2004年5月20日木曜日

九度山町で開催された真田サミット



 今年の真田サミットは、和歌山県の九度山町で開催されました。
大変珍しい所へ行かせていただきましたので、今日はその報告をさ
せていただきます。

 九度山町が真田サミットのメンバーである理由は、関ヶ原合戦の
後、敗れた豊臣方の真田昌幸・幸村・大助の3代が、14年間蟄居
(ちっきょ)していた縁によるものです。昌幸は蟄居中に死去、幸
村・大助父子は大阪冬の陣が始まると、九度山を脱出して豊臣方に
はせ参じて大活躍し、夏の陣で討ち死にしたことで知られています。

 5月3日(月)に大阪経由で、南海電鉄で高野山へ行き、蓮華定
院という宿坊に宿泊しました。電車が橋本市を過ぎると、険しい山
道が続きます。単線なので交互待ち合わせ通行を繰り返しながら、
時間をかけて終点の極楽橋駅に到着し、そこからかなり長いケーブ
ルカーで高野山へ登りました。標高約900mということですが、
山の上はかなり広い盆地のようで、弘法大師が修行の場所として開
いた霊場です。

 蓮華定院は真田と縁が深い宿坊で、住職のお話だと約500年前
から、信濃の豪族と宿泊の契約をしていた記録があるそうで、豪族
の方からそんな契約を申し出るはずがありませんから、多分「高野
聖」(注)が諸国を回って、現在なら営業マンあるいは宣伝マンと
して契約書を交換してきたものであろうというお話でした。宿泊し
た翌朝6時、善光寺で言えばお朝事でしょうか、自坊の本堂でお経
と法話で約1時間半、修行をしました。

 (注)高野山の修行僧で、高野山の法灯を守るために諸国を回り、
    集金して高野へ送る仕事をしていた

 朝食後、弘法大師をお祭りしてある奥の院をお参りし、バスで九
度山町へと山を下りました。この道がまた大変。狭く、そして急傾
斜で、危険な道と感じました。来月にも、高野山と熊野がユネスコ
の世界遺産に登録されることが確実だそうですが、そうなった場合、
観光客が押し寄せたらどうなるか・・・・ちょっと気になることで
した。

 九度山町の役場でサミット首長会議が開催され、来年の開催場所
は群馬県の月夜野町、そして再来年は群馬県の3町村で検討すると
いうことが決まり、共同宣言を決定しました。私のかじとり通信も
お配りしましたが、和歌山大学の教授に誉めていただきました。

 午後は、まず記念講演で作家の藤本義一さんの話。そしてコーデ
ィネーターに和歌山大学の堀内助教授をお迎えして、参加11人の
首長・助役等のパネル・ディスカッションが行われました。でも
11人のパネラーというのはどうみても無理がありますね。私はもっ
ぱら「エコール・ド・まつしろ」の宣伝に徹しました。ただ長野市
と他との違い、それは他市町村の場合、真田というのは真田幸村の
ことであり、戦国時代のことなのです。それに比べ松代は、江戸期
250年間の平和な時代の統治なのです。しゃべっていて若干の違
和感があったことは事実です。

 最後に堀内助教授のまとめがあり、1.真田のロマンを共有する
市町村が過去を振り返り、それを現在にどう生かすか、戦略を共有
する必要がある。2.所有価値より利用価値・使用価値を高める戦
略。3.コンセプトとして安全・安心。心豊かに人間らしく。子供
達へ、未来を託していく視点。4.地域主権、即ち住民のもってい
るポテンシャルを最大限に活かす・・・・という4点を強調されて
いました。

 その夜は、九度山町から車で1時間ぐらいの岩出町のホテルで宿
泊、交流会が開かれました。皆さんは九度山という地名の由来を、
ご存知でしたか?私も不思議に感じていたのですが、次のとおりだ
そうです。弘法大師が高野山を開かれた折、周囲7里(約28km)
を女人禁制としたため、四国善通寺からはるばる訪ねてきたお母さ
んが山に上ることができないため、弘法大師は麓に庵を建立しまし
た。そして、大師は母に会うために20数kmの山道を、月に9度
通ったという伝説があり、九度山の名称もそのことからきていると
のことです。大師が親孝行であったことの伝承なのでしょう。

 翌日は九度山町に戻り、真田庵で真田3代の法要を営みました。
昼食後、町民体育館でボランティアの皆さんにより、武者行列の
準備が始まりました。私たち首長は、真田親子や真田十勇士の鎧兜
の衣装を着せられ、さらに、化粧をして立派な格好に変身(この鎧
兜は全て九度山町の備品だそうで、大変立派なものでした。竹下首
相のころ実施された、ふるさと創生基金事業のお金を使って購入し
たものだそうです)。重くて、暑くて困りましたが、何とか1時間
半の馬上パレードを無事済ませました(ちなみに私は十勇士の一人、
穴山小助役でした)。

 いずれにしろ、真田昌幸・幸村に対する尊敬の念はかなり高いも
のがあります。真田庵で毎年法要を営むということは、真田の行っ
た善政が、今日もこの町に息づいている証拠ではないでしょうか。
もうひとつ、毎年5月5日は高野山大学の学生さんが山を降り、九
度山町で托鉢の修行をしているということで、ちょうどその場面に
出会いました。100名ぐらいでしょうか、坊主頭の、真新しい袈
裟をまとった人が10班に分かれて、あちこちの門口でお経を唱え
ている姿、すがすがしさを感じると同時に、信仰に厚い町なのだな
あと感じました。

 話は変わりますが、5月3日には私は行けませんでしたが、横浜
開港150年祭ということで、松代の方々が「エコール・ド・まつ
しろ」の宣伝として、槍振り隊を中心に100名を越す大人数でパ
レードに参加してくださいました。市川助役、春原松代商工会議所
会頭を中心に、皆さん本当にお疲れさまでした。佐久間象山先生が
あっての横浜開港ということで、横浜市からも参加を要請されたこ
とに応えたものです。大変な人出で、松代隊は大いに面目を果した
との報告を得ています。