2007年5月31日木曜日

農業集落排水事業が完了しました(2)


 前回は、篠ノ井山布施地区の農業集落排水事業の完成や、公共下
水道事業の経緯などを書かせていただきました。

 今回は、前回の話を整理して、下水道事業を総括的に記してみた
いと思います。
(1)公共下水道
 ア 単独公共下水道(単独というのは長野市という意味です)
 イ 千曲川流域関連公共下水道(上流・下流があり県と周辺市町
  村の共同事業です)
 ウ 特定環境保全公共下水道(飯綱・若穂・松代・戸隠・鬼無里
  の一部。農業集落排水事業と似た事業です)
(2)農業集落排水事業(市内21カ所。公共下水道に比べて規模
 が小さいため、コストはどうしても高くなります)
(3)合併処理浄化槽

 なぜ三本柱になっているかというと、国土交通省・農林水産省・
環境省にそれぞれ補助制度があり、その違いが原因で、長野市も担
当課がすべて違っています。しかし目的は全戸水洗化ですから、長
野市としては少しでも早く整備を進めるためすべての方策を導入し
ているわけです。

 今後について、市民の皆さんにお願いですが、公共下水道地区、
農業集落排水地区のいずれかに属し、すぐに接続できる状態であり
ながら、まだ接続されていない方々につきましては、一日も早く各
ご家庭の接続工事を実施していただき、施設が十分に生かされ、生
活環境がより改善されるようお願いします。

 また、三本柱の中で圧倒的に区域が広い公共下水道管敷設工事で
すが、市長就任以来、下水道の敷設が行われていない地域の皆さん
から、極めて強い要望が寄せられ、私も市民の公平感から、一日も
早く完成させたいと思った事業でしたので、特に力を入れて推進し
てきたつもりです。
 そこで、平成15年3月には下水道計画の見直しを行い、今後整
備完了までに従来20年間としていた下水道整備計画を、整備期間
を5年短縮し向こう15年間で完成するという目標を立てました
(平成15年度末の段階での人口普及率は68%を見込んでいまし
た。農業集落排水や合併浄化槽に力を入れてきたのも、全戸水洗化
を一日も早く実現したいとの思いからでした)。

 公共下水道の完成に向けては、市水道局が中心になって一生懸命
工事に取り組んでおり、現在の公共下水道事業人口普及率は、平成
18年度末で、78.3%、農業集落排水などを含めた全体の普及
率は約83.7%になりました。そして平成24年度までにほぼ完
成する予定です(“ほぼ”と申し上げているのは、どうしてもでき
ない場所が残る可能性があるからです。15年間という目標を実質
的にさらに短縮しようというものです)。

 ただ建設工事がほぼ終わっても、すべて終わりではありません。
次のような問題があります。
(1)工事が難しい場所は引き続き努力しなくてはなりません。
(2)市民の皆さんに下水道管を接続していただかなくてはなりま
 せん。
(3)古い管は昭和28年ごろから建設していますから、不断のメ
 ンテナンスが必要です。
(4)市民の皆さんにご負担いただく料金の統一問題(公共下水道
 ・農業集落排水・合併浄化槽)があります。
(5)下水道経営は上水道と合わせて、長野市水道局の経営です。
 健全経営をしていかなくてはなりません。技術的な改良も常に研
 究していかなくてはなりません。
  一番大切なことは、建設中に積み重なった約1,200億円の
 企業債の返済です。

 以上、こう考えてみると、全戸水洗化という事業は、なかなか終
わりのない、しかし行政にとっては、重要な事業であるということ
が、お分かりいただけたのではないかと思います。大切な文化的な
生活、水質の良化にとって重要なインフラ(生産や生活のための基
盤となるもの)です、全力を挙げて取り組みます。

2007年5月24日木曜日

農業集落排水事業が完了しました(1)


 4月21日(土)、篠ノ井山布施地区の農業集落排水事業が完成
し、そのしゅん工式が地元で開催されました。既に4月1日から供
用開始されています。ひとえに地元建設促進委員会の酒井委員長を
はじめとする地元の皆様方の事業へのご協力、国および県など関係
機関のご援助とご指導のたまものであり、心から感謝申し上げます。

 本来、水洗化は公共下水道で行うことが理想ではありますが、住
宅が連なっていない周辺部(農村部)では、全市的な下水道管をつ
なげていくことは極めて不経済、不効率ということから、その地域
だけで完結する(すなわち下水道管の設置と処理施設を公共下水道
とは切り離して、独自に建設する)農業集落排水事業として推進し
てきたものです。

 農業集落排水事業は、平成3年から農村地域の住環境整備のため
の重点施策として推進し、予定した市内21地区の整備を順次行っ
てきましたが、この山布施地区がしゅん工したことで、一連の農業
集落排水事業の整備はすべて完了しました(合併町村については、
平成17年度に完了しました)。

 これらの事業の目的は、地域のし尿や生活雑排水を集合処理し、
農業用水の水質保全、生活環境の改善、さらには公共用水域の水質
保全を進め、生産性の高い農業を実現することにあります。

 下水道整備に当たってのもう一つの柱は、合併処理浄化槽事業で
す。一軒または数軒だけ離れた場所にお住まいの方々を対象に、あ
るいは技術的に下水道管をつなぐことが極めて困難な場所でも、個
別の浄化槽設置をお願いしています。また、この施策は下水道区域
内でも下水道管の敷設までに時間がかかる場所にお住まいの方々に
も、ご利用いただいています。

 さて、この際ですので、下水道計画の中でも主たる公共下水道に
ついて、少しお話ししましょう。大変息の長い事業ですので、経緯
や仕組みを知らない方々が多いと思いますので・・・(私も市長に
なって、初めて知りました)。

 長野市の公共下水道事業は、昭和28年から計画が始まっていま
す。朝鮮戦争直後くらいのことでしょう。記録によりますと、戦前、
昭和4年に都市計画事業の一環として計画されたことがあるようで
すが、諸般の事情により中止したとあります。昭和初期の大不況下、
あきらめざるを得なかったのでしょうか。

 戦後になって昭和28年に、文化都市、観光都市としての発展を
期待し、JR長野駅から善光寺までの市街地中心部を対象に事業認
可を取得、分流式による公共下水道第一期計画に着手しました。こ
の分流式というのは、雨水と汚水を分けて処理する方式のことで、
合流式というのは、これを一緒に処理する方式をいうのだそうです
が、当時、長野市は分流式を採用しました。合流式を採用した都市
は今大変苦労しているそうで、分流式に改造を始めた所もあるとの
ことです。長野市の先輩方の将来を見通す選択眼には、本当に頭が
下がります。

 昭和34年に、南部終末処理場が一部完成し、活性汚泥法による
高級処理が開始されたということで、下水道が実際に使われ始めた
ということです(もはや戦後ではないというようなことがいわれ、
現在の天皇陛下ご夫妻の皇太子さまと美智子さまのご婚儀があった
年です)。

 その後、文化的で快適な生活を送るためには、また市内の水質良
化のためにも、全戸水洗化を早期に実現させることが急務となって
きました。そこで市街地周辺の急速な都市化とそれに伴う河川汚濁
に対処するために区域を広げた計画の認可を取得し、昭和56年に
は東部終末処理場が完成し、供用を開始しました。なお、南部終末
処理場は老朽化により平成9年に廃止して、処理地域を東部処理場
に統合し、効率的な処理が可能になりました。

 さらに、県の主導により周辺市町村との共同事業として、千曲川
流域関連下水道が始まりました。下流処理区は長野市北部、東部、
若穂、松代の一部、豊野が対象地区で、処理場は平成4年に赤沼の
「クリーンピア千曲」が、上流処理区は篠ノ井、川中島、更北、松
代の一部が対象で処理場は平成8年に真島町川合の「アクアパル千
曲」が、それぞれ供用開始され、現在は一日も早く下水道が完成す
るようまだ下水道管が敷設されていない地域への拡張に努力してい
ます(下水道はその性質上、処理場からだんだん上流へ工事を行っ
ていくことが基本ですから、なかなか時間がかかっている地域もあ
り、ご迷惑をお掛けしています)。

 また、公共下水道事業だけでは間に合わないし、非効率というよ
うな事情から、国の政策に併せ、農業集落排水事業、合併処理浄化
槽事業という三本柱で事業を推進してきました(公共下水道事業の
一環として、特定環境保全公共下水道という制度もあり、長野市で
は飯綱・若穂・松代・戸隠・鬼無里の一部で採用されています)。
その三本柱の一つ、農業集落排水事業は、このたび、山布施地区が
最後で、すべての予定地区が完了したわけです。

 次回のメルマガでは、下水道事業を総括してみたいと思います。

2007年5月17日木曜日

長野県市長会と後期高齢者広域連合


 4月20日、長野県自治会館で長野県市長会総会が開催され、私
(長野市長)が会長に選出されました。市長会の在り方については、
あまり考えたことがありませんでしたので、戸惑っていますが、2
年の任期を一生懸命務める決意です。

 長野県市長会の会長については、東北信と中南信の順番で就任す
るという、従前からの慣例がありました。私が市長に就任した5年
前は、松本市(中南信)の有賀市長が会長で、次に佐久市(東北信)
の三浦市長、その次は大町市(中南信)の腰原市長(腰原市長は昨
年7月、市長任期満了で退任され、その残任期間を茅野市の矢崎市
長が務められました)、そしてこの4月から東北信の順番となり、
私が選任されたということです(本来ならば市長会副会長を経験さ
れている上田市の母袋市長が就任するのが、妥当とも思ったのです
が・・・長野市長と松本市長については、慣例では特例扱いとなっ
ているそうです)。

 市長会長としては、長野県総合計画審議会の委員(会長職務代理
者)や(財)長野県廃棄物処理事業団の理事など50を超える団体
の役員に就任することとなっていました、ちょっとびっくり・・・
同時に忙しくなって困ったというのが実感です。もう既に幾つかの
会議に出席させていただいていますが、なかなか大変です。

 ただ市長会とは何を行う組織か、というのも難しいところがあり
ます。それぞれの「市」は独立した自治体ですから、ほかから干渉
されることはおかしいですし、またそれはあってはならないことで
しょう。市長会が決定したとしても、必ずしも拘束されるものでは
ありませんし、多数決で物事を決する組織でもありません。結局、
全員の総意か、あるいは各市長の良識的な判断のもとに各市の要望
を取り上げ、北信越市長会・全国市長会あるいは県・国などへつな
いでいくことが主たる仕事ということになりそうです。

 加えて、市長会長とは、別の動きですが、後期高齢者医療広域連
合が長野県内81の全市町村を構成員とする広域連合として設置さ
れることになりました。全県レベルでのはじめての広域連合という
ことになります(長野県の場合、広域連合はこれまでに10団体設
けられていて、長野市は長野広域連合に所属しています)。
 運営については、市長会と町村会が昨年度から話し合いを続けて
きました。その広域連合の連合長は、構成する県内81の市町村長
の内から選挙で決めることになっており、最初は市長会長が務める
ことになりました。

 そして、本年3月23日に長野県後期高齢者医療広域連合が発足
しました。
 広域連合は市町村の集合組織という印象があると思いますが、法
的には県も参加できる規定になっており、今回は全県対象の広域連
合ということもあって、長野県も事務局長を派遣するなど、万全を
期しています。

 さて、一般的に後期高齢者とは75歳以上の方を指し、65歳か
ら74歳までの方を前期高齢者といいます。それでは、後期高齢者
医療広域連合とは何を行うかということですが、後期高齢者を対象
に、新しい医療保険制度を創設し、高齢者自らが負担能力に応じて
保険料を負担することを基本としつつ、保険制度間(国保・社保な
ど)の公平な負担が確保されることを目指す。その際、現役世代の
支援、高齢者世代の負担、それと公費の適切な組み合わせを図ると
ともに、必要な財源の確保を目指すこととし、その医療保険制度を
広域連合が運営する・・・そんな内容が医療制度改革大綱に書いて
あります。

 そして、財政運営を都道府県単位の広域連合が行うとしており、
それなら県が主体的に行えば問題ないと思うのですが、県は住民情
報を持っていないなどの理由から、広域連合で行うことになったよ
うです(広域連合にしても独自で住民情報を持っていませんから、
市町村からの住民情報の提供が必要となります。結局、同じことの
ように思いますが・・・)。

 実際には、平成20年度から制度がスタートしますので、本年度
は準備期間として、電子計算処理システムを整備し、医療給付事業
を誤り無く行うこと、県内81市町村から被保険者の基本データを、
市町村にあまり迷惑を掛けないような形で、効率よく、誤り無く、
収集するシステムをつくり上げることが仕事だと思っています。
 今回の医療制度改革で創設された後期高齢者医療制度は、国民す
べてがいずれお世話になる制度として、超高齢社会を支えていく根
幹の制度であると考えますので、きちんと運営していくために、広
域連合に集まった県と市町村の職員の衆知を集めて、充実したシス
テムを構築していきたいと考えています。

2007年5月10日木曜日

元気な長野の春です


 4月中旬からゴールデンウィークにかけて、長野は元気いっぱい
です。

 4月15日の日曜日、第9回長野オリンピック記念長野マラソン
と第3回長野車いすマラソン大会が今年も盛大に開催されました。
 今年は、初めて車いすマラソンのスタート地点へ伺ったのですが、
60台のマラソン用の車いすに乗って勢ぞろいした姿は、すごい迫
力でした。選手の上半身は筋骨隆々、すごくたくましく、鍛えてい
るのだなあということが、よく分かりました。

 スタート前に選手の方とお話ししたのですが、コースの千曲川の
サクラ堤から落ちる危険はないですか?と私の心配していることを
お聞きしたら、練習中は、転んだり、溝へ落ちたり、苦労している
というお話でした。

 号砲一発、スタートしたと思ったら、アッという間に走り過ぎて、
視界から消えてしまいました。ハーフマラソン(21.0975キ
ロメートル)ですが、早い人は40分そこそこでゴールするとのこ
とですから、普通のマラソンの速度とは全然違います。障害のある
方の競技ということで抱いていた私のイメージとは全く違っていま
した。

 同日開催の長野マラソンは、すっかり長野の春のイベントとして
定着しました。「ランナーズ」という雑誌の読者アンケートで、2
年連続日本一の評価を頂くまでに成長しました、嬉しいことです。
今年は特に、天気が良く、桜も満開、雪をかぶった遠くの山々も奇
麗に見えて、ボランティアの活躍、途切れない沿道の応援・・・風
林火山の旗もたなびいて、絶好のシチュエーションでした。順位・
記録の方は公式記録を参照していただくとして、私は素晴らしい走
りに感激していたことを、報告させていただきます。

 4月28日、「善光寺花回廊」が始まりました。オープニングセ
レモニーは、長野駅のコンコースで、地元商店街、長野商工会議所、
JR東日本、そしてご協力いただいた上田市などの自治体の皆さん
やボランティアの方々にご参加をいただいて開催されました。その
後、中央通りやごん堂広場に展示されたそれぞれの作品を見て回り
ました。連休後半には約1万5千鉢の花苗を使った「タペストリー
ガーデン」やチューリップの花びらなどで路上に絵を描く「花キャ
ンバス」なども制作・展示され、5月5日までの開催期間中、約
39万人の方々が訪れました。

 同日、鬼無里の奥裾花自然園では、開山祭が開催されました。副
市長が出席しましたが、多くのお客様にお出でいただいたそうです。
例年、連休に水芭蕉を見ていただくために、除雪作業が大変なので
すが、今年は雪が少なかったので、経費は少なくてありがたかった
です。

 サッカーのAC長野パルセイロの初戦については第259号のメ
ールマガジンで報告させていただきましたが、その後順調に勝ち星
を伸ばして現在4勝0敗です。特に4月29日、松本アルウインで
宿敵松本山雅FCに1対0で勝ったのは大きいです。昨年はリーグ
戦での2試合と天皇杯予選を含めて3連敗した相手ですから、アウ
エーで勝ったのは大殊勲です。リーグ戦はシーズン全部で14試合
あり、そのうちの4試合ですから、まだまだ油断は禁物ですが・・・
大いに期待しましょう。次の試合は5月13日です。

 今年から始まった北信越BC(ベースボール・チャレンジ)リー
グの長野県チーム・信濃グランセローズの初戦は、4月28日長野
オリンピックスタジアムで、対戦相手は石川県の石川ミリオンスタ
ーズでした。突然の雷雨など天候が悪い中、県内外から開幕を待ち
望んでいたお客様が6,832人も詰め掛けました。
 試合はリーグの規定により3対3の引き分けでしたが、素晴らし
い開幕戦だったと思います。
 これまでの6試合で2勝3敗1引き分けの成績です。シーズンは
始まったばかりです。今後の頑張りに期待し、皆さんで応援してい
きましょう。

 プロのサッカー・チームや野球チームが長野に誕生することは、
数年前には考えられなかったことです。パルセイロやグランセロー
ズの活躍は、本当に地域密着型で運営すれば、可能性は十分あるし、
地域を元気にする起爆剤になる、と思わせてくれました。新しいビ
ジネス・モデルの誕生です。

 長野市開発公社の経営する松代温泉の松代荘では、一浴(日帰り)
のお客様が増えていることもあり、昨年から風呂場の増設工事に取
り組んできました。このたび完成しましたので、5月1日にお披露
目が行われました。大変評判の良い温泉です。一浴の入浴時間も午
後10時までに延長しましたので、多くの皆さんのご利用をお願い
します。

 余談ですが、私はこの連休中、仲間に誘われて、志賀高原・熊の
湯へスキーに行ってきました。早朝スキーというのがあって朝6時
からリフトが動いていました。7時過ぎからその早朝スキーを楽し
みました。それから朝食を食べた後、横手山ゲレンデに行き、頂上
まで行ってきました。頂上から見る景色は、本当に見事です。雪を
かぶった北アルプスが浮いて見える景色は、私の文章力ではちょっ
と表現できませんが、息をのむほど素晴らしい景色でした。スキー
客だけでなく、観光姿のお客さんもたくさん来ておられました。日
本一高いところにあることで有名なパン屋さんで、パンを食べて、
滑り降りてきました。

 この時期にスキーができることは知っていましたが、私にとって
は初めての経験でした。民間スキー場経営の努力や連れて来てくれ
た友人に感謝しながら、汗をかきながら今シーズン最後の滑走を楽
しみました。ただ、さすがに雪は重くて疲れましたし、正直に言う
とけがをしたら大変だなと、ちょっと怖い思いをしました。気温が
15度前後に上がっていたこともあり、頂上まで2回登る元気は出
ませんでした。
 スキーヤー専用ゲレンデを設けていること、そして、連休終了の
6日まで営業をしているとのことで、経営上の苦労は大変ですよね。

 この連休中は、皆さんも大いに楽しまれたことと思います。まだ
まだ春のイベントが続きます。お出掛けください。

2007年5月2日水曜日

閑話(2)・・・明治以降の長野


 前回は維新前の長野の様子を書きましたが、明治以降については、
「長野市誌」にかなり詳しく載っています。

(1)長野に市制が施行されるまでの動き
 明治初期の長野は、いろいろな変遷があったようです。明治22
(1889)年に町村制が施行されて落ち着くまで、村々の合併・
統合がしきりに行われています。

明治元年 長野村などで構成された善光寺町と町続き地は人口約1
 万人でした。明治3年には、善光寺領が松代藩の付属になったよ
 うです。
明治4年 廃藩置県によって、善光寺領は長野県の管轄になり、県
 庁は西町の西方寺に置かれました。
明治7年 県庁舎新築落成(現在の信大教育学部の地)。同じ年、
 長野村は長野町になり、善光寺の白蓮坊内に町役場が置かれまし
 た。
明治9年 筑摩(ちくま)県が廃され、南信地域が長野県に合併さ
 れることになったため、長野町は新しい長野県の県都として発足
 することになり、地方行政の中心的役割を果たし、地方の政治都
 市の色彩を濃くしていきました。
 同年、長野町と箱清水村が合併し長野町となり、続いて権堂村、
 問御所村、七瀬村が合併して鶴賀村となりました。
明治18年 県令により長野町、鶴賀町、西長野町、南長野町、茂
 菅村が連合して戸長役場が長野町(元善町)に置かれる。連合戸
 長は官選となり、小学校も合併して一校となりました。県令によ
 って実質統合したのでしょうから、現在とは随分違いますね。
 そして、「長野」町の名前もどうしてついたのか。「善光寺」町、
 「鶴賀」町、でもよかったのかもしれません。
明治22年 町村制施行により4町1村が合併して新たに長野町と
 なる。人口は2万4,529人でした。このとき、鶴賀町のうち、
 七瀬、居町は分かれて芹田村に入る。この辺はどんな事情があっ
 たのか、興味がありますが、いずれにしろ現在まで残る町名が、
 当時からあったこと、興味深いことです。
明治24年 善光寺界隈(かいわい)で、二度も大火がありました。
明治26年 信越線が全通(碓氷峠に26のトンネル)。この話に
 は、裏話が伝わっています。もともと線路は松代方面を通過する
 予定だったそうですが、松代の皆さんが、黒い煙を吐く、そんな
 危険なものは要らないと拒否したため、線路は予定を変えて、善
 光寺寄りの現在の長野駅に沿って敷かれたという資料を、前に見
 せていただいた記憶があります。
明治30年 市制施行により、県内で初めての市として長野市が誕
 生しました。
 人口は2万9,285人。以後、中央の出先機関や経済・文化面
 にわたる中心的機関が集中し、政治・経済・文化および交通の要
 衝として急速に発展しました。

(2)市制施行以後
明治31年 茂菅に長野電燈の発電所ができて、初めて市内に電灯
 がともりました。里島の発電所ができて、ようやく文明の明かり
 がともったのです。
明治33年 長野商工会議所が設立されました。当時は商業会議所
 と称したようです。
明治39年 長野郵便局内で電話交換が開始(加入者138人)さ
 れました。(財)善光寺保存会もこのころ、つくられたように記
 憶しています。
明治40年 長野市教育会が設立されました。
明治44年 中央線(長野~名古屋間)が開通しました。
大正4年 長野市の水道事業が始まり、給水が始まりました。どう
 いう経緯があったか分かりませんが、当時の戸隠村から水を買っ
 たようです。
大正5年 乗り合いバスの運行が、長野から高府(現在の小川村)
 まで始まりました。西山方面は昔から発展していて、長野市との
 結びつきが深かったことの証左でしょう。

 明治30年の市制施行以降、大正時代にかけて長野の基礎的なシ
ステムができてきたといえます。その間、日本は明治20年代に日
清戦争、30年代に日露戦争、そして大正期には第一次世界大戦を
経験しています。
 
(3)大正から昭和へ
大正12年 隣接の1町3カ村(吉田町、三輪村、古牧村、芹田村)
 を編入合併し、大きく発展しました(人口6万1,338人)。
大正13年 中心市街地の中央通りが、今の広さに拡幅されました。
大正15年 城山の野球場が完成しました。現在は、野球場として
 の使命を終え、数年かけて公園に生まれ変わりました。感慨深い
 ものがあります。
昭和2年 常時消防が設立されました。
昭和6年 NHK長野放送局が城山公園内に完成し、放送を開始し
 ました。
昭和11年 長野駅仏閣型駅舎に改築。同年、善光寺白馬鉄道が長
 野(山王小学校の所)から善光寺温泉まで開通したものの、第二
 次世界大戦で中止。この線が完成していたら・・・随分と地域の
 様子は変わっていたでしょうね。
昭和14年 長野飛行場完成。でもあまり飛行機は飛ばなかったよ
 うに、聞いています。ここの敷地は今、犀陵中学校になっていま
 す。

 昭和16年、日本は太平洋戦争に突入、長野も戦争体制に組み込
まれ、昭和20年8月13日には市域に米軍の空襲を受けています。
松代に大本営が移転する計画があり、トンネルが掘られたことは皆
さんご存じのことと思います。
 そして敗戦、長野市も再建に向けて苦しい時代、日本も敗戦の中
から立ち上がってきました。新憲法が発布され、天皇陛下の地方巡
幸があって、小学生の私も大門町の辺で、日の丸の旗を振った記憶
があります。朝鮮戦争の特需は長野の地にも、恩恵があったのかも
しれません。私の小学生・中学生の時代です。

 そして昭和29年4月、隣接の10カ村を編入合併し、市域は拡
大され、道路整備、信越・中央両線の輸送強化による産業の発展と
相まって近代的な大都市としての基礎が築かれました。

 この辺からは、知っている人がたくさんいると思いますが、昭和
30年自由党と民主党が合併して自由民主党となり55年体制の成
立、昭和35年は60年安保の年で大騒動、そして昭和39年東海
道新幹線が営業開始し、東京オリンピックが開催されました。

 当時の長野市にとって最大の出来事は、長野市民会館が建設され、
市庁舎が若松町から現在の場所に移り、昭和41年には、長野市、
篠ノ井市、松代町、若穂町、川中島町、更北村、七二会村、信更村
の2市3町3カ村の大合併により、面積約404平方キロメートル、
人口約27万人の都市になりました。オリンピックを開催する基盤
ができたといえるかもしれません。その後、オリンピック・パラリ
ンピックを経て、平成17年1月に豊野町、戸隠村、鬼無里村、大
岡村の1町3カ村と合併して現在の長野市となりました。

 今年は、善光寺本堂再建300年、そして長野市制施行110年
というひとつの節目の年のせいでしょうか。普段あまり振り返るこ
とがない長野市史をひもといてみたくなり、このようなメルマガに
なりました。忘れていたこと、分かったこと、懐かしかったこと・
・・明治維新以降の出来事で、現在まで影響のある事柄を中心に書
いたつもりですが、個人的には参考になりました。
 市民の皆さんにも知っていただきたくて書いたのですが、郷土史
に詳しい方々からみれば、随分乱暴な文章とお思いになるかもしれ
ませんが、お許しください。