** 犀朝会・NUPRIのこと **
行政のことから少し離れた話をさせていただきます。
オリンピック終了後の長野市をどうすべきか、将来をどうするか、ということについて、オリンピック前のかなり早いころから、皆さん考えていました。犀朝会(犀北館で朝飯を食べる会)と称して、朝飯を食べながら議論しました。集まった人は、JC・OBや現役、商工会議所の役員、市の職員などもいたように思います。かなり早い時期からだったと記憶しています。
オリンピック終了後、犀朝会はNUPRIという名前(Nagano Urban Policy Research Institute)に組織替えし、さらに法人格が必要ということで、「NPO法人・NUPRI」になりました。
私個人の依って立つ基盤を申し上げれば、自分の会社は別として、JC(シニア会も含む)と商工会議所でした。私は、NUPRIがJCや会議所の別働隊的な活動をすべきと創立の頃から考えていました。
(経済団体は沢山ありますが、長野県経営者協会や長野県中小企業団体中央会は、まず県の組織があって、以後各地域に支部が出来てきた組織、それとは違って、商工会議所や商工会は、各地域の組織があって、その連合体として県の組織が出来る・・・この生い立ちの違いは大変大きいものがあり、またおのずからそれぞれの組織・役目・仕事も違っておりました。ただ原則的なことをもうしあげれば“事務局”がしっかりしている組織は発展するといつも感じています。
JCもローカル・オーガニゼイション(LOM)が主体であって、県のブロック会議・地区協議会・日本JCという構造になっていました。
従って長野市独自の活動は、どうしても地域の団体・即ち商工会議所、JC等が中心になって動かしていくことが大切であることは常に感じていました。
いずれにしろ組織の中心にはきちんとした目標・理論があり、その旗のもとに多くの組織・会員が繋がっていく。国家を中心に考えるか、県を中心に考えるか、地域を中心に考えるかによって、重点の置き方が変化していくものとは思います・・・。当然のことながら、時代の流れによって人も変わりますよね。
1994年(平成4年)、犀朝会からNUPRIに移行、私にとっては大きな基盤になってきました(その後NUPRIはNPO法人になり、私が市長選に立候補するとき、勝手でしたがNUPRI所属ということで使わしてもらいました)長野の将来、即ちオリンピック後をどうするか、それが一番のテーマでした。喧々諤々色々なことを議論しました。
Mウェーブとスパイラルのことが皆の心配でもあり、感心事でもあったように記憶しています。
犀北館で、朝飯を食べながらの議論から出発し、オリンピック施設の後利用が一番のテーマだったわけですが、議論の中心的な役割を果たして下さったのは、お亡くなりになった八十二銀行の常務だった藤沢博さんだったように思います。我々の理論的支柱の役割を果たしていただきました。私の暴走を止める役目もあったのかもしれません。
私は昔から、行政の補助金を受けて行う仕事はやりたくない、と考えていたものですから、出来るだけ自分たちでやろうという精神を大切にしてきたつもりでした。(でも考えてみれば、私の生業は、公共事業への資材供給をすることが業と言っても間違いではありませんから、直接受注はしていないけれど、実質的には補助事業をさせてもらっていると言っても同じこと。“行政の世話になんてならないぞ”、と強がってみても駄目で、公共のお世話になっていることに違いはありませんでした。)
** Mウェーブのこと **
いずれにしろ資金が必要になると考え、NUPRIの会費を、具体的には何もやっていないにもかかわらず年間12万円に設定し、高いと言われても知らんふり。あまり使わないで貯め込みました。最初の仕事はMウェーブに関することで、NUPRIは、(株)Mウェーブの創立時、貯め込んだ資金から4千万円出資し、三セク経営としての体面を保ちました。
Mウェーブは、長野オリンピックで建設された最大の建物で、オリンピックではアイスアリーナということで、スピードスケート競技の屋内リンクとして使われる予定でしたが、大きすぎて後利用は難しいということで、創る前からいろいろな議論がありました。
市が設置した検討委員会(私もメンバーでした)では、長野市内には、スケート場として他にビッグハットの計画もあり、氷の施設とすれば、飯綱にボブスレー・リュージュコースもあるので、氷の施設はビッグハットにつくる予定のホッケー・フィギア会場だけで十分だという認識がありました。(フランスのアルベールビルのオリンピックでは、仮設の屋外スケートリンクだったと聞いていました)・・・。
そこへ乗り込んできたのが、当時の岡谷市長・林泰章氏でした。彼は、長野市の検討委員会の席上で、「小さなスケート場なんて、東京や関西をはじめとして、いくつもある。いまさら長野に造っても意味はない。アイスアリーナのMウェーブを何としても“氷”で残せ」・・・。当時まだMウェーブという名称すらきまっていなかった時期だったと思いますが、大変強烈な主張でした。(私はオリンピックが終わったら、この大型施設を大遊園地とか大型店あるいは馬券売り場などにしたらどうかなんてことを、気持ちの中では考えていたのですが)、審議会は、市長・県スケート連盟会長という政治家の発言の強さに圧倒され、結局Mウェーブは氷の施設として残すことになりました。
その後、私は林さんに、機会あるたびに、「あなたの所為でMウェーブは氷の施設として残ったのだ。その責任はよろしく・・・。」と話していました。その後、彼は長野県スケート連盟や全日本のスケート連盟の会長を歴任するなかで、最大限協力をして下さったと感じていますし、スケートのメッカにしようという長野市の意図は、理解されていると感じています。(ただ莫大な運営費の負担は、長野市に圧し掛かっていることは、事実ですが、長野市だけが持つ大切な施設として存在感を増していると思います)
三セクであるMウェーブの経営が黒字になったこと、長野市にとっては大きな出来事でした。自然条件で言えば長野市より北の方が、気温が低い分コストも低く、スケート場としては有利であろうことは事実だろうと思います。
オリンピック終了後、経営はNUPRIも出資した三セクに移りましたが、当初大赤字で資本金などアッと言う間に消えてしまいそうでした。私は塚田市長から経営を頼まれて、市長が会長、わたしが代表権をもった副会長でスタートしたのですが、なかなかうまくいかない。そこで経営を立て直そうということで大手術に踏み込みました。
維持費の大幅削減ということで、全国のスケート場の経営を研究して、コストを調べ、前川製作所や鹿島建設に大幅なリストラ・工夫をお願いしました。
又、当初、正規職員は“0”(全員派遣会社からの派遣)、常勤の役員も、全員他社からの出向をお願いました。給料・報酬はMウェーブの規定に基づきMウェーブから派遣会社へ支払い(安い)、派遣会社からMウェーブに派遣されていた職員・役員には、派遣会社のルールで給料を支払ってもらうことにしました。
㈱Mウェーブなる会社が、将来どうなるか、その時点で私には判断がつきかねたものですから、役員・社員を直接雇用することには自信が持てなかったのです。社長の土橋氏ですら、JTBから子会社に転籍してもらって、そこからMウェーブに派遣してもらう形式にしていただきました。
給料はMウェーブの規定に基づき、Mウェーブはその子会社へ支払う、その子会社は給料持ちでMウェーブに人を派遣するという形式でした(多分子会社の給料はMウェーブより高かったはずです)。他の役員、社員も同様の扱いでした。失礼な方式でしたが、已むおえない処置として、強引に実施させていただきました。
スケート客を増やすために、土橋社長は、営業地域を広げ熱心に活動を行ないました。小・中のスケート教室の誘致はかなり広い範囲から行いました。スケート競技“不毛の地”と言われていた長野ですが、彼の努力でようやく芽が出てきたかなと感じました。
彼は社員に対しては大変厳しかったようですが、アイデアと行動力、そしてその功績は、大きかったと私は今でも思っています。
結果、まだ行政からの補助金をもらってはいるのですが、見事に黒字経営を実現しました。当時の塚田会長さん(市長さん)が大喜びして下さったこと、記憶しています。
途中、土橋社長の不慮の事故もありましたが、その後を継いだ現在二年目の土屋龍一郎社長のもとで、全役職員の身分の正規化も行われ、職員のモラールも上り、氷のシーズン以外のイベント誘致も多くなり、会社としてしっかりとした基盤が出来はじめたと私は感じています。
** スパイラル **
犀朝会でもうひとつの心配だったボブスレー・リュージュコースのスパイラルについてですが、犀朝会で検討はしましたが難しすぎたというのが実感です。
ヨーロッパには“タクシーボブ”というのがあって、ドライバーがお客を乗せてコースを滑走し、観光用に使っているとのことで、体験して報告を下さった方もおられましたが、乗り心地があまり良くない感じで、コストもかかり過ぎ、あまり有効とは思えませんでした。氷以外のシーズンに、橇の下にゴムの車をつけたらどうかという珍案も出た記憶があります。
なにせ国内の競技人口が三桁いかない。危険がともなうので遊具とは認定されない。運営経費が莫大、特に選手が練習する場合でも、コース内に誰もいないことを確認できないとスタート出来ない等、気軽に練習ができる状況ではない・・・、と言ったことで、現在でもシーズン中の僅かな期間、連盟が苦労して維持・運営をしておられます。
長野商工会議所の北村会頭の会社で、前には越選手が金メダルを目指して頑張り、今回もソチオリンピックにスケルトンの選手二名を送ってもらっていますが・・・、人気・話題がもうひとつ上がらず上位入賞は難しかったようです。
ボブスレーはヨーロッパにおいては、氷上のF1と言われて人気がある種目とのことですが・・・、根本的に考え方等が変わって新しい使い方が可能になるか、ヨーロッパの人気が日本にも及んでくるか・・・、アジアでは唯一のコースですから、韓国のピョンチャン冬季オリンピックまでは練習用としてでも使ってもらい、何とか維持しようと考えているようですが、これこそ後利用の最大の難問かも知れません。
札幌オリンピック当時、コースの氷は全て自衛隊が人力で張っていたのを記録映画で見た記憶があります・・・。現在は自動凍結機で氷を張る施設でないと、世界ボブスレー連盟が許可しないとの話ですし、フロン・ガスが環境問題から使用禁止になり、アンモニア・ガスでなくては使えなくなったというのも、苦戦の理由の一つだったように記憶しています。