古いことから新しいことへ・・・・段々に書くことがわかりやすいはずと信じていました・・・・でも一気に書くわけではなく、継ぎ足し、継ぎ足し、していく間に、入り組んでしまって、又同じことを書いてしまったり・・・
【市長職退任までの経緯】
11月10日は任期満了日、ただ11月9日は土曜日、10日は日曜日でしたので、役所は休み、退任式は11月8日に行っていただきました、偶然ですが私の73歳の誕生日でした。退任祝いと誕生祝いの一致、多くの皆さんに集まっていただきました。
これも運命のいたずらかもしれませんが・・・私の運ですよね。
議場で、市議会議員や幹部職員の皆さんに、長いこと支えていただいたことへの感謝と退任挨拶をさせていただき、一階のフロアに降りましたら、大勢の関係者、そして市民の皆さんが集まって下さっていてごった返していました。持ち切れないほどの花束を沢山いただき、声をかけていただき、女房と二人、皆さんがつくって下さったアーチの下をくぐって・・・感謝しながら車に乗り込みました。
たまたま市役所の建物は、市役所第一庁舎、市民会館の工事がはじまった関係で、歓送会を開催する場所としては手狭であり、相応しくはなかったようで、市民の皆さんにも、ご迷惑をかけたようですが・・・その分、近くで皆さんと握手したり、ハイタッチしたり・・・とても親しみの湧く歓送会だったと感謝しています。笑顔で送り出していただいたこと、嬉しいことでした。
退任までの経緯については、書くのをやめておこうかと何度も迷ったのですが、若干触れさせていただくことにしました。私はメルマガ上でなるべく正直に、全てを明らかにすべきと考えてきましたので、この件だけを話さないということは正直ではないと思い、辞任して数カ月経ちましたので、ほとぼりも冷めたこの時期、この時点で、経緯を明らかにさせていただきます。
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私は以前から、首長の任期は三期までだなと考えていました。理由はいろいろですが、先輩の首長さん方を見ていて感じたことが一番であり、自分の年齢のこともありました。ある方から言われたことですが、今回は絶対に当選するはずなのに、なぜ辞めるのか?・・・
でも絶対はないでしょう、現に三期目の選挙は苦戦でしたし、開票中に、負けた場合の挨拶を考えていたことも事実でした。
○ なにより、選挙に負けて、辞めざるをえなくなることは絶対にいやでした。
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年をとって何時までも公職にしがみついている印象を、世間に与えることも嫌でした。辞める時は“さわやかに”“惜しまれて”辞めたい!・・・私の美学でした。
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そうは言っても・・・という部分は正直ありました。私の辞めた後の次の市長さんが、私のやってきたことを、根本的にひっくりかえされてしまうのは、悲しいし、私は何をやってきたのだろうか、と考えてしまいそうです。それだけは何としても避けたい、それにはある程度、考え方の理解できる人になってほしいなあ。
私の考えていたことは、精々その4点ぐらいです。意志表示が遅いという批判は、申し訳ないと思いながらも、レーム・ダックにはなりたくない、という昨年からの言動やメルマガの内容で、理解されているはずと思っていました。そして加藤市長が立候補の意志を表明されたとき、正直ホッとしたことは事実でした。付け加えれば、意志表示は加藤さんにとっても、絶妙のタイミングだったと思います。
加藤市長とは、小・中・高・大と全て同じ道を歩き、年齢は私が少し上で すが、生まれた家も善光寺の東と西、商売も全て同じではありませんが、似た部分がかなりありました。私の父は早死でしたが、市長のお父さんとは長野商業の同期生、親しい仲だったようです。
要は私からみれば、失礼ですが、考え方はよくわかる方でした。
ただそんなことを、選挙前に発言すると、あるいは応援演説をすることも含めて、特定の候補を応援することになりますし、私に対する反感が加藤氏に乗りうつる可能性もあると考え、遠慮させていただきました。(故夏目忠雄元市長さんに言わせると、市長職なんて、毎日毎日、人の反感を買っているようなもので、三期目の選挙ともなるとその反感は積もり積もって、頂点に達するのだよと言われていました。時代は違いますが、人心の一新は、必要なことなのだと痛感しています)
塚田前市長さんから私につなげていただいた時に比べると、私は随分我儘だったかなあと感じていますが、選挙中「加藤氏は大丈夫」という情報もありましたので、安心して応援については一切触れませんでした。まあ彼が無事当選され、堂々と市政に取り組まれている姿は、良かったなあと思っています。
以上が市長選の経緯です。