2002年11月28日木曜日

えびす講の花火のこと


 23日の夜、恒例の第97回長野えびす講煙火大会が盛大に行わ
れました。今年は例年に比べ大変暖かくて天気もよく、絶好のコン
ディションで、素晴らしい花火を満喫しました。

 えびす講は岩石町にある西宮神社のお祭りで、毎年11月19日
が宵恵比寿ということで、20日に行われているものです。そして
花火はその協賛ということでしょうか、あるいは農業が主要産業で
あった時代、収穫祭的な意味もあって商店の客寄せの行事として、
毎年11月20日の夜に行われてきました。

 「花火は暑いときのもの、11月は寒くて駄目だ」という意見は
随分ありましたが、伝統の行事であり、そしてこの時期は空が澄ん
できれいに見えるとか、夏の最盛期よりこの時期の開催は花火師に
とっても閑な時期なので、価格の割に盛大な花火を打ち上げられる
といった現実的な話もあり、花火の時期としては異例に属するかも
知れませんが、実際年々盛大になってきており、この時期の開催は
定着しているといえるでしょう。

 この花火大会では、花火師が新作花火の腕を競う「全国十号玉新
作花火コンテスト」も同時に開催されており、今年で11回目を迎
えました。翌年の新作花火をいち早く見ることができるということ
で、こちらも好評をいただいているということです。

 毎回、花火打ち上げ現場の丹波島橋近辺の車が大変混雑するのが
悩みだったのですが、ある年11月20日がたまたま日曜日だった
とき、付近の車の流れがとても良かったので、それなら固定的に休
みになるその近辺ということで、23日(勤労感謝の日)に固定さ
れたわけです。

 いずれにしろ大変寒い日が多く、雪が降ったときもありました。
でもあの寒さの中、多くの市民が集まりますし、最近は遠来のお客
さんも増えているとのことで、抽選会等の花火以外のイベントも行
われ、露天の屋台もたくさん出店するようになって、賑やかになっ
ています。また、すぐそばの「サンライフ長野」の一室では、毎年
米寿のお年寄りを招待するイベントも行われています。INCがTV
中継するようになったことも、有り難いことです。

 (過去の歴史のなかで)
 ちょっと私的なことで申し訳ないのですが、私の祖父鷲澤平六は
この花火の打ち上げに熱心に取り組んだ人だったようです。祖父が
昭和4年に亡くなった後、長野商工懇話会(長野商工会議所の別働隊)
が作ってくださった「鷲澤平六翁」という本がありますが、その中
に祖父の言葉として、こんなくだりがあります。

 「東京から、名題の大芝居を招いて、見物するとしても、ざっと、
一日に三千円位な金を使い果たしてしまうが、しかもその見物人の
数は、七・八百か、精々千人が止まりじゃねえか、随分高いものだ。
それに比べると、花火の金は三・四千円程度で、拾何万という人に、
貧富老幼の差別なく、顔を外へ差し伸べれば,無造作に見せられる
んだから、世の中に、こんな安いものはあるまい」

 この話、多分大正から昭和のはじめ頃のことですから、高いビル
も無く、娯楽もあまり無い時代、そして長野市もまだ合併前の市域
が狭い頃のことで、今とはかなり違うように思います。でも私は、
若い頃この本を読んだとき、祖父の発想法にびっくりしたことを思
い出します。

 長野の花火の歴史は古く、江戸時代から小規模な花火大会が盛ん
であったようで、明治になってからも、明治11年ぐらいから私的
な催しとしてあったようです。そして、明治32年に新しい体制で
行われるようになったのですが、景気の変動があったりで私的な運
営は無理になり、大正4年、長野商工懇話会が後援し、寄付を全市
的に集めるようになってからは、安定的な運営が出来るようになっ
たようです。

 その大正時代、ニ尺玉(直径約60cm)という当時としては最
大の花火を初めて打ち上げ、世間をアッと仰天させたことで長野の
えびす講煙火大会は有名になり、全国的に見ても、現在よりかなり
存在感は大きかったようです。そして戦後は長野商工会議所や長野
商店会連合会の主催になって、今日まで続いている伝統の行事です。

 花火の打ち上げ場所の問題は、長野市の都市化の進展と共に、危
険を避けて市内をあちこち動いています。ただ、花火には商店街の
振興という役目もあるわけで、あまり街から離れては寄付が集まら
ないということもあります。相反するテーマの為、主催者、警察、
消防等が歴代かなり苦しんできたものです。

 私達の子どもの頃は、柳町中学校の少し西側(中心街に近い方)
高土手という場所でした。都市化の波で昭和40年代には地附山、
そして丹波島橋の上流で上げたこともあったように記憶しています。
現在の丹波島橋と長野大橋の間に定着したのは、そんなに古いこと
ではありません。
 この場所に移す時には、日赤病院が近いことから音が心配された
のですが、日赤病院の理解もいただいて、現在まで大きなクレーム
もなく実施されていることは、大変有り難いことです。

 えびす講の花火が今後ますます盛んになって、初冬の花火大会と
して、多くのお客さんに来てもらえるように期待したいと思います。

2002年11月21日木曜日

市長就任一年を迎えて(その3)


 行政の説明責任(アカウンタビリティ)や民意の行政への反映と
いうことが重要視されています。今週号ではこれらの点について取
り組んできた行政施策や今後の考え方という点について書かせてい
ただきます。

(広報広聴制度の充実)
 みどりのテーブルとして実施している広聴事業のうち、従来の地
区行政懇談会を今年度から「元気なまちづくり市民会議」と名称を
改め、開催時間帯を過去の慣例にとらわれず、なるべく多くの皆さ
んが出席できるように、休日や夜間も含めて地域の皆さんの都合の
良い時間にお願いしたり、課題についても、地域の皆さんが事前に
話し合って決めた地区としての提案だけでなく、当日参加された市
民の皆さんが発言できる自由討議をできるだけ取り入れていただき
たいと申し入れました。
 その他、地域横断的なテーマや、女性・子ども達・ボランティア
団体あるいは外国人の皆さんとの懇談や、私が各種グループの活動
の拠点に出向いて実施する「みどりの移動市長室」も積極的に開催
しました。
 特に「元気なまちづくり市民会議」では、区長さんにお願いして、
市側も従来のやり方を変え、プロジェクターを使い、図やグラフな
どをスクリーンに映し出すなど、分かりやすい説明とともに、出来
るだけ率直に話すなどを心掛けたつもりです。まだ初年度ですから
十分ではないと思いますが、少しずつはご理解いただけたのではな
いかと感じています。さらに、市役所の若手職員との朝食をとりな
がらの「市長と語る元気なまちづくり懇談会」を週1回実施してい
ます。この目的は、理念の共有と資質の向上ですが、大変有意義な
形で現在進行中です。それ以外にも、メールマガジンの発行も私の
考えを知っていただくという意味で有意義な事業と捉えています。
 
 これらの会議などで感じたことが、いくつかあります。

1.全体的にもう少し自由に発言できる雰囲気が出れば良いなぁ、
  ということ。

2.あらかじめ分かっている質問に対する答えは、当日、担当部
  長がいますので何とかお答えしますが、自由討議では、どん
  な意見や要望が出てくるか分かりません。そのため、担当職
  員がいないと正確にお答えできないことが多いということに
  ついては、大変に申し訳ないと思うのですが、市役所の縦割
  り組織のもとではどうしても仕方のないことでした。

3.市長の立場は大変微妙でして、その権限の大きさ故かも知れ
  ませんが、直接的なお答えをすると、それが事実になって一
  人歩きしてしまう。ある意味で決定になってしまうというこ
  となのです。私はすべての施策は、行政の中で十分に話し合
  ってから、決定すべきというのが信念で、市長が勝手に決め
  るものではないと常に考えています(ただし、これはすべて
  を人に決めてもらうということではありません。自分の意見
  をきちんと伝え、組織の中の議論を経て、発表するべきであ
  るということです。そして根幹のところでは、市長は絶対に
  ブレ無い、説得責任を果たすことが大切なのでしょう)。そ
  のため、その場で「やる」ということは一切言わないように
  してきました。でも長野市の実情とか近い将来の構想につい
  ては一生懸命お話したつもりですし、出席していただいた皆
  さんからは、お世辞もあるとは思いますが「よく分かった」
  という好意的な評価をいただいたように思います。

4.若手職員との「市長と語る元気なまちづくり懇談会」は、1
  回12人づつ4回を1サイクルとして開催していますが、年
  内に約100人と話をすることになります。職員の勉強、そ
  して私との理念の共有を目指したのですが、最近は私の勉強
  会みたいになって、教えられることが多い。個々の職員の能
  力はかなり高いなぁ、与えられた職務に対しては相当の困難
  があっても、職責を遂行できる人材ということを感じていま
  す。しかし、市とか県とか国家全体との関連において考える
  訓練はされていないことや、まったく新しいアイデアを具体
  的に提案する人は少ないという印象を受けました。即ち政策
  マンはあまり多くないし、市長の政策に根本的な所で文句を
  つける職員もあまりいない(市長に反抗しろというのではな
  く、内部で気軽に提案をする、そして議論する、非公式の話
  だから外部には出ないし、人事査定には関係ない、だから言
  いたいことを言う。そんな中から新しいアイデアが出てくる、
  そんな風潮をつくりたい)と感じました。縦割り組織という
  のは、個々の政策について責任体制がはっきりするという意
  味では良いのですが、これからは総合的に考えていくことが
  大切で、それに対応できる職員の養成が重要と考えています。

(今後への考え方)
 本年度は第三次長野市総合計画後期基本計画、行政改革大綱改
正、行政評価の施策への反映、NPO助成要綱、男女共同参画の
条例等々、近い将来の長野の骨格を決める話し合いや議論は一応
終止符を打てると思っています。即ち、年度内に方向性を決め、
条例を制定すべきものは制定し、平成15年度からは、その実行
に全力を挙げる、ということです。議論は終った、具体論で市政
を進めたいと考えています。

2002年11月14日木曜日

市長就任一年を迎えて(その2)


 先週は、市長に就任して一年間を振り返り、強く感じたことや良
かったと思うことを書かせていただきました。今週号では、私が市
長に就任してからの主な出来事を振り返ってみたいと思います。

(この一年の主な出来事)
1.最初に取り組んだ仕事は、旧ダイエー長野店ビルの取得と旧そ
  ごうの自己破産問題を含む、中心市街地の活性化問題でした。
  確かに企業社会のことに行政が口を出すことは、良い結果を生
  まないかも知れないという危険性を抱えながら、現在の長野市
  の状況を考えると、どうしても優先的に取り組まざるを得なか
  った。もう少し早く片付けたかったのですが、難しい問題もあ
  って、旧ダイエー長野店ビルのオープンは来年4月の予定にな
  りました。全国の中心市街地再生のモデルになりたい、という
  希望を抱いています。

2.浅川ダムの中止も長野市にとっては大きな話題であり、今後ダ
  ム無しの治水を追及することになります。残念ながら、長野市
  の研究ではまだ結論は出ていませんが、安全にかかわる問題で
  すので、何らかの具体策を早急に見出す必要があると感じてい
  ます。

3.10月8日(火)に豊野町から長野市との合併協議の申し入れ
  がありました。長野市とすれば、まだ市民の皆さんに相談をし
  ていませんが、豊野町ではいろいろの検討がなされての申し入
  れということです。将来、政令指定都市を目指すとすれば、長
  野市にとっても素晴らしいお話だと思いますし、また、国は合
  併を推進するために期限付きではありますが、いろいろな支援
  策を用意しています。地方分権が進む中、市町村の受け皿を整
  備すべきことは当然ですし、どうせ合併をするなら、この支援
  策を使わない手はないというのが私の考えです。ただ、この問
  題はこれから両市町で協議することですから、最終的に合併す
  ることになるかどうかは分かりません。今後、任意合併協議会
  を設置して本格的な調査・研究を進めてまいりますが、市民の
  皆さんには、協議会における進展具合いを出来る限りオープン
  にお伝えしていこうと考えています。

4.その他、実際の動きでは、イベントが随分盛んになってきまし
  た。私の経験したものだけでも、えびす講の煙火大会、長野オ
  リンピック記念長野マラソン、びんずるまつり、真田まつりな
  どは、全国的にもその知名度を上げているようですし、オリン
  ピック4周年記念イベント、更北の古戦場フェスティバル、
  七二会の陣場平トレッキング、芋井そば祭りなどは、地域の皆
  さんの手作りによる心温かいおもてなしがとてもありがたく感
  じました。全てを書き尽くすことはできませんが、各地の従来
  から行われている神社のお祭りや市民が作るお祭りは随分盛ん
  になっています。さらに、長野駅から善光寺までの参道や小路
  に花回廊が広がった『ながの花フェスタ2002』は、全国か
  ら多くのお客様をお迎えすることができ、このイベントが長野
  の春の歳時記に成長することを願ってやみません。
  まちの活性化のためには、市民の皆様が出来るだけ主体的に地
  域の歴史・文化の保存に努めながら、交流人口を増やし、長野
  発の情報を発信し、そして街の賑わいを演出していただくこと
  が、大変有意義なことと考えています。

(この1年の出来事については、メールマガジンで配信したものが
あります。詳細につきましては、バックナンバー
https://wwws.city.nagano.nagano.jp/mail-mgz/backno/2002/index.html
をご覧ください。)

 この他にも様々なことがありました。たくさんの方々とお会いす
ることができましたし、いろいろなお話を聞くことができました。
また、それぞれの出来事に感動や苦悩がありましたし、行政の役割
について考えさせられることもしばしばありました。
 
 そんな中で、いかに多くの意見やアイデアを行政に反映させてい
くかということを真剣に考え、長野市の考えや情報をできるだけ多
く、そして正確に市民の皆様にお伝えするにはどうしたらよいかと
いうことを研究し、その一環として広報広聴制度の充実を行ってま
いりました。

 次週のメールマガジンでは、この広報広聴制度や今後の考えにつ
いて配信させていただきます。

2002年11月7日木曜日

市長就任一年を迎えて(その1)


(はじめに)
 昨年の11月11日に市長に就任して以来、一年が経過しました。
私としては、全く違う世界に飛び込んで一生懸命頑張ったつもりで
すが、行政の勉強に費やした一年であったと思います。そして、よ
うやく年間のローテーションが分かってきたという段階です。

 「行政に民間の感覚を入れる」ということを唯一の公約として市
長に就任したのですが、市長の仕事は自分の知っている世界とあま
りにも違っていたが故に、慣れるまで我慢ということで、人の話を
聞くことを中心にやってきたつもりです。「嘘言え!」という外野
席の声も聞こえそうですが、自分の意見を出す場合にも、なるべく
決定的な話ではなく、様子見的な発言、「こんなことを考えていま
す」というような言い回しに終始したように思います。これには訳
がありまして、市長の立場は大変微妙でして、その権限の大きさ故
かも知れませんが、直接的な結論をその場で回答すると、それが事
実となって一人歩きしてしまう。私は、全ての施策は行政の中で十
分に話し合い、様々な側面から検討する必要があると考えているか
らです。そうは言いましても、2年目を迎え、行政の状況が分かっ
てまいりましたので、施策の方向性などについては、もう少し自分
の考えを前に出そう。そうでないと、「行政に民間の感覚を入れる」
という公約に反することになると考えています。

 今回のメールマガジンでは、この一年を振り返っての私の思いと、
これから目指すべき長野市のあり方について配信していきたいと思
いますが、若干話が長くなってしまいますので、3回に分けてお話
しさせていただきたいと思います。

 今週のメールマガジンでは、この一年を通じて強く感じたことや
良かったことを私なりにまとめてみました。

(強く感じたこと)
 市行政のレベルでは手の打ちようがないのかも知れませんが、今
一番行政が考えなくてはならないことは「現在の景気の悪さ、そこ
からくるのであろう閉塞感・活気の無さ」これを何とかしたい。も
う一つは、長野市も高齢化率約20%という高齢社会が間近に迫り、
さらに、今後は人口減少の時代を迎えようとしている中で、これか
らどんな社会になるのか分からない。この二つのことに対し、行政
は何をすべきか、現状では、なかなか打つ手、それも有効な手段が
見つからないことです。何とか明るい話題を提供したい、閉塞感を
脱却したい、高齢者が活躍する場と若者の主体的社会参加の場を作
りたい、それは政治を行う上で、最も大切なことだとは思いますが、
精神論や理念は別にして、なかなか具体論が、それも効果的な提案
が出せない、そのもどかしさを感じています。結局は王道はない、
一歩一歩確実に取り組むことが大切だと思っているのですが・・・。
民営化の推進とNPOの活動が、もしかすれば活路を開いてくれる
かも知れない、との予感はありますが・・・。

(私自身が良かったと思うこと)
 昨年の市長選挙では、私自身が政治、行政の仕組みや組織、そし
て細かいことを知らなかったが故に、諸々の政党やグループと選挙
のための政策協定・約束をしないことを原則にしてきました。唯一
の公約は「民間感覚を行政に入れ、市民とのパートナーシップで元
気なまちづくり」ということだけでした。ある意味では行政を行う
上でいろいろな勢力に気を遣わず、長野市のためにどうするのが良
いか、ということだけ考えていれば良い、というフリーハンドをお
許しいただいた、言葉を変えればしがらみに囚われないで行政を担
当させていただけるということであったと思っています。

 60歳を超えて、本来ならそろそろ引退を考える時期。全く新し
い挑戦のチャンスをいただいたということは、本当に幸せ者だと思
います。それ以来、このチャンスを無駄にしては申し訳ない、何が
何でも長野市の将来にプラスになることをやろう、それが私の決心
でした。このまちを継いでいく子ども達のために・・・。

 さて、そうなると今度は自分の行動は、自分で責任を持たなくて
はならないことは当然であり、そのためには、自分をいかに「無」
にすることが出来るか。初心を忘れず、「無」をどう具現化するか
ということが生意気なようですが、私のテーマだと考えるようにな
りました。「無」なんて格好をつけて言う話ではないかも知れませ
んが、要は「長野市をどうするか、私心を無くして考え・行動する」
ことに専念する、ということでしょうか。幸せなことに、応援して
くれた昔からの仲間も、特に何かを要求することも無く、長野市の
ために良かれということを推進する私の立場を理解し、支援をして
いただいたように思います。

 次週は、市長に就任してからの主な出来事を振り返ってみたいと
思います。