前回は維新前の長野の様子を書きましたが、明治以降については、
「長野市誌」にかなり詳しく載っています。
(1)長野に市制が施行されるまでの動き
明治初期の長野は、いろいろな変遷があったようです。明治22
(1889)年に町村制が施行されて落ち着くまで、村々の合併・
統合がしきりに行われています。
明治元年 長野村などで構成された善光寺町と町続き地は人口約1
万人でした。明治3年には、善光寺領が松代藩の付属になったよ
うです。
明治4年 廃藩置県によって、善光寺領は長野県の管轄になり、県
庁は西町の西方寺に置かれました。
明治7年 県庁舎新築落成(現在の信大教育学部の地)。同じ年、
長野村は長野町になり、善光寺の白蓮坊内に町役場が置かれまし
た。
明治9年 筑摩(ちくま)県が廃され、南信地域が長野県に合併さ
れることになったため、長野町は新しい長野県の県都として発足
することになり、地方行政の中心的役割を果たし、地方の政治都
市の色彩を濃くしていきました。
同年、長野町と箱清水村が合併し長野町となり、続いて権堂村、
問御所村、七瀬村が合併して鶴賀村となりました。
明治18年 県令により長野町、鶴賀町、西長野町、南長野町、茂
菅村が連合して戸長役場が長野町(元善町)に置かれる。連合戸
長は官選となり、小学校も合併して一校となりました。県令によ
って実質統合したのでしょうから、現在とは随分違いますね。
そして、「長野」町の名前もどうしてついたのか。「善光寺」町、
「鶴賀」町、でもよかったのかもしれません。
明治22年 町村制施行により4町1村が合併して新たに長野町と
なる。人口は2万4,529人でした。このとき、鶴賀町のうち、
七瀬、居町は分かれて芹田村に入る。この辺はどんな事情があっ
たのか、興味がありますが、いずれにしろ現在まで残る町名が、
当時からあったこと、興味深いことです。
明治24年 善光寺界隈(かいわい)で、二度も大火がありました。
明治26年 信越線が全通(碓氷峠に26のトンネル)。この話に
は、裏話が伝わっています。もともと線路は松代方面を通過する
予定だったそうですが、松代の皆さんが、黒い煙を吐く、そんな
危険なものは要らないと拒否したため、線路は予定を変えて、善
光寺寄りの現在の長野駅に沿って敷かれたという資料を、前に見
せていただいた記憶があります。
明治30年 市制施行により、県内で初めての市として長野市が誕
生しました。
人口は2万9,285人。以後、中央の出先機関や経済・文化面
にわたる中心的機関が集中し、政治・経済・文化および交通の要
衝として急速に発展しました。
(2)市制施行以後
明治31年 茂菅に長野電燈の発電所ができて、初めて市内に電灯
がともりました。里島の発電所ができて、ようやく文明の明かり
がともったのです。
明治33年 長野商工会議所が設立されました。当時は商業会議所
と称したようです。
明治39年 長野郵便局内で電話交換が開始(加入者138人)さ
れました。(財)善光寺保存会もこのころ、つくられたように記
憶しています。
明治40年 長野市教育会が設立されました。
明治44年 中央線(長野~名古屋間)が開通しました。
大正4年 長野市の水道事業が始まり、給水が始まりました。どう
いう経緯があったか分かりませんが、当時の戸隠村から水を買っ
たようです。
大正5年 乗り合いバスの運行が、長野から高府(現在の小川村)
まで始まりました。西山方面は昔から発展していて、長野市との
結びつきが深かったことの証左でしょう。
明治30年の市制施行以降、大正時代にかけて長野の基礎的なシ
ステムができてきたといえます。その間、日本は明治20年代に日
清戦争、30年代に日露戦争、そして大正期には第一次世界大戦を
経験しています。
(3)大正から昭和へ
大正12年 隣接の1町3カ村(吉田町、三輪村、古牧村、芹田村)
を編入合併し、大きく発展しました(人口6万1,338人)。
大正13年 中心市街地の中央通りが、今の広さに拡幅されました。
大正15年 城山の野球場が完成しました。現在は、野球場として
の使命を終え、数年かけて公園に生まれ変わりました。感慨深い
ものがあります。
昭和2年 常時消防が設立されました。
昭和6年 NHK長野放送局が城山公園内に完成し、放送を開始し
ました。
昭和11年 長野駅仏閣型駅舎に改築。同年、善光寺白馬鉄道が長
野(山王小学校の所)から善光寺温泉まで開通したものの、第二
次世界大戦で中止。この線が完成していたら・・・随分と地域の
様子は変わっていたでしょうね。
昭和14年 長野飛行場完成。でもあまり飛行機は飛ばなかったよ
うに、聞いています。ここの敷地は今、犀陵中学校になっていま
す。
昭和16年、日本は太平洋戦争に突入、長野も戦争体制に組み込
まれ、昭和20年8月13日には市域に米軍の空襲を受けています。
松代に大本営が移転する計画があり、トンネルが掘られたことは皆
さんご存じのことと思います。
そして敗戦、長野市も再建に向けて苦しい時代、日本も敗戦の中
から立ち上がってきました。新憲法が発布され、天皇陛下の地方巡
幸があって、小学生の私も大門町の辺で、日の丸の旗を振った記憶
があります。朝鮮戦争の特需は長野の地にも、恩恵があったのかも
しれません。私の小学生・中学生の時代です。
そして昭和29年4月、隣接の10カ村を編入合併し、市域は拡
大され、道路整備、信越・中央両線の輸送強化による産業の発展と
相まって近代的な大都市としての基礎が築かれました。
この辺からは、知っている人がたくさんいると思いますが、昭和
30年自由党と民主党が合併して自由民主党となり55年体制の成
立、昭和35年は60年安保の年で大騒動、そして昭和39年東海
道新幹線が営業開始し、東京オリンピックが開催されました。
当時の長野市にとって最大の出来事は、長野市民会館が建設され、
市庁舎が若松町から現在の場所に移り、昭和41年には、長野市、
篠ノ井市、松代町、若穂町、川中島町、更北村、七二会村、信更村
の2市3町3カ村の大合併により、面積約404平方キロメートル、
人口約27万人の都市になりました。オリンピックを開催する基盤
ができたといえるかもしれません。その後、オリンピック・パラリ
ンピックを経て、平成17年1月に豊野町、戸隠村、鬼無里村、大
岡村の1町3カ村と合併して現在の長野市となりました。
今年は、善光寺本堂再建300年、そして長野市制施行110年
というひとつの節目の年のせいでしょうか。普段あまり振り返るこ
とがない長野市史をひもといてみたくなり、このようなメルマガに
なりました。忘れていたこと、分かったこと、懐かしかったこと・
・・明治維新以降の出来事で、現在まで影響のある事柄を中心に書
いたつもりですが、個人的には参考になりました。
市民の皆さんにも知っていただきたくて書いたのですが、郷土史
に詳しい方々からみれば、随分乱暴な文章とお思いになるかもしれ
ませんが、お許しください。