2014年6月19日木曜日

徒然の記 №28 市長退任とその後について


【空白の12年間】

   さて、11月11日、加藤市長との引き継ぎ式で、引き継ぎ書(これは行政マンが作ってくれた書類で、形式的には重要なものだそうです)にサインして、晴れて自由の身になったのですが、個人的には、こんなはずではなかったという感じがあって、かなり厳しい状況があります。

 それは市長時代の12年間が、個人生活、あるいは従来からの企業生活にとっては、一種の空白期間になってしまい、市長時代だけでなく、その前の会社の社長時代とも、あまりにも違いすぎるために、次のステージに私自身が対応出来ない。言って見れば、社会復帰がなかなか出来ないということでしょうか。

 まあ自分で言うのもおこがましいのですが、それだけ熱心に長野市のことを考え、行動してきたということだ、と自分を慰めています。ひところ女房に言われました「あなたは市政のことは、一生懸命だけれど、他に話題は無いの?もっと色々なことに興味を示しなさいよ」と言われたこと、今になって考えさせられています。

 任期中の功績に対して表彰していただきましたこと、若干忸怩たる思いはあるのですが・・・長野県土地改良事業団、長野県スポーツ振興財団等です。そう言えば長野市の長野平土地改良区からも、表彰状と記念品を頂きました。市長職の当て職みたいなものですからあらためて表彰していただくのは、若干違和感がありました。
  そう言えば、長野県市長会からも、花束をいただきましたし、全国市長会からも「永年勤続功労賞」なるものも、送って頂きました・・・。

 最近になって、県知事表彰、県の水源林造林協議会からも、表彰していただきました。市のスポーツ振興表彰もいただきました。

   行政から離れたのですから、当然、長野県市町村共済組合からも脱退しました。そのため、健康保険証がなくなってしまいましたので、息子と話し合って、炭平の相談役に就任し、社会保険に入れてもらいました。

   今年は炭平400年祭ということで、4月12日の式典からはじまって、秋までいろいろな記念行事を行います。相談役としてやるべきことが、何かありそうです。

   相談役とは、どう振る舞うべきか、戸惑っていることは事実です。市長の職務から会社の相談役に就任しての職務は、前述の通り、その落差が大きすぎて困っています。社員の顔と名前、仕事内容が一致しないだけでなく、社外の皆さんとのお付き合いもかなり違っており戸惑っていて、社会復帰するまでには時間がかかりそうで、12年間の空白は、まさに浦島太郎の心境です。まあ、企業の社会的イメージを高めることに貢献出来れば、合わせて、前市長として長野市のイメージアップに少しでも貢献できれば・・・これに優る幸せはありません。

会社のシステム、特にコンピューターシステムについてはなかなか理解できず、相談役室隣の電算室で、常時、相談して教えてもらっている状況で、迷惑をかけています。

   体調が狂ってしまい、市民病院のお世話になる回数が増えてしまいました。市長を辞めたから体調が狂ったわけではなく、院長の診断によると、数年前からの症状のようで、市長の間は、特に意識はありませんでしたが、市の職員にカバーしてもらっていて、外には見せなかったということでしょうか。あまりにも急激な環境の変化に、身体がついていけなかったということでしょうか。自己責任ですが、運動不足が大きな要因のようです・・・。

 負け惜しみみたいな言い分ではありますが、4期目に挑戦して仮に当選したとしても、もしかすれば皆の足手まといになってしまったかもしれないと考えますと、辞めどきとしては、適切だったなあと感じています。

 辞めてみて、緊張感が薄れてしまい、戸惑うだけでなく、精神的に緩んでしまった故でしょうか・・・決まった時刻に出社(登庁)し、仕事に取り組むこと(即ち規則正しい生活をすること)は、人間にとって重要だなあと痛感しています。

    少し前の文芸春秋を読んでいたら、高齢の役員が会社にしがみついてなかなか辞めない、その理由は ①個室が無くなる ②秘書がいなくなる ③足(車)がなくなる、の三つが理由だと書いてありました。相談役という役職についてみて、その心境がよくわかるようになりました。

 実際上、不便を感じているのは③です、車の運転を止められたことです。

「リハビリのつもりで、運転すべきだ」と言う方もいらっしゃいますし、「俺は80歳を過ぎても運転している、70代前半のお前は、なんだ!」とお叱りをうけることもありますが・・・社内的にはみんな大反対、息子からは「車は買ってやらない、タクシーで全てやれ」と言われており、“楽は楽です”が・・・不便で困っています。

    ただ私は、自分で運転していて事故でも起こしたら・・・実は具体的な話しですが、昨年二回、脳震とうをおこしてしまいました。スキー滑走中の出来事で、自分ではあまり、他人に影響は与えていないと思っていたのですが、考えてみると、転倒した前・後のことを全く記憶していないことに、ショックを受けています。ヘルメットが壊れるほどの衝撃があったはずですから、なんとも不思議なのです。

    特に転倒“前”のことが記憶にないのは何故でしょうか?・・・院長にお聞きすると、それは脳震とうの場合ありうる話で、不思議では無いと言われてしまいました。(長野日赤の脳外科の先生と同席したときも、それはあり得る話しですといわれました)何とも不思議なのですが・・・

でも、もし車を運転中にそんなことが起きていたら、他人に迷惑をかけることになりますから、自分で運転するのは疑問だなあ・・・と感じています。

 
    私は、市長在任中12年間、昼間は公用車、夜、宴会等で遅くなればタクシーで行動しており、社長時代の後半・最後の約10年間も、昼間は運転手つきの社有車でしたから・・・偶に市内を、女房の車でデパート等まで運転したことはありますが、まあ約20年間は、自分できちんとした運転をしていませんでしたから・・・皆が心配するのも無理はないなあと思いながら・・・「でも俺は免許証があるんだよ」と主張し、今の社会で車がないことは、不便だと感じていることは事実なのですが・・・、危機管理の面からも、「転ばぬ先の杖、やめるべきだ」ということに軍配は上がりそうです。