2014年4月18日金曜日

徒然の記 №23 オリンピックが終わって新しい長野がスタート (3/6)

** 犀朝会・NUPRIのこと **

行政のことから少し離れた話をさせていただきます。

オリンピック終了後の長野市をどうすべきか、将来をどうするか、ということについて、オリンピック前のかなり早いころから、皆さん考えていました。犀朝会(犀北館で朝飯を食べる会)と称して、朝飯を食べながら議論しました。集まった人は、JC・OBや現役、商工会議所の役員、市の職員などもいたように思います。かなり早い時期からだったと記憶しています。
オリンピック終了後、犀朝会はNUPRIという名前(Nagano Urban Policy Research Institute)に組織替えし、さらに法人格が必要ということで、「NPO法人・NUPRI」になりました。

私個人の依って立つ基盤を申し上げれば、自分の会社は別として、JC(シニア会も含む)と商工会議所でした。私は、NUPRIがJCや会議所の別働隊的な活動をすべきと創立の頃から考えていました。
(経済団体は沢山ありますが、長野県経営者協会や長野県中小企業団体中央会は、まず県の組織があって、以後各地域に支部が出来てきた組織、それとは違って、商工会議所や商工会は、各地域の組織があって、その連合体として県の組織が出来る・・・この生い立ちの違いは大変大きいものがあり、またおのずからそれぞれの組織・役目・仕事も違っておりました。ただ原則的なことをもうしあげれば“事務局”がしっかりしている組織は発展するといつも感じています。
JCもローカル・オーガニゼイション(LOM)が主体であって、県のブロック会議・地区協議会・日本JCという構造になっていました。

従って長野市独自の活動は、どうしても地域の団体・即ち商工会議所、JC等が中心になって動かしていくことが大切であることは常に感じていました。
いずれにしろ組織の中心にはきちんとした目標・理論があり、その旗のもとに多くの組織・会員が繋がっていく。国家を中心に考えるか、県を中心に考えるか、地域を中心に考えるかによって、重点の置き方が変化していくものとは思います・・・。当然のことながら、時代の流れによって人も変わりますよね。

1994年(平成4年)、犀朝会からNUPRIに移行、私にとっては大きな基盤になってきました(その後NUPRIはNPO法人になり、私が市長選に立候補するとき、勝手でしたがNUPRI所属ということで使わしてもらいました)長野の将来、即ちオリンピック後をどうするか、それが一番のテーマでした。喧々諤々色々なことを議論しました。
Mウェーブとスパイラルのことが皆の心配でもあり、感心事でもあったように記憶しています。

犀北館で、朝飯を食べながらの議論から出発し、オリンピック施設の後利用が一番のテーマだったわけですが、議論の中心的な役割を果たして下さったのは、お亡くなりになった八十二銀行の常務だった藤沢博さんだったように思います。我々の理論的支柱の役割を果たしていただきました。私の暴走を止める役目もあったのかもしれません。

私は昔から、行政の補助金を受けて行う仕事はやりたくない、と考えていたものですから、出来るだけ自分たちでやろうという精神を大切にしてきたつもりでした。(でも考えてみれば、私の生業は、公共事業への資材供給をすることが業と言っても間違いではありませんから、直接受注はしていないけれど、実質的には補助事業をさせてもらっていると言っても同じこと。“行政の世話になんてならないぞ”、と強がってみても駄目で、公共のお世話になっていることに違いはありませんでした。)

** Mウェーブのこと **

いずれにしろ資金が必要になると考え、NUPRIの会費を、具体的には何もやっていないにもかかわらず年間12万円に設定し、高いと言われても知らんふり。あまり使わないで貯め込みました。最初の仕事はMウェーブに関することで、NUPRIは、(株)Mウェーブの創立時、貯め込んだ資金から4千万円出資し、三セク経営としての体面を保ちました。

Mウェーブは、長野オリンピックで建設された最大の建物で、オリンピックではアイスアリーナということで、スピードスケート競技の屋内リンクとして使われる予定でしたが、大きすぎて後利用は難しいということで、創る前からいろいろな議論がありました。    
市が設置した検討委員会(私もメンバーでした)では、長野市内には、スケート場として他にビッグハットの計画もあり、氷の施設とすれば、飯綱にボブスレー・リュージュコースもあるので、氷の施設はビッグハットにつくる予定のホッケー・フィギア会場だけで十分だという認識がありました。(フランスのアルベールビルのオリンピックでは、仮設の屋外スケートリンクだったと聞いていました)・・・。

そこへ乗り込んできたのが、当時の岡谷市長・林泰章氏でした。彼は、長野市の検討委員会の席上で、「小さなスケート場なんて、東京や関西をはじめとして、いくつもある。いまさら長野に造っても意味はない。アイスアリーナのMウェーブを何としても“氷”で残せ」・・・。当時まだMウェーブという名称すらきまっていなかった時期だったと思いますが、大変強烈な主張でした。(私はオリンピックが終わったら、この大型施設を大遊園地とか大型店あるいは馬券売り場などにしたらどうかなんてことを、気持ちの中では考えていたのですが)、審議会は、市長・県スケート連盟会長という政治家の発言の強さに圧倒され、結局Mウェーブは氷の施設として残すことになりました。

その後、私は林さんに、機会あるたびに、「あなたの所為でMウェーブは氷の施設として残ったのだ。その責任はよろしく・・・。」と話していました。その後、彼は長野県スケート連盟や全日本のスケート連盟の会長を歴任するなかで、最大限協力をして下さったと感じていますし、スケートのメッカにしようという長野市の意図は、理解されていると感じています。(ただ莫大な運営費の負担は、長野市に圧し掛かっていることは、事実ですが、長野市だけが持つ大切な施設として存在感を増していると思います)

三セクであるMウェーブの経営が黒字になったこと、長野市にとっては大きな出来事でした。自然条件で言えば長野市より北の方が、気温が低い分コストも低く、スケート場としては有利であろうことは事実だろうと思います。

オリンピック終了後、経営はNUPRIも出資した三セクに移りましたが、当初大赤字で資本金などアッと言う間に消えてしまいそうでした。私は塚田市長から経営を頼まれて、市長が会長、わたしが代表権をもった副会長でスタートしたのですが、なかなかうまくいかない。そこで経営を立て直そうということで大手術に踏み込みました。

維持費の大幅削減ということで、全国のスケート場の経営を研究して、コストを調べ、前川製作所や鹿島建設に大幅なリストラ・工夫をお願いしました。
又、当初、正規職員は“0”(全員派遣会社からの派遣)、常勤の役員も、全員他社からの出向をお願いました。給料・報酬はMウェーブの規定に基づきMウェーブから派遣会社へ支払い(安い)、派遣会社からMウェーブに派遣されていた職員・役員には、派遣会社のルールで給料を支払ってもらうことにしました。

㈱Mウェーブなる会社が、将来どうなるか、その時点で私には判断がつきかねたものですから、役員・社員を直接雇用することには自信が持てなかったのです。社長の土橋氏ですら、JTBから子会社に転籍してもらって、そこからMウェーブに派遣してもらう形式にしていただきました。
給料はMウェーブの規定に基づき、Mウェーブはその子会社へ支払う、その子会社は給料持ちでMウェーブに人を派遣するという形式でした(多分子会社の給料はMウェーブより高かったはずです)。他の役員、社員も同様の扱いでした。失礼な方式でしたが、已むおえない処置として、強引に実施させていただきました。

スケート客を増やすために、土橋社長は、営業地域を広げ熱心に活動を行ないました。小・中のスケート教室の誘致はかなり広い範囲から行いました。スケート競技“不毛の地”と言われていた長野ですが、彼の努力でようやく芽が出てきたかなと感じました。
彼は社員に対しては大変厳しかったようですが、アイデアと行動力、そしてその功績は、大きかったと私は今でも思っています。

結果、まだ行政からの補助金をもらってはいるのですが、見事に黒字経営を実現しました。当時の塚田会長さん(市長さん)が大喜びして下さったこと、記憶しています。

途中、土橋社長の不慮の事故もありましたが、その後を継いだ現在二年目の土屋龍一郎社長のもとで、全役職員の身分の正規化も行われ、職員のモラールも上り、氷のシーズン以外のイベント誘致も多くなり、会社としてしっかりとした基盤が出来はじめたと私は感じています。

** スパイラル **

犀朝会でもうひとつの心配だったボブスレー・リュージュコースのスパイラルについてですが、犀朝会で検討はしましたが難しすぎたというのが実感です。
ヨーロッパには“タクシーボブ”というのがあって、ドライバーがお客を乗せてコースを滑走し、観光用に使っているとのことで、体験して報告を下さった方もおられましたが、乗り心地があまり良くない感じで、コストもかかり過ぎ、あまり有効とは思えませんでした。氷以外のシーズンに、橇の下にゴムの車をつけたらどうかという珍案も出た記憶があります。

なにせ国内の競技人口が三桁いかない。危険がともなうので遊具とは認定されない。運営経費が莫大、特に選手が練習する場合でも、コース内に誰もいないことを確認できないとスタート出来ない等、気軽に練習ができる状況ではない・・・、と言ったことで、現在でもシーズン中の僅かな期間、連盟が苦労して維持・運営をしておられます。
長野商工会議所の北村会頭の会社で、前には越選手が金メダルを目指して頑張り、今回もソチオリンピックにスケルトンの選手二名を送ってもらっていますが・・・、人気・話題がもうひとつ上がらず上位入賞は難しかったようです。

ボブスレーはヨーロッパにおいては、氷上のF1と言われて人気がある種目とのことですが・・・、根本的に考え方等が変わって新しい使い方が可能になるか、ヨーロッパの人気が日本にも及んでくるか・・・、アジアでは唯一のコースですから、韓国のピョンチャン冬季オリンピックまでは練習用としてでも使ってもらい、何とか維持しようと考えているようですが、これこそ後利用の最大の難問かも知れません。

札幌オリンピック当時、コースの氷は全て自衛隊が人力で張っていたのを記録映画で見た記憶があります・・・。現在は自動凍結機で氷を張る施設でないと、世界ボブスレー連盟が許可しないとの話ですし、フロン・ガスが環境問題から使用禁止になり、アンモニア・ガスでなくては使えなくなったというのも、苦戦の理由の一つだったように記憶しています。

2014年4月11日金曜日

徒然の記 №22 オリンピックが終わって新しい長野がスタート (2/6)

** 地方自治(地方分権一括法) **

2000年以降、地方自治体にとっては大きな制度変更があり、市独自の取り組みが増えてきているように思いますが、論理的には2004年に成立した、「地方分権一括法」が、地方、特に市町村にとって大きな可能性を秘めた法律だと思っています。
この法律は、市長メルマガでも書きましたけれど、国の機関委任事務制度が廃止され、一方で自治体が行う事務は自治事務と法定受託事務に再編成されたものです。

従来地方は、国が法律にもとづいて行う事務を地方はきちんと行うことが義務でしたから、地方独自の工夫は原則なかったと言うことでしょう。はっきり言えば、地方行政組織は、原則としてすべて国の定めたことを正確に行うことだったと感じていますし、それはいまだに続いているものが多々あり、これが「法定受託事務」ということでしょう。
それとは違う「自治事務」ということが明記されたということは、自分の都市の裁量で事業をやってもよろしいということになったわけで、市町村の自己決定権が大きく拡大したことになると感じています。

地方と言っても、「県」は政策官庁としての事務事業がかなりあったようで、職員は過去からそれなりに鍛えられていたようですが、市町村職員は政策を独自に造り上げていく訓練をあまりしていませんでしたから、言われたことを正確に実行することのみ(即ち法定受託事務を行う)が期待されていたのだと私は感じています。

オリンピックを前にして、NAOCという組織が出来ました。この組織はオリンピックをやるためにつくられた組織で、国・県・市、そして民間からも、多くの役員・職員が集まってきて創設された組織、即ち一種の集合体でしたから、次にやってくるのであろう本当の意味での“地方の時代”を考えたとき、先駆的で一種の実験装置の役割を果たしていたのではないか・・・、自ら工夫して行っていく事務事業というのは、まずなかったはずの市町村職員が、集合体の組織に入って大いに鍛えてもらったということかもしれません。よせ集めの集団(NAOC)組織の中で、市町村職員は苦労したでしょうが、又凄く鍛えられたはずで、特に政策への取り組みについてはかなり成長したはずと私は感じています。

NAOCという組織は、JOCが中心になって出来た「組織委員会」が上部構造で、県・市町村・民間などがつくる実行委員会が下部構造となっており、二重構造の組織になっていました。組織委員会会長は斎藤英四郎さん(新日鉄会長)、事務総長は小林実さん、実行委員会は確か吉村知事さんだったと記憶しています。私は実行委員会の委員に任命されていたように記憶しています。
実行委員会は、実働部隊として、オリンピックを成功させようという一点だけが目標で、特にマニュアルなどは無く、自分達のアイデアを打ち出して仕事をしていたように記憶しています。即ち、新しい組織ですから自らの工夫によって仕事に取り組むことが必要で、且つそれが可能だったということです。

しつこいようですが、「地方分権一括法」の成立のよって、法定受託事務は今まで通り、国が定めたことをやるのでしょうが、自治事務というのは、地方が主体的に行う事務ということになったわけですから、決まった通りの事務事業をやるだけでなく、何をやるか、自分達で考えることが、必要になったはずです。

例えば、職員の給料や組織などは国が決めた通りに行うことだったのが、地方事務になったことで地方独自に決めて良いということですから、人事院勧告はあっても論理的には、無視して独自に決めてもかまわない(多分労働組合の話し合いは必要とは思いますが)と、私は思っています。対立が発生し、混乱はするでしょうがね・・・。

さらに、そこまでやるなら、市長なんて必要ないから、市長制度を廃止したらどうか・・・でもそういうことについては、一括法とは別に地方自治法や公職選挙法というのがあって、そちらの決めごとがあって、駄目なようですが・・・、まあ、矛盾していますし、中途半端な改正ではありますが、徐々に地方の自主性が発揮出来るようになるはずと私は信じています。

アメリカに、サンデースプリングスという10万人ぐらい(?)の市がありますが、そこの行政職員は市長を含めて数人しかいないという極端な例について、現役時代にお話ししたことがあります。全てが自治事務という法律が成立したとすれば、論理的には、市民の合意があれば、制度なんてどうにでもできるのではないか、そんなことを考えたことがありました。長野市長選では、たった一人の市長を選ぶために、市の予算ですが約8千万円もかかる(これは事実です)。先日終わった東京都知事選や大阪市長選は、何十億もかかるという報道に接するたびに、もったいないなあ!本当の行政改革とは、民主主義とは・・・、なんだろうかと考えてしまいます。おまけに、今のは公費だけの話しですが、選挙のために個人や政党などが使う資金は、又別に必要になるはずですから・・・、しかも猪瀬都知事の選挙資金問題とか、最近話題になっているみんなの党の渡辺党首の資金問題・・・、誤魔化すためにいろいろなことを仰っていますが、変な話が多いですよね・・・。汚職とまではいかないのかも知れませんが・・・、政治の世界における「金」と「女」の問題については(こういう表現は差別用語だと言われる可能性がありますが)、法律はとにあれ、政治の世界では絶対に許せないテーマでしょう。選挙に出る人は、清廉潔白でなくてはならない・・・。第二部の舵取り通信を読んでいたら、「井土塀・政治家」のことを、私は書いていました・・・。

長野市が中核市に昇格したのは、多分平成14年だったと記憶しています。中核市になって何が変わったのか。目に見えるものとすれば、県の権限であった保健所について、中核市の長野市に設置することが可能になった結果、市民の保健需要に素早く対応できるようになったことは事実ですが、ただ私は、都市計画の権限、道路などをつくる権限、義務教育の先生の人事権、高等教育施設の認可権、等々、市町村に欲しい権限は他にも沢山ありそうで、市町村に任せてもらった方が随分効率的だろうなあ、ただし、財政の権限と職員(市長も含めて)の能力もついてこなければ・・・駄目でしょうがね。

加えて民主主義とは、その国の国民のレベル以上の政府は出来ないことも残念ながら事実だと、これはJCの時代からいつもそんな議論をしていましたけれど、国だけでなく、地方政府でも同じことでしょう。

私は、指定市と中核市の間の垣根をもっと下げて欲しいという要望を国へ出していました。指定市の権限は、県の権限と同等ということですから、市にとってはかなり大きなことで自由度は上がりますよね。

地方自治の制度は、原則として、人口の多さによって制度が決まっているようで、多い順に幾つかの区分になっていて・・・「指定都市」・「中核市」・「特例市」・「普通市」。さらに、その下に、町・村があり、それぞれ権限が違うのですが、中核市が今後中心的な存在になると言われています。
ただ、かなりいい加減な部分があり、北海道の昔の産炭地などでは、数千人の「市」がありますし、私の息子が住んでいる愛知県の東郷「町」は、十万人以上の人口なのに、「町」だそうです。“町”の方が“市”より何かメリットがあるのかよくわかりませんが、一旦、「市」に昇格すると、人口が減っても降格(?)するルールはないようですし、逆の場合もあって、さらに現在話題の道州制も含めて、地方制度、都市制度は、長い目でみれば固定したものではないのではないかと思います
地方都市の持つ自由度が増えて独自性が出てくる、そのときどんな姿を、あるいは夢を描くのか楽しみですよね。

2014年4月4日金曜日

徒然の記 №21 オリンピックが終わって新しい長野がスタート (1/6)

** 序文 **

世紀の祭典オリンピックが終わって、長野市にとっては一つの区切りがついたことは事実だったのでしょう。大きな節目を越えて、長野市は新しい時代を迎えたのだと思います。
ただ、世間は、区切りがついたということには関係なく、市民生活、企業活動、行政活動・・・・営みは、オリンピックに対する賞賛の声や、辛口の意見も多少はありましたが、普通の生活・活動が淡々と続いていくこと、至極当たり前のことでした・・・私には何か心の中に、空洞みたいなモノが生まれていました。同時にこれからの行く末について、宴の後と、平成大不況が重なった故でしょうか、必ずしも自信が湧いてはきませんでした。

私のメルマガも一つの区切りだったかもしれません。今まで、幾つかのテーマについて、私の経験してきたことを正直に、書いてきたつもりでした。でも読み返してみると、市長時代のメルマガも含めて、何でこんなことを書いたのだろうか・・・、自己顕示欲だったのだろうか、ただ公の為に私が努力してきたこと、あるいは私しか知らないことが、歴史の彼方に忘れ去られてしまう・・・それが怖かったのでしょう。

文章を書くことが一種の癖になってしまっているからでしょう、書かないと人間がどんどん馬鹿になりそうで・・・、まあ過去の市役所のHPとは関係ないわけですから、これからは違う形(個人的、あるいは会社の相談役の立場)で、文章を残していきたいと考えています。

今までは、公に近い出来事が多かったせいか、多岐にわたるテーマを歴史の証人として、経験してきたことを残さなくてはならない。そんな義務のようなものを感じて書いていました。ですから私的なことを書くことは極力避けてきたつもりでした。
結果として、前後が入り組んではいますが、なるべく編年体に近い形、即ち古いことから順を追って書いてきたつもりです・・・。ただ記憶力があやふやな事柄も多くなってきたようで、少しいい加減に書いた方がよさそうだなあなんて、感じています。

今後はオリンピック終了後の社会の動きなど(必ずしも長野市のことだけではありませんが、そうは言っても長野で生まれ育った私ですから、長野のことが中心になることは仕方ないとは思いますが)、あまり年代やテーマの区別をつけずに、思い出すままに、私的な随筆風に書いてまいります。

尚、私の市長時代のメルマガについては、平成14年4月から約12年間、市役所のサーバーから発信した公式に近いメルマガです。それを舵取り応援団の名前で「舵取り通信」として配本させていただきました・・・。あらためて書いても、かぶってしまうことが多くてご迷惑でしょうから、皆様には出来たらそちらを読んでいただきたく、市長退任後に書き始めたメルマガですが、市長就任前の部分が“第一部”、市長時代12年間のメルマガを“第二部”として読んでいただければ幸いです。
第三部は第一部がほぼ終わりましたので、この次の号あたりから書いてまいります。

(尚、第二部の「舵取り通信」を、私はあらためて読み直しているのですが、12年間、自分で書いたはずの文章ですが、なかなか良く書けているではないかと多少自惚れています。当時市役所の職員が毎週チェックしていましたから、内容的に間違ってはいないと断言できますが、私のアイデイアで勝手に書いたもので、未だに実現出来そうもないことなどもあり、市長メルマガというには不適切と思われる文章もありますが、行政のチェックをすりぬけてしまって文章ということで御理解願い・・・、まあこれからはアイデイアの必要な時代なんだということでお許し下さい。