【宗教法人】
宗教法人法が出来たのは、戦後のことだろうと思います。
つきつめて考えれば、宗教とは何か、という問題に行きつくのですが・・・
本来、宗教には法人格といったものは、不必要なのではないか。必要だったとすれば、根本的に改革する必要がある・・・ということが、前から感じていることでした。
例えば昔は、大きなお寺には、お手次寺というものがあって、お寺のお手伝いをする、具体的には主人に仕える部下の関係だったようです。それが、宗教法人法が出来たとき、法人としては、お寺も、お手次寺も、全て宗教法人法上は、対等の関係になったわけです。本来はお寺と御手次は一体として宗教法人として認可されるべきものだったのではないでしょうか。
善光寺という大きなお寺でも、昔は一山という場合、多分一体的な運営だったようにおもいますが、宗教法人法が出来た為か、宿坊も全て独立して、個々に宗教法人法上のお寺になってしまいましたので、一山としての纏まりは、変わってきているように思います。社会の秩序としても、従来とは違ってきていることは事実だろうと思っています、
例えば善光寺の宿坊には、いくつかの顔があります。善光寺如来に奉仕し、参拝者に善光寺如来さまの御徳を広める宗教者としての顔、そして宿坊というお客を泊めて収入を得る経済行為を行う顔、善光寺の発展につくす顔、これらを達成することが、大切なはずですが、矛盾なくこれらの顔を満足させるのは、なかなか難しい、世間の評価はどうなのでしょうか?・・・個々が自由且つ多様な世界を作っていくこと、それは必ずしも悪いことではないと思いますが、信仰という中心教義をもつ宗教の世界では、どんなものでしょうか・・・お寺はもともと個人のものではなく公のものですから、すべてのお寺は宗教法人のものであり、本来世襲ではないはずなのですが、実際は何代も継承しておられるのですから、世襲と同じことになっているということでしょう。
大きなお寺の敷地を、実質自分のものとして使って、固定資産税や相続税を払わないということも、平等性という点からは問題でしょう。お寺は個人のものではないと言わざるを得ないのです。さらにお寺の住職は、誰が、どうやって、きめるのか、全く曖昧です。
善光寺・大本願のような大きなお寺(大本山)では、今になって、信徒総代や、一山、浄土宗、本山が、予算や決算といったプリミテイブな決めごとから、全体の規則をどうするか、話し合いがはじまりました。でも小さなお寺では経済のこともあり、世襲を脱するのは、なかなか難しいでしょうね・・・・
最初に申し上げた通り、宗教法人は、法律にはなじまないのではないか・・私の持論です。法律通りに運用することは、今まで述べた通り、まず不可能であり、宗教法人法を改正するより仕方ないでしょうね。
特に、公の財産であるお寺と個人財産、住職の決定方法等は、世襲問題とも絡んで、難しいでしょうね。宗教法人法の変更がないと、合理的にはならないですよ。でも一番危険な団体法であることも・・・・事実かも知れないと私は感じています。
一番の問題だなあと私が感じているのは、宗教法人・公益法人・政治団体・NPOの区別は問わず、何らかの恩典を有している組織について、県・市の段階で、審査委員会を整備・充実し、目的通りに活動していない団体は、整理することが必要です。
①
その認可権をきちんと委員会(国・県)が把握すること、
②
認可の条件をはっきりさせること、
③
一旦認可した組織でも、きちんと審査して、資格が無くなったものは、認可を剥奪する規定をはっきりすること。
この③が重要です。日本では一旦獲得した資格は、宗教法人だけに限らず、失わないことが多すぎます。例えば、行政の問題で言えば、数千人の“市”が存在するなんてことも本来おかしいのではないでしょうか、町や村になればよいのでしょうし、企業も不渡り事件を起こしても倒産してないなんてこと、本来は許されないはずですが・・・弁護士資格も正しいことの弁護が当然としても・・・正義に反することでも弁護するというのは納得がいきません・・・もっとも何が正義かわからないということも、当然あるのでしょうが。
NPOの認可なども、比較的簡単にできるようですが、睡眠法人が多すぎるのではないでしょうか。