今年の夏は本当に暑かったですね。でも、ようやくお盆を過ぎた
頃から涼しくなり、一陣の風に、何となく秋かな?なんて感じるの
は、私だけではなさそうです。固いメルマガが続きましたので、今
回は長野の暑い夏を振り返り、一連のお祭り等について気楽に報告
させていただきます。
マクロ経済の好調が言われていますが、地域経済にまでなかなか
回って来ない、本当に厳しいです。でも、何とか元気なまちをつく
りたいということで、行政もいろいろな仕掛けを用意していますが、
市民の皆さんが、それぞれの地域や団体で役割分担をしながら、工
夫して頑張っていただいていることに感謝しながらの報告とさせて
いただきます。
長野市は広いです。そして地域には昔からの伝統の祭りも多くあ
り、市長が全てに出席したり、調べることは到底できません。でも
知り得る範囲で、なるべく多くの市民の皆さんの活動を報告するこ
とは、意味があると考え書かせていただきました(順不同で、気が
付いたままに書かせていただきます)。
「まつしろ薪能」 7月24日(土)
エコール・ド・まつしろの松代城復元「夏祭り」として行われた
松代城での薪能は、新しい試みではありましたが、1,500人以
上の観客が集まり、大変な盛況でした。一時は雨が降るかもしれな
いと主催の役員さんはかなり心配していましたが、観世榮夫さんと
いう最高の役者をお呼びできたこと、そして松代町の皆さんの能に
対する思いも重なって、素晴らしい幽玄の世界に皆さん浸っておら
れました。善光寺所有の能舞台をお借りできたことも、新しい時代
の善光寺と松代の協力関係に結びつけば良いなあと感じています。
「篠ノ井合戦まつり」7月31日(土)
篠ノ井駅前通りを埋め尽くした踊り手と観客、びんずるのお囃子
に乗って、元気に踊りました。篠ノ井では年間を通しての一番の人
出だそうです。
「若穂ふれあい踊り」7月31日(土)
ここもびんずる囃子に乗った踊りです。篠ノ井のお祭りと同じ日
でしたので、私は出席できませんでしたが、皆さん祭りを大いに楽
しんでいたという事をお聞きしました。
「大豆島甚句まつり」7月31日(土)
ここも同じ日でしたので、私は出席できませんでした。来年はぜ
ひ出席してみたいものと考えています。
「長野びんずる」8月7日(土)
例年のごとく、盛大に行われました。昼間の子どもみこしは、各
地でみこしを新調したこともあって、みんな張り切っていたようで
す。夕方、善光寺本堂での採火式から、華やかな行列がセントラル・
スクゥエアまで行進し、開会式が行われた後、大火釜に点火され、
火送り衆によって各火釜に火が配られ、祭りがスタートしました。
昨年とコースが若干変更され、踊る時間も短くなりましたが、午後
7時から午後9時まで、中心市街地は踊りの熱気に包まれました。
今年のもうひとつの特徴は、この1年間に長野を代表して活躍さ
れた方に、プラカードを手に行列の先頭を歩いていただき、開会式
の壇上で皆さんに紹介させていただいたことでしょうか(以前にも、
ノルディック複合の荻原選手が歩いたことがありました)。
今年の登壇者は、建築家・宮本忠長さん(平成15年度日本芸術
院賞受賞)、スノーボーダー・山岡聡子さん(スノーボードワール
ドカップ2004種目別総合優勝)、長野吉田高校2年生・諏訪部
和也さん(エアロビクス世界選手権ユース男子シングルの部優勝)、
ガーデニング・石見清さん(全国ガーデニングコンテスト2003
最優秀賞受賞)、そして今年のスペシャルオリンピックス国内大会
で活躍し、来年2月から3月に長野で開催される世界大会での活躍
が期待される方々でした。
本当は昨年夏の甲子園に出場した長野工業高校野球部の生徒さん
にもと思いましたが、既に卒業しておられて無理だったようです。
他にも活躍された方がいらっしゃるかもしれません。来年もこのよ
うな企画をやっていただき、活躍する元気な市民として皆さんに紹
介できれば・・・素晴らしいと考えています。
「飯綱火まつり」8月10日(火)
飯綱高原・大座法師池の周辺で行われるこの祭りは、今回で37
回目ということで、長野びんずるより3年ぐらい古い祭りです。炎
と音楽、そして水を生かした素敵な火まつりで、当日は平日にもか
かわらず、観光客も含めた大勢の観客にびっくりしました。
「長谷観音の雨乞い祭り三十三献灯」8月9日(月)
昨年は一番肝心な部分を見損なったので、今年は夜9時ごろ出か
けました。最後は三十三の燈籠を下げた棹を倒して、みんなで争っ
て燈籠を奪い合う、なかなか勇壮な祭りでした。
祭りではありませんが、市民会館で行われた「六本木男性合唱団」
と長野の男性合唱団「ZEN」の共演は、楽しい企画でした。女性
合唱団「ユーリカ」の皆さんの応援もあって、市民会館を満席にし
たイベントでした。
このほか、いろいろな全国大会が行われたり、地域の盆踊り等が
沢山あったようで、市民の皆さんもさぞ忙しかったのではないでし
ょうか。そういえば7月18日には、犀川第一緑地で第5回全国伝
統花火サミットも開催され、素晴らしかったようです。
9月以降は地域の秋祭りが行われるシーズンです。伝統を未来に
つなげ、地域が活性化するように、みんなで努力したいものです。
年明けには1町3村との合併がありますから、さらに報告しなく
てはならない祭りが増えそうです。
2004年8月26日木曜日
長野の夏、賑やかなイベント(祭り)
2004年8月19日木曜日
浅川ダムに関する長野市の意見(その2)
今週は、浅川の治水対策に当たり、長野市が懸念している事項や
関連事業への影響などについてご説明申し上げたいと思います。
1.現段階までに示されている県の代替案について
(1)従来計画のダムが持っていた目的や機能の一部を、上流域に
存在する溜池に持たせることについては、その効果を否定す
るものではありません。しかし、溜池管理者(浅河原土地改
良区)やその水を利用する人々の了解が得られるのか。また、
どれだけの治水(あるいは利水)機能が数値的に可能である
か、住民には全く知らされていません。また、溜池の中には
永禄年間築造・明暦年間築造などかなり古い堤体を持つもの
があり、堤体破壊に起因する土石流発生等の過去の歴史から
その安全性を心配している住民もいますので、県が安全を確
認し発表することは浅川治水と切り離してでも必要であると
思います。
(2)河道外遊水地(県による造語か)については、檀田や田子川
合流点付近での建設案が示されていますが、地元の反対はも
とより、特に檀田の場合、住宅地に近接して建設される案で
は傾斜地ということもあって安全性に大きく問題があり、土
地の高度な利用や農業など生産活動が可能な地域での設置は
不可能だと、私は考えています。
(3)河道内遊水地で洪水調節を期待し河川をせき止める施設とし
て、穴開きダムが発表されています。国内には白川水系立野
ダム(建設中)など同様な事例が他にもあると聞いています
が、ダムサイトに造られる施設では、従前のダム計画と比較
し、治水効果やその大きさに対応した効果の差異、安全性等
について住民に早急に説明をすべきであり、発表された約
30mの高さは、実質ダムです。これを含めて過去にダム建
設に賛成した、あるいは反対してきた住民に対し、県は説明
をきちんと行いその責任を果たすべきであります。このこと
は検討中だと前置きをしつつも提案した案が、単なるリップ
サービスだったという批判を受けないためにも、河川管理者
に課せられた責務のはずです。
(4)そのほか、水田を利用するとか緑のダムとかは、一定量まで
の流出を抑制する機能しか認められず、住民や識者の失笑を
買いました。さらに、河川改修案として既に浅川に架かって
いる橋の幾つかを持ち上げて流下能力を高める、堤防のかさ
上げをする、あるいは河床の掘り下げとそれに伴う護岸の補
強などの案は、住民や流域自治体の猛反対を受け、すっかり
影を潜めてしまいました。これは、県のダムに替わる治水方
針の樹立がほとんど不可能に近く、非常に難しいということ
を意味しています。
2.今後考えなくてはならないこと
7月中旬の梅雨前線末期の活動による新潟県五十嵐川・刈谷田川・
能代川等の破堤による水害は、基本高水は絶対に下げられないとい
う教訓になりました。もしかすると、最近の異常気象を考えると、
もう少し治水安全度のレベルを上げなくてはいけないのではないか
と思わせるほどです。
基本高水や治水安全度を下げることでしか攻め口を無くしてしま
っているダム反対派の人々に対しては、この現実をよく考えてもら
いたいと思っています。この被害をみて、既往最大で良いとの主張
は完全に根拠を失ったのではないでしょうか。
浅川治水における基本高水毎秒450tの設定は、既に建設大臣
(当時)が認可した事項であり、国も引き下げに安易に同意をする
とは考えられませんが、私としても流域住民の安全性や土地の利用
状況、配置されている施設の状況や今後の経済発展等を考えると、
100年に1度の確率で採用された治水安全度は、特に死守すべき
条件だと考えています(基本高水流量の説明については、過去何回
かメルマガで触れさせていただきましたので、今回はあまり詳しく
申し上げることは、避けさせていただきます)。
日本の国土の特徴として、川は急峻な山岳地から平野部に短距離
で流れ下るが故に、平野部における急激な増水や山間部における土
砂崩落・土石流等の危険が常に付きまとっているとのことです。土
砂の流出は場合によれば天井川にもなり、その結果、水害を被る危
険性はどこの河川にもあり得るわけで、そのバランスをとってきた
のがダムや砂防堰堤であります。理屈がきちんとしてダム建設を止
めるのなら結構ですが、既往最大の治水があればよいというのは、
その川沿いに住んでいない似非(えせ)評論家の意見です。
海外ではダムは造らない、あるいはダムを壊しているという事例
を語る人もいますが、それらの意見は国土が持っている特徴の違い
を考慮しない短絡的な意見としか言いようがありません。
もう一つ、浅川ダムは多目的ダムということで、長野市水道局が
水道水を確保するために、県と共同事業者となり、費用振り分け
(コストアロケーション)により分担金を既に支払っているという
問題があります。中止ならお金を返していただくことは当然でしょ
うが、それだけで済む問題ではないはずです。確かに長野市の水道
水は、現段階において足りていることは事実ですが、しかし将来を
考えると二つの点から、ぜひ欲しい水源です。一つは、干ばつや水
源の油混入事故など、もしもの場合、水源は沢山あるほうが危険性
の回避になります。もう一つは、水は高い所から低い所へは自然流
下が可能であり、浅川ダムからの取水は、コストがかからない水源
になる可能性があります。特に蚊里田浄水場への野尻湖水源が不安
定な現在、長野市としては確保したい水源です。
3.新幹線車両基地についての確認書の存在について
平成5年4月26日、長沼地籍に新幹線車両基地を受け入れると
いうことについて、長野市長沼地区新幹線対策委員会、日本鉄道建
設公団北陸新幹線建設局(現、独立法人 鉄道建設・運輸施設整備
支援機構 鉄道建設本部 北陸新幹線建設局)、長野県長野新幹線
事務所(現、長野県北信新幹線事務所)、および長野市の4者で確
認書が取り交わされています。この確認書の合意事項には、地元要
望に対する回答が含まれており、浅川ダム関連についての県の回答
は、
(1)浅川ダムの完成は平成12年頃を目途としておりますが、当
地域の諸状況を勘案し、早期完成に努めてまいります。
(2)浅川改修については、関係者等の協力を得ながら早期完成に
努めてまいります。
(3)以上のことの他に問題が生じた場合には、誠意を持って円滑
に解決するよう双方で協議をする。
となっております。
田中知事による「脱ダム宣言」以降、円滑に解決するための協議も
無く、一方的で、当時確認された事項が守られていないのが事実です。
このまま行けば、北陸新幹線は長野市分だけ完成しない状態となり、
飯山以北から北陸の住民の皆さんに大変なご迷惑をかけることになり
ます。長野新幹線建設当時、軽井沢で立ち木トラストという反対運動
(当時、田中知事もこの活動に参加していました)が行われましたが、
それとは本質的に違い、たぶん土地収用法も適用できない事態になる
可能性があると思います。
また、千曲川左岸の堤防強化については、昨年から国と長野市が共
同で「桜づつみモデル事業」を始めました。さらに、浅川改修は従来
計画に基づいた事業で本年から県が再開することになりました。
行政の長にとって、市民の生命と安全を守ることが最も大切な責務
であるとするなら、安全については無制限に強化をしたいと考えるの
は当然のことです。しかしそれでは経済的負担が大き過ぎますし、技
術的にも不可能と思われますので、一定のところで妥協せざるを得な
いのです。もし、可能な限りの手を尽くしたうえで災害が起きた場合
には、その復旧に全力をあげるのが、社会の仕組みでしょう。
この4年間の長野県の動きは、行政の責任を放棄し、市民の安全度
を値切っていると言えるのではないでしょうか。
脱ダム宣言も、約束した代替案の説明ができないとすれば、結果が
見えない理念だけを発信したことになり、著しい行政倫理の欠如と言
わざるを得ません。要は単なる脱ダム論者の意見の受け売りでしょう。
それに振り回されている私も含め、県民は迷惑千万のはずですが県民
の皆様はどの様にお考えでしょうか。
2004年8月12日木曜日
浅川ダムに関する長野市の意見(その1)
先日、県議会の土木住宅委員会の委員長が長野市役所へお見えに
なり、8月25日の委員会に豊野町長・小布施町長と出席し、長野
市の浅川ダムを含めた治水問題について、思いを語って欲しいとの
依頼を受けました。承諾させていただいた上で、今回はきちんとお
話するべきであろうと考え、担当課と議論する中で発言内容を決め
させていただきました。
まず、7月12日夜から13日にかけ、新潟・福島の両県で豪雨
となり、特に13日には、新潟県の栃尾市で30時間に427mm、
三条市で216mmを記録する激しい雨が降ったことは、自然の脅
威を改めて実感させられました。
長野市の年間平均降水量は940mm前後ですから、栃尾市では
30時間の間に、長野市の年間降水量の約半分が降ったことになる
わけで、これは、浅川ダム建設の際、100年に一度の確率で採用
された治水安全度の計画日雨量130mmを遙かに上回る降雨があ
ったことになります。その後、福島、福井、富山でも水害が起こり、
台風10号の影響で四国でも水害があったことが報道されています。
これらの地域での災害を対岸の火事だと傍観することはできませ
ん。長野にとっては偶然が幸いしたにすぎず、長野地域で同様な降
雨が今後予想されないと断言することはできないのです。長野市か
らも消防局が応援に向かいましたし、ボランティアの方も大勢行か
れたようです。一刻も早い復興ができることを願っております。
ここで浅川治水に関し、その歴史的経過等を踏まえた思いについ
て、申し上げたいと思います。
1.昭和40年代、県は度重なる浅川下流域の水害に対応するため、
河川改修で川幅を広げる案を提示したのですが、川幅が最大で約
81mになるということから、優良農地や家屋が大きく潰れるな
どの理由で、流域住民の了解は得られなかったようです。
2.昭和50年代に入り、県は方針を転換しました。川幅を広げる
ことによって広範な潰れ地と20~30戸の家屋移転を余儀なく
されるということから、反対が多かった当初案を改め、出水時に
洪水調節が可能なダム計画と併せた河川計画を策定しました。ダ
ム計画により新たに家屋移転が必要な一ノ瀬地区等に対し昭和51
年6月ダム建設の説明会を実施した後、同年7月31日にはダム
計画と併せた河川改修計画を策定し、「浅川改修期成同盟会」の
了承が得られました。(ここまでの経緯については、平成14年
9月に田中知事が長野市へダム建設を中止することの了解を求め
て来られた時点で、全く理解はしていなかったと思われます。)
3.昭和52年6月、計画高水流量毎秒350t(基本高水毎秒
450t、ダムカット量毎秒100t)の計画について国の認可
が得られ河川改修工事が開始されました。また、同時に進めてい
た「浅川ダム建設事業全体計画」が平成7年3月31日に建設大
臣の認可を得、浅川治水の全体像がこの時点で確定したわけです。
4.この間、「地附山地滑り災害」により通行不能になったバード
ラインの代替道路として、また、ダム建設により埋没してしまう
「県道飯綱高原浅川線」の代替としてループ橋を含む道路が建設
されたことは、オリンピックの成功につながり、その後の飯綱、
戸隠の発展につながっていると私は思います。
5.一方、ダム建設に反対する人々が主張するダムサイト(ダムを
設置する場所)が不安定だとすることに対し、安全性を確認する
ため、県では権威ある専門家10人からなる検討委員会を平成
11年に設置して検討を加えました。7回の委員会を経て意見書
が平成12年2月22日に提出されました。この意見書では、建
設予定地にはダム建設に支障となる第4紀断層は存在しないとい
うことが確認され、最終的に1人がダムを造ることに反対、9人
が安全性については問題無しと判定し、ダムサイトの土木工学的
な安全性が確定したわけです。
6.長野オリンピック(平成10年)終了後、いよいよダム建設に
取りかかることになり、県議会でダム建設予算が可決され、平成
12年9月19日ダム本体工事の契約がなされ、浅川治水が完成
するめどがたったわけです。
7.その直後、平成12年10月、田中県知事が誕生したわけです
が、知事は同年11月、浅川ダムの「一時中止」を宣言し再検討
を表明されました。さらに、平成13年2月20日、長野県議会
定例会で田中知事により「脱ダム宣言」がなされ、実質的に工事
が中止されたことになります。(浅川ダムは、工事の費用負担は
別として、長野県と長野市の共同事業です。一方の当事者と何の
話し合いも無く、中止できるのでしょうか、契約違反は勿論です
が、少なくとも良識では考えられない話です。)
8.反発した長野県議会では平成13年3月19日、「県治水・利
水ダム等検討委員会設置条例」を提案、可決され「県治水・利水
ダム等検討委員会」が設置されました。ただし、この戦略は、正
当な議論が行われると信じた県議会の失敗でした。なぜなら、そ
の委員会の委員の選任は、県知事の権限ということで、実際任命
された委員は日本の国土や歴史性、河川の特性を踏まえたうえで
治水対策をどのようにすべきかといった哲学を持たない委員、い
わゆる、ダム不要論者が多かったのです(すなわち委員会ができ
た時点で、結論は決まっていたと言わざるをえないと思います)。
9.県治水・利水ダム等検討委員会の下部組織として浅川部会が設
けられ、関係行政機関として私も参加しました。その浅川部会で
の検討の中身は、(1)ダム設置場所付近における、地質とか第
4紀断層などに関連し、ダムは安全か危険か。(2)基本高水流
量が適正か過大か。この2点が主なものでした。しかし、この浅
川部会は、私の見る限りでは建設的で実質的な議論は無く、ダム
肯定派と否定派の単なる主張の場であり、技術論は全くなされま
せんでした。長野県はこの時点で、部会からの要請に応じて資料
を提出する義務はあるはずですが、代替案を出すことと部会の結
論を誘導する立場にはないと主張するだけでした。しかし、県が
技術者としての方針を示さない限り、素人だけで責任ある議論が
できるわけはなく、両派が言い分を言い合うのみに終始してしま
いました(後になって冷静に考えてみると、ダム建設に至る過去
の県の作業内容と手順は間違ってはいないことだけは証明された
ように思います)。
10.浅川部会では13回の部会と1回の公聴会を開催しましたが、
ダム賛成派も反対派も互いに説得することができず、ダム建設に
対する意見をまとめることができないまま、出された意見の特徴
をまとめ、両論併記の報告をするにとどまりました。
11.上位組織である「県治水・利水ダム等検討委員会」では、部
会の意見報告の両論をそのまま併記しただけで、何らのコメント
も示さず、多数決で「ダム無し」を答申しました。最終的に多数
決でも仕方ないとしても、何らかの根拠を示すことが大切ではな
かったのでしょうか?
12.知事は、答申の前提とされた基本高水を下げる根拠が無いの
で、そのまま結論だけを尊重し、浅川ダムの中止を決定したとい
うことです。また、代替案はあると言いながら具体的な内容が無
い「枠組み」しか示されませんでした。こういう結果になるなら
ば、浅川部会において県が具体案を出さないと宣言した時点で、
我々は席を立つべきであったと後悔しております。また、検討委
員会での少数派だったダム肯定派も、ただ傍観すべきではなかっ
たと思います。
13.平成14年7月5日、長野県議会は田中知事不信任案を可決
しましたが、「ダムに替わる案はある」と称して、田中知事は見
事な選挙戦略で9月1日再選されました。しかし再選以降、既に
2年を経過しようとしているにもかかわらず、あると説明されて
いたダム代替案の具体案は示されていません。これは重大な選挙
公約違反(国レベルの選挙で経歴詐称により辞任を余儀なくされ
た方もいらっしゃいますが、それよりはるかに重大な公約違反だ
と私は思います)であり、流域住民は相変わらず水害の危険にさ
らされたままなのです。平成18年度(ダム完成予定年)以降に
災害が起きた場合、県知事はどのような責任をとってくれるので
しょうか?
14.以来2年弱の時間が経過しました。平成16年2月、県知事
は、県議会定例会で従来の制度に基づき認可を得ていた「全体計
画」をよりどころとして、河川改修を進めると発表しました。長
野市としては、流域の安全度が少しでも上がるという意味で河川
改修の再開は評価していますが、これはようやく正常に戻り始め
たと言うにすぎません。要は約4年間、無駄な時間と議論をして
きたということです。
15.さらに言えば、国が河川工事の再開を認可したこの方針は、
(1)新河川法に基づき河川管理者は整備計画をたてる必要があ
るが、暫くの間は既に認可した従来の全体計画に基づいて河川整
備を進めることを認める。なぜなら、整備計画が策定されるまで
何もできないということは現実的でない(洪水はいつ起きるか分
からない)。(2)河川整備を進めるに当たっては無駄な二重投
資など避けるため「大きな手戻りの無い範囲で」進めることを条
件とする。というものであり、浅川の場合は砥川と違い、建設大
臣(当時)が既に認めた旧河川法に基づく全体計画があったとい
うことが工事再開の大きな要因になりました(脱ダムの方針が認
められたわけではありません)。
16.これにより、河川改修の再開に当たっては、ダムを含めて継
続扱いとなっている全体計画の下で河川改修だけを先行して行う
ということですが、そこにこぎ着けるまでの間、市町村や県議会
が国に対して浅川の実情を訴え、交渉と要請をしてきた内容を、
まず国が理解を示し、ようやく県もそれに乗ったにすぎないこと
を是非知っていただきたいと思います。
17.一方、県の治水担当者からは、一時期、新河川法に基づく整
備計画を本年8月までに樹立して国の認可を得ると発表しました
が、どのような理由があるにせよ、他の施設管理者との間で確た
る協議もなされず、治水に係る数値等も確定していない現在、8
月中の認可申請が無理であることは、県知事の発言でも明らかで
す。結局その場限りの発言がまたもや繰り返され、問題の先送り
をしているだけだと考えます。
今週は、浅川の河川改修に向けた経緯を説明いたしました。次週
は、今後の河川整備に当たり長野市が懸念している事項や浅川治水
対策における関連事業への影響などについて、ご説明申し上げたい
と思います。
2004年8月5日木曜日
「カチューシャの唄」知音都市交流
8月1日(日)、糸魚川市で知音都市交流15周年記念事業が開
催され、松代の皆さん45名と一緒に出席させていただきました。
この都市交流は、トルストイの「復活」の劇で歌われた「カチュー
シャの唄」にちなみ、演出家、作詞家、作曲家、女優の出身地が手
を結んだ大変ユニークなもので、島根県金城町(島村抱月の生誕地)、
新潟県糸魚川市(相馬御風の生誕地)、長野県中野市(中山晋平の
生誕地)、長野県長野市(松井須磨子の生誕地)との間で交流を行っ
ているものです。
「知音(ちいん)」という言葉は、親友、知友、すなわち昔から心
を知り合った友人という意味です。この交流は、金城町の社団法人
「活性活性かなぎ」の提唱に基づき、平成2年8月2日、知音都市
実務者会議で、交流の推進を行うことが確認され、以来今日まで相
互の友好関係が築かれてきているものです。
糸魚川市では、相馬御風の記念館や住居(新潟県指定史跡)を見
学し、式典の挨拶の中で私からは松代の宣伝、特に「エコール・ド・
まつしろ」の話をさせていただきました。その後、金城町の安藤美文
町長の記念講演がありました。
金城町として知音都市交流のプロジェクトのスタートを決意し、関
係市を訪問したときの話です。長野市を訪問し、当時の塚田市長に
趣旨を話し、ぜひ賛同して欲しいと申し入れたときの返事は、「松井
須磨子は女性でございます。男性から申し込まれては断るわけには
いきません」とお答えしたそうです。私は初めて聞く話ですが、塚田
市長もしゃれた返事をされたものだと感心しました。その後、塚田
市長が松代の市議会議員であった故中島邦雄さんに、「地元議員と
してこの交流を活発にして欲しい」と依頼し、今日に至っていると
いう事です。20分ほどの短いお話でしたが、大変印象に残りました。
会場ではそれぞれの都市の物産展が開催されていましたが、松代
からは地酒やお菓子、「エコール・ド・まつしろ」のグッズ等が出品
されていました。式典のあと、それぞれの都市のお国自慢を披露す
る文化交流が行われ、松代からは、松代マンドリン研究会の演奏が
行われ、大変好評を博していました。
松井須磨子の生誕地ということで、松代がこの交流を行っていま
すが、今回は彼女のことについて、パンフレットやインターネットで
理解した範囲で触れてみたいと思います。
松井須磨子は本名小林正子、旧松代藩士族、小林藤太の末子とし
て明治19年、埴科郡清野村(現長野市松代町清野)に生まれ、千葉
県木更津の旅館に嫁ぐが離婚。帰京して演劇学校の講師と再婚。夫
の勧めで、坪内逍遥主宰の「文芸協会演劇研究所」へ第1期生とし
て入学。夫と離別後、文芸協会第1回公演「ハムレット」でオフェリア
役を好演、芸名を松井須磨子と名付け、「人形の家」のノラ役で新し
いタイプの女を演じ、脚光を浴びました。
その後、演出家の島村抱月と親しい関係となり、文芸協会を追わ
れた須磨子は、大正2年抱月と共に芸術座を興しました。翌年トル
ストイの「復活」のカチューシャ役を演じ、劇中歌「カチューシャの
唄」が大ヒットし、日本初の流行歌と言われたそうです。また、日本
初の新劇女優でもありました。
6年間で国内外の上演回数は440回にも上ったそうです。しか
し、大正7年、抱月がスペイン風邪による肺炎で亡くなった後、芸
術座の経営にあたっていましたが、大正8年抱月の後を追って芸術
倶楽部で自殺、34歳の波乱の人生を終えたということです。
この都市交流の最後は、参加された皆さんが一堂に会し、地酒を
酌み交わしながら、交流を深めました。さらに糸魚川の港では花火
大会も開催されました。皆さん、既に顔見知りの方も多いようで、
和気あいあい、素敵な交流会だったと思います。
市町村の特色づくり、まちおこしが盛んですが、建物や文化で特
色を出すのは難しい場面もあります。しかし、人を中心に据えてい
くことは、他の自治体ではなかなか真似はできないはずですから、
アイデアとしては、素晴らしいと感じました。
秋に行われる松代の「真田まつり」には、今年は各首長が参加し
て馬に乗ることを約束してくださいました。金城町の町長さんは一
番遠い島根県から、毎年来ていただいて祭りを盛り上げていただい
ていますが、今年はさらに大勢の方が来ていただけるとのことで、
本当に有り難く、この知音都市交流の意義を感じました。
全国で市町村合併が進んでいますが、このプロジェクトを最初に
提案された金城町も来年、隣接する浜田市との合併が決まっている
そうですし、他もそれぞれ進行中だそうです。合併後もこの交流が
継続されることを祈念しつつ、長野市まで帰ってきました。