2003年11月20日木曜日

市長就任以来、2年間が経過しました(その1)


 1940年生まれの私が、幸いにも皆さんのご支持をいただいて、
市長に就任した日は2001年11月11日でした。60歳を過ぎ
て、通常ならそろそろ自分の人生の総決算を考えるべき年代に達し
ていながら、新しい人生に挑戦するチャンスをいただいたことは、
大変だなあと思いながらも望外の喜びでもありました。

 振り返ってみますと、1962年(私が22歳の時)に父が48
歳で亡くなって、何も分からないまま家業を継いでから約40年間、
会社経営に携わってきました。東京オリンピック前の時代から高度
経済成長時代、1973年の第一次石油ショックと低成長時代、円
高時代からバブル絶頂期へ、そしてバブル崩壊から平成の大不況、
長野冬季オリンピック開催・・・・、本当に山有り谷有りの時代を
経験してまいりました。

 その間、仕事や業界団体の活動以外で、青年会議所(JC)活動、
PTA活動、長野市教育委員、長野商工会議所・県経営者協会・長
野都市経営研究所等、様々な活動を通じて社会とのつながりを学ば
せていただきましたし、私なりにJC時代に学んだ「明るい豊かな
社会」づくりのために努力したつもりです。ある程度、時間の余裕
をつくり、お金を使いながら社会活動をやってこられたのは、会社
の部下や仲間、そして友人が支えてくれたからこそ出来たことであ
り、今でも本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 市長になって何が変わった?時々聞かれることですが、随分変わ
りました。

 第一は、時間の余裕が無くなったことです。以前は、講演会など
の案内が来ると、できるだけ時間をつくりフラッと出かけ、時には
居眠りなどをしながらも、数時間のんびり受講できたわけです。現
在はその時間は取れませんし、毎週開催しているロータリークラブ
の昼食会も年に数回出席できれば良いほうです。昼間時間が空いた
から、ちょっと友達の会社に寄ってだべってくる、本屋で立ち読み
しながら時間をつぶす、そんなこともなくなりました。休日がほと
んど無い、本を読む量が減った、忙しすぎる・・・・・私の性格に
もよるのでしょうが、計算外のことでした。

 第二は、市民の皆さんから負託されているという緊張感です。私
心を無くし、後ろ指をさされることは絶対にしないという決意は当
たり前ですが、市役所で一番高い給料をいただいているのだから、
一番働くのが当然と自分に言い聞かせてきました。それとは少しニ
ュアンスが違うのですが、私は給料をいただくという経験は初めて
でした(教育委員の時代は、確か月6万円ぐらいの手当をいただい
た記憶がありますが)。給料をいただくという事がこんなに有り難
く、同時に大きな責任を感じることとは思いませんでした。身の引
き締まる思いです。また、10年ぐらい先を見越して誤り無い判断
をすることの難しさ、ストレスを感じています。

 第三は、現場主義を標榜していますが、会社時代よりは現在の方
が実践しているように思います。
 今から考えると、会社時代は、東京を含む近県はもちろん、県内
の事業所へも私はほとんど顔を出しませんでした。しかし、市役所
に入ってからは、問題を感じた時はすぐ現場を見ようと心がけてい
ます。現場を見て初めて分かることがたくさんありますし、何より
も現場のスタッフや地域の方のお話しを聞くことは、机上では見え
ない背景や実情を実感できると思い、少しでも多くの現場に足を運
ぶように心がけています。でも、なかなか時間が取れなく、2年経
っても知らないことがたくさんあることは事実です。

 第四は、自分の意見を自由にそして気楽に言えないことです。以
前は公式・非公式を問わず、かなり乱暴な、あるいは思い切った意
見を人前で発言していたのですが、今はそれが許されなくなってし
まいました。簡単に性格は直りませんので、つい率直にモノを申す
こともあり、首長の発言としてはかなり不適当なこともあるようで
すが・・・・・。議会でも「市長発言の重みがわかったか!」なん
て与党の議員さんに言われ、頭を下げたこともありました。要望や
提案に対し「研究します。」と「検討します。」とは意味が違うと
いう話にはびっくりでした。

 次回は、この2年間で私が心がけてきた政策方針や、今後の目標
などについてご説明申し上げたいと思います。