本年4月1日から、長野市の副市長を務めています黒田和彦です。
小学生の頃から、音楽と国語(特に作文)が苦手でした。長じて、
音楽嫌いはカラオケ好きに変わりましたが、作文嫌いは相変わらず
です。メールマガジンの執筆を通じて好きになれば良いのですが・
・・。努力していきます。
さて、今の長野市は、平成27年の「新幹線金沢延伸」と「善光
寺御開帳」に向けて勢いよく、前に向かって動いています。その方
向性を見誤らず、また、その動きを加速させるためにも、共に就任
した樋口博副市長と協力し、しっかりと市政の一翼を担っていきま
す。
私が長野市に期待しているのは、「気は優しくて力持ちな都市」
です。
全ての市民が安心して暮らすことができる、若者からも、高齢者
からも選ばれる「気が優しい」まちと、地域にたくましい活力があ
る「力持ち」なまち。この2つを目指していくことで、長野市の将
来の姿が見えてくると考えています。「地域力」とは、この2つを
バランスよく両立させてこそ生まれます。また、行政の目的は、こ
の2つに収れんすると言ってよいでしょう。しかし、他の都市と同
じことをやっていたのでは、いわゆる「金太郎あめ」になってしま
い、魅力も特色も生まれません。長野市独自の知恵と工夫を、市民
の皆さんと共に考えていくことが必要です。
安心して暮らすことができる、誰からも選ばれるまちという点で、
公共交通の利便性向上は欠くことのできない課題の1つです。平成
24年3月末をもって廃止となった長野電鉄屋代線は、代替バス運
行への順調な移行ができたと感じています。
一方、廃止に伴う諸課題のほか、新交通システムの導入、新幹線
並行在来線、高齢者の買い物や通院など高齢社会に欠かせないバス
路線を含めた地域公共交通の在り方など、課題は多くあります。
いずれの課題も、すでに検討・研究は始めていますが、現在、長
野県で策定している総合交通ビジョンとの整合や連携に配慮しなが
ら、喫緊に取り組むべき課題として考えています。
また、長野県では現在、県短期大学を4年制大学にすることを目
指して検討が行われています。若者から選ばれるまちを目指すため
に、まずは若者に住んでもらい、愛着を持ってもらう。新しい長野
市の顔として、また活力の源づくりとしての意味合いが大きい出来
事であると注視しているところです。
次に、地域にたくましい活力があるという点です。冒頭で述べま
したように、平成27年という年は、長野市が「変わる」一つのタ
ーニングポイントになります。本堂が国宝に指定されている善光寺
の御開帳が開催されるため、それに向けて長野駅から中央通りを経
て善光寺に通ずる善光寺表参道の整備が重要になります。新幹線の
金沢延伸により、新たなお客さまを迎えるJR長野駅ビルと長野駅
善光寺口駅前広場は、JR東日本や地域の皆さんと協力して整備を
進めていかなくてはなりません。また、中央通りの歩行者優先道路
化も着実に進め、再び歩きたくなるまちを目指します。もちろん、
このようなハード面の整備だけでなく、商店街をはじめ関係する皆
さんの「おもてなしの心」など、ソフト面での取り組みも必要なこ
とは言うまでもありません。
金沢まで延伸する新幹線は、首都圏から、北陸から、さらには海
外からも「人」を運んできます。故に、それらの人に長野市に来て
いただくための動機付けが課題になります。そこで、この節目をま
ちづくりの大きなターニングポイントとして捉え、先ほど述べた善
光寺表参道の整備に加えて、これまで盛んに議論されてきている権
堂の活性化についても進めていきたいと考えています。さらに、長
野駅東口については、広域観光の拠点として、大型バス交通網のハ
ブ機能を持たせることもテーマです。そして、地域ぐるみでお客さ
まをお迎えすることが期待されます。
また、サッカーでは、AC長野パルセイロがJFL(日本フット
ボールリーグ)の上位で活躍しています。そのホームグラウンドで
ある南長野運動公園総合球技場の整備も大変重要です。スポーツに
は地域を一体化させる力があります。戦後の占領軍による、日本軟
化政策とされる「3S政策」の一翼である「Sport」が、皮肉
にも日本の地域の一体性を育てる結果となっています。
活力を生むエンジンは、観光だけではありません。長野冬季オリ
ンピック後に減少したビジネスオフィスを、もう一度長野市に呼び
込むことも必要です。長野市は、新幹線の延伸により金沢とは1時
間強で結ばれます。また、首都圏とはすでに1時間半ほどで結ばれ
ており、新潟とも高速道路で短時間の距離にあるため、まさに高速
交通網のハブ的な位置にあるといえます。このことはビジネス面に
とっても魅力です。このメリットをオフィスや工場の立地に生かす
ことが、「力持ち」の長野市をつくる大きな柱になります。
この仕事は、派手さがない、効果が表れるまでに時間がかかる地
道なものですが、将来にわたって地域力を高めていくために力を尽
くしたいと考えています。そして、豊かで質の高い人生を送れる元
気なまちとして、全ての年齢層から選ばれるまちを目指していきま
す。
2012年7月26日木曜日
県都長野市の副市長として
2012年7月19日木曜日
副市長メールマガジンを始めます
4月から、副市長二人制を採用したことは、既に多くの皆さんが
ご存じのことでしょう。
4カ月目に入っていますが、今のところ評判は上々のようです。
そこで私と副市長の3人で話し合って、長野市メールマガジンの中
で副市長メールマガジンを始めることにしました。
どんな形で配信するか意見交換をした結果、当面は、2人の副市
長が月替わりで執筆し、毎月最終木曜日に交互に配信することにな
りました。まずは7月26日(木)に黒田副市長、続いて8月30
日(木)に樋口副市長のメールマガジンを配信する予定です。従っ
て、毎月最終木曜日は、私のメールマガジン「かじとり通信」はお
休みさせていただきます。
副市長メールマガジンを増やしていくかどうかは、スタートして
から決めたいと思っていますが、少なくても毎月1回は配信したい
と考えています。
もう一つ、これは私の宣言ですが、「市長のメールマガジンは、
どうも長くていけない」という声にお応えして、これからは従来の
半分以下の長さにします。
私の性格のせいか、どうも説明が多くなり過ぎるようです。メー
ルマガジンを始めた当時は、小泉純一郎元首相のメールマガジンが
話題になっていたころで、小泉元首相の「ワンフレーズ・ポリティ
クス」が理想なのですが、あれは頭が良くないとできないですね。
ワンフレーズで言いたいことを表し、それが相手に伝わらないとい
けないわけですから、凡人には難しい・・・。どうしても、説明調
になってしまうのです。ともあれ、短い文章にするように訓練をし
ます。
話は変わりますが、先月の6月市議会定例会で、「国旗と市旗が、
各支所に掲揚されているか」とのご質問がありました。調べたとこ
ろ、そもそも掲揚台のない支所がありました。うかつでした。そこ
で直ちに、国旗と市旗を掲揚する場を設けました。ちなみに市長室
には、今年2月から掲揚しています。その他の場所についても、適
宜考えていく予定です。
また、小学校で国歌、県歌、市歌を教えているかどうかを教育委
員会に確認したいと思っています。
また、少し前から検討していることですが、市職員が消防団活動
を経験することを義務化したい。義務化とまではいかなくても、研
修として一定期間参加させることとか、勤務評定に反映させること
ができないかと考えています。消防団員は崇高なボランティア精神
に基づいて、なりわいを持つ傍ら、住民の生命・財産を守る使命が
あり、市職員は必ず経験すべきだと考えています。一定の年齢以上
の職員は免除するとして、市職員である以上は、最低1年間は経験
すべきだと考えています。
今回は早速メールマガジンを短くしてみました。これまでは、私
の考え、市政の近況、そして市内各地の出来事などを皆さんにしっ
かりお伝えしたいと思うあまり、それなりに読み応えのあるメール
マガジンになっていたと思います。今回執筆してみて、ちょっと物
足りない気もしますが、忙しい皆さんに読んでいただくには、ちょ
うど良い長さなのではないかとも思っています。
簡潔で、そして分かりやすいメールマガジンとなるよう頑張りま
す。
2012年7月12日木曜日
三たび中谷巌さんに学ぶ~近代人が忘れた「贈与の精神」
前回のかじとり通信は、「山本七平さんに学ぶ」でしたが、今回
は「中谷巌さんに学ぶ」です。中谷さんの本の示唆に富んだ考えは、
これまでもかじとり通信で紹介していますし、中谷さんの本を読む
たびに、「なるほど」とうなずいてしまうことが多いのです。
今回紹介するのは、「資本主義以後の世界」(徳間書店)の一文
です。本年3月15日付けのかじとり通信でも触れましたが、今回
はもう少し踏み込んで紹介したいと思います。
「われわれはどうやら『贈与』の精神を忘れていたらしい。われ
われの日常生活はあまりにも『交換』という考え方に偏っていた。
いや、『汚染』されていたといったほうがよいかもしれない。『交
換』には必ず見返りが必要である。なにかをしてもらったならば、
それと等価の交換物で返す。これが(略)近代社会の常識である。
(略)
市場における取引というのはそのような交換の思想の上に成り立
っているのだ。実際、品物を受け取って代金を支払わない人は罪人
になる。(略)
歴史を振り返るならば、人類は『交換』に加えて『贈与』という
行為を取り入れることで人間同士の結びつきを確認し、『社会』を
形成していたのである。功利主義的な『交換』だけでは、人間が互
いに依存し合うことができる『社会』が形成されず、人間はアトム
化し、孤立してしまうからである。(略)
近代以前の人間は、人間が一人では生きていけないことをよく知
っていた。だから、『贈与』という行為を通じて人と人とのつなが
りを生み出す『社会』もしくは『共同体』をつくり上げ、そのうえ
に独自の文化をつくり上げてきた。現代人は『贈与』の精神を忘れ、
市場を通じた『交換』こそが人間を幸せにすると錯覚したのである。
だから『社会』が荒廃し、文化が廃れていく。それは、『贈与』を
忘れ、『交換』だけで世の中が運営できると錯覚したためであった。
新自由主義とは、『可能なかぎり市場で取引できる商品の範囲を
拡大し、そこで実現される資源配分を尊重すべきだ』というイデオ
ロギーである。そのため、できるだけ政府の介入を避け(小さな政
府)、規制を撤廃し、市場における『交換』こそが人間活動の中心
になるべきだというのである。」
そしてその結果、「経済学あるいは社会科学の正流から長く無視
された『偉大な』社会科学者」といわれるカール・ポランニーが
「商品にしてはいけない」と指摘した3つのこと、すなわち「お金」
「土地」「人(労働)」を商品にしてしまったのではないのでしょ
うか・・・。
中谷さんの言われる「贈与」とは、言葉を変えれば「寄付」と同
じことだと私は理解しています。しかし、「贈与」だけでは社会が
成り立たないことは、当たり前のことです。「贈与」は、「贈る人
の善意・余裕」と「受ける人の善意・感謝」が原点です。
「交換」「贈与(寄付)」「投資」「補助金・交付金」「貸付金」
「借入金」・・・。それぞれ関係があるようでないような言葉を並
べてみましたが、よく考えてみますと、こうした言葉の中にも、行
政と民間では発想が180度違うものがあります。たとえば「借入
金」について普通に考えれば、紛れもなく「借金」です。しかし行
政では、借金ではなく歳入になるのです。いずれ、私の考えを詳し
くかじとり通信に書いてみたいと思っています。
また、私は「慈善」という言葉も、本来の意味が失われてしまっ
た言葉ではないかと感じています。「慈善」も贈与と同様、人間社
会の最も重要な要素です。しかし、福祉についていえば、「慈善」
をなくしてしまった「権利としての福祉」といった言葉を最近耳に
する機会が多くなりました。給付金などをもらうことが当たり前に
なって、感謝の気持ちをなくしてしまった・・・そんな論調です。
そして、給付する側も「義務としての福祉」になりつつある・・・。
こうしたことが表面化する社会に危機感を感じます。中谷さんの
「交換と贈与」の話に似ています。
最近、不正受給が大きな問題になっている生活保護制度も、慈善
という精神が残されていれば、こんなことにはならなかったはずで
す。有名芸能人の話題が取りざたされていますが、こうした報道に
よって生活保護を受けている人の全てが同一視されることは非常に
危険なことだと感じています。また、受給要件に該当していても、
受給せずに努力している人がたくさんいることも忘れてはいけませ
ん。しかしながら、近年の厳しい経済状況などを反映し、受給申請
者がうなぎ上りに増えていることも事実です。受給者の中には、制
度の根底にある精神の部分が抜け落ちて、権利だけが一人歩きして
しまったがために、権利なのだからもらわなければ損だと誤解して
いる人がいるのかもしれません。果たしてそれが正当な申請である
のか。また、いったん認められた受給資格を継続するのかしないの
か。調査に当たる自治体職員も増員せざるを得ない状況です。現在、
長野市でも担当職員(ケースワーカー)1人が受け持つ受給世帯は
国が示す標準世帯数である80を超え、それらの調査に大変苦労を
しています。
生活保護費が、年金受給額を上回る。また、都道府県によっては、
最低賃金額から社会保険料などを差し引いた労働者の手取り金額よ
りも多いといった逆転現象があることも問題を複雑にしています。
もう一度互いに支え合う社会の原点に戻り、例えば働くことができ
る人が受給する生活保護費は、最低年金額以下とするなど、社会の
セーフティーネットである生活保護制度の在り方を考え直す必要が
あると思っています。
生活保護費を支給することは、当然のことながら行政にとって大
切な仕事ですが、それ以上に、生活の安定を図る中で自立に向けた
支援をしていくことが重要となります。それには、受給者自身の意
欲と努力が必要です。本人に自立する意欲、努力がどの程度あるの
か。そして行政は、それを手助けする具体的な手段を持っているの
か。多くの課題があります。
私は、一つの提案をしたい。生活保護の受給者に仕事をしてもら
い、その対価を支払う制度の採用です。もちろん、高齢や障害など
で働けない人には配慮が必要です。
行政は、若くて働く意欲がある失業中の人に、働く場を用意する
必要があります。昔、といっても戦後のことですが、行政直営の土
木工事(私の記憶では道路工事でした)に従事する失業者がいたこ
とを記憶していますし、こうした事業が昭和30年代まであったこ
とを覚えています。調べてみると国の失業対策事業として平成の初
めまであったようです。仕事をして報酬を受け取るという考えは、
大切なことでしょう。
現代ではもう少し違う発想が必要でしょう。働くことに希望と誇
りを持てる仕事でなくてはなりませんし、希望者全員に仕事が行き
渡る、ある程度の仕事量も必要です。また、監督者がいなくても、
働く人それぞれの判断で進められる仕事が理想です。
こうした中、農業や林業については、高齢化や採算性が厳しいと
いったことから、その従事者が減少し、不足している状況です。ま
た、中山間地域を中心に耕作放棄地が増えて困っています。そこで、
農林業の従事者不足を解決する一つの手段として、健康面などで問
題がなく屋外での労働が可能な生活保護の受給者を農林業にマッチ
ングさせることはできないでしょうか。農林業の魅力を伝え、本人
の自立への意欲を高めることが実現すれば、まさに、一挙両得です。
もちろん、農林業に従事することは簡単なことではありません。
事前の研修などの課題もあります。また、都市部からは通えないと
いう話も出るでしょう。場合によっては、移動手段を支援すること
や、近くに移住してもらうことも考える必要があるかもしれません。
ただ、一つ大事なポイントがあります。それは、現在の生活保護
制度では、受給者が就職して収入を得るようになると受給金額が減
額されることです。この制度の下では、働いて自立しようとする意
欲が湧いてこないのです。国でも検討しているようですが、受給金
額はそのままにして、働いて稼いだお金は公的機関が一時的に預か
り、生活保護制度の対象から外れる時に、割増金を付けて返してあ
げるというのはどうでしょうか。自立への意欲や頑張る気持ちを持
たない人は、何も生み出すことができないと思います。
話の趣旨が中谷さんの本から全然違う方向にずれてしまいました。
そして、これらの提案は、あくまでも私案の域を出るものではあり
ません。いずれにしても、今のままでは福祉制度が破綻するかもし
れない。日本の活力が失われるかもしれない・・・。そんな心配か
らいろいろ考えてみました。
2012年7月5日木曜日
山本七平さんに学ぶ
選挙や投票が、民主主義の代表的な制度であると思われている人
は多いと思いますが、最近、疑問を感じるようになりました。
戦後の日本にとって、民主主義国家の象徴はアメリカであり、民
主主義の模範はアメリカでした。そのため、日本はアメリカの後を
追っているといわれた時代もあったわけです。しかし、そのアメリ
カについて、山本七平さんの「『常識』の研究」(文春文庫)の中
に「アメリカの不思議」と題してこんな一節があります。約20年
前(1987年発刊)のちょっと古い本ですが、今でも参考にさせ
てもらっています。少し長いので、多少省略してご紹介させていた
だくことをお許しください。
「ニューヨークへ行ったところ、偶然の機会から、『戦後30年
のアメリカ』というビデオを(略)見せてもらった。トルーマンか
らアイク、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと移り行くうちに、社
会がどのように変化し、悪化し、崩壊して行ったかを克明にたどっ
ているビデオである。少年ギャング、麻薬患者、児童虐待、街頭で
の殺人、少女売春等々が、これでもか、これでもかといった調子で
登場し、同時にベトナム反戦運動、公民権運動、徴兵令状焼却、
『人殺し』とホワイトハウスに向かって叫ぶデモ隊、警察隊の弾圧、
ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺、ニクソン辞任等々の場面が入
ってくる。
そしてそれを見ていると、少々不思議な気持ちになる。というの
はだれ一人、社会を悪くしようと努力しているわけでなく、人びと
の叫ぶスローガンはすべて立派であり、平和、人道、博愛、反戦、
人間の権利、差別撤廃、最低賃金制の確立、社会保証の充実が常に
口にされ、しかもある意味では確かにその一つ一つが達成されなが
ら、一方ではぐんぐんと社会は悪化していくのである。なぜであろ
うか。ビデオはそれを問いかけながら、何一つ解答は提示されてい
ない。
15年ほど前(1970年ごろ)、全米を自転車旅行をした人の
話を聞いた。当時はすべての人が親切で、こんな良い国はないと思
い、さらに叫ばれるスローガンの内容から、もっともっと立派にな
ると思ったそうである。そこでもう一度自転車旅行をやろうとした
のだが、今ではそんなことは到底不可能だと思い知らされたという。
そしてその人は、一国がかくも短期間に、このような悪しき変化を
遂げたことの理由を何とか探りたいと思ったが、だれに聞いてもそ
れはわからなかったという。」
(なお、前述のスローガンにないのは、財政再建だけのようです。)
つまり、民主主義国家として長い歴史を持つアメリカでさえ、国
民一人一人の高い理想や思いを正しく反映した国づくりが実現でき
ていないということです。どこに問題があるのかはよく分かりませ
んが、国が国民の思いとは別の方向に進んでいるとしたら、もはや
民主主義とは言えないのではないかという疑問を持ちます。
また、山本さんは「人間集団における人望の研究 二人以上の部
下を持つ人のために」(祥伝社)の中で選挙についても言及してお
られます。私なりに要約すると「まさに能力があるかどうかではな
く、人望のあるなしがすべてを決める。ましてや若者が突然選挙に
出馬して、若さとその人物像の詳細が知られていないが故に、イメ
ージが先行して当選するというのは問題で、『人望』と『人気』を
混同している故であろう」ということです。
公職選挙法にも疑問を持たざるを得ない部分があります。
事前運動は禁止されているといいながら、何カ月も前から、極端
な例だと1年以上前から、選挙に出ようとする人のポスターが街に
あふれる。あれは事前運動ではないのでしょうか・・・。私も告示
前に室内用ポスターを掲示したことがありますから、あまり大きな
ことは言えないのですが・・・。それが許されているのは、あの大
きな顔写真ポスターの下に、「総決起大会のお知らせ」などと書か
れた細い紙が貼ってあるからだそうです。つまりは、政党あるいは
個人の『政治活動』の告知だということですが、実質は事前運動で
しょう・・・。
そのほか、戸別訪問禁止についても、昔は住居を戸別に訪問して、
お金で票を買収する心配があったためだそうですが・・・、今どき、
お金で買収する候補者はいないと思います。文書図画の配布や掲示
などの規制についても形式だけのことと感じています。もし、イン
ターネットを利用した選挙運動が解禁された場合、インターネット
を24時間監視することは不可能ですし、第三者の「なりすまし」
や「改ざん」を防ぐことも技術的に難しいと思いますので、取り締
まりには限界があるでしょう(インターネットは選挙運動に利用で
きないので、候補者の公式ホームページは告示後変更できないそう
です)。候補者本人の知らないところで支援者が応援する、あるい
は悪口を言われることもありますしね。
アメリカの大統領選挙でマスコミを使って展開するネガティブキ
ャンペーンもひどいですよね。自分が当選するためには相手のイメ
ージを落とす必要があるという発想なのかもしれませんが・・・。
民主主義と選挙って何だろうと私が言いたくなるのも無理はない
でしょう。
大阪ダブル選挙で当選した橋下徹大阪市長と松井一郎大阪府知事
の関係もよく分かりません。
ロシアのプーチン大統領とメドベージェフ首相の関係と似ている
のかもしれませんが、法的には問題なさそうです。知事を辞任して
市長選に出馬し同日選挙に持ち込む・・・こんな戦略ありなのかな
とびっくり。例えば、大阪市や堺市が加入する広域連合のような組
織があったとしたら(なければつくるという方法もあります)、そ
こに大阪府も加入して、広域連合長に大阪市長を選任し、その広域
連合の議員を住民が直接選挙で選べば、法律を改正しなくても大阪
府と大阪市は一本化され、実質的には「大阪都」になりそうな気が
するのですが(善しあしは別にしてですが・・・)。
選挙により人が代わる(交代する)ことは大切ですが、行政の一
貫性も必要です。また、特に今の時代、市民の皆さんに喜ばれるこ
とをするときにも、市民合意が必要であると、つくづく感じていま
す。
「ドイツのナチス党はクーデターで権力を奪ったのではない。極
めて民主的と評されていたワイマール憲法の下で選挙に勝ち、全権
委任法を議会で制定して総統ヒトラーが誕生し、独裁者になった」
ということを本年2月9日付けのかじとり通信でも触れましたが、
なぜ全権委任法が民主的な体制の中で議決されたのかは分かりませ
ん。
市民意見、民意とはなんでしょうか。「声の大きい少数意見」や
「声の小さい多数意見(サイレントマジョリティー)」をどう解釈
すればよいのでしょうか。
民主主義の歴史は、日本の長い歴史の中では、極めて短いもので
あり、異例のシステムといえるのだそうです。
平安時代は貴族の時代、鎌倉時代以降は武士の時代、江戸時代は
政治的に武士の時代(経済的には町人の時代だったのでしょう)、
明治維新以降は中央集権国家体制の下、外国に追い付け追い越せと
いう維新の功労者(元老院)、選挙で選ばれた政治家および軍人の
時代。そして、戦後になって民主主義の時代・・・。こうして並べ
てみると、国民が一番幸せを感じるのはどの時代なのか、全く分か
らなくなってしまいました。
しかし、いくら欠陥があり、悪い面があっても、現時点で民主主
義を超える制度はないと言われていることも事実でしょう。では、
どうすれば、この制度を維持しながら、機能不全に陥るような事態
から逃れることができるのでしょうか。このことについては、文藝
春秋2012年7月号の、作家・塩野七生(ななみ)さんと学習院
大学教授・佐々木毅(たけし)さんの対談「世界史に学ぶ 日本は
なぜ改革できないのか」に、こんな記載がありました。
「人間が持っている基本的人権という概念に適合する政治の仕組
みは、民主政しかないのです。つまり民主政は「道義的」に圧倒的
な強みを持っています。しかし、そのことが様々な現実の問題を解
決する能力を保証するわけではありません。直面する課題を解決で
きなければ信用を失ってしまいますし、実際に歴史を見ると、ファ
シズムが台頭したり、クーデターが起きたりしています。道義的に
強みがあり、しかも諸問題の解決でも信頼できる民主政治を持つこ
とが出来れば非常に幸せなことです。
民主政を運用するには、状況に応じて制度を変化させていかなけ
ればならないし、あるいは様々な仕組みを組み合わせて運用してい
くことも必要です。」
少なくとも日本の民主主義は、まだまだ歴史が浅く改善すべき点
がたくさんあると感じています。今後の民主主義の在り方について
は、選挙制度も含め、私たち一人一人が、その主人公としてしっか
りと考えていかなければならない課題だと思っています。
以上、いろいろ書いてみましたが、現実の問題を解決するには、
さらに具体的な議論が必要ですね・・・。