって運営されており、それだけでは運営が困難なことから、出版部が利益を上げて得た利益の中から教育会に手数料ないしは支援金を御払いする。あるいは運営に資するための役務を提供するといった関係でした。ですから出版部は、会社(利益集団)に近い組織で誰からも支援はうけられない、最終的に赤字が続けば倒産もあり得る組織でした。

それとは別に信教印刷(株)という会社も出版部の兄弟会社みたいな形で存在していました。組織は別々なのですが、会社の財産は入り組んでいる部分もあり、まあ全体としては夏目グループと言ってもよい状況だったと思います。
私の父も、終戦後、教育会が教科書を作る紙もないような状況をみるにみかねて、戦後しばらく出版部のお手伝いをしていたというご縁もあったようでして、夏目先生からのご依頼もそんなことがあったからでしょうか。(戦後暫くの間でしょうが、信濃教育会がすべての教科の教科書をつくっていた時期もあったようで、世の中が落ち着くに従って教科書会社がいろいろ出来て販売の在り方も複雑になり、信教は徐々に撤退を余儀なくされました。地域独自の内容ももつ「理科」教科書だけを守りぬこうとしてきたと聞いています)

私がやったことは、まず出版と印刷を峻別し、印刷は株式会社なのだから自らの手で再建すべきことを提案しました。
私が夏目先生から再建をまかされたのは(社)出版部ですから、他の会社のことに口をはさむことは出来ませんし、逆に支援をしてもらうわけにもいかないということで、なかなかの難問でした。かなり困ったことは事実です。

職員のこと、資金繰りのこと、販売不振のこと・・・通常の会社と同じような悩みがありました。まず損益のバランスを回復しなくてならない・・・当たり前でしょう。経費節減(人減らし)と儲からない仕事の縮小、新商品を開発しての売上の増進(扱い商品の選択・増加と学校現場への売り込み方法の改善)・・・学校現場も(社)出版部だからと言って全ての教材を買ってもらえる時代では無くなっていましたので、職員はかなり苦労したはずです。

そんな仕事に取り組み始めた矢先、県から公益法人の業務内容についての監査が入り、商売の方法を大きく変えざるをえなくなりました。即ち商品の販売は、教材や教具であっても組織の目的、即ち公益事業にはなじまないと認定されてしまいました。要はこの組織で商売をしてはいけないということでしょう・・・泣き面に蜂のような状況でした。

どうすれば良いか、県はそこまでは考えてくれません。その少し前に知ったことですが、教職員組合が実質的に運営してする学校用品販売株式会社(正確な名前は?)がありました。こちらは株式会社ですから県の監査には関係なく、学校相手の商売を行っていました。私はここに目をつけ、つまらない競争しても意味がないので、公益法人出版部の仕事を分離してその会社と一緒になって株式会社にしてしまうことを計画しました。

その会社は優秀な社員もいましたがやはり売り上げが上がらず、規模は縮小傾向にあったようで発展は望めない状況だったようです。そこでその会社の社長と何度か打ち合わせをし、出版部と実質合併することを承知してもらいました。
新しい会社は「信教NET」とすることは後で決まった話しですが、両方が良くなければ駄目ということでいろいろ議論しましたが、首尾よく了解点に達しました。

最初だけ私が社長になり、先方の専務を役員としてきてもらい一緒に仕事をすることになりました。
信教ネットを増資して(金額の規模はわすれました。資本金は私の500万円を含めて、みんなで出資しました)、出版部系の出資が大きくなりました。

出版部の仕事のうち、出版の仕事だけを(社)信濃教育会出版部に残して、あとは全てその会社に委譲、実質的に新しい会社として発足しました。社名の「信教NET」というのも良かったかなあと今では思っています。軌道にのるまで私が少しの間、社長に就任しました。結果として前の会社を乗っ取った形ではありますが、皆さん喜んでくれたと思っています。(社)出版部の仕事も規模を小さくして再建をはかり、高野専務さんが一人で切りまわせる規模になりましたので、危機は脱したと感じました。

私が市長になるとき、(株)夏目の社長、夏目潔君に社長を譲りました。故夏目忠雄先生からの依頼物件だから、夏目さんの親戚のあなたが面倒をみるべきだ・・・なんて理由にならない理由をつけて社長就任を依頼した記憶があります。
その後どんな運営をされているか全く知りませんが、少なくとも夏目先生からのご依頼は何とか果たしたのかなあ・・・信濃教育会のためにもよかったはず・・・とホッとしています。