明日で、平成17年度も終わりです。そして今日は本年度の最終
メルマガです。
3月24日、市議会ですべての議案を可決していただき、閉会し
ました。新年度への準備は万全です。全力を挙げて取り組みますの
で、ご支援、ご協力をよろしくお願いします。
少し重い話題が続いたので、今日は気楽に書かせていただきます。
【スキーの話】
私がスキーを楽しんでいることは、何度かこのメルマガで書かせ
ていただきましたが、このシーズンは12月から大量に雪が降った
ので、大いに張り切っていました。今シーズンは、土・日・祝日の
半日単位で公務のない日、天気が良ければスキー場に行こうと決め
ていました(飯綱高原・戸隠・聖山パノラマの3スキー場の共通シ
ーズン券を購入し、万全を期しました)。そして、戸隠、飯綱高原
を中心に聖山パノラマ、野沢温泉で計12回ほど滑りました。さら
に志賀高原、白馬や新潟県等へも行こうと計画・・・視察も兼ねて、
市外のスキー場へもできるだけ行こうと考えていたのですが・・・
ちょっとしたアクシデントで不可能になりました。
ある土曜日、午後から戸隠でスキーを楽しみ、中社の旅館に泊ま
って、夜の中社地区を堪能し、翌日の日曜日も滑ろうと仲間に提案、
実行したのですが、残念ながら、滑り始めてすぐ、私は足を少し痛
めてしまいました。滑ることをあきらめて、治療の後、夜だけ仲間
との懇親でうまいお酒をいただき、戸隠そばづくしに舌鼓を打って
きましたが・・・・。
議場で若干足を引きずっている場面をお見せしてしまったかもし
れません。幸いけがはもう全快しましたので、残りのシーズン、是
非もう少し滑りたいと思っています。さしあたって、あさって4月
1日の土曜日あたりと考えていますが、どうなることやら・・・。
スキーは多少の危険が伴うようです。3年前スキーを再開したと
き、議員さん、秘書政策課の職員等が随分心配してくれました。そ
して軽傷とはいえ、事実になってしまったのですから大きなことは
言えませんが、でもこれでスキーを止めるなんてことは断じてあり
ません。前に、メルマガで「80歳までは出来ると思います」と書
いたのですから、どうしても実践したいと考えています。
【ポータルサイトがスタート】
インターネットの発達で、広報広聴の手段もいろいろ変化してい
ます。長野市でも平成9年にホームページ(以下HP)を立ち上げ、
有力な広報手段にしてきました。しかし、行政のHPは、いろいろ
な制約があり、また、面白く作ることが非常に難しい状況で、一日
のヒット数は2000回強ぐらいのところでしょうか。
長野市のHPで行政情報だけでなく民間情報も多くの皆さんに見
ていただきたい、そんな思いを実現するために、いろいろ工夫をし
ていますが、その一つとして地域ポータルサイトを立ち上げました。
市内で地域情報をすでに発信している企業・団体等を公募し、提案
競技を実施し、長野の情報を発信、運営している会社にお願いしま
した。長野市は一切補助はせず、自力で広告等をとって運営してい
ただく、長野市は長野市のHP上からポータルサイトへ移れるボタ
ンを設置する、いわば長野市公認ポータルサイトであることを宣伝
する・・・長野市とすればかなり厚かましい契約ですが、カシヨさ
んには快く引き受けていただきました。
スタートしたばかりで、私としてはまだ不満がありますが、まあ
走りながら協力し合って改良していくことにしています。提携以来、
幸いヒット数は、私の当面の目標「一日1万回」に向けて、伸びて
いるようです。最終的には長野市の世帯数と同じくらいの約14万
回を目指していますが、事件を起こしたライブドアのヒット数は一
日100万回ぐらいだそうですから、それからみればかわいい目標
です。
【男声合唱団「ZEN」の演奏会】
3月5日(日)、若里市民文化ホールで、「ZEN(ぜん)」の
演奏会が開かれました。「ZEN」は善光寺にちなんで付けられた
名前で、大勧進の小松ご貫主さんが会長、長野音楽文化協会の塩沢
会長さんが幹事長を務め、市内を中心に企業経営をされている方々
が主力メンバーというかなりユニークな組織です。
平成15年秋の結成以来、熱心に練習に取り組まれ、この日、第
1回の演奏会を迎えられました(私も入りたかったのですが・・・
結成された時、代表の塩沢さん曰く、市長や議員等の政治家は入れ
ないという話で当分駄目だと感じました。OKが出ても練習へあま
り参加できないため皆さんにご迷惑をおかけしたと思います)。
今日まで、いろいろなイベントに招待され出演してこられたよう
です。大きなイベントとしては、同じような趣旨で古くから結成さ
れている「六本木男声合唱団倶楽部」とのジョイントチャリティー
コンサートが、長野市民会館を満席にして行われたことを思い出し
ています。
今回、第1回のチャリティー演奏会ということで、私も長野市長
としてお招きいただき、満席の観客の皆さんと一緒にすばらしい男
声合唱を聞かせていただきました。会長の大勧進のご貫主さんから
市の社会福祉事業のためにご寄付いただきました。ありがたいこと
です。きっとこれからも長野の元気を生み出す源泉として頑張って
いただけると思います。
2006年3月30日木曜日
平成17年度が終わります
2006年3月23日木曜日
最近感じていること その2
先週号に引き続き、最近感じていることを書かせていただきます。
201号のメルマガで藤原正彦さんと渡部昇一さんの著書を読んで
の私の思いを書かせていただきましたが、もう少し付け加えさせて
いただきます。
『どんな論理であれ、論理的に正しいからといってそれを徹底し
ていくと、人間社会はほぼ必然的に破綻に至ります。言うまでもな
く、論理は重要です。しかし、論理だけではダメなのです。どの論
理が正しくて、どの論理が間違っているかということでもありませ
ん。これは日常用いられるすべての論理に共通した性質です。』
(藤原正彦著「国家の品格」より)
先日のメルマガで「この文章に出会って本当に目からうろこが落
ちる思いです」と書きました。私は道理が通らなければ・・・自分
自身が納得出来なければ・・・いつもそう思って、行動してきたつ
もりですが、どうも道理のとおりにならないことの多さを感じては
いました。自分の論理が間違っているわけではない、いずれ真実は
理解されるはず・・・と思っていましたが、浅はかさも極まる、も
っと謙虚にならなければ・・・つくづく思っています。道理のとお
りにいかないから、世間は破綻しないで済んでいるということでし
ょう。
ただ、その後、文芸春秋の3、4月号で藤原正彦さんの書いたも
の、あるいは衆議院議員の平沼赳夫さんとの対談を読んで、またび
っくりしました。彼はどうも小泉改革の郵政民営化に反対しておら
れるのですね。私は基本的に郵政民営化に賛成してきた立場なので、
ちょっと困りました。
私は、江戸時代の日本文化のレベルの高さ、武士道精神、あるい
は明治・大正時代の民族の勃興(ぼっこう)期の素晴らしさ、藤原
さんや平沼さんのおっしゃっている日本人特殊論はよく分かります
し、過去そのことに共感する言葉も使ってきました。ただ戦後60
年を過ぎて、古い日本の体質、効率の悪さ、そして何より失われた
10年という言葉に代表される「日本人の逼塞(ひっそく)感」・
・・何とかしなくてはならない面、変えなくてならない面が生じて
いたことも事実であり、その象徴が郵政民営化だったと思うのです。
民営化の流れは必要です。ただその流れを進めながらも立ち止ま
り、検証し、時に後退する勇気も必要だということを感じています。
私が感動した前述の文章からいえば(失礼を省みずに申し上げれば)、
藤原さんの理論も徹底的に突き詰めていくと、社会の破綻に通じる
のではないでしょうか?
私は、あの文章を読んだとき感じたこと、それは適当な言葉では
ないかもしれませんが「程度」が大切なのではないか・・・『どん
な論理であれ、論理的に正しいからといってそれを徹底していくと、
人間社会はほぼ必然的に破綻に至ります。』この言葉をよくかみ締
め、その徹底の「程度」を考えていきたいと思っています。
そうなると、前にご紹介した渡部昇一上智大学名誉教授の文章が
光ってくると思うのです。『「人間の知力というのはまったくあて
にならない」(中略)要するに、現実の出来事に関して、人間の予
知力は、たいしてその力を発揮することはできないし、また、発揮
してはならない・・・』(渡部昇一著「歴史の読み方」より)
感激したからといって、簡単に人の文章を引用することは、戒め
なくてはならないとつくづく感じました。しかし前述の文章だけで
判断するなら、やはり素晴らしいと感じています。その例をいくつ
か申し上げたいと思います(作者の意図とは違うかもしれませんが)。
たとえば行政の入札についてです。工事契約や物品購入にあたっ
て、出来るだけ安く、良質で、公平・公正に行おうとすれば、なか
なか上手くいかず、完璧な方法論は無いと言っても良いと思います。
安さのみに重点を置けば、品質は大丈夫か?公平に行おうとすれば、
能力の高低にかかわらずすべての受注希望事業者に入札する権利を
与えよ。新しい技術を発明した人、でも実績が無い人では失敗した
ら・・・。一番の問題は価格だけで突き詰めていくと、地方の事業
者は倒産か、居なくなる可能性がある、あるいは品質の悪化か、強
いものだけが生き残る寡占状態になる危険性もある・・・というこ
とでしょうか。
この冬の除雪は大変でした。道路の除雪は建設業界にお願いして
いるのですが(入札ではありません)、一部の意見として「建設事
業者は低価格競争によって、利益がなくなり、余裕がなくなった。
除雪用の機械があるうちは何とかやるけれど、機械が壊れたら更新
するほどの余裕はない」。前述の入札問題も同じだとは思います、
「合成の誤謬(注)」と言って良いのかも知れません。
個人情報保護にも難しい問題があります。たとえば災害に備えて
地域では住民同士で助け合う体制をつくっていきたい。でも災害時
要援護者といわれる一人暮らしの高齢者、あるいは障害者の名簿を
行政から地域に明かすことはできない・・・徹底すれば徹底するほ
ど、安全・安心のまちが出来ない・・・同窓会名簿を作らないとい
うことなどは、過剰反応だと思います。匿名社会になってよいこと
はないでしょう。
地方分権は、もちろんこれから本格化するはずですが、国が憲法
で保障する健康で文化的な生活(均衡の理論)と特色ある地域をつ
くろうとする地域の自治権は、どこかで衝突しそうです。どの辺で
妥協するのか?難しい問題です。
民営化路線もどこまで民営化するのか・・・独自性を主張する場
合、どこまでなのか、そのことによって日本という国はどうなるの
か?郵政民営化も原則は賛成ですが、地域にマイナスを与える可能
性は排除しなくてはならない。市場原理主義も徹底的にやったら、
破綻は起きると思います。
福祉施策を考えるとき、いわゆる社会的弱者に手厚くという意見
は常に正義です。でもそれを支える税収を稼ぐ手段を考えなくては、
社会は破綻するでしょう。
農業に元気がない、でも農業は必要だ、だから補助金を出してほ
しい、所得保障をしてほしい・・・突き詰めたら、現状ではやはり
破綻でしょう。
すべて「合成の誤謬」とはいえませんが、いずれにしろ一つの考
えをとことん推し進めると、社会全体としてはうまく動かなくなる。
「程度」が大切ということが今のところ、私の結論です。
(注)「合成の誤謬(ごびゅう)」、経済学の用語で、「個々人と
しては合理的な行動であっても、多くの人がその行動をとると、好
ましくない結果が生じる場合」
2006年3月16日木曜日
最近、感じていること (その1)
今、市議会では予算、条例等の審議の真っ最中です。行政の場合、
予算については特に皆さん関心が高く、市民要望、議会各派要望を
見据えて、細かく審議していただくのですが、それに比べ「決算」
への関心は、どちらかというと低いのではないかと感じています。
「決算」は議会で審査、認定してもらうこととなりますが、仮に
認定されなかった場合でも、決算の効力に影響はないということが、
原因かも知れません。ただ当然のことですが、認定されなかった場
合には、首長の政治的責任は残る、言い換えれば、自治法上も首長
の責務の大きさを前提としているということです。決算が認定され
ないということは、地方議会で100条委員会(注1)が成立する
ことと同じくらい重大問題ですから、自治体の首長を務める者とす
れば「不徳の致す所、即・辞任」という覚悟でいるべきだと私は思
っています。そういえば民間企業の場合、株主総会で決算が否決さ
れたらどうなるのでしょうか?経営者の責任が追求され、経営者は
不信任となるでしょうが・・・。いずれにしろ決算は大切です。
決算認定だけでなく、行政の監査制度全般についても、いろいろ
感じています。どんな組織でも、事業を実行する執行側と正しく行
われているかチェックする監査側に役割分担が分かれていますが、
現在の社会では、このバランスが崩れているのではないかというこ
とです(すなわち執行側が強すぎるということです)。
ライブドア事件等企業の不祥事も、監査が機能しないので、検察
や警察が動いたのでしょう・・・経営者の責任は当然ですが、監査
陣の責任も大きいと思います。上場企業については公認の監査法人
が監査をしていますが、監査法人の役目は、会社の為ではなく、会
社の株主や取引先というステークホルダー(注2)のために、会社
の作る決算書類が正しいかどうかを判定するのが役目です。ですか
ら会社が監査法人を雇うのではなく、証券取引所等第三者が監査法
人を指名し、その費用は会社から徴収するというシステムが必要と
思っています。
地方自治体では監査委員がその役割をしています。監査委員の任
命は、議会の議決が必要ですが、提案者は市長です。市長が監査委
員を選ぶわけですから、客観的な見方が薄れてしまう可能性は含ん
でいるわけです。また、議会がチェック機能を果たしているのだか
らいいという意見はあります。包括外部監査などの制度も出来てい
ますが、行政のある部分だけの監査です。現段階で考えるなら、議
会の選任・監視のもとで包括外部監査と監査委員を統合した制度が
必要かもしれないと思っています。地方自治法の改正で収入役がな
くなるようですが、監査委員の役目も強化するため、根本的に改め
ることが必要です。
私は一昨年、長野県市町村職員共済組合の監事に指名されました。
この組合は市町村職員の年金資金を一括預かって運用し、将来にわ
たって退職職員に年金を支給していく義務がある組織で、現在
1900億円以上の資金を管理しているのですから、その監事とい
うのは大変責任が重いものです。しかもその事務局長には、組合の
依頼を受けて長野市の管理職を派遣している立場ですから、人一倍
心配は大きいのです。もちろん共済組合は責任を持って年金資金を
運用等していただいています。でもそれは性善説に立った話で、こ
ういう問題について性悪説に基づいて考えないといけないと私は常
々考えてきました。
私は監査の席上、会計監査には監査法人を導入すべきである、費
用はかかるがそれは必要経費であり、節約すべき費用ではない、そ
の監査法人が正しいと証明してくれなければ、私は監事の仕事はま
っとうできない・・・と主張しました(監査法人の指名は総務省な
いし県が行うことは、前述の趣旨からは当然です)。
若干話は変わりますが、文芸春秋の3月特別号に、文京学院大学
教授の菊池英博さんが「サラリーマン大増税の嘘を暴く」という題
名で、財務省が演出する「財政危機」宣伝にだまされるな、と書い
ておられます。その妥当性については、私が申し上げる筋ではない
と思いますが、ひとつだけ、以下の文章は気になりました。
『重要なのは「粗債務」「純債務」という考え方である。政府債
務を把握する指標には、「粗債務」(資金の借り入れ・保証などの
債務)と「純債務」(粗債務から政府が保有する金融資産を控除し
たネットの債務)の二つがあり、一国の債務をもっとも正確に表す
のは純債務であるというのが国際的に共通の理解である。それは当
然で、いくら借金があってもそれに見合う資産があれば問題はない。
』
確かに借金があっても、資産があれば問題ないというのは、私も
長い間会社経営をしてきた経験からよく分かります。ただその場合
の資産の換金性が高いかどうかということが問題にはなりますが・
・・。
地方自治体にとってもこの問題は関係があります。地方自治体は
借金に苦しんでいますが、企業会計的に考えれば、健全な資産がど
れだけあるかということが無視されていますから、一方的に借金の
大きさだけで判定されてしまう傾向があることが不満です。どれほ
ど昔からは分かりませんが、地方自治体が皆さんから頂いた税金や
国・県の補助金等で営々と築いてきた建物、道路・・・等々たくさ
んあります。それらの資産は、計数的には全て無視されての話です
から、特に長野市のように五輪施設という他の市町村に無い立派な
ものを持っている自治体は苦しいですよね。また、市民の誇り、生
活のしやすさ等ということまで考慮できれば・・・これも計数的に
表すことはできそうもありませんね。どの場合も換金性が高くない
ことは問題になりそうです。
そして借金の一部分は、時期が来れば国が「交付税で面倒みるよ」
という約束(?)がありますので、考えようによっては、その部分
は地方自治体の実質的な借金ではないとも思えます(地方債を発行
した以上、借金には違いないのですが・・・)。
また、借り先は国からが一番多いでしょうから、国が借金の返済
額と交付税を相殺してくれれば、単年度に発生する借金の額は少な
くて済むので、地方自治体は、精神的にも随分楽になるような気が
します。
もうひとつ似たような話ですが、地方自治体の財務状況の表し方
ですが、単式簿記(いわゆる役所式)ではなくて、企業と同じ複式
簿記で表してみれば、長野市は超優良会社です。この場合にも行政
の持つ資産の換金性は問題になるとは思いますが・・・・。
いずれにしろ借金を減らし財政再建をしたいとの思いはどの自治
体でも同じでしょう。ただ、貯金を取り崩して予算を組むとか、や
るべきことをやらずに、借金を減らしたというのではなく、財政構
造を改革していく、すなわち「入りを量りて、出(い)ずるを
為(な)す」ことこそが必要だと心に命じています。
(注1)地方自治法第100条に基づく地方議会の調査権を行使
するために設けられた特別委員会
(注2)「利害関係者」のこと。企業活動と関係するあらゆる関
係者を指します。
2006年3月9日木曜日
県議会における二つの議案説明について
3月1日から3月長野市議会定例会が始まりました。定例会は3
月、6月、9月、12月と年4回開催されます(その他、必要に応
じ臨時会もあります)が、特に3月定例会は、新年度の予算審議を
中心に新年度の市政運営の根幹に関わることがたくさんありますの
で、開催期間も長く、市長にとっては緊張を強いられるものです。
長野県でも、2月県議会定例会が始まりました。田中知事の議案
説明で見過ごすことができない発言をされていますので、二つ書か
せていただきます。
一つは、長野市にある長野養護学校を長野市へ移管したいという
発言です。理由は生徒の8割が長野市出身の子どもであるというこ
とと、全国で中核市を含む109の自治体が市(区)立の養護学校
を設置しているからというものです。
まず申し上げなくてはならないのは、養護学校は、学校教育法で
都道府県に設置が義務付けられているということです。確かに他県
で市区町村が設置しているところはあるようですが、その場合多分
いろいろな事情・歴史的経緯があるはずです。109という数字は
施設数であり、設置している自治体の数は61というのが正しい数
字です。合併が進んだ現段階でも市町村の数は約1800以上あり
ますから、設置している自治体が61というのは、全国的にみれば、
ほんのわずかな数です。特殊事情と言ってもよいのではないでしょ
うか。また、8割が長野市の子供であるということですが、それは
長野市の人口が一番多く、また、養護学校が長野市にありますから
多くても不思議ではないと思います。長野市民が多いからという理
由なら、たくさんある県立高校はもっと多いのではありませんか?
ましてやこのような重要な事項にもかかわらず、知事の議案説明
の前日、県教委の職員が市教委に長野養護学校の移管の要望(県教
委のなかでは議論されなかったと先日報道されました)・・・そん
な簡単な問題ではないはずです。どんな案件でも、普通なら庁内で
十分検討した上で県と市の担当者が何度も話し合い、難しい問題な
ら県議会議員や市議会議員の意見もお聞きして、方向を決め、実行
する場合には新年度予算に盛っていくのが手順ではないでしょう
か・・・この件だけでなく、市町村に関係することを事前に協議も
なく突然出すのが知事の姿勢のように思われます。
知事の議案説明で、障害のある子もない子も分け隔たりなく、自
律的・自発的に学べる環境づくりをしていくと言っている県が、自
らの責任とその理念を放棄している行為にほかならないと思います。
私は報道関係の皆さんに囲まれ事情を聞かれ、思わず「県は責任放
棄でしょう」と申し上げました。
もう一つは、浅川治水問題です。知事の発言を議案説明要旨で確
認しましたが、「長野市は浅川と千曲川の合流点の機場の強化だけ
でやれと言っている、一国平和主義みたいでよいのか」という意味
の発言です。
私(この場合は長野市河川課)はそのようなことは言っていません。
この点について少し詳しく長野市の考えを申し上げます。
浅川が千曲川に合流する地点には、農地を水害被害から軽減する
目的で浅川排水機場(浅川最下流に流れてきた水を千曲川に排水す
る施設)があります。千曲川は犀川を含めた上流の地域でたくさん
の雨が降りますと、浅川が合流する付近では、すぐ下流の狭窄部
(川幅が上流に比べて極端に狭くなっているところ)の影響もあっ
て徐々に水位が上昇していきます。その結果、浅川では千曲川に洪
水を流し出すことが出来なくなり、場合によっては千曲川から逆流
し浅川に流れ込んでしまうことがあるため、合流点に設置してある
樋門(逆流を防止するための水門)を閉めます。樋門を閉めると、
浅川では上流から流れてくる洪水が溜まる一方ですから排水機場の
ポンプを運転し、溜まってしまう洪水を千曲川に出すという機能を
排水機場は持っています。
今回、県が示した案は千曲川と浅川が抱えるこのような固有の問
題を解決したいというもので、排水機場の増設と輪中堤、遊水地を
建設することで、一定の目標まで水害に遭うことを無くしたいとい
うものでした。長野市では、水害に遭う恐れのある地域の皆さんと、
随分前から水害をどうやって無くしていくかということを話し合っ
てきていますが、一部老朽化してしまった排水機場の更新と一定量
の増設については地元の皆さんと意見が一致していますので、今回
県から担当課に事前に話があった時に、その主旨を県の担当者に申
し上げました。
どんな“メモ”が県知事に報告されたのかは分かりません。ただ
報告内容が悪いのか、県知事が曲解したのか、あるいはわざと悪意
に解釈したか・・・いずれにしても、これほど重要な事項について
相手に内容確認をせず、一方的に県が書いた“メモ”のみを議案説
明の根拠とすることは、あまりに軽率です・・・長野市の意見は過
去の流れのなかでも明らかなのですから。
また、県が計画した遊水地や輪中堤は地形や現地に設置してある
排水路などの施設と組み合わせて考えてみますと、機能的に目的を
達成出来ないと考えられること、また、仮に洪水を排除あるいは流
入出来たとしても、その管理に要する経費が未来永ごうに渡って河
川管理者に負担を強いることから極めて現実的でないこと、また、
地元住民の皆さんにも環境面も含めて受け入れられないことが予想
されることなども担当課から事前にお話しました。
改めて申し上げますが、県知事の議案説明にあったような発言は
しておりませんし、排水機場の設置によって全量を排水することは
非現実的であり、長野市としても全く考えられないことです。
県知事の発言の翌日、県の青山出納長が浅川問題で説明に来られ
ましたので、冒頭この点を指摘、訂正を申し入れました。出納長の
弁明は、知事の発言内容を知ったのは前日の夜中だったということ
です・・・はからずも知事の県政運営方針について庁内では十分検
討していないこと、多分出納長も変な発言であるということを自覚
しているということを、証明してしまったのではないでしょうか。
浅川治水については、外水、内水に限らず、河川整備計画を国が
認可するかどうかが一番大切です。特に内水については、大きなポ
ンプ(排水機場)で単に千曲川に流してしまえば良いというもので
はないのです。上位河川である千曲川がそれだけの洪水を飲み込め
るかどうかが大切ですから、国はそんな大きなポンプは認めないと
いうことだって考えられるのです。
県は地元に案を発表するなら、まず国と相談し、国が認可する可
能性を探ってからにすべきです。5年も経って、まだ認可される可
能性があるかどうかわからない案を示すことは、問題を混乱させる
だけであり、行政への不信感を増幅してしまうだけと私は思います。
この二つの件、さまざまな信頼感が問われているテーマではない
でしょうか。
2006年3月2日木曜日
メルマガ201号を迎えて
今回のこのメルマガで平成14年4月にかじとり通信としてスタ
ートして以来、201号になりました。お読みいただいている皆さ
んに心より感謝いたします。大ざっぱに言えば、1年約50週で、
2年で100ということになりますから、私が市長をやらせていた
だく間には相当な号数になる!なんて、変なことに感慨を覚えてい
ます。いずれにしろ、市長の週間日記として、分かりやすく発信し
ていくことを、最重点に続けてまいります。
先日、東京へ出張した帰り、大宮駅で、藤原正彦著「国家の品格」
という本を買いました。最近評判になっている本で、帰りの新幹線
で読んできました(新幹線の中だけでは読めるほど薄い本ではあり
ませんでしたが、素晴らしい内容でした)。
奥付によると、藤原正彦さんという方は、お茶の水女子大学の理
学部教授(数学者)ということですが、私は新田次郎(本名藤原寛
人)と藤原てい両氏の次男ということに惹かれて買ってしまった面
もあります。新田次郎さんは、諏訪地方出身の作家として有名です
し、藤原ていさんも作家活動をしておられますが、昔講演をお聞き
したことがあって、旧満州から三人の子供を連れて引き上げてきた
その苦労話に感激したことを覚えています。
本の内容については、とても簡潔にまとめることはできませんが、
本のカバーに内容の大綱が示してありましたので、それを羅列させ
ていただきます。「資本主義の勝利は幻想」「情緒の文明を誇れ」
「英語より国語と漢字」「論理の限界を知る」「卑怯を憎む心、惻
隠の情の大切さ」「跪(ひざまず)く心を忘れない」「武士道精神
の復興を」「古典を読め」「家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛」「
国際貢献など不要」「重要なのは文学と芸術と数学」「真のエリー
トを求める」です。
数学者というのは、物の本質を考えることが上手なのでしょうか、
私たちが日ごろ感じていたこと、そしてハッと思わせる新しい視点
を、見事に文章にしていただいたと感じました。
「どんな論理であれ、論理的に正しいからといってそれを徹底し
ていくと、人間社会はほぼ必然的に破綻に至ります。言うまでもな
く、論理は重要です。しかし、論理だけではダメなのです。どの論
理が正しくて、どの論理が間違っているかということでもありませ
ん。これは日常用いられるすべての論理に共通した性質です。」
論理だけではダメなことは、私も前から感じてはいましたが、こ
こまではっきり言い切られ、そしてそれを証明されると・・・「参
ったなあ!」、「でもそうだなあ!」でした。理論を最も重要とす
る数学者の言葉ですから、更に説得力があるのだろうと思います。
前に読んだ本ですが、文章の趣旨が大変似ていると私が感じた文
章をご紹介させていただきます。上智大学の名誉教授渡部昇一さん
の文章で「歴史の読み方」という本に出てくるものです。この本も、
読んだときすごく感激したことを憶えています。
『ルソーの「社会契約論」は人間を破滅に導く
もう一つ、西洋に思想に関して多くの日本人が間違った考えを持
っているものに、ジャン・ジャック・ルソーあたりにはじまる知性
万能主義にたいする盲信がある。
このルソーが出現した時期は、フランス革命の少し前、18世紀
後半、いわゆる啓蒙時代である。そしてこの時期は、“人間の理性
を考察した時代”で、この理性を考察する方法として、当時、大陸
派とイギリス派の二つの流れがあったのである。
要するに「人間の知能は万能である」と考えた一派、これがフラ
ンスを中心とするルソーやヴォルテールによる大陸派である。
彼らは、すべてのものが知力で構築できると考えたため、構築的
知力主義、または理性主義、知性主義と言ってよい。そして、この
人間の知力の万能を信じた知性主義を突き詰めていくと、社会は
“契約”によってできたと考えざるをえなくなる。すなわち、国家
と国の体質(コンステチューション)によって徐々に成立したとい
うより、むしろ、人間の知力でつくりあげたと考えたくなる。その
ため、今の社会が悪ければ“契約のしなおしだ”というわけで、し
ごく単純に革命の理論に到ることになる。これが社会契約論の骨子
(こっし)と言ってよいだろう。
しかしルソーと個人的にも接触があり、彼のイギリス亡命中、個
人的な面倒を見たこともあるデイヴィッド・ヒュームは、ルソーが
知性万能主義を唱えた同じ時期に、逆に、「人間の知力というのは
まったくあてにならない」と、その名著『人間本性(ほんせい)論』
で述べている。彼は認識論から出発して、知性不信に到ったのであ
る。要するに、現実の出来事に関して、人間の予知力は、たいして
その力を発揮することはできないし、また、発揮してはならないと
説くのである。』
以上の文章は昭和54年に出版された本からのもので、25年経
過しているが故に、平成18年の現在では理解が違う点もあるので
しょうが、私はこの本に出会って本当に目からうろこが落ちる思い
をもちました。
学生時代、歴史の授業で学んだルソーの「社会契約論」が、こう
いう形で批判されるとは、まったくびっくりでした。学んだことと
はあまりにも違う視点、そしてその論理が結局マルクスの共産主義
につながっていく、そんな重要な視点を含んでいることを知り、い
つかは参考にさせていただこうと書き留めておいた文章です。
浅学非才の私がこんなことを申し上げるのはお二人に失礼だと思
いますが、藤原正彦さんと渡部昇一さんの文章に共通することは「
頭で考えたことはあてにならない、現場を知り、経験の中から考え
なくては、正しい答えはでてこない」ということでしょうか。
藤原正彦さんは、文芸春秋の三月特別号にも、「愚かなり、市場
原理信奉者」と題して、同趣旨ですが、かなり激しく書いておられ
ます。市場原理主義は人類を不幸にする、日本は惻隠の国になるべ
き、情緒は論理より大切という趣旨です。
ただ、これらの議論を突き詰めると、行政に「民間活力の導入」
という私の政策と相容れないという意見が出そうかな、ちょっと心
配です。市場原理主義と民間活力導入とは問題が違うとは思ってい
ますが・・・・・・。