2004年10月28日木曜日

台風22号に続いて23号が長野を襲いました


 台風22号の痛手が癒えない10月20日(水)、またまた超巨
大台風23号が近づいてくる。台風が日本列島を縦断するという最
悪のコースが予想され、西日本各地の被害が続々報道されておりま
した。長野市も今回は直撃されそうだということで、緊急時に備え
た態勢をとり、私も電話が来ればすぐ飛び出す態勢を整えました。

 帰宅直後、災害対策本部会議を開くという連絡が入り、直ちに市
役所の災害対策本部室へ。既に台風23号の影響が出始め、市内山
間部が土砂崩れ等で道路がズタズタ・・・先日の台風22号のため
陥没した国道19号も、長野国道事務所の努力でやっと迂回(うか
い)路を設置して機能回復を図ったのに、別の場所数カ所で寸断さ
れ、不通になったとのことでした。

 また、柳原と布野の排水機場の能力が追い付かず、千曲川に排水
することができないため浸水被害があるとの報告があり、深夜1時
半頃、現場を視察するとともに避難されている皆さんのお見舞いに
出かけました。地域の自主防災会や消防団の皆さん、そして消防局
や建設部の関係職員が一生懸命に活動中でした。国の千曲川河川事
務所も可動式のポンプを持ち込んでくださり、排水機場のポンプと
併用し溢れた水を千曲川へ汲み出す作業の真っ最中でした。

 地元の方の中には今までも市民会議等の機会に機場のポンプ容量
について、「市の計算は間違っている、もっと大きな容量のポンプ
を増設しなくては駄目だ」と強調しておられる方がいらっしゃいま
した。いずれにしろ浸水被害が発生したわけですから、現在の排水
能力だけでは問題があることは事実でしょうし、きちんと改良して
いくことは必要だろうと感じました。

 布野公民館、排水機場、そして避難場所の柳原小学校、朝陽公民
館等を見舞いながらいろいろ話を伺いました。今回はそれほど大き
な災害ではなかったけれど、ポンプ容量問題は、国道18号のバイ
パス建設の問題ともからんで、今後検討する必要があると痛感させ
られました。

 浅川も豊野地籍の千曲川合流点で被害、やはり立ケ花狭さく部の
問題が根本問題として浮上することは確実でしょうし、新幹線の車
両基地周辺の水害を見ると、浅川治水におけるダム問題を地元の皆
さんが強調することは当然と思いました。

 さらに犀川の小市地区の水位も上昇を続けているうえ、上流にあ
るダムの放水もあって、安茂里地区に避難勧告を出してほしいとの
千曲川河川事務所からの要請がありましたので、現地に収入役を派
遣し、消防団や地域防災会の方々が巡視と警戒、そして無堤防地域
への土のう積みを行いました。幸い、それほど犀川の水位は上がり
ませんでしたので、犀川流域では安茂里小市地区の一部を除き避難
勧告までには至らなかったことは助かりました。この地域は人口が
多い場所だけに、避難勧告となれば、避難場所の設置、食糧や毛布
の手配等、大変な準備が必要になるところでした。

 千曲川、犀川の水位が峠を越しても、立ケ花の水位だけは危険水
位を突破して上がっていく。長野市だけでなく、周辺市町村もかな
り被害が出ているようでした。

 朝5時過ぎ、2回目の災害対策本部の会議を終了。明るくなって
からの点検作業を指示し、路線バスや学校については、安全を第一
にすることを申し合わせました。

 21日(木)は午前中、浅川を視察しました。中流域は普段より
かなり多い濁り水が出ていましたが、危険は無さそうでした。しか
し、浅川と千曲川の合流点付近の冠水状況は大変でした。一面の水
浸しの中にりんごの木が立っているという状態で、千曲川の状況も、
普段は木が生えているはずの場所すべて、川幅一杯に泥水が音を立
てて流れていました。

 新幹線の車両基地の周辺まで行ってみましたが、水が深くて車が
進めず、引き返さざるを得ませんでした。

 午後は安茂里地区の視察を行いました。小市公民館には、避難勧
告が出ている地区の皆さんがまだ避難を続けておりましたし、松ケ
丘小学校の裏山での土砂崩落は、体育館の周辺に相当の土砂が流入
していて、地元の消防団の皆さんが、一生懸命排除活動をしておら
れました。しかし、人力ではとても大変で、重機を入れざるを得な
い状況と感じました。安茂里には無堤防地区があり、今回は無事だ
ったが、安心はできないとのことでした。

 台風23号は、長野市における人的被害こそ無かったものの、避
難勧告が柳原布野地区では約200世帯、安茂里小市地区で約40
世帯が対象となり、被害個所は数え方にもよりますが、柳原布野で
59世帯が床下浸水、信更町赤田で1戸が床上浸水となったほか、
道路関係が70カ所、河川関係が32カ所、農作物や農道・林道、
公園施設など市内各所で災害の爪あとを残しました。崩れやすい傾
斜地の多い長野市です。地滑り地帯も多くあります。地形が急峻で
あることは、土石流発生の危険性も常にあるわけで、残念ながら災
害に強い町と胸を張って誇れないのが実情です。今回の被害の対応
については災害発生時の救援活動について協定を結んでいただいて
いる建設業協会の皆さんにいろいろな場面で活躍していただきまし
た。

 22日(金)に上京して、国土交通省を訪問しました。主として
は台風22号の影響で陥没した国道19号の一刻も早い復旧を陳情
してきました。大宮の国土交通省関東地方整備局と霞ケ関の本省を
訪ね、幹線道路の陥没で大変な影響を受けていること、また、地域
の生活道路を迂回路に使っていることから、主として中条村から長
野市七二会地区にかけての住民への影響が極めて大きいということ
を訴えました。災害が連続しているため、官庁の幹部職員が現地視
察に出て留守の所が多かったのですが、訴えを親身に聞いてもらい、
何とか年度内には、仮橋による国道復旧をしていただけそうな感触
を得ることができたことは収穫でした。

 このメルマガを書いている最中、大きな地震が発生しました。幸
い長野市ではこの地震による災害は現段階では報告されませんでし
たが、報道によると、震源地は新潟県の小千谷市で震度6強・・・
そして翌日、時間の経過とともに、被害の凄まじさが伝わってきま
した。亡くなった方、負傷した方が増える一方ですし、家屋倒壊、
道路崩壊、土石崩壊等々・・・・電気・ガス・水道も壊滅的な被害
を受けたようで、自衛隊も出動する最悪の状態のようです。被災さ
れた方々に心からお見舞申し上げるとともに、何とか復旧するまで
頑張っていただきたいと思います。

 今回の災害にともない、長野市では24日(日)に新潟県からの
要請に応じ水道局から2トン給水車2台、消防局から10トン水槽
車1台が十日町市に向かうとともに、25日(月)には総務省の指
示により、長野県救急消防援助隊部隊として県内の消防をまとめ、
最大の被災地に向かいました。テレビで見ると、住居を失っただけ
でなく、「寒い」「水が足りない」「食糧が足りない」・・・・・
豊かといわれている現在の日本では信じられないことが起きている
わけです。すぐにでも何か行動したい・・・・すみやかに、整然と
した援助活動をしたいと思っています。

 このような中、長野県市長会の18市では、新潟県の災害対策本
部と連絡をとり、各市が提供できる救援物資のほか、復旧作業に必
要な技術職員を派遣、市営住宅や宿泊施設についての情報を提供し、
被災地の要望に合った救援を行うよう準備を進めました。

 隣県の災害です。日を追って伝わる災害情報を見る限り、この新
潟中越地震は阪神淡路大震災に肩を並べる大災害と感じますし、今
回の地震にみられた集落の孤立という事態は、もし長野市で震災が
起これば発生しうることです。中山間地や1町3村との合併後のま
ちづくりでも、ライフラインの確保と情報伝達体制の充実に努めて
いきたいと思います。

2004年10月21日木曜日

全国史跡整備市町村協議会・長野大会が開かれました


 10月6日(水)、北は北海道から南は沖縄県まで、全国で史跡
等を持っている市町村から、史跡・文化財担当職員(主としては学
芸員)が長野市に集結し、全国史跡整備市町村協議会長野大会が開
かれました。この大会は昨年度、函館市で開かれ、その時の報告は
メルマガでさせていただきましたが、今年は昨年の決定に基づき、
長野市で開催されたものです。

 開催日の前日、文化庁の河合隼雄長官、辰野裕一文化財部長、村
田善則記念物課長、県の瀬良教育長、そして全史協の市町村役員が
集まり、翌日からの大会の打ち合わせをさせていただきました。長
官は大変気さくな方で、フルートの名手ということでした。毎年1
回、戸隠でフルートの演奏をされるということで、長野のこともよ
くご存知でした。この会では、大川奈良市長さんが勇退されて空席
になっていた全国の会長の後任として、小澤小田原市長さんを内定
し、大会のスケジュールが承認され、終了しました。

 政府の三位一体改革で財政状況が厳しい中、文化財関係の補助金
を廃止して税源移譲する案は一応撤回されたとのことで、皆さん
ホッとしていました。私は個人的には、政府の補助金を廃止して、
その分を税源移譲するというのは、個々には問題がありますが、総
論としては地方の財政の自由度を上げるという意味で、地方分権の
実現のためには大変重要なことと思っています。ですが、この文化
財関係補助金だけは、現在の制度を維持してほしい。なぜならば、
文化財の保護は地方にとって重要ではありますが、緊急度という点
からは、生活に直結していないがゆえに優先度は低い。さらに、地
方財政は苦しいので、税源移譲されても他の緊急度の高い分野に回
ってしまう可能性はかなり高い。市民もそのことにあまり意見を言
わない・・・。そうなるとどうしても文化財保護が後回しになり、
結果として大切な文化財が失われたり崩壊し、国家の大切な遺産が
失われていく確率が高い。常々私はそう思っていました。

 補助金の中で何が大切かという議論は、おかしな話です。全て大
切であるがゆえに、過去、国は補助金として出していたのでしょう。
軽重ではない、補助を止めた場合、社会にどういう影響があるか、
そのことを基準に考えるべきでしょう。その意味では、文化財の保
存・修復の補助金が、補助金削減リストからはずされたということ
は、正解だと思います。だからといって予算が安泰だとは言えませ
んが・・・・。

 翌日、午前中は役員会、午後から総会が開かれました。挨拶のあ
と、開催市の市長として議長役を務めさせていただき、平成15年
度事業報告・決算、平成16年度補正予算、平成17年度事業計画・
予算、そして来年度の第40回記念大会の開催地については山口県
萩市に決定、また、役員選出も予定どおり議決されました。大会決
議については「史跡等公有化助成の充実」「史跡等整備活用事業の
推進」「埋蔵文化財発掘調査等の充実」を要望するということが全
会一致で決まりました。

 そのあとの講演会では、静岡大学教授で文学博士の小和田哲男先
生に「松代城の歴史と城跡の復元整備」と題して、約1時間の講演
をいただきました。先生は昭和37年、初めて松代城址を訪れて以
来、この城と付き合ってきたとのことで、現在、松代城の整備委員
をお務めいただいており、今後も、真田邸の整備にお力を貸してい
ただくことになっています。

 先生の話では、城の歴史は、最初は近くの尼飾山にあった尼飾城
の出城として海津城が造られ、だんだん平地の城が主流になったこ
と、山本勘助や川中島合戦、高坂弾正のこと、そして武田家滅亡後、
真田家が入城するまでの歴史などが語られ、大変興味深い話でした。

 城跡の発掘調査と整備事業については、昭和56年に国史跡に指
定されて以後の太鼓門・北不明門・本丸等の発掘作業、文献資料の
調査、絵図面の発見、そして土塁の復元、太鼓門・北不明門の復元
工事に着手したということが順を追って話されました。特に土塁の
高さへのこだわり、すなわち当時槍の長さは3間(約5.4m)な
ので、その槍を立てた時、外から見えない高さにこだわったという
話は面白かったです。

 講演の中では、松代は武家屋敷、商家など、幕末の建物がコンパ
クトによく残っているため、歴史を生かした街づくりが大切である、
城下町の雰囲気は一度消えたら戻らない、行政・歴史愛好家・ボラ
ンティアの存在が大切である、今、エコール・ド・まつしろで市民
が燃えている、城好きな人達が集まってくれば・・・といったお話
もあり、今、長野市が取り組んでいることが間違っていないという
ことをお話しいただいたように感じました。

 続いて、記念公演として、長野市の無形民俗文化財になっている
善光寺木遣りと風間神社太々神楽獅子舞の披露がありました。

 2日目、3日目は史跡・文化財が沢山ある長野県ですので、松本
市・塩尻市・茅野市・上田市・千曲市そして長野市がそれぞれコー
スを設定して、参加者に史跡・文化財の視察を行っていただきまし
た。長野市はもちろん松代が主体でした。

 ちょっと前の話ですが、今年の8月5日、長野市長が代表を務め
る全史協北信越地区協議会が富山県氷見市で開催されました(昨年
は石川県加賀市で開催されました)。ここでの視察研修は「国史跡 
柳田布尾山古墳(やないだぬのおやま こふん)」、県建造物「道
(みち)神社拝殿」「国史跡 大境洞窟住居跡」でした。

 7月中旬の集中豪雨によって、新潟県そして福井県、富山県内で
大きな被害が出ましたが、史跡にも被害があり、福井市の「一乗谷
朝倉氏遺跡」が土石流により埋まり大きな被害を受けたとの報告が
ありました。大勢のボランティアにより土砂は取り除かれたという
ことですが、あとの復元整備が大変です。心よりお見舞いを申し上
げます。

 その後、北信越地区内ではありませんが、有名な厳島神社も大き
な被害を受けたとの報道もありました。台風、大雨という自然現象
が原因とはいえ、日本の歴史を伝える史跡や文化財が失われるとし
たら残念です。一度失った歴史的遺産を取り戻すことは至難の業か
もしれませんが、一日も早い復元を願っています。

2004年10月14日木曜日

信更町安庭地滑り災害について


 10月8日(金)~9日(土)にかけて、台風22号が強い勢力
を保ったまま日本列島に、そして長野にも近づいてきている・・・。
過去数年間で最大規模と報道される中、9日(土)・10日(日)
に開催される松代藩真田十万石まつりに影響がでないかハラハラし
ました。

 9日(土)、雨の中、河川の状況が心配になり、長沼地区の「元
気なまちづくり市民会議」の前後に浅川を見て回りました。川の水
は濁っていましたが、危険なほど増水しているとは感じませんでし
た。しかし、新幹線車両基地の周辺の田畑は、水がついていました。

 幸い台風は北上するに従って、偏西風に乗ってスピードを上げ、
9日中には長野周辺を通り過ぎてくれたようで、ホッとしました。
ところが一旦帰宅しましたら、市役所の危機管理防災課から連絡が
入り、「信更地区の安庭で土砂崩壊が起きている。至急、災害対策
本部を設置したい」とのことで、直ちに市役所の危機管理防災課の
隣に設置された「信更町安庭地滑り災害対策本部」室へ駆けつけま
した。消防からの報告はかなり大きい崩落とのことで、すぐに市川
助役に崩壊現場へ出向いてもらいました。

 報告によると、国道19号と白馬長野有料道路の交差する付近の
道路が崩落、飲食店舗とその店主宅が陥没とのことで、かなりの被
害(そばに「長野の門」のひとつ長野市野外彫刻の「ARC OF
NAGANO」もあるはずですが、その時点では報告なし)が発生
している模様。すでに市消防局は出動、消防団も中条村の応援も得
て配置済みとのことで、崩落現場とその付近の5世帯に対し、近く
の安庭地域公民館への避難指示・避難勧告を出すとともに、警戒に
当たる皆さんの分も含めて食事や毛布等の手配を指示し、地元の皆
さんには率先して炊き出し等をしていただきました。ケガ等の人的
被害がないことが救いではありますが、物的被害は相当大きいよう
で、現場に駆けつけた助役の報告を受けてから対策本部員にそれぞ
れの役割を指示しました。その後、崩れやすい他の地域のことが気
になり、総務部長に危険個所の点検を再度指示しました。

 10日(日)、朝7時に災害現場の安庭に向かい視察を行いまし
たが、予想以上に凄い被害に驚きました。飲食店舗は完全に崩壊し
店主の自宅は犀川のふちまで流されていましたし、竹下内閣当時の
ふるさと創生基金で3つ造った「長野の門」の一つが、飲食店舗の
近くにあったのですが、約100m近く流されていました。基礎は
相当深く造ってあるはずですから、倒れもせずそっくり流れている
のには驚きました。国道19号は崩落して、もちろん通行止め、白馬
長野有料道路も信州新町方面からの側道以外は使用不能という状況
になり、現場が交通の要衝だけに困りました。

 避難された方々が安庭地域公民館にお集まりになっていましたの
で、お見舞いをさせていただきましたが、地元の区長さんをはじめ
大勢の方々が詰めていただいており、力強く感じました。飲食店の
店主は体調を崩されたということでお会いできませんでしたが、奥様
にお見舞い申し上げることができました。気丈な方で、このような
大変な時にもはきはき応対していただきました。

 現地の状況をより詳しく調査するため、長野県消防防災航空隊の
ヘリコプターで上空から視察することになりましたが、災害発生直
後からの状況を最もよく知っている市川助役に搭乗してもらい、上
空からの視察を行いました。人的被害がなかったことは不幸中の幸
いでしたが、やはり物的被害はかなりのもので、国道が通行可能に
なるためには、相当の期間が必要だろうというのが実感だったそう
です。

 市役所に戻って、昼、災害対策本部会議。これまでの経過の報告
と処置についての報告があり、今後の対策についても検討が加えら
れました。また、午後3時からは今後の対応を検討するため、長野
国道事務所で、国、県、市の担当者が集まって対策会議を開きまし
たが、その会議には、現地調査をしていただいた信州大学の小西助
教授にも出席をしていただきました。

 午後5時半に災害対策会議を開催し、国、県との対策会議の報告
がありました。この中で、国が現地の2か所に伸縮計を設置してあ
るので、その結果を見て長野市が危険度を判断し、避難指示・避難
勧告の解除に関する決定をする(解除をできるだけ早くと思いまし
たが、制度上仕方ないようです)ことにし、この日は解除のための
資料が不足しているということで、解除できませんでした。

 国道復旧については、とにかく国道19号の迂回(うかい)路整
備を国が1週間で整備するとのこと、具体的には唯一残った信州新
町方面から白馬方面への側道(一方通行)と、歩道を利用して2車
線確保しようということで、応急処置としてはそれしか無いと思い
ました。夜8時から地元説明会を行うということになり、国、県、
市が説明し、地元の要望をお聞きすることにいたしました。

 翌日(11日)は、前日夜の地元説明会で出された住民の皆さん
の要望(多くは交通路の確保)について、バス会社を中心に、県、
市等との調整を行い、ほぼ要望にお答えする態勢を整え、午後から
の災害対策本部の会議で確認されました。また、この会議において、
4世帯に対する避難勧告は解除されましたが、自宅と店舗を被災し
た方ににつきましては、避難指示は継続となり、現在、仮の住まい
を市が斡旋中です。

 道路の問題は、12日(火)の午前中から迂回路整備の工事が始
まりましたが、1日当りの交通量が1万台という国道19号が寸断
されたことは、長野市とその近隣市町村、流通等関係機関へ大きな
影響を長期間にわたって及ぼすことになるでしょう。被災された皆
様にお見舞いを申し上げるとともに、1日も早い復旧に長野市とし
ても全力を注ぎたいと思います。

 


 9月30日配信のかじとり通信において、石家庄市での訪問先の
中学校名「第34中学校」は誤りでした。正しくは「第43中学校」
です。おわびして訂正いたします。

2004年10月7日木曜日

友好都市、中国の石家庄市訪問(その2)


9月26日(日)
 朝早く起きて、ホテルのそばの人民広場を散歩する。石家庄市が
21世紀の幕開けを記念して造った広場とのことだが、広大な敷地
に毛沢東の銅像をはじめ、噴水や樹木もきれいだし、花園も造って
あってなかなか立派なもので、地下にもいろいろな施設があるよう
だ。人民大会堂もあって、10月1日の国慶節の準備が盛んに行わ
れていた。そういえば、建国55年を祝う国慶節の準備がいたると
ころで行われており、花が飾られ、スローガンが掲げられ、そして
踊りの練習が行われている等、国中で祝う祭りとして定着している
ことがよく分かった。この朝は大勢の市民が太極拳や社交ダンスな
どを楽しんでいた。

 朝食後、市内視察に出かける。最初は地表水工場、すなわち水道
局の浄水場へ。工場長の説明によると、石家庄市には浄水場が8つ
あり、その内7つは地下水を汲み上げている(井戸の深さは40m
ぐらい。意外に浅い井戸と感じた)。ここだけは、50kmほど西
の山岳地にある2つのダムから取水している工場とのこと(地表水
という意味がようやく分かった)。市内の水の必要量は1日70万
立方メートルだが、この工場ではその内30万立方メートルを受け
持っているとのこと、大きなモーター6台で供給していた。かつて、
石家庄市としては飲料水が不足していたので、1994年に着工、
総工費12億元(現在、1元は約14円)を費やして96年に完成、
供給を開始し、水不足を解消したそうだ。浄水場の仕組みは長野市
とあまり変わりはないように感じた。

 続いて石家庄市植物園へ。これは凄い規模の植物園だった。
163haという広大なもので、ゴルフ場1つより大きいぐらいか。
1998年に着工して現在も建設中であり、植物園というより遊園
地も含む一大公園という方が正確かもしれない。平成13年に友好
都市提携20周年で石家庄市を訪れた長野の訪中団(当時の塚田長
野市長、伊藤市議会議長、日中友好議員連盟会長の藤沢市議会議員
と同連盟副会長の松木市議会議員)がまだ完成前にここを訪れた時
の記念植樹と石碑も見つけることができた。植物園にはいろいろな
花、野菜、樹木があったが、中でも盆栽園はなかなかしゃれたもの
で、造園に携わった人の中には、長野の園芸会社へ研修に来た職員
もいて頑張っているとのこと。ここで働いている職員は正規70人、
臨時雇用の方も含めて300人とのことだが、学校のような施設も
あって研修に来ている人も相当いるようだった。ほかにも遊園地や
遊覧車、遊覧船、レストランなどの施設が整っており、よく考えら
れた公園だった。

 現段階の必要経費は年800万元だが、収入は入園料で500万
元(入園料は1人20元、年間35万人、数字が合いませんが多分
子どもの料金が違うのでしょう)で、足りない分は行政から補填し
てもらっているとのこと。でも今後の施設建設によっては、自力で
の経営も夢ではなさそうに感じた。

 一番凄かったのは、池というより大きな人工の湖(38.7ha)
があり、遊覧船で回ることができるようになっていて、途中には橋
が32、人工島、噴水、劇場、蓮を鑑賞する場所、魚を見る場所も
あって、ボートで楽しんでいる市民も大勢いた。

 この場所は元レンガ工場の跡地だったそうで、その掘った土で築
山を築いて、滝を造っている最中だった。いずれ見事な庭園になり
そうで、石家庄市の重要な観光資源になりそうな気がした。

 昼食は植物園のレストランで、園長さんの話を聞きながらご馳走
になった。訪れた人も食べているのだろうが、従業員や研修生もこ
こで食事をとる食堂といった感じだった。

 続いて、正定県の「隆興寺」、そして臨済宗発祥の地「臨済禅寺」
を見学した。どちらも創建以来1400年~1500年ぐらい(随
や宋の時代)の、日本でいえば国宝級のお寺。毛沢東の文化大革命
の頃、荒れてしまったのを修復しているとのことだったが、大きな
伽藍、そして大きな仏像が沢山ある立派なお寺だった。また、臨済
禅寺には、日本に臨済宗を伝えた栄西禅師の胸像があった。

 ホテルで休息。強行軍で少し疲れた。

 迎賓館ホテルで、政治協商石家庄市委員会 李宏英主席の招待夕
食会。彼の肩書きは大学兼職教授、国家優秀・発明専利・発明人と
なっているが、長野市との友好協定提携時の市の秘書長、その後約
10年間副市長を経験し、柳原、塚田両市長と交流があったとのこ
と。

 話題は若干経済に関することが多かった。でも中国式カンペイ
(乾杯)!は相変わらず・・・。今まで、長野市へ行ったことがな
いということだが、今年の11月に長野市を訪問するとのこと。歓
迎しなくてはならないと思う。中華料理を満喫してホテルへ戻る。

9月27日(月)
 連日の早朝からの日程による疲労や北京周辺の渋滞状況などを考
え、本日の日程は午前中をキャンセルさせていただき、ゆっくり北
京へ移動しようということになり、石家庄市を離れることになった。

 朝食後、ホテルロビーで、石家庄市外事辯公室主任の楊さんが見
送りに来てくれて、お別れの挨拶。こちらに来てから撮っていただ
いた写真のアルバムを頂く。出発。石家庄市の出口のインターチェ
ンジで、滞在中付き合ってくれたパトカーと手を振って別れ、高速
道路を使って一路北京へ向かう。途中、2回ほどトイレ休憩を挟む
が、中国旅行(特に女性の)で困ることの一つがこのトイレの問題。
以前よりは整備が進んだとはいえ、まだまだ旅行者には大きな障害
になりそう。でも、あと10年もすればきっと・・・、と期待をし
ている。

 約4時間後、北京に着いて遅い昼食。予定外の行動だったので、
大衆食堂を探してラーメンを食べたが、日本のものとは全然違う味
と麺。どちらかというと“うどん”に近い。でも美味しかった。申
し訳ないが、こういう食事の方が体質には合う。

 天安門広場へ。北京に来るたびに、何度か訪れたことがあるが、
ここも国慶節を前に準備に忙しい。花が主体の飾り付けが行われて
いたが、異色は「中国航天」という中国自慢の有人宇宙船を花でか
たどった大きな塔、正に国威発揚の場なのだろう。天安門の毛沢東
の肖像も変わりはなかった。

 故宮博物館に入る。残念ながら修理中の建物が多かったが、いつ
ものことながら、大きな構造物に圧倒される。台湾の故宮に比べ、
文物は見劣りすることは中国人も認めているが建物は立派。明、清
の時代の中心地として栄え、辛亥革命で清が倒されるまで、都だっ
た場所。故宮を出て、近くの王府井(北京の銀座)を散策。広い道
路が500mぐらい歩行者天国になっていて賑やか。広い道路は商
売には向かないという常識(?)に反し、確かに北京の銀座と言わ
れるだけのことはある。でも買い物はする気にはなれなかった。

 着いた時と同様、車のラッシュは凄まじい。のろのろ運転という
より全然動かない状態が1時間以上続く。これでは仕事にも差し支
えるのではないか・・・・。予定は全く狂ってしまうのも仕方ない
感じ。

9月28日(火)
 朝食後、ホテルを出発。万里の長城へ向かう。高速道路が出来て
いて約1時間。私は今回3度目の訪問だが、1度目は列車で八達嶺
の駅まで来て、そこから雪のぱらつく中を歩いた記憶がある。2度
目は確かバスで来たが、こんなに立派な高速道路はなかった。

 何度来ても、万里の長城は凄いと感じる。ユネスコの世界遺産に
も登録されているが、とにかく道具や機械の無い時代、山々の峰を
結んで6000kmに及ぶ壁を造るなんて発想は、大陸でなければ
ないし、中国でなければ出てこないだろう。歴史上では春秋戦国時
代から建設が始まり、秦の始皇帝の時代にほぼ完成したようだが、
その労苦、特に壁の建設に駆りだされた人民のそれは、想像を絶す
るものがあるし、全国から連れてこられた防人(さきもり)の嘆き
の唄、そして故郷を思う唄は、昔習ったことがあるけれど、悲惨だっ
たであろうことは十分に理解できる。

 万里の長城は、随分整備されていて石の階段も歩きやすくなって
いた(最初に訪れた頃はまだ未整備で、所々崩れていたりして自由
には歩けなかった)。フーフー言いながら一生懸命かなりの位置ま
で登ってみたら、リフトや公園のお猿の電車みたいな乗り物があっ
て、下から簡単に登れるらしい、正直ガックリ。ちょっと興趣を削
がれた感じ。また、長城入り口付近も大変整備され、一大観光地化
しているのには、びっくり。お土産屋さんやホテルもあって、まっ
たく様子は一新していた。博物館には360度のパノラマスクリー
ンがあって、長城の説明をしていた。長城の入場料は大人1人45
元。随分大きな収入だろうなあと余計な詮索をしてしまう。

 次の視察会場への移動の途中、レストラン(どちらかというと、
観光客用のドライブイン)で昼食。「日本食を用意しました」との
ことだったが、お弁当箱を開けてみると、おかずはやはり中華料理。
でも、久しぶりに味噌汁を飲むことができた。

 バスで「明の十三陵」に移動。ここへも何度か来ているが、その
壮大さ、豪華さにはいつも驚かされる。この陵は地下深くにあるこ
と、陵自体は比較的新しいこともあってか、盗掘されていなかった
とのこと、明の皇帝の権威を示す威容を誇っている。

 今夜は「中秋の名月」とのことで、中国では家族がみんな集まっ
て、月餅(げっぺい)を食べて祝う日だそうだ。10月1日から国
慶節の連休になるそうで、中国の人達にとって今が一番良い季節な
のかもしれない。ホテルのテラスで滞在中ガイドをしてくれた王さ
ん、耿さんとバイキング式の最後の晩餐を楽しむ。

9月29日(水)
 5時起床。仕度して荷物をパッケージして、ホテルを出発。北京
空港へ。

 昨夜、台風21号が日本に上陸しそうだというニュースを見て
(北京ではNHKの衛星放送は視聴可能だった)ちょっと心配した
が、それほど揺れることもなく、無事帰国。

 東京を経由して長野新幹線で夕方5時半、長野着。

 さて、今回の訪中は、北京空港到着から空港を出発するまで、石
家庄市のご配慮により訪問先や日程の調整等をしていただき、さら
に、両市の申し合わせにより滞在期間中の費用負担は、石家庄市の
負担で行われたものでした。

 私も石家庄市の訪問は初めてということもあり、多少の不安もあ
りましたが、今回の視察を通じ、文化や社会のシステムが違う両市
がお互いに理解し合い、さらなる友好関係を築くことができたと思っ
ています。

 最後に中国で感じたこと(私見)を書かせていただきます。

1.北京は2008年のオリンピックを前に、ここはニューヨーク
 ではないかと錯覚するほど摩天楼の街になっている。北京ほどで
 はないけれど、石家庄市の発展ぶりも凄まじく、過去長野市の訪
 中団に同行して、今回も通訳をしてくれた宮下さんの比較話を聞
 いても、目覚しいものがあるようだ。

2.しかし、一歩市街地から離れると、まだまだ貧しく、遅れてい
 る地域が多いようだ。この二極分化を克服するのは、難しいと思
 う。通訳氏の話でも農民の所得は低いということで、かなり不満
 があるようだ。日本でも農村の再建は重い課題だが、中国の方が
 もっと大変だろう。

3.公権力とか平等というものの概念が日本と少し違うのかもしれ
 ない。石家庄市滞在中はパトカー先導で優先的に通行していく。
 我々は申し訳ないと感じるのだが、中国では当たり前の行為なの
 かもしれないし、そのくらいにしなくては、現在のところ行政が
 成り立たないのかもしれない。でも、国際化の流れの中で批判的
 な意見があるようだ。反面、個が解放されて自由に主張できるよ
 うになると、莫大な人口を抱える社会が動かなくなることも懸念
 される。

4.都市の交通マヒは、言語に絶する。部分的に所得が増えて自家
 用車の時代に突入したけれど、道路整備が追いつかない、バラン
 スが悪いのでしょう。

5.北京に関しては、オリンピックまでは勢いがあるけれど、その
 後は心配と言う人が多かった。私たちが泊まったホテルはマレー
 シア資本とのことだが、昨年のSARS騒ぎで予定通りの収益を
 上げていないとのこと。必ずしも一直線では進まない例だろう。

6.故宮・万里の長城・明の十三陵等を視察して、つくづく感じる
 ことだが、今観光資源といわれているのは、昔の皇帝の遺産だろ
 う。民衆の文化は資源になりにくい、独裁者の存在・横暴が現代
 の重要資源になっている・・・。これは日本でも程度の差はあれ、
 同じことだろうが、歴史の皮肉を感じる。

7.北京や石家庄市を見るかぎり、右肩上がりの発想をしている社
 会だと思う。

8.徹底的なエリート教育をしている姿が、日本にとっては最大の
 脅威かもしれない。中学生の交流で、帰国した中学生が一様に彼
 らの学ぶ姿勢、集中力にびっくりしている。このことを我々は考
 えなくてはならない。訪問した学校は幼稚園から高校までの一貫
 教育だが、高校生は全寮制で、7時始業でクラブ活動が終わるの
 は夜10時、凄いエリート教育をやっているとのことだった。
 
 以上、2週にわたって中国石家庄市訪問の模様を、私の日記をも
とにお伝えしてまいりました。若干、従来のメルマガとは様子が違
っているかもしれませんし、私見を交えてお伝えした関係で、読み
にくい点もあったかもしれませんがご容赦ください。

 今回の訪問にあたり、大変お世話になりました石家庄市の皆様に
改めて感謝を申し上げるとともに、両市の友好関係を築き上げるう
えで大変意義のある訪問となったと自負しております。