** 市長選への立候補 そして長野市長へ **
私個人は、皆さんがどう思われているかは知りませんが・・・、昔から実力以上に目立つことは嫌いでした(それなら何で市長に立候補したのか?と言われそうですが、惻隠の情とか積善の家に余慶あり・・・と言った言葉が我が家の家訓であり、それを守ることが大切と常々感じています)
尊敬する塚田前市長、石田冶一郎県議に背中を押されたとき私は悩みました。私に資格があるか、大長野市のリーダーになれるのか・・・。不遜であり、不思議だったのですが、選挙に負けるかも知れないということは(女房は心配だったと言いますが)、私は全然考えてはいませんでした。
財政的に独立していない地方自治体ですから、市長として腕を発揮したくても難しいだろうことは想像できました・・・。ただそんな時代が続いていましたが、時代は段々変わってきて、地方自治体も独自の行動が出来るような制度が生まれてきていることも分かってきて、そんなことも私の立候補への背中を押したのかもしれません。
その後の展開面で申し上げれば、市役所・市民会館・サッカースタジアム・茶臼山・自然園・ケーブルカー、お金がかかることですが、長野市が独自に計画出来るようになったことは有難いことです。さらに私の夢とすれば、民間資本による大遊園地、高さ50~100メートルの観光タワー、山岳ホテルなどもあれば良いなあ・・・。
そして、日本のヒーロー・ヒロインになる大スターが生まれることを夢見ています。
長野市の誇る“お宝”を大いに大切にしながら、長野市独自の試みが世界に通じるような取り組みを、そして新たなスター誕生の可能性を実感できることを列挙してみますと、様々な可能性が考えられます。
① 緑育で、長野市の緑化や花によって「世界一の花の街」へ。
② サッカーはJ2からJ1へ。そして世界へ。
③ 信毎マラソンが、オリンピック記念長野マラソンになり、ランナーズという雑誌でも全国トップクラスの人気レースになりました。トレイルラン、トレッキング等は今後盛んになっていく可能性があります。
④ 各地のお宝・善光寺・松代・篠ノ井・茶臼山・戸隠・飯綱・鬼無里・信州新町・中条虫倉山・・・。
⑤ 雪を被った飯綱山を中心にした素晴らしい景色(長野100名山構想・・・)
⑥ 飯綱高原で乗馬を盛んにして、馬にまたがりゆっくりと山の中をトレッキングしたり・・・。
平成10年、長野オリンピック終了後、長野は深刻な不況に見舞われました。平成の大不況は日本中を覆っていましたし、特に長野市はオリンピックという宴の後の厳しい落ち込みが重なって、まさにダブルパンチを受けたようなものでした。
私の経営する会社も、過去一度もなかったことですが、初めて高齢者中心に希望退職者を募りました。残念ながらそうすることをお願いせざるを得なかったのです。その時の心の痛み、今でも残っています。
ただ嘆いていてもはじまらない、次なる収益源を求めて・・・そして“長野の旗”を求めて活動することが必要だということを皆が感じていたはずでしょうが・・・、具体的にはなかなか難しく簡単に見つかるものではありませんでした。
オリンピック終了後からみんなで努力してきたことを概括的に思い出してみますと、
平成10年から、私の市長一期目にかけての数年は、経済的には厳しい時が続いたように思います。大きな出来事だったなあと思うことを書いてみますと、
平成10年 金融機関、銀行の破綻が相次ぎました。山一証券・長銀・拓銀・日債銀
北海 道等でもありました。(長野の金融機関は健全でしたが、社会的には危機感が高かったように思います。)
平成11年 国から事務事業の地方への移管(地方分権一括法)。長野市は中核市に昇格
平成11年 長野マラソンがスタート 信毎マラソンの後継 オリンピック記念の冠
平成12年 2000年のPCのソフト問題、大混乱が予測されましたけれど、大きな問題にはならず対処出来たように感じます。
平成12年 欧州統一通貨ユーロ誕生で、世界は、特に欧州は新しい社会に突入しました。
平成12年 シドニーオリンピック開催。高橋尚子さんが女子マラソンで優勝、日本のマラソンブームの火つけ役になったこと、大きな出来事でした。
平成12年 矢沢秀成氏の緑育スタート 篠ノ井中央公園、茶臼山を中心に、花をテーマに大躍進です。
平成13年 三月議会を前にして、五幸商会の大越社長が塚田市長からのお使いで来社されました。「塚田市長は、次の選挙不出馬の予定、それを三月市議会で宣言する。次はお前だと考えている。」とのことで、実質的な後継指名でした。びっくりでしたが、7月になって石田県議から「ワシ、もうあきらめろよ!」と背中を押され、仕方ないかと感じたことは事実ですが・・・。7月中旬まではまったく無視していました。
七月末、女房と二人でアメリカの息子を訪問する約束があり出かけました。
ロスアンジェルスの近郊の町、彼のマンションは素晴らしい場所でした。
ロスのそばのデイズニーランドへ遊びに出かけ、古い施設で従業員も年配者が多く、行列でさんざん待たされて入館したらミッキーマウスと会い写真を撮る。それだけ・・・若干呆れて、これがデズニーの営業戦略か。ミッキーは二人絶対に顔をあわせないようにしているとのこと・・・。ただあれだけ行列で並ばせられて写真を撮るだけ。ちょっと頭にきたことは事実でした。
息子にいろいろ世話になって、美味しいカルフォルニア・ワインのワイナリーに連れて行ってもらいました。このワインのうまさ、ヨーロッパに劣らないと感心しました。
ロスからサンフランシスコへ、そしてヨセミテ公園へ、断崖絶壁をロッククライミングしていた人が失敗して宙づりで死亡したことがあり、銃でロープを撃って死体を落として遺体を回収したとのこと、凄い、そして乱暴な話にビックリしました。
バスでヨセミテへ行く途中、広い平原一杯、見渡す限り発電タワーが林立しているのを目にしました。発電した電気は、全てロスへ送っているとのことで、発電機の羽の型もいろいろあって、発電効率を上げるための工夫はまだまだ余地があるのでしょうが、アメリカの凄さ、迫力を感じました。
一緒のバス乗った男性客二人、最後部で言い争いをしていたようだけれど、あの二人はゲイだと運転手がそっと教えてくれました。シスコはゲイの町とのこと、知ってはいましたが初めての経験でした。
日本に帰る直前、サンフランシスコのホテルの薄暗い喫煙部屋で、女房に市長選の話しを切り出しました。女房は怒ってしまい、そこから飛行機が成田に着くまで口を聞いてくれず。酒ばかり飲んでいました。
成田空港に信毎の記者が待ち伏せしていて、市長選の取材あり、小生はとぼけた応対をしたつもりだったのですが・・・、女房曰く「何であんなに長々と新聞記者に話す必用があるのか」と又怒っていました。
帰国後8月中旬まで、びんずる祭りやお盆行事等で、忙しかったこと記憶しています。お盆の間は、飯綱の友人の別荘で酒を飲んでいました。
8月盆過ぎ、町田・藤沢両市議が来られて、日を限っての市長選出馬の要請があり、受けてしまいました。
逃げ切れないと判断せざるを得ず、友人の藤沢博さん宅を訪問し事情を話して、出馬の為の政策造りをお願いしました。JC関係者中心に、夏目君等が藤沢さん宅に集まり、皆で政策つくりを行いました。その時市議に言われての出馬では消極的、独自に出馬声明をしましょうと言われましたので、 9月1日にマスコミ各社に急遽集まってもらい、勝手に立候補会見を行いました。
ある記者曰く、「この席には政治家が誰もいませんねえ・・・。」「私はああそうですねえ・・・。」
正式出馬宣言後、市内挨拶回りを始めました。選挙運動ではなく、政治活動なので許されるのだと聞きました。
60歳の時家族からプレゼントしてもらったピンク色のローレックスの腕時計、長野電鉄からしょうがなく買わされた故神津会頭が乗っておられたトヨタセンチュリー、どちらも選挙には相応しくないから止めろと言われ、あきらめました。「お前の頭の下げ方が悪い。」「手をポケットにいれるのをやめろ。」「早口すぎる。」「”実は…“が多すぎる。」いろいろ言われたことを思い出しています。
9月11日、ニューヨークのテロ事件が発生しました。市内の挨拶回りで家に帰ってきたら、テレビで大型のジャンボ機が、大きなビル(貿易センタービル)に衝突する映像が出てきました。何が何だかわからなかったのですが・・・。煙がもうもうと上がっていました。
しばらくして、テロ事件とわかり、これで長野市長選なんてちんけな話は吹っ飛んでしまうだろうと感じました。ツインタワーだけでなく、ペンタゴンにもテロ事件があったようで、アメリカに対するテロ事件としては大変な規模のものとなり、平成13年9月11日の事件は、今までとはまったく質の違う大事件だったと思います。
そんなことには関係なく市長選は行われました。立候補者はよく覚えていませんが5~6人、女房の反対は前述通りですが、さすがに心配そうで応援してくれました。私は絶対に勝てる。この体制で負けるわけはない・・・。投票日は10月28日、殆どの候補者は供託金没収、実質的には私と共産党の候補者二人の選挙でした。
しばらくして11月11日、私は市長に就任しました。
間もなく、12月議会に向けての庁内ヒアリングがはじまりました。
市長時代、一番勉強になったのは、このヒアリングの場だったなあということを今思い出しています。市長室と秘書課の間に廊下がありますが、そこを通るたびに足がガクガクしたこと、滅多に緊張しないことが自慢の私ですが、さすがにそうはいかなかったなあとその時は感じていました。
私は61歳、市役所の部長は、大半が50代後半ですから、人生経験は俺が一番上だと思いついたとき、やっと落ち着いたというのが正直なところです。
市長時代の12年間のことは、市長現役中、書き続けた舵取り通信でご覧下さい。
間もなく、12月議会に向けての庁内ヒアリングがはじまりました。
市長時代、一番勉強になったのは、このヒアリングの場だったなあということを今思い出しています。市長室と秘書課の間に廊下がありますが、そこを通るたびに足がガクガクしたこと、滅多に緊張しないことが自慢の私ですが、さすがにそうはいかなかったなあとその時は感じていました。
私は61歳、市役所の部長は、大半が50代後半ですから、人生経験は俺が一番上だと思いついたとき、やっと落ち着いたというのが正直なところです。
市長時代の12年間のことは、市長現役中、書き続けた舵取り通信でご覧下さい。