2014年6月28日土曜日

徒然の記 №29 市長退任とその後について


【さて、これから・・・】

 現在、従来から継続している役目と、新たに私に“やれ”と命じられている役目は、いろいろありますが、概略以下の通りです。

長野高校同窓会金鵄会 会長
  早稲田大学 長野稲門会 副会長
   NUPRI 相談役
   サッカーAC長野パルセーロ 顧問
   長野 郵ゆう友の会 会長(予定)
   飯綱観光協会・顧問
  長野県スケート連盟 副会長

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長野東ロータリークラブ・会員
  長野JCシニア会・会員
  長野県(市)スケート協会会員
  飯綱乗馬倶楽部会員

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本願寺長野別院・参与・責任役員
  善光寺・信徒総代
  善光寺大本願・信徒総代

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炭平相談役(グループ会社全体の相談役)・・・(私のメインの仕事です)

 数えてみたら会社以外でも、10余りあります。従来からの役職もありますし、新たに依頼され、就任した役職もあります。ボケない為にも、いろいろな仕事をさせていただくことは有難いことですが、逆に頑固になって、他人に迷惑をかけないように、気を使うことが大切と思っています。又お飾りの役職は、辞退させていただきたいと思っています。

 まだまだ、自分では若いし、新しいことに挑戦する気力も能力もあるとは思っているのですが、もしボケたら・・・言葉を変えれば、能力が落ちているのに加えて、地位に固執するように、他の方が感じるようになったら・・・、これが一番恐ろしいことで、自分で警戒しているのですが・・・自覚は難しいのでしょうから、感じた方は遠慮なく指摘していただきたい(実際に指摘するのは難しいでしょうが・・・自分としては絶対に、恨まないつもりですから、よろしくお願いします)。

 それぞれの場での挨拶させていただく機会は、沢山ありますが、今までは、役所の秘書課からメモをもらって、適当にアドリブを入れて誤魔化してきたような感じで、あまり負担を感じたことはないのですが、現在は、全て自分で組み立てる必要がわけですから、何を語るか、私の能力が試されているように感じています、新聞・テレビ・雑誌・本等に目を通して、勉強のし直しの必要性を感じています。市長という公的立場を離れた以上、上から目線で話すわけにもいかず・・・難しいなあと感じています。

自分の予定表も作っているのですが、やってみると、全て自分で作らなくてはならないわけですから、自由にできるはずなのですが・・・、12年間の空白は大きいなあと痛感しています。

   友人との関係も難しいものがあります。市長になる時は「俺には友人が沢山いる、選挙に出たって負けない・・・」なんて思っていたのですが、実際市長になってみると、親しかった友達も、遠慮があるせいか、遊べないせいか、お亡くなりになった方もいますし、あるいは立場が違うせいもあるでしょう、何となく疎遠になってしまった方もいらっしゃいます。勿論、会えば挨拶はするし、楽しいのですが、酒を飲んで騒ぐ回数は激減しましたし、顔はわかっても名前が出てこない方が増えて失礼が多くなっていますし、あれだけ好きで毎日のようにやっていた麻雀も、せいぜい一年に一回ぐらい、ゴルフは、30年以上前にやめてしまいましたので、いまさらやるのは抵抗があり過ぎます。

(ゴルフで唯一自慢出来るのは、長野カントリー・クラブの第一回開場記念杯の優勝者であることで、これは「皆さん、絶対に真似できないだろう!『長野カントリー・クラブの年史』にきちんと載っているから見てよ!」と自慢しています)

現在はロータリーやスキーの仲間が、唯一の遊び相手です。皆さん、ぜひ誘って下さい。

  趣味を生かしての生活を楽しめば良いとは思いますが・・・同じような理由で、難しい面があります。一人で楽しめる読書やメルマガの執筆、競馬の馬券購入・・・等は良いのですが・・・滅多な場所でくだらないことをやるわけにはいかず、女房と食事したり、酒を飲んで、カラオケで唄ったり・・・今後の自分に期待しているのは、飯綱観光協会との関係もあって、“乗馬”です。馬に乗って、あまり人けのない山の中を、ゆっくり歩くことが出来れば、素晴らしいだろうなあ、と前から思ってはいるのですが・・・相手は生きものですから、自ら、きちんと面倒をみて、世話をしてやらなくては、馬が馴染んでくれないようで、友人の宮沢健治弁護士に勧められて、馬を購入はしたのですが・・・毎日、飯綱の馬場に通って、面倒をみるなんて・・・私にはかなり無理がありそうです。

 女房とはいずれ旅行をしようと、話しあってはいますが、現状では、まだ纏めた休みがとれなくて、予定が立たず、未実現で怒られています。

私的なことで、恐縮ですが、昭和38年に結婚して、新婚旅行は九州一周でした。当時とすれば外国へ行くなんて考えもしない時代でしたから、国内旅行で九州一周でした。当時とすれば、かなり贅沢だったと感じています。

(そう言えば、今年は炭平400周年の記念の年なのですが、4月12日その式典を行いました。その席上、皆さんの前で私たち夫婦の“金婚式”のお祝いをしてもらいました)

   それ以来、あまり女房を旅行に連れて行ったことが、多くは無かったなあと今反省しています。女房と共通の趣味を持てなかったことが、いけなかったのだろうと感じています。まあ息子達から、旅行費用をプレゼントするとは言われてはいるのですが・・・

    結局、過去のお付き合いの中で、限られた人間関係を大切にして、同じような境遇の人を訪ねて、遊び相手になってもらうことでしょうが、自分のことに引き比べてみると、立場がそれぞれですし、興味も違うわけですから、簡単ではなさそうです。

 やれることの可能性としては、

    会社の相談役として、会社の経営数字をみて、一応意見を言う、新しい事業アイデアを出せれば最高でしょう・・・。

    メルマガの執筆で、過去を記録しておくこと、同時に自分の考えを後輩に伝えること。

    スキー・乗馬・囲碁・旅行・読書・・・どこまでやれるか挑戦したいです。

    男声合唱団「善」のメンバーになることを勧められており、その気になってはいるのですが、練習しているが、私には難しすぎて、皆さんに追いていけない悲哀を感じており・・・正式メンバーに登録するには戸惑いがあって、迷っています。

合唱団のメンバーは、知人が多く、素晴らしい方が沢山いらっしゃるので、やめてしまうには惜しい。「口をパクパクやっていれば好いのだから、ガンバレ!」と皆さんは慰めて下さいますが・・・どうすればよいか、迷っています。

   酒を飲んで楽しく唄うことが一番かなあ・・・でも、やはり社会的に、多少は意義のあることをやって、人生の恩返しをしたいですよね!

   4月に入って、相談役室からみる雪を被った飯綱山の勇姿、素晴らしい景色です。現在は暖かくなって、雪は消えていますが、黒い地肌と残雪のコントラストも、また素晴らしいものがあります。毎朝、会社の相談役室からみえる堂々とした飯綱山の姿は、昔から慣れ親しんできた姿ではありますが、何ともいえない重量感を与えてくれます。そう言えば黒姫山の方が、飯縄山よりかなり高いのでしょうか・・・飯綱山の雪がすっかり消えても、黒姫山はかなり残雪が残っています。

前述しましたが、飯綱観光協会の顧問就任を依頼されたのも、何かのご縁かもしれません。

  本社の位置は高速道のインターチェンジから近く、面積も広いので駐車場は十分とれますから、この地を炭平の本社の位置に定めたのは正解だったなあ・・・、さらに相談役室を、建物の中の、この場所に定めてくれたことも、社長や専務の配慮かもしれませんが、よかったなあと感謝しています。

贅沢を言えば、窓がもう少し西に向いていれば、北アルプスの山並、東に向いていれば横手山や菅平方面も見えて、最高なんだがなあ!・・・欲を言えばきりがありませんが、この地で最後の力を振り絞ってみたい、そんな意欲を湧かせてくれる場所です。

 炭平の本拠地は、炭屋平六の昔から善光寺のお膝元西之門、それが昭和通りに移って、さらにバイパスが出来た時、移転し、さらにこの木工団地北側に現在の土地を求めた、そんな歴史を繰り返しながら、現在のこの地に落ち着いた・・・ようやく安住の地を得た、そんな思いです。商売柄、輸送手段は大型トラックが主体ですから、トラックの便が良い場所を求めてきたと言うことでしょう。

2014年6月19日木曜日

徒然の記 №28 市長退任とその後について


【空白の12年間】

   さて、11月11日、加藤市長との引き継ぎ式で、引き継ぎ書(これは行政マンが作ってくれた書類で、形式的には重要なものだそうです)にサインして、晴れて自由の身になったのですが、個人的には、こんなはずではなかったという感じがあって、かなり厳しい状況があります。

 それは市長時代の12年間が、個人生活、あるいは従来からの企業生活にとっては、一種の空白期間になってしまい、市長時代だけでなく、その前の会社の社長時代とも、あまりにも違いすぎるために、次のステージに私自身が対応出来ない。言って見れば、社会復帰がなかなか出来ないということでしょうか。

 まあ自分で言うのもおこがましいのですが、それだけ熱心に長野市のことを考え、行動してきたということだ、と自分を慰めています。ひところ女房に言われました「あなたは市政のことは、一生懸命だけれど、他に話題は無いの?もっと色々なことに興味を示しなさいよ」と言われたこと、今になって考えさせられています。

 任期中の功績に対して表彰していただきましたこと、若干忸怩たる思いはあるのですが・・・長野県土地改良事業団、長野県スポーツ振興財団等です。そう言えば長野市の長野平土地改良区からも、表彰状と記念品を頂きました。市長職の当て職みたいなものですからあらためて表彰していただくのは、若干違和感がありました。
  そう言えば、長野県市長会からも、花束をいただきましたし、全国市長会からも「永年勤続功労賞」なるものも、送って頂きました・・・。

 最近になって、県知事表彰、県の水源林造林協議会からも、表彰していただきました。市のスポーツ振興表彰もいただきました。

   行政から離れたのですから、当然、長野県市町村共済組合からも脱退しました。そのため、健康保険証がなくなってしまいましたので、息子と話し合って、炭平の相談役に就任し、社会保険に入れてもらいました。

   今年は炭平400年祭ということで、4月12日の式典からはじまって、秋までいろいろな記念行事を行います。相談役としてやるべきことが、何かありそうです。

   相談役とは、どう振る舞うべきか、戸惑っていることは事実です。市長の職務から会社の相談役に就任しての職務は、前述の通り、その落差が大きすぎて困っています。社員の顔と名前、仕事内容が一致しないだけでなく、社外の皆さんとのお付き合いもかなり違っており戸惑っていて、社会復帰するまでには時間がかかりそうで、12年間の空白は、まさに浦島太郎の心境です。まあ、企業の社会的イメージを高めることに貢献出来れば、合わせて、前市長として長野市のイメージアップに少しでも貢献できれば・・・これに優る幸せはありません。

会社のシステム、特にコンピューターシステムについてはなかなか理解できず、相談役室隣の電算室で、常時、相談して教えてもらっている状況で、迷惑をかけています。

   体調が狂ってしまい、市民病院のお世話になる回数が増えてしまいました。市長を辞めたから体調が狂ったわけではなく、院長の診断によると、数年前からの症状のようで、市長の間は、特に意識はありませんでしたが、市の職員にカバーしてもらっていて、外には見せなかったということでしょうか。あまりにも急激な環境の変化に、身体がついていけなかったということでしょうか。自己責任ですが、運動不足が大きな要因のようです・・・。

 負け惜しみみたいな言い分ではありますが、4期目に挑戦して仮に当選したとしても、もしかすれば皆の足手まといになってしまったかもしれないと考えますと、辞めどきとしては、適切だったなあと感じています。

 辞めてみて、緊張感が薄れてしまい、戸惑うだけでなく、精神的に緩んでしまった故でしょうか・・・決まった時刻に出社(登庁)し、仕事に取り組むこと(即ち規則正しい生活をすること)は、人間にとって重要だなあと痛感しています。

    少し前の文芸春秋を読んでいたら、高齢の役員が会社にしがみついてなかなか辞めない、その理由は ①個室が無くなる ②秘書がいなくなる ③足(車)がなくなる、の三つが理由だと書いてありました。相談役という役職についてみて、その心境がよくわかるようになりました。

 実際上、不便を感じているのは③です、車の運転を止められたことです。

「リハビリのつもりで、運転すべきだ」と言う方もいらっしゃいますし、「俺は80歳を過ぎても運転している、70代前半のお前は、なんだ!」とお叱りをうけることもありますが・・・社内的にはみんな大反対、息子からは「車は買ってやらない、タクシーで全てやれ」と言われており、“楽は楽です”が・・・不便で困っています。

    ただ私は、自分で運転していて事故でも起こしたら・・・実は具体的な話しですが、昨年二回、脳震とうをおこしてしまいました。スキー滑走中の出来事で、自分ではあまり、他人に影響は与えていないと思っていたのですが、考えてみると、転倒した前・後のことを全く記憶していないことに、ショックを受けています。ヘルメットが壊れるほどの衝撃があったはずですから、なんとも不思議なのです。

    特に転倒“前”のことが記憶にないのは何故でしょうか?・・・院長にお聞きすると、それは脳震とうの場合ありうる話で、不思議では無いと言われてしまいました。(長野日赤の脳外科の先生と同席したときも、それはあり得る話しですといわれました)何とも不思議なのですが・・・

でも、もし車を運転中にそんなことが起きていたら、他人に迷惑をかけることになりますから、自分で運転するのは疑問だなあ・・・と感じています。

 
    私は、市長在任中12年間、昼間は公用車、夜、宴会等で遅くなればタクシーで行動しており、社長時代の後半・最後の約10年間も、昼間は運転手つきの社有車でしたから・・・偶に市内を、女房の車でデパート等まで運転したことはありますが、まあ約20年間は、自分できちんとした運転をしていませんでしたから・・・皆が心配するのも無理はないなあと思いながら・・・「でも俺は免許証があるんだよ」と主張し、今の社会で車がないことは、不便だと感じていることは事実なのですが・・・、危機管理の面からも、「転ばぬ先の杖、やめるべきだ」ということに軍配は上がりそうです。

2014年6月13日金曜日

徒然の記 №27 市長退任とその後について

以上で「鷲澤メルマガ第一部」は終了で、第三部に入ります。

  市長就任後の任期中の事柄については、平成14年4月にスタートした長野市のホームページからの「舵取り通信」市長メルマガに繋がります、この部分は「鷲澤メルマガ第二部」として読み替えていただければ、幸いです。

古いことから新しいことへ・・・・段々に書くことがわかりやすいはずと信じていました・・・・でも一気に書くわけではなく、継ぎ足し、継ぎ足し、していく間に、入り組んでしまって、又同じことを書いてしまったり・・・

  鷲澤メルマガとしては、12年後から、即ち平成25年11月10日の任期満了・退任以後、11月11日から書いたメルマガを、第三部として、私的に継続してまいります。お読みいただければ、幸いです。気楽に批判を恐れず、自由に書かしていただきます。


【市長職退任までの経緯】

 11月10日は任期満了日、ただ11月9日は土曜日、10日は日曜日でしたので、役所は休み、退任式は11月8日に行っていただきました、偶然ですが私の73歳の誕生日でした。退任祝いと誕生祝いの一致、多くの皆さんに集まっていただきました。

これも運命のいたずらかもしれませんが・・・私の運ですよね。

 議場で、市議会議員や幹部職員の皆さんに、長いこと支えていただいたことへの感謝と退任挨拶をさせていただき、一階のフロアに降りましたら、大勢の関係者、そして市民の皆さんが集まって下さっていてごった返していました。持ち切れないほどの花束を沢山いただき、声をかけていただき、女房と二人、皆さんがつくって下さったアーチの下をくぐって・・・感謝しながら車に乗り込みました。

 たまたま市役所の建物は、市役所第一庁舎、市民会館の工事がはじまった関係で、歓送会を開催する場所としては手狭であり、相応しくはなかったようで、市民の皆さんにも、ご迷惑をかけたようですが・・・その分、近くで皆さんと握手したり、ハイタッチしたり・・・とても親しみの湧く歓送会だったと感謝しています。笑顔で送り出していただいたこと、嬉しいことでした。

 退任までの経緯については、書くのをやめておこうかと何度も迷ったのですが、若干触れさせていただくことにしました。私はメルマガ上でなるべく正直に、全てを明らかにすべきと考えてきましたので、この件だけを話さないということは正直ではないと思い、辞任して数カ月経ちましたので、ほとぼりも冷めたこの時期、この時点で、経緯を明らかにさせていただきます。

   私は以前から、首長の任期は三期までだなと考えていました。理由はいろいろですが、先輩の首長さん方を見ていて感じたことが一番であり、自分の年齢のこともありました。ある方から言われたことですが、今回は絶対に当選するはずなのに、なぜ辞めるのか?・・・

でも絶対はないでしょう、現に三期目の選挙は苦戦でしたし、開票中に、負けた場合の挨拶を考えていたことも事実でした

○ なにより、選挙に負けて、辞めざるをえなくなることは絶対にいやでした。

   年をとって何時までも公職にしがみついている印象を、世間に与えることも嫌でした。辞める時は“さわやかに”“惜しまれて”辞めたい!・・・私の美学でした。

   そうは言っても・・・という部分は正直ありました。私の辞めた後の次の市長さんが、私のやってきたことを、根本的にひっくりかえされてしまうのは、悲しいし、私は何をやってきたのだろうか、と考えてしまいそうです。それだけは何としても避けたい、それにはある程度、考え方の理解できる人になってほしいなあ。

 私の考えていたことは、精々その4点ぐらいです。意志表示が遅いという批判は、申し訳ないと思いながらも、レーム・ダックにはなりたくない、という昨年からの言動やメルマガの内容で、理解されているはずと思っていました。そして加藤市長が立候補の意志を表明されたとき、正直ホッとしたことは事実でした。付け加えれば、意志表示は加藤さんにとっても、絶妙のタイミングだったと思います。

 加藤市長とは、小・中・高・大と全て同じ道を歩き、年齢は私が少し上で  すが、生まれた家も善光寺の東と西、商売も全て同じではありませんが、似た部分がかなりありました。私の父は早死でしたが、市長のお父さんとは長野商業の同期生、親しい仲だったようです。

要は私からみれば、失礼ですが、考え方はよくわかる方でした。

 ただそんなことを、選挙前に発言すると、あるいは応援演説をすることも含めて、特定の候補を応援することになりますし、私に対する反感が加藤氏に乗りうつる可能性もあると考え、遠慮させていただきました。(故夏目忠雄元市長さんに言わせると、市長職なんて、毎日毎日、人の反感を買っているようなもので、三期目の選挙ともなるとその反感は積もり積もって、頂点に達するのだよと言われていました。時代は違いますが、人心の一新は、必要なことなのだと痛感しています)

 塚田前市長さんから私につなげていただいた時に比べると、私は随分我儘だったかなあと感じていますが、選挙中「加藤氏は大丈夫」という情報もありましたので、安心して応援については一切触れませんでした。まあ彼が無事当選され、堂々と市政に取り組まれている姿は、良かったなあと思っています。

以上が市長選の経緯です。