前回のかじとり通信は、「山本七平さんに学ぶ」でしたが、今回
は「中谷巌さんに学ぶ」です。中谷さんの本の示唆に富んだ考えは、
これまでもかじとり通信で紹介していますし、中谷さんの本を読む
たびに、「なるほど」とうなずいてしまうことが多いのです。
今回紹介するのは、「資本主義以後の世界」(徳間書店)の一文
です。本年3月15日付けのかじとり通信でも触れましたが、今回
はもう少し踏み込んで紹介したいと思います。
「われわれはどうやら『贈与』の精神を忘れていたらしい。われ
われの日常生活はあまりにも『交換』という考え方に偏っていた。
いや、『汚染』されていたといったほうがよいかもしれない。『交
換』には必ず見返りが必要である。なにかをしてもらったならば、
それと等価の交換物で返す。これが(略)近代社会の常識である。
(略)
市場における取引というのはそのような交換の思想の上に成り立
っているのだ。実際、品物を受け取って代金を支払わない人は罪人
になる。(略)
歴史を振り返るならば、人類は『交換』に加えて『贈与』という
行為を取り入れることで人間同士の結びつきを確認し、『社会』を
形成していたのである。功利主義的な『交換』だけでは、人間が互
いに依存し合うことができる『社会』が形成されず、人間はアトム
化し、孤立してしまうからである。(略)
近代以前の人間は、人間が一人では生きていけないことをよく知
っていた。だから、『贈与』という行為を通じて人と人とのつなが
りを生み出す『社会』もしくは『共同体』をつくり上げ、そのうえ
に独自の文化をつくり上げてきた。現代人は『贈与』の精神を忘れ、
市場を通じた『交換』こそが人間を幸せにすると錯覚したのである。
だから『社会』が荒廃し、文化が廃れていく。それは、『贈与』を
忘れ、『交換』だけで世の中が運営できると錯覚したためであった。
新自由主義とは、『可能なかぎり市場で取引できる商品の範囲を
拡大し、そこで実現される資源配分を尊重すべきだ』というイデオ
ロギーである。そのため、できるだけ政府の介入を避け(小さな政
府)、規制を撤廃し、市場における『交換』こそが人間活動の中心
になるべきだというのである。」
そしてその結果、「経済学あるいは社会科学の正流から長く無視
された『偉大な』社会科学者」といわれるカール・ポランニーが
「商品にしてはいけない」と指摘した3つのこと、すなわち「お金」
「土地」「人(労働)」を商品にしてしまったのではないのでしょ
うか・・・。
中谷さんの言われる「贈与」とは、言葉を変えれば「寄付」と同
じことだと私は理解しています。しかし、「贈与」だけでは社会が
成り立たないことは、当たり前のことです。「贈与」は、「贈る人
の善意・余裕」と「受ける人の善意・感謝」が原点です。
「交換」「贈与(寄付)」「投資」「補助金・交付金」「貸付金」
「借入金」・・・。それぞれ関係があるようでないような言葉を並
べてみましたが、よく考えてみますと、こうした言葉の中にも、行
政と民間では発想が180度違うものがあります。たとえば「借入
金」について普通に考えれば、紛れもなく「借金」です。しかし行
政では、借金ではなく歳入になるのです。いずれ、私の考えを詳し
くかじとり通信に書いてみたいと思っています。
また、私は「慈善」という言葉も、本来の意味が失われてしまっ
た言葉ではないかと感じています。「慈善」も贈与と同様、人間社
会の最も重要な要素です。しかし、福祉についていえば、「慈善」
をなくしてしまった「権利としての福祉」といった言葉を最近耳に
する機会が多くなりました。給付金などをもらうことが当たり前に
なって、感謝の気持ちをなくしてしまった・・・そんな論調です。
そして、給付する側も「義務としての福祉」になりつつある・・・。
こうしたことが表面化する社会に危機感を感じます。中谷さんの
「交換と贈与」の話に似ています。
最近、不正受給が大きな問題になっている生活保護制度も、慈善
という精神が残されていれば、こんなことにはならなかったはずで
す。有名芸能人の話題が取りざたされていますが、こうした報道に
よって生活保護を受けている人の全てが同一視されることは非常に
危険なことだと感じています。また、受給要件に該当していても、
受給せずに努力している人がたくさんいることも忘れてはいけませ
ん。しかしながら、近年の厳しい経済状況などを反映し、受給申請
者がうなぎ上りに増えていることも事実です。受給者の中には、制
度の根底にある精神の部分が抜け落ちて、権利だけが一人歩きして
しまったがために、権利なのだからもらわなければ損だと誤解して
いる人がいるのかもしれません。果たしてそれが正当な申請である
のか。また、いったん認められた受給資格を継続するのかしないの
か。調査に当たる自治体職員も増員せざるを得ない状況です。現在、
長野市でも担当職員(ケースワーカー)1人が受け持つ受給世帯は
国が示す標準世帯数である80を超え、それらの調査に大変苦労を
しています。
生活保護費が、年金受給額を上回る。また、都道府県によっては、
最低賃金額から社会保険料などを差し引いた労働者の手取り金額よ
りも多いといった逆転現象があることも問題を複雑にしています。
もう一度互いに支え合う社会の原点に戻り、例えば働くことができ
る人が受給する生活保護費は、最低年金額以下とするなど、社会の
セーフティーネットである生活保護制度の在り方を考え直す必要が
あると思っています。
生活保護費を支給することは、当然のことながら行政にとって大
切な仕事ですが、それ以上に、生活の安定を図る中で自立に向けた
支援をしていくことが重要となります。それには、受給者自身の意
欲と努力が必要です。本人に自立する意欲、努力がどの程度あるの
か。そして行政は、それを手助けする具体的な手段を持っているの
か。多くの課題があります。
私は、一つの提案をしたい。生活保護の受給者に仕事をしてもら
い、その対価を支払う制度の採用です。もちろん、高齢や障害など
で働けない人には配慮が必要です。
行政は、若くて働く意欲がある失業中の人に、働く場を用意する
必要があります。昔、といっても戦後のことですが、行政直営の土
木工事(私の記憶では道路工事でした)に従事する失業者がいたこ
とを記憶していますし、こうした事業が昭和30年代まであったこ
とを覚えています。調べてみると国の失業対策事業として平成の初
めまであったようです。仕事をして報酬を受け取るという考えは、
大切なことでしょう。
現代ではもう少し違う発想が必要でしょう。働くことに希望と誇
りを持てる仕事でなくてはなりませんし、希望者全員に仕事が行き
渡る、ある程度の仕事量も必要です。また、監督者がいなくても、
働く人それぞれの判断で進められる仕事が理想です。
こうした中、農業や林業については、高齢化や採算性が厳しいと
いったことから、その従事者が減少し、不足している状況です。ま
た、中山間地域を中心に耕作放棄地が増えて困っています。そこで、
農林業の従事者不足を解決する一つの手段として、健康面などで問
題がなく屋外での労働が可能な生活保護の受給者を農林業にマッチ
ングさせることはできないでしょうか。農林業の魅力を伝え、本人
の自立への意欲を高めることが実現すれば、まさに、一挙両得です。
もちろん、農林業に従事することは簡単なことではありません。
事前の研修などの課題もあります。また、都市部からは通えないと
いう話も出るでしょう。場合によっては、移動手段を支援すること
や、近くに移住してもらうことも考える必要があるかもしれません。
ただ、一つ大事なポイントがあります。それは、現在の生活保護
制度では、受給者が就職して収入を得るようになると受給金額が減
額されることです。この制度の下では、働いて自立しようとする意
欲が湧いてこないのです。国でも検討しているようですが、受給金
額はそのままにして、働いて稼いだお金は公的機関が一時的に預か
り、生活保護制度の対象から外れる時に、割増金を付けて返してあ
げるというのはどうでしょうか。自立への意欲や頑張る気持ちを持
たない人は、何も生み出すことができないと思います。
話の趣旨が中谷さんの本から全然違う方向にずれてしまいました。
そして、これらの提案は、あくまでも私案の域を出るものではあり
ません。いずれにしても、今のままでは福祉制度が破綻するかもし
れない。日本の活力が失われるかもしれない・・・。そんな心配か
らいろいろ考えてみました。