2011年7月28日木曜日

観光と物語


 観光事業を考えるとき、いつも感じることがあります。多くの観
光客に来ていただくこと、これが大切なわけですが、観光客が何を
求めて来てくださるのか。言い古された言葉ですが、観光客は「非
日常性」を求めているのではないでしょうか。

 非日常性と言った場合、大きく分けて次のような分類になるので
しょうか。
 ・歴史や文化(古い物、歴史の舞台となった名所・旧跡)
 ・自然景観
 ・建造物(新しい物、または立派な物、もしくは物珍しい物・・・
  例えば、国会議事堂や東京スカイツリー)
 ・遊ぶ・楽しむ(例えば、東京ディズニーランドなどのテーマパ
  ーク、動物園、遊園地、歌舞伎、コンサート)
 ・学ぶ・教養を高める(美術館、博物館、講演会)
 ・体験(農作業体験、農家民泊)
 もちろん幾つかの要素が混じっていることは当然です。そして、
そうした中にも「物語が大切」ということも事実でしょう。

 京都や奈良などは歴史の表舞台であった時間が長いが故に、良き
につけあしきにつけ、物語がたくさんありますよね。東京は政治や
経済の中心で人口が多く、お金が集まってくるから立派な建造物な
どが多いわけですが。
 こうした都市に勝るとも劣らぬ長野市の観光資源としては、素晴
らしい景観、清らかな空気、癒やしの地などでしょうか。実際には、
こうした非日常性とともに、アクセスの良さ、食べ物、宿泊施設、
おもてなしの気持ち、コストなど全ての要素が観光客に採点される
のでしょうね。長野市はどう評価されているのか、気になるところ
です。

 長野市にも、善光寺縁起、鬼女紅葉(きじょもみじ)伝説、石堂
丸の物語、川中島合戦、山千寺の駒つなぎの桜、戸隠山の天岩戸伝
説、大座法師池のだいだらぼっちなど、いろいろな物語があるので
すが、もっとたくさん欲しいなあというのが私の願いです。 

 そんなとき、「矢嶋城興亡史」という本を矢嶋正一さんから頂き
ました。話の舞台は主に佐久地方で必ずしも長野市のことだけでは
ありませんが、知らないことが随分あり、もっとこの話が有名にな
ってもよいのではないかと感じました。

 矢嶋さんは、私が城山小学校のPTA会長をやっているころ同小
学校の教頭で、その後、三輪小学校の校長として転出されました。
その後の細かい経歴は知りませんが、最後は小諸市の教育長をお務
めになった方です。城山小学校時代、豪快な方で、てっきり美術の
先生と思っていたのですが、この本を読み終わった後先生と電話で
話して、実は社会の先生だったということを初めて知りました。

 「矢嶋城とは、長野県佐久市浅科地区矢嶋にある山城のことであ
る。今はほとんどが畑地で城郭のあった城址(じょうし)は草の中
に眠っている。」こんな書き出しで始まっています。

 今から約850年前の源平合戦の時代、滋野一族の中で、「矢嶋
四郎行忠」が一大勢力を築いていました。
 それを可能にしたのは、矢嶋ヶ原という一大牧場の存在です。平
坦な草原が広がる矢嶋ヶ原は馬の飼育に適した地勢で、多くの馬が
飼育され、脚力のある駿馬(しゅんめ)は軍馬として、また通信手
段の伝馬として、足が遅い馬も運搬用、また農耕馬として売買され、
その富は大変なものでした。当時の名馬は、現在の戦車みたいな存
在だったそうです。
 矢嶋四郎は、この巨大な富を基に矢嶋城を築きました。

 また、矢嶋四郎は、歴史上有名な、源頼朝・木曽義仲のいとこで
あったようです。
 頼朝が鎌倉で挙兵して以後、平家と戦って勢力を広げていく過程
で、信濃の国にもいろいろな興亡がありました。しかし、何せ
850年から900年昔のことですから、証拠となるものが極めて
少ない。
 いとことはいえ、かなり熾烈(しれつ)な勢力争いもあったよう
です。もしかしたら、鎌倉幕府ではなくて、信濃幕府が歴史に登場
していたかもしれない・・・そんな可能性すらありそうな話です。

 そういえば、長野市周辺には源頼朝や木曽義仲にまつわる言い伝
えが数多くあるように感じています。
 頼朝山、善光寺の駒返り橋、鬼無里の木曽殿あぶき・・・本当に
ゆかりがあるかどうかは確かではありませんが、まんざらでたらめ
ではないのではと感じてはいます。

 矢嶋四郎は、木曽義仲の中枢軍として京に遠征し、2カ月余り天
下を制した後、義経軍と戦って戦死しており、その日は1184年
1月23日。この年月日については、先生はかなり断定的に書いて
おられます。まさにヒーローの要素がありますよね。
 子どものころ読んだ木曽義仲の歴史小説では、今井兼平が勇戦し
たこと、義仲の妻である巴(ともえ)御前が一緒に戦って、戦死し
た義仲の首を持って逃げたというストーリーだったような記憶があ
るのですが。小説家の誰かが、矢嶋四郎の素晴らしい歴史小説を書
いてくれたら・・・と思ってもいます。

 本の最後では、矢嶋城の興亡を記した後、矢嶋四郎の弟が羽後矢
嶋(現在の秋田県)へ分封となった時代背景やその後の消息、そし
て先生ご自身がその羽後矢嶋へ訪問されたことも書いておられます。
 ご自身の先祖の発祥・ルーツについて真実を知りたい、あるいは
記録を残したいという思いから多くの資料・考察を基に執筆された
大変な力作で、私なんかが紹介するのは失礼ですが、最初に書いた
ように、長野市にまつわる物語がたくさん欲しいとの思いから紹介
しました。

 もう一つ、信州大学の笹本正治教授が書かれた「真田氏三代 真
田は日本一の兵(つわもの)」という本を頂戴しました。
 こちらは、既に有名な話で、真田幸隆、昌幸、信之(初代松代藩
主)、信繁(幸村)という真田三代4人が織りなす血沸き肉躍る物
語です。笹本教授の書かれたものですから、歴史考証をきちんとや
っておられます。池波正太郎さんの小説「真田太平記」と読み比べ
てみると面白いですね。一番の違いは、真田太平記では、隠密が大
活躍する、適度なお色気がある、ということでしょうか。

 話は変わりますが、今年は長野市が誇る幕末の偉人「佐久間象山」
の生誕200年の年です。それを記念して、象山最晩年に訪れた京
都での足跡をたどったパネル展「上洛(らく)時代 京都と象山」
が、7月10日から9月30日まで松代まち歩きセンターで開催さ
れています。
 このパネル展では、幕命で京都に招かれた象山が、京都で尊皇攘
夷(じょうい)派の暗殺者の凶刃に倒れるまでの間に訪れた場所な
どの写真を時系列に並べてあり、象山が最後に京都に住んでいた家
跡に建てられた碑や、真田信之の菩提寺(ぼだいじ)・妙心寺大法
院にある象山の墓、木屋町にあった坂本龍馬の住居跡などの写真も
紹介しています。
 昨日私も実際にパネル展を拝見させていただきました。会場に入
って最初に目に入ったのが象山直筆の手紙です。提供者で旧松代藩
御用商人八田家子孫の八田愼蔵さんから、手紙にまつわるお話をお
聞きすることができました。写真や資料も50点ほど展示されてお
り、主催者であるNPO法人「夢空間松代のまちと心を育てる会」
の方からもそれらについて丁寧に説明をしていただきました。八田
さんのお話、象山の手紙、写真が語り掛ける当時の出来事などを紡
いで物語化できたら面白いなあ・・・と思いました。

 今回は、いつものメルマガとは、全く違うものになってしまいま
した。
 そういえば、少し前ですが「流転の善光寺仏」という題名で映画
を作りましょうという話がありました。善光寺仏は、時の権力者で
ある武田家(信玄・勝頼)、織田家(信忠・信雄)、徳川家康、豊
臣秀吉と所持者が変転して、最後にまた信濃の善光寺に戻ってきた
という大変数奇な運命を持った仏様です。制作されればすごく壮大
な映画になりそうですよね。        

2011年7月21日木曜日

元気なまち、各地の報告


 篠ノ井イヤーと信州新町イヤーは、ここまで順調に展開していま
す。
 今回は、それぞれのイヤーキャンペーンの事業に位置付けられて
いないものもありますが、現在、地域の皆さんが一生懸命に取り組
んでいるいくつかの活動を紹介します。
    
 7月1日、篠ノ井地区の唐臼公民館で、介護予防に取り組んでい
る団体「唐臼はつらつ倶楽部」の活動に参加し、参加者の皆さんと
一緒に体操をしてきました。このクラブの代表は柳原静子さんで、
篠ノ井イヤーの仕掛け人の一人です(伺ったのは、「みどりの移動
市長室」の一環です)。

 市では、地域での介護予防活動を応援しています。こうした活動
を活発にするには中心となるリーダーが大切ということで、介護保
険課が介護予防リーダー養成講座を開設して一生懸命に介護予防リ
ーダーの養成に取り組んでいます。講座の受講者は多いようですが、
活動の輪を地域に広げるという面では、もう一歩のようです。そん
な中で、柳原さんは講座を受講された後、早速地域で介護予防と認
知症予防を目指したクラブを立ち上げられました。長野市でも先駆
的な取り組みです。

 今回私が体験した「唐臼はつらつ体操」は、高齢者を対象とした
もので、決して無理をしない楽な動きを独自に考案されたとのこと
です。約20人の集まりでしたが、体操するときは、やり方の説明
や1、2、3・・・の号令をみんなで役割分担して行っていました。
それが皆さんのやる気を喚起し、長続きする要因になっているのか
もしれません。ただ、クラブの参加者全員が女性で、伺った当日は、
地区の区長さん一人だけが男性でした・・・。
 顔が見える仲間ができて、皆さんの元気の源になっているようで
す。

 篠ノ井駅前の軽トラ市は、6月26日で2回目が終了し、どの参
加者の商品も完売とのことで、素晴らしい成果です。
 順調にいっている理由の一つに、篠ノ井の商店街とのコラボレー
ションがあるとのことでした。たしかに、商店街の皆さんと軽トラ
市の参加者の関係は、場合によっては商売敵になるわけですから、
コラボレーションをしていくための工夫は絶対に必要です。これま
で、軽トラ市を開催した地区は他にもあるそうですが、長続きせず、
自然に衰退してしまったという話を聞きました。

 篠ノ井駅前の軽トラ市は工夫の一つとして、軽トラ市参加者が出
店料として実行委員会(主催者)側に2,000円を払い、主催者
側は、領収書の代わりとなるのでしょうか、篠ノ井の商店街のみで
使える商品券2,000円分を渡します(一種の地域通貨ですよね
)。軽トラ市参加者が商店街でその商品券を使うと、商品券は主催
者側に還流されて、現金化される・・・。こんな仕組みのようです。
 主催者側はまったくのボランティアですが、町のにぎわい、商店
街の振興、そして品物を供給する農家や商店などの営業支援と一石
三鳥のアイデアだと感心しました。

 7月9日には、信州新町の「カラー花まつり・ジンギスカンまつ
り」にお招きいただきました。サフォーク料理で有名な「さぎり荘」
周辺で行われたこのお祭りには、地元の皆さんが出店して、カラー
のほかにもいろいろな特産品や郷土食などが販売され、多くの人で
にぎわっていました。

 「カラー」という花は、信州新町の農家約70軒が生産・出荷し
ているそうで、町内では一大産業になっています。以前は150軒
以上の農家の皆さんが取り組んでいて、農協を通じて主に東京、名
古屋、大阪方面の市場に出荷していたそうで、花の値段もかなり高
かったようです。
 現在、主に栽培されている「ジャンボ黄カラー」は、同町越道の
尾澤貞雄さんが、それまで栽培していた「ジャイアントカラー」と
いう品種から良い物を選び出し、農協が新たに「ジャンボ黄カラー」
と名付けて売り出したものとのことです。他に「ブラックアイビュ
ーティー」という品種も栽培されています。残念ながら、今は往時
の勢いとまではいかないようですが、これからも信州新町の特産品
として夢をかけて頑張っていただきたいものです。

 ジンギスカンは、何といっても信州新町のブランドです。サフォ
ーク(羊の肉専用種)は、「ひつじの町」「ジンギスカンの町」づ
くりのため、昭和57年に導入され、信州新町の「肉めん羊生産組
合」の皆さんが飼育しているサフォークの肉をステーキやしゃぶし
ゃぶなどの料理として「さぎり荘」で味わっていただくことができ
ます。
 また、ジンギスカン料理は昭和10年代に料理講習会でそのおい
しさを味わった人たちが徐々に広めていったものといわれています。
現在は、信州新町のジンギスカン街道10店舗で味わえ、お買い求
めいただくことができますし、地元事業者の「むさしや食品(有)」
のジンギスカンは県内外でも販売されています。
 官民共同でジンギスカンブランドを築いてきたと言ってもよいの
ではないでしょうか。

 同じ日の9日、信更地区で平成19年度から4年かけて整備を進
めてきた「花の里信更センター」が完成し、竣工(しゅんこう)式
が行われました。山の中ですが、住民の皆さん総出のお祝いでした。
私も地域の子どもたちと一緒に記念植樹をさせていただきました。
ここで咲いた花を切り花として出荷し、もうけていただくことを期
待したい・・・とあいさつしました。まだまだこれからでしょうが、
皆さんの努力が実を結ぶことを期待したいと思います。

 信更地区では、1847年の善光寺地震の際に発生した虚空蔵山
(こくぞうやま)の崩壊による大災害の記憶を後世に残そうと、少
し前になりますが、地区住民の力で素晴らしい公園を造られました。
 また、今回お聞きしたことですが、住民の一人、中島忠徳さん
(長野シルバー人材センター理事長)が、自宅周辺の1,200坪
という広大な敷地をご夫婦二人で見事に管理されており、素晴らし
いオープンガーデン(庭園)となっているそうです。
 「花の里信更センター」を整備された「元気な信更町花の里実行
委員会」と中島さんは、昨年度、市の「ながの花と緑大賞」を受賞
されています。
 信更地区もなかなか元気です。

 話は変わりますが、若槻地区でホタルがたくさん出ているという
話をお聞きし、妻と二人で出掛けました。
 若槻地区の地元有志や住民自治協議会が、地区内の土京(どきょ
う)川に生息するホタル再生のために、その生息環境の改善などの
取り組みを続けることにより、ホタルがたくさん生息できるように
したものです。地区内外の皆さんに、ホタルが舞う癒やしの空間を
提供することを目指して、見事に成功されました。

 私もホタルはあちこちで見たことがありますが、この若槻地区ほ
どたくさんのホタルが舞っているのを見たのは初めてです。ホタル
には主に「ゲンジボタル」と「ヘイケボタル」の2種類あることは、
皆さんご存じのことと思いますが、ここでは両方のホタルが仲良く
共存しており、こうした地域は珍しいとのことです。環境整備には
以前からホタルについて市内各地で指導しておられる長野ホタルの
会会長の三石暉弥(てるや)さんのご指導もあったそうですが、本
当に見事な乱舞でした。

 若槻地区の土京川におけるホタル関連の取り組みは、かなり前か
らのようで、その経過を簡単に触れてみます。
 平成に入って、上野地区にお住まいの方が、土京川にホタルがい
ることを確認し、有志を募って観察を開始したとのことです。平成
3年「ホタルを観(み)る会」が発足し、以来、観察会や川の清掃
などが継続されてきました。
 平成6年・7年の水害による土京川の河川復旧工事に当たっては、
管理者である県に「ホタルの生息環境を確保した工事」を申し入れ、
これが実現したそうです。

 平成18年4月、若槻地区住民自治協議会が発足し、ホタル再生
プロジェクトが提言されました。平成20年度から清掃活動を通し
て住民自治協議会自然環境部のホタルプロジェクトチームの活動が
軌道に乗り、ホタルサポーターの募集などが行われました。その年
からは、勉強会や観察会が開催され、観察会前には「ホタルを呼ぶ
集い」としてオカリナ演奏や講演会なども実施されているようです。

 平成22年度、「ホタル鑑賞公園づくり事業」で、市の「地域や
る気支援補助金」を獲得。土京川のホタル生息地の鑑賞路約500
メートルの整備、草刈り・下枝の刈り込み、危険箇所にロープや案
内灯・足元灯などの簡易照明を設置しました。
 また、ホタルの観賞時期を迎える前に、川辺の清掃、地区内への
チラシの配布、のぼり(桃太郎)旗の作成、駐車場用地借用などの
準備を重ね、「土京川ホタルの里整備記念の集い」の開催に合わせ
て、ホタルキッズクラブも参加してホタル籠(かご)作りなどを実
施したそうです。

 土京川のホタルの特徴は、地元の資料を見ますと、土京川に長年
すみ付いており、一切人の手が加えられていない、生まれも育ちも
土京川だそうです。

 当日は、住民自治協議会の大村道雄さんが案内してくださり、丁
寧に説明してくださいました。
 かなり長い距離の川筋を一緒に歩かせていただき、川筋の一番奥
(川下)でお別れしたのですが、その際「帰りにホタルの数を数え
ていきますので、ここでお別れします」との言葉にはびっくりしま
した。大村さんの熱心さには心を打たれました。

 今年のホタルが舞う時期は、6月20日前後から7月20日ごろ
までだそうです。夢がありますねえ・・・若槻地区の住宅街で、ホ
タル鑑賞ができるなんて・・・。毎年楽しませてもらえそうです。    

2011年7月14日木曜日

信州ダービーと雑感


 7月3日、南長野運動公園総合球技場で、JFL(日本フットボ
ールリーグ)の長野県内チーム同士の対戦、いわゆる“信州ダービ
ー”が開催されました。AC長野パルセイロと松本山雅FCの対戦
は、1対1の引き分けでした。
 悔しいです。試合経過からすれば、長野パルセイロは、絶対に勝
たなければいけない試合でした。前半からリードしていて、終了間
際に同点にされての引き分けでした。悔しい!

 4月に松本市のアルウィンで行われた信州ダービーも、終了間際
に1点入れられて、この試合は負けてしまいました。今回と同じよ
うな内容です。最後の詰めが甘いと言えばそれまででしょうが・・
・。
 しかし、これがサッカーであり、現在の長野パルセイロの実力と
言えるのかなあ、とも感じました。

 ただ、12試合を終えた段階で、長野パルセイロの選手が受けた
イエローカードは12枚(レッドカードはなし)。7月10日の栃
木ウーヴァFC戦では、4枚ものイエローカードを受けてしまった
ようですが、それでも1試合平均1枚という数は、JFL全18チ
ームの中でもかなり少ない方だと聞いており、誇りに思っています。

 まだ、北信越リーグ時代のことですが、ある試合で、長野パルセ
イロの選手がわざと怠慢なプレーをして(私にはそう見えたのです)
2枚目のイエローカードを受け、退場になったことがありました。
私は非常に怒ったことを記憶していますが、後になって、うそか本
当かは分かりませんが、こんなうわさ話を聞きました。あれは一つ
の作戦。イエローカードの累積で、大切な試合に出場できなくなる
恐れがあるので、イエローカードを清算するためにわざと退場処分
を受けたというのです。あぜんとしました!サッカーにはそんな戦
略があるのかと・・・。選手層が薄く、戦略としては仕方ないこと
なのかと当時思いましたが、何かすっきりしないというのが正直な
気持ちでした。

 「勝つためには反則も仕方がない、それは当然だ」・・・それは
そうかもしれません。しかし私は、選手の皆さんにも、サポーター
の皆さんにも、正々堂々、そして爽やかに戦ってほしいと願ってい
ます。

 今、長野パルセイロはJリーグ昇格を目指して戦っています。も
ちろん、昇格を果たさなくてはいけません。
 そのためにはいくつかのハードルがあることは6月23日付けの
メルマガでも書かせていただきましたし、その中でも一番高いハー
ドルが、Jリーグ仕様のサッカースタジアムであることは、皆さん
ご存じのとおりです。Jリーグ仕様のスタジアムを造ろうという署
名活動も始まっているようです。

 もう一つの高いハードルは、観客動員数です。ホームゲームの1
試合平均3,000人以上というのが条件です。この点では、松本
山雅にかなわないなあと感じています。確かに、松本市のアルウィ
ンの観客収容数は2万人。これに対し南長野運動公園総合球技場は
4,000人ですので、単純には比較できませんが・・・。信州ダ
ービーの観客動員数を比較すると、今回の長野市開催では
3,849人、前回の松本市開催では1万1,663人。これまで
の両チームの平均観客動員数を見ても、長野パルセイロが
2,307人。松本山雅が6,876人。この差は大きいですよね。
    
 先日、職員に、南長野運動公園総合球技場をJリーグ仕様のスタ
ジアムに改築することは可能なのか。そして、どのくらい費用が掛
かるか、概算で調べてもらったところ、約70億円掛かるとの話。
最低でも50億円ぐらいは掛かりそうです。
 行政が改築の全てを行うとすれば、長野市の大規模事業として計
画しなくてはなりません・・・ただ、それを市民合意の下に実施す
るには、なかなか大変だなあ!というのが実感です。民間資金をど
のくらい活用できるか・・・その枠組みをどうするか、工夫を要す
るところです。

 場所の問題もあります。南長野運動公園で1万5,000人分の
観客席を持つJリーグ仕様のスタジアムを造ろうとすると、既存の
施設との間隔がちょっと狭いのですが、ぎりぎり可能です。しかし、
駐車場が全然足りません。

 先日、長野陸上競技協会から、長野運動公園の陸上競技場の老朽
化が著しいので改築してほしいとの要望がありました。この競技場
は昭和51年の全国高校総体の時に建設したもので、確かに耐震化
も行っていないし、古くて使い勝手が悪い。いずれは改築する必要
があると感じています。
 今年、トラックだけは約1億5,000万円を掛けて、アンツー
カーを張り替え、世界陸上競技連盟公認規格である「クラス2」の
認定を受けました。しかし、スタンドには手を加えていませんので、
古くなったままです。

 そこで、私的な意見と断った上で、要望された皆さんに、サッカ
ー場と共用で使える方法がないか考えてほしい・・・とお話ししま
した。それが可能であれば、総合的な競技施設としての利用度も高
まり、市民の皆さんへの説明もしやすくなるかなと感じたところで
す。

 長野市民は、門前町の特徴でしょうか、みんな優しく、礼儀正し
い。そして、外から来られる人に対するおもてなしの心を持ってい
ると思います。それはそれで大変素晴らしいことですが、もっと元
気を出して、自らが主役になるように考えることが必要だと思いま
す。

 戦国の昔、長野市のこの地で川中島合戦がありましたが、主役は
越後の上杉氏と甲斐の武田氏で、長野市は川中島を戦場として「場
所貸し」しただけと感じています。長野冬季オリンピックだって、
市民みんなが素晴らしいおもてなしをして、長野市にお越しいただ
いた皆さんが喜んでくださいましたが、長野市出身の選手が活躍し
てはいません。皮肉な言い方ですが、テニスの国際大会で有名なイ
ギリスのウィンブルドンも、最近では特に地元の選手が活躍してい
るということはなく、場所貸しという点では似ています。

 確かに、スポーツは文化です。文化を育てるためには、気の遠く
なるほどの時間、そしてお金が必要です。先日、松代のまちづくり
を今後どう進めるかいろいろ議論したのですが、私は松代のまちづ
くりは100年かかる仕事であると考えています。スポーツ文化が
育つにはどのくらいの時間が必要なのか・・・いずれにしても、根
気のいる仕事だと思っています。

 ぜひ、長野市から世界に通用する、そして世界で活躍するスポー
ツ選手、芸術家、音楽家・・・長野市民が熱狂的に応援する(でき
る)人物を大勢輩出したいものです。
      

2011年7月7日木曜日

暑い7月です


 7月のイメージは・・・暑い!! 氷水、アイスキャンデー、水
泳、真っ黒に日焼け、汗ダラダラ、麦わら帽子、夏休み、そして宿
題に追われて・・・。
 子どもの頃の夏のイメージはこんな感じ。いずれにしても、元気
なイメージでした。

 社会人になってからしばらくの間は、暑い日が続く時、扇風機の
お世話になった記憶がありますが・・・いつの頃からか、次第に冷
房の効いた部屋での仕事や自動車での移動が増え、そのことに慣ら
されてしまって、冷房設備が当たり前になってしまいました。
 近頃は、日焼けも肌に良くないと聞きます。皆さんも真っ黒に日
焼けすることを避けるようになりましたよね。私も右へ倣えで、ス
キーに行く時も日焼け止めを塗るようになりました(そんなことを
言いながらも、3日の信州ダービー、対松本山雅FC戦で、AC長
野パルセイロの応援に夢中になり、気が付いたら真っ赤に日焼けし
てしまいました。油断は禁物です)。

 6月市議会定例会の一般質問では、今回の震災を受けて、防災関
係のほかに、節電の話題もたくさんありました。長野市としても、
最大限の節電に取り組み、市内企業にもお願いしているのですが、
びっくりしたことが一つあります。

 先週のメルマガでも少し触れましたが、節電のために事務室内の
冷房の設定温度を28度にするというのは当たり前ですし、昔は冷
房なんてなく、暑い中で汗をかきかき仕事をしていたわけです。今
回のような非常時は、設定温度を29度や30度にしても・・・極
端な話、冷房なんて切ってもよいではないかと私は庁内で主張した
のです。

 ところが、それはできないと言われてしまいました。その理由は、
市役所本庁舎のように延べ床面積が3,000平方メートル以上あ
る事業所の場合には、「建築物における衛生的環境の確保に関する
法律」(通称ビル管理法)とその施行令によって、室内温度が
「17度以上28度以下」になるよう維持管理しなくてはならない
という義務規定があるそうです。また、3,000平方メートル未
満であっても、労働安全衛生法に基づく「事務所衛生基準規則」に
より、「17度以上28度以下」となるよう努めなくてはならない、
つまり努力規定があるのだそうです。

 これにはびっくりしました。28度設定というのは知っていまし
たが、29度なら節電になって、環境のためには良いと思っていま
した。
 この他、法律では、温度だけでなく、湿度や空気の流量などの規
制もかかっているようです。

 この規定でいうと、空調設備のない事務所は使用禁止なのでしょ
うか。窓を開けて、風を入れて仕事をするのは、できないというこ
とでしょうか(どうやら、空調設備のない事務所は、この規定が適
用されないということで、使用禁止というわけではないようです)。
 個人の生活まで規制するわけではないのでしょうが?夏は、窓や
戸を開け放し、蚊やハエが飛んできて煩わしかったりするため、網
戸や蚊取り線香のお世話になっている家庭も多いと思うのですが・
・・。

 その後、冷房の設定温度が28度までではなく、29度にしても
よいという情報が伝わってきて、少し混乱しました。実はこの情報
の発信元は厚生労働省で、その趣旨は、「もし事業所の中で、省エ
ネルギーを重視し、設定温度を29度とした場合(罰則規定はなし)
は、熱中症のリスクが高くなるので十分気を付けてください」とい
うものでした。ですから、規定はあくまでも28度ということです。
 いずれにしても、市役所には大勢の市民の皆さんがお越しになり、
その中には体調のすぐれない人もおられます。法律を順守し、適正
な温度を保つことは大切なことだと思っています。

 庁内の昼休みを1時間遅らせて午後1時から2時にする。必要な
照度は確保しながら室内照明を可能な限り落とす。残業を減らす。
会議は可能な限り午前中に行う。市の部課長を動員して市内企業や
団体に節電のお願いをする。市議会からの申し入れで、8月に開会
する市議会定例会の一般質問の日は、朝7時に開始して午後1時ま
でに終わらせる。庁内の空調をきめ細かにオン・オフを繰り返し、
節電する・・・考えられることは全て実行しています。そういえば、
高校野球の夏の甲子園大会決勝戦は、午前9時30分に開始するこ
とになったそうです。
 いずれにしても、「長野から節電の風を吹かせよう」と取り組ん
でいるところです。

 東日本大震災発生直後、長野市は、国からの要請もあり、迅速に
被災地支援を行いました。
 現在は、行政事務職員の現地派遣と長野市へ避難してこられた皆
さんの受け入れ支援を行っています。7月5日時点で68世帯
229人が長野市で生活をされています。特に、原発事故により避
難されてくる皆さんが急増しています。
 避難してくる世帯の事情はさまざまです。例えば、ご主人だけ福
島県に残り、奥さんと子どもで避難してくる世帯、一家全員で避難
してくる世帯。最近では、子どもの夏休み期間だけ福島県から離れ
たいと希望される皆さんの問い合わせが多数寄せられているため、
7月24日から8月27日までの間、日帰り入浴施設「保科温泉」
を無料開放し、夏休み中の短期受け入れを行うことにしました。7
月4日から受け付けを開始しましたが、初日に30世帯から申し込
みがありました。また、就労支援の一助になればと、避難されてき
ている皆さんを同施設の運営スタッフとして雇用する計画です。

 私的な事で申し訳ありませんが、昨年、わが家でも、国や市の補
助を頂いて、太陽光発電の設備を設置しました。購入資金は妻の管
轄ですので正確には知りませんが、300万円以上とのことで、妻
に文句を言われました。
 1年経過してみて数字を確認してみると、電力自給率は40%以
上(発電量÷消費量)で、なかなかのパワーだと感じています。天
気の良い日は、消費量を上回る発電量があって、帰宅して計測モニ
ターを見るのがとても楽しみです。
 国の電力全量買い取り制度が進まず、発電量のうち家庭で使った
分は直接電気料金から差し引いて、使わずに余った分だけの買い取
りしか現段階では実現していませんが、それでも結構楽しめます。

 そういえば、かなり前(平成18年3月)ですが、共和小学校を
移転新築した時、長野市の市有施設で初めて太陽光発電設備を設置
しました。屋根の上の太陽光発電パネルや室内に設置した計測モニ
ターを見て、なるほどと思いました。しかし、自分の家に付けると、
関心は格段に変わります。
 「見える化」が大切なのだとよく言われますが、確かにそうです
ね。「ああ!今日は化石燃料を使わずに、太陽光だけで賄ったのだ
・・・」楽しいし、うれしいものです。

 太陽光による発電量だけでなく、長野市全体のエネルギー使用量
を計測して、トイーゴ広場の電光掲示板などに一日単位で表示でき
れば分かりやすいし、「見える化」の最たるものになるのではと思
っています。ちなみに、市役所本庁舎についても、節電結果をホー
ムページに掲載し、「見える化」を図っています。

 6月末は、企業の株主総会のシーズンです。電力会社の総会も開
かれ、原発からの撤退をめぐってかなり紛糾したようです。結局、
総会議決では、株主からの脱原発案は、提案があった6社の全てで
否決されましたが、これには考えさせられました。
 長野県には、原子力発電所はありません。その代わりということ
でもありませんが、水力発電所がたくさんあり、昔から電力供給に
は貢献してきたと思います(昭和40~50年代の話)。
 その後、原発の建設も進んで、今では他県から供給される電力の
方が多くなっているようです。浜岡原発停止による影響がこれだけ
大きいことを考えると、これまで原子力発電にどれだけ頼っていた
かが分かります。
 長野県には、原発事故による直接的な被害はないと思います。長
野市に一番近い新潟県の柏崎刈羽原発でさえ80キロメートル離れ
ていますから・・・ただし、風向きによっては・・・。
 株主総会の議論を新聞報道などで知る限り、長野県は幸せだなあ
という思いと同時に、他県の皆さんに申し訳ないという思いに駆ら
れました。
 原発反対と言うのは自由です。しかし、47都道府県の約3分の
1の道県には原発があり、運転再開について、今苦渋の決断を迫ら
れている。佐賀県の玄海原発もその一つです。古川佐賀県知事は、
以前長野県の企画課長と地方課長を歴任され大活躍された方ですが
(当時、「Hamidas(ハミダス)」という長野県にまつわる
話題を集めた本を出版されました)、今、テレビで見る顔は、あの
頃のニコニコ顔とはいかないようで心配しています。
 いずれにしても、原発を持たない長野県としては、各道県が苦渋
の末に出された結論に対して、批判することは許されないと思うの
です。逆に、原発を再開するにしても、しないにしても、今後解決
しなければならないさまざまな課題があるのでしょうから、原発を
持たない県として何かお手伝いすることを考えなくてはならない。
そんな気持ちになっています。