秋風が吹き始め、過ごしやすいシーズンがやってきました。今年
の夏は、異常な暑さで私もクールビズのありがたさを満喫したので
すが、9月末ぐらいから急激に気温が下がり始め、過ごしやすい日
が続いています。
長野にとって、「春」と「秋」は昔から大変過ごしやすい、そし
て大勢のお客さまにもお出でいただける一番良い季節といわれてい
ますが、特に秋は格別で、小学校の運動会や地域の神社の秋祭りな
どが盛大に行われています。昔の農業社会の時代、最大の喜びであ
る収穫の季節であるということからも、秋は特別だったのかもしれ
ません。
今回は、この秋行われた長野市の主なイベントについて報告しま
す。
10月6日 「長野市農業フェア」
この祭りは、通算37回目を迎える農業祭ですが、平成16年か
らリニューアルして、地産地消推進も担って取り組んでいます。
生産者、消費者および事業者などが連携し、市内で生産された新
鮮で安全・安心な農林産物の地域内流通の拡大と消費者の「食」と
「農」への信頼と理解を深めることを目的に開催している農林産物
の収穫祭です。会場はエムウェーブ前の広場で、農林産物などの販
売、地元食材を使った試食による「食」の提案、地産地消クイズな
どのステージベントが行われました。
当日は、過去毎年のように雨に降られていたのがうそのような晴
天に恵まれ、盛況でした。
10月6日 「第1回善光寺表参道つれづれウオーク」
国宝善光寺本堂再建300年記念事業の一つとして街中ウオーキ
ングが行われました。市では、昨年から「歩く」をテーマにいろい
ろな取り組みをしていますが、このウオーキングは野山を歩くのと
違い、普段は自動車やバスなどですっと通り過ぎる道を、ゆっくり
ゆっくり歩いて表参道の良さを味わっていただきたいという趣旨の
イベントです。
集合場所の長野駅のコンコースには400人を超える人たちが集
まりました。もちろん長野市民が一番多かったようですが、関東や
上越方面からも参加いただいたようです。5キロメートルと10キ
ロメートルの2通りに分かれ、出発しました。
ゲストは元女子バレーボールのオリンピック選手「益子直美」さ
ん、背が高い方で、びっくりしました(全日本代表選手ですから当
たり前ですよね)。
中央通りの商店街のショーウインドーで「善光寺面影写真展」を
見たり、通り沿いのそば屋で特別サービスの「半ざるそば」を食べ
たり、ボランティアの方々が史跡解説や誘導をしてくださいました。
10月7日 「松代藩真田十万石まつり・行列」
もうすっかり定着した、大きな、そして松代だけでなく、長野市
を代表するお祭りに成長したと実感しました。
真田家の当主真田幸俊さんもご参加いただき、今年は特にNHK
大河ドラマ「風林火山」の放映があったが故か、大変な人出で、主
催者発表では10万人ということでした。
城門前の広場で、真田鉄砲隊の演舞、三太刀七太刀の再現などな
かなかの演出があってその後城門から大名行列が出発し、松代のま
ちをゆっくり練り歩きました。私も、武田信玄役で馬に乗せていた
だきましたが、この日は暑くて鎧兜(よろいかぶと)が大変重く感
じられました。でも馬上から見るまちの景色は格別で、殿様気分に
浸らせていただきました。
10月12、13日 「産業フェアin善光寺平2007」
長野法人会を中心に、長野市・千曲市・須坂市・高山村の3市1
村が協力し合って、北信地域の産業が一堂に会するもので、昨年か
ら始まり、今回で2回目になります。
地域の産業振興と経済の活性化は、特に北信地域の自治体にとっ
ては、重要な課題になっており、地域間、企業間の情報交換や連携
を深める広域的視点に立った施策展開が必要になってきたとの認識
から、長野法人会に事務局を担当していただき、行政も協力して取
り組みを始めたものです。
2回目になって、昨年よりは多くの企業、研究機関などに参加し
ていただき、また、大変高度な技術開発の成果が出てきていると感
じました。北信地域の特殊性かもしれませんが、完成品の出品とい
うより産業の基盤を支える部品メーカーの意欲的な姿勢が感じられ
ました。
企業向けセミナーだけでなく、おにごっこロボットとか、わくわ
く工作ランドなど、お楽しみコーナー的な場も設定されていました。
帰り際に、アメリカで発明され、小泉元首相もビックリしたという
「セグウェイ」という電動二輪車に試乗させていただきました。
10月14日 「如是(にょぜ)姫まつり」
次に紹介する善光寺表参道秋まつりと同日の開催でした。如是姫
様と縁の深い善光寺には、年間600万人余りの参詣客、観光客が
県内外から訪れていますが、如是姫様はその方々を県都長野市の玄
関口で、いつもやさしくお迎えになっており、長野市のシンボルで
す。
如是姫まつり実行委員会の皆さんは、如是姫様の遺徳をしのんで
祭りを開催するとともに、地域活性化を図ろうとしています。「N
YOZE」という香水が発売されていることもご存じですか。
10月14日 「善光寺表参道秋まつり 2007」
・・・朝鮮通信使がやってくる・・・
10月の中央通り歩行者天国などの中で、表参道秋まつりが盛大
に行われました。
今回は、大変にぎやかで、あのオリンピックのときを思わせるよ
うな人出でにぎわいました。SBC(信越放送)がトイーゴに本社
を移してくださったことも大きいと思いますが、特に今年は、市制
施行110年、善光寺本堂再建300年に加え、「風林火山」放映
記念もあって、大変にぎやかな年のにぎやかな秋まつりになりまし
た。
観光PRとして、上越市・佐渡市・甲府市など長野市外からも出
店があり、長野県トラック協会、信州プロレス、日本伝統文化研究
会などなど・・・市内外からの大勢の皆さんの協力がこの祭りを一
層盛り上げたと感じています。
そして、その秋まつりに、在日本大韓民国民団長野県地方本部と
(社)長野国際親善クラブの主催で、朝鮮通信使のパレードがトイ
ーゴから善光寺本堂まで、歩行者天国でにぎわう中央通りを練り歩
きました。戦国時代から日本と交流があった韓国ですが、朝鮮国王
から江戸幕府の将軍に向けて使節が12回送られました、それが朝
鮮通信使です。その通信使も交流が始まって以来400周年の記念
ということでした。
善光寺のご本尊は、約1400年の昔、朝鮮百済から伝わった一
光三尊阿弥陀如来様で、インドから朝鮮半島百済国へ渡り、仏教伝
来の折に百済から日本に伝えられた日本最古の仏像と言われており、
以来民衆の心のよりどころとして信仰を集めているわけですが、通
信使はその縁で善光寺を訪問されたのでしょうか。
パレードのあと、本堂前で奉納の舞が披露され、金忠慶 駐新潟
大韓民国総領事からの親書を謹んでお受けしました。・・・夜は、
「韓国宮廷料理に出会う」と題されたパーティーが開かれ、日韓両
国の参加者が楽しまれたそうです。
以上、10月前半のことだけですが、私の知っている範囲で報告
させていただきました。
先日ある講演会でお聞きした話ですが「長野へ行けば、いつでも
何かやっている」ということが大切ということでした。大きなお祭
りは皆さんの努力で、かなり成長してきましたが・・・まだまだ毎
日というわけにはいきません。特にこれから迎える寒い季節のイベ
ントをどう育てていくかですかね。
2007年10月25日木曜日
長野の秋!盛りだくさんのイベントシーズンです
2007年10月18日木曜日
長野市議会議員選挙が行われ、新しい構成でスタートしました
長野市議会議員一般選挙は、定数39人に43人が立候補し、一
週間の選挙戦の末、9月23日に投票が行われました。当選した皆
様には、心からお祝いを申し上げるとともに、市民の負託に応えて
いただくことを大いにご期待申し上げます。
今回の選挙は、定数39人(地方自治法では46人の範囲内)で
すが、平成17年1月1日の編入合併により、豊野町・戸隠村・鬼
無里村・大岡村では合併と同時に町村議会議員が失職され、それぞ
れの区域(旧町村)から、一人ずつ市議会議員が選ばれていました
ので、改選時には45人(欠員1人)の議員がいました。今回の選
挙では合併による定数特例が無くなり、全市一区として、定数の上
では実質7人減の選挙ということで、かなりの激戦となりました。
ただ、定数減員が理由かどうかは別にして、今までの議員さん方
で、当選回数の多い方を中心に引退される方が相次ぎ、現職で出馬
された方は31人でした。従って、少なくとも8人以上の方が新し
く議員になられるということで、私たち市の行政側もかなり緊張感
を持って見守ったことは事実です。
結果として、現職議員は全員、新人は8人が当選されました。
選挙後、会派が組まれ、新友会17人、共産党6人、公明党5人、
政信会5人、市民ネット2人、無所属4人ということになりました。
今回の特徴は、今まで過半数の議員を擁していた最大会派新友会
が過半数を割ったこと、政信会という新しい会派ができたこと、市
民ネットが社民党2人の会派になったこと、合併で増員となった4
人の議員で構成していた新風会が解散したこと、無所属議員が3人
から4人に増えたこと・・・でしょうか。
会派は、選挙後、自分たちの政策をより実現しやすくするために
結成されるものですから、国の政党とは違うと思っています(もち
ろん、国の政党と直結している一部会派もあることは承知していま
すが)。地方自治は、国の政策によっても左右されますが、独自の
主義主張をすることより、市民に目線を向けて地方はどうすればよ
いのか、どうすべきかを考えるわけで、国・県レベルの政策とはお
のずから違いがあると私は感じています。
地方自治における市議会と市長の関係は、どちらも市民の選挙で
選ばれるが故に、二元代表などと表現されています。一定の距離を
保ちながら、協力し合うことも必要であると言われており、私もそ
の通りであると常々思っています。
時代、そして市民の目線もどんどん変わってきています。流行に
流されるということではなく、常に38万市民の幸せを願い、将来
の予測をきちんとする中で、それぞれの時点で最高の決断を下し、
市政を運営していくことが大切です。議員と行政、議員同士も切磋
琢磨(せっさたくま)し、議論していくこと、そして市行政へのチ
ェック機能と提案能力を大いに期待したいと思っています。
10月9日、選挙後の市議会臨時会で、新しく当選された議員を
前にし、私は次のような決意を申し上げました。
すなわち、私には絶対に譲れない5原則があります。
(1)入りを量りて、出ずるを為す。
(2)行政は市民とのパートナーシップで行う。
(3)簡単に、分かりやすく。
(4)民間活力の導入。
(5)無私・他利の精神。
施策の採否を決断するとき、すべてこの5原則に照らして、検討し
ています。
そのほか、本年度取り組んでいる主な事業についても、お話しさ
せていただきました。
これらのことは、元気なまちづくり市民会議などでも常々申し上
げていることであり、目新しいことではありませんが、新しい議員
もおられることから、改めて申し上げたことです。
正副議長の選出については、本会議に先立って立候補の演説が行
われ、そして本会議での投票により決まりました。今回、議長には
岡田荘史議員、副議長には祢津栄喜議員が当選されました。
委員会については、条例で定まっている4常任委員会(総務・福
祉環境・経済文教・建設企業)と議会運営委員会のほか、特別委員
会も新たに少子化対策、中山間地域活性化対策、産業振興対策、ま
ちづくり対策の4つが設置されました。いずれも長野市の直面する
事項について、議会の姿勢を示したということでしょう。常任委員
会と特別委員会の担当区分が若干難しいかなと感じていますが、議
員が幅広い活動をされることは、良いことだと思っています。
その後、平成19年度補正予算と条例改正案を上程し、可決され
ました。また人事案として、議員の中から任命する監査委員2人に
ついても議会の同意を頂きました。
いずれにしろ、市議会の動向については、臨時会では際立った動
きはありませんでしたが、いずれ今までとは少し違う動きになりそ
うです。議長選挙に立候補された議員の演説をお聞きしております
と、かなり思い切った議会改革を提案されている方がいらっしゃい
ました。執行部局としては、誠意をもって質問にお答えし、説明・
説得責任を果たしていく方針に変わりはありませんが、仮に一問一
答方式が採用されますと、当意即妙の対応をせざるを得なくなりま
すから、執行部局側の対応はかなり難しいものになりそうです。議
会での討論を深める意味では意義があるとは思いますが、分からな
いことは、後で返事をさせていただきますといった対応が出てくる
でしょうし、事前の質問事項を十分検討して、責任を持って、きち
んとお答えするという趣旨からは、逸脱することにもなりかねませ
ん。
それより、私が疑問に感じているのは、質問に対する執行部局側
の答弁時間です。議員によっては、時間内にとても答えられないほ
どたくさんの質問をされる方がいらっしゃいます。私どもとすれば
質問があった以上、できるだけ丁寧にお答えしよう、できれば再質
問の時間も残そう・・・と努力しています。しかし、その調整はな
かなか大変です。質問時間を短くして、再質問をするかどうかは、
議員の判断でできるようにしたらどうでしょうか。
いずれにしろ、この問題は12月議会が始まるまでに、議会各会
派で話し合い・調整が行われ、執行部局側に提案があると思います
ので、我々も十分に検討しなくてはならないと思っています。
2007年10月11日木曜日
長野新幹線開業後の光と影
前回は、長野新幹線が営業開始するまでの紆余(うよ)曲折につ
いて、私の記憶の範囲で書かせていただきましたが、今回は新幹線
開業後に長野の社会がどう変わったのか、そして平成26年度末に
は、上越を通って富山・金沢まで営業区間が延びることは決定して
いますので、その時の長野への影響、長野市としてどうしたらよい
かなどについて、考えてみたいと思います。
まず、あえて現在の長野新幹線開業後の影の部分を考えてみます
と、東京との時間距離が短縮された結果、新幹線通勤という言葉も
無縁ではなくなるなど、行動範囲は広がりましたが、
(1)長野市内での宿泊客が減って、日帰り客が主流になってしま
った。長野の人にとっても、東京日帰りが多くなりましたが・・・
都市の規模が違いすぎます。
(2)(1)の結果、ホテル・旅館経営が非常に苦しくなった。観
光収入も現段階では、目立って増えたということにはならなかっ
た。
(3)企業経営の中で効率化が進み、中央企業の出先機関の管理権
限機能が大都市に移ってしまった。これにより支店から営業所に
変わり職員数が減り、オフィス需要も減少しました。
(4)JRから切り離された並行在来線については、非常に困難な
状況の中で経営を維持していかなくてはなりませんでした。しか
も篠ノ井駅-長野駅間が中央東線、JR貨物が同時に乗り入れさ
れていることから、JR以外では経営が難しいだろうということ
で、JRに残ってしまった。第三セクターとして開業した「しな
の鉄道」の経営は苦しく、ようやく単年度黒字化を達成しました
が、運賃値上げ、行政の援助なくしては、成り立たない状況にあ
ります。これに長野以北まで加わったら・・・乗客は少ないです
し、除雪経費も大きい・・・いずれにしろ難しいものがあります。
(5)新幹線の直接的影響ではないかもしれませんが、ものづくり
の中心的存在だった富士通・三菱電機などが、工場の縮小・撤退
を進めました。これらにより、長野市の製造品出荷額等は、最盛
期の半分程度まで落ち込み、当時は雇用が激減しました。
これらが影の部分と言えるのでしょうが、それを上回って長野に
とっては「良かった」と言えるかどうか、評論家的な発言で申し訳
ないのですが、なかなか難しい問題です。
もちろん、長野市だけでなく、日本全体が人口減の社会に移行し
つつある現在、長野市は頑張っているという評価があるかもしれま
せんが、過去のバブル時代(オリンピック準備期間も含めて)の記
憶がより鮮明な長野市民にとっては、なかなか閉塞(へいそく)感
から脱出できない状況と言えるかもしれません。
オリンピックを契機にして、長野市は大きく変わりました。特に
ハード面の変革は大きく、新幹線、高速道、幹線道路といった交通
網の整備、オリンピック競技施設の建設、都市型ホテルの林立・・・
20年前の長野しか知らない人が今の長野市を訪問されたら、その
変ぼうぶりに多分びっくりされるでしょう。長野市は20世紀最後
の公共事業による都市整備のチャンスを得て、都市としての風格が
できてきたと感じています。
ソフト面でも、世界大会やワールドカップなどのスポーツイベン
トは地方都市とは思えないほど行われ、学術会議、講演会、セミナ
ー、展示会、業界関係の大会、あるいは商店街のイベントなど連日、
市内をにぎわしてくれていますし、プロスポーツの出現、それらを
支えるボランティア活動も盛んになったと感じています。
しかし景気はあまり良くならない・・・昔からの名門企業・商店
が倒産・廃業、あるいは経営者の交代などによる淘汰(とうた)が
続いており、それにより雇用形態が変化したことで苦労している人
も多いと思います。国の構造改革の結果でしょうが、かつては長野
市産業の大きな部分を担ってきた建設関連産業も、往時の力を取り
戻せないままでいるし、まちの小さなお店の存立基盤が揺らいでい
ます。市域の70%を占める中山間地域も、高齢化でコミュニティ
が崩壊しつつあるとか、農業・林業で食べていくのは苦しい・・・
そんな声も大きくなってきているように思います。
すべてが新幹線の影響だとは言えませんが、高速交通網の整備、
グローバル社会の進展、人口減少時代の到来、少子・高齢社会の現
実化、加えて国の三位一体改革による財政の不如意、これらが社会
変革に大きな影響を与えたことは事実でしょう。そして今、長野の
地域社会は、その社会変革に対応すべく、苦心惨たんしているとい
うことだと思います。
この閉塞感を脱却するには、新しい産業秩序・新しい社会運営シ
ステムが必要だと思います。
例えば、安心・安全なまちづくりと言いますが、単に災害等に強
いまちという意味だけでなく、市民が安心して働ける、食べていけ
る社会の実現がもっとも重要ではないでしょうか。
企業誘致、既存企業の強化・育成、起業家の育成、新たな産業の
集積が必要になるでしょう。農業・林業も、もうかる産業への革新
が必要です。
商店街も付加価値の高い商売の工夫、そして人が集まる魅力を持
った店づくり・・・当たり前ですが、経営が成り立つことによって、
元気も出てくると思います。また、まち並みの美しさや、まちなか
観光でお客さんを呼べるようになったら、素晴らしいなあと夢見て
います。
長野の特産、「りんご」を含めた果物にさらに付加価値を与え、
加工品への工業化も考えられますし、「そば」「おやき」などの伝
統食品を育てることも良いのではないでしょうか。
長野の可能性として、広い意味での観光業の育成が一番早いので
はないでしょうか。善光寺や松代、飯綱、戸隠、鬼無里といった全
国レベルの歴史・文化に富んだ資源はたくさんありますし、何より
も素晴らしい自然があります。
農村交流、修学旅行の誘致、森林セラピー、トレッキング、観光
資源としての牧場も交流の大きな武器になりそうです。スキー(ボ
ードも含めて)も忘れてはいけません。グリーンシーズンのキャン
プや山歩き、ゴルフ、乗馬も、お客さんを呼べますし、ひところは
カヌーも盛んでした。そういえば、若穂にあるグライダー滑空場に
加えてハンググライダーというのも面白いかもしれません。
ちょっと、雑然と書き過ぎた気もしますが、いずれも長野の可能
性が無限にあるということを、示したかったのです。でも他地域の
まねをしても成功はしないかもしれません。
長野へおいでいただいた方々に、楽しみながら、いかに長野でお
金を使っていただくか、そのシステムが重要になるでしょう。
結論は、現段階で、我々は新幹線をフルに活用しきれていないと
いうことが言えるのではないかと考えています。
平成27年3月には、北陸新幹線は金沢まで延伸します。そのと
き長野市が単なる通過駅にならないように、今から努力しなくては
なりません。どうすればよいか、簡単には言えないのでしょうが、
長野の存在感をもう一段大きくする必要を感じています。
まだわずかですが、そのために手を打ち始めました。
上越市、金沢市とは「集客プロモーションパートナー都市協定」
を結びました。共同で関東方面からのお客さんを呼ぼうということ
はもちろん、北陸との関係を密接にして、北陸からもお客さんを引
き寄せようという戦略です。さらに拡大していきたいと考えていま
す。
また、長野県の北信地域を中心とした市町村、交通機関、関係団
体などで、従来の枠組みを超えた観光促進の試みとして、「信州北
回廊プロジェクト」が、平成17年10月に発足しています。北信
濃の恵まれた観光資源を最大限に生かして、新たな地域ブランド
「善光寺発・信州北回廊」の確立を目指しています。
さらに、本市に縁(ゆかり)があり、首都圏で活躍されている各
界の方々をメンバーに、その高い見識や広い人脈を基に、ふるさと
「ながの」を応援していただけるような集まりができないか検討し
てきており、ぜひ近いうちに実現したいと準備を進めています。
海のない県ですから、山や高原の素晴らしさ、歴史・文化の素晴
らしさを売り込んでいきたいと思っています。
北陸新幹線は、いずれ大阪まで延びるはずです。そのときはどん
な社会が生まれているか、そのとき長野市は、どんな“まち”にな
っているか・・・心配もありますが、期待も大きいですね!!
2007年10月4日木曜日
長野新幹線開業10周年、メモリアル長野駅長を務めました
9月30日、長野新幹線開業10周年を記念して、メモリアル長
野駅長を務めさせていただきました。
長野駅の駅長室で、駅長の制服に着替えさせていただいてから、
辞令を頂き、メモリアル長野駅長の任務に就きました。
新幹線のホームに出て式典に出席。同席された来賓は、板倉長野
県副知事、轟長野市議会議長、岡田長野市議会副議長、仁科長野商
工会議所会頭、渡辺長野商店会連合会会長などの皆さんでした。
長野高校ブラスバンドのファンファーレに続いて、JR東日本の
伊藤長野支社長、板倉副知事、そして私が、それぞれあいさつ。私
からは万感の思いを込めて、長野新幹線「あさま」の開業から10
年間、オリンピックの成功とその後、無事故で営業された使命感、
努力、そして長野への貢献に感謝をいたしました。
そのあと、10歳の東井幹太君と北原涼子さんの二人に、私から
一日駅長の辞令と手袋、帽子、タスキを渡し、一日駅長を務めてい
ただくことをお願いしました。二人はその後、記念列車に乗車され
るお客様に記念品を配ってくださり、私はほかの来賓の皆さんと一
緒に、加茂神社の神楽保存会の皆さんの獅子舞を鑑賞しました。
11時9分、「あさま」は、私たち3人の「出発進行」の号令、
そして栗田保育園の園児の皆さんの手旗に送られて、東京に向かっ
て静かに出発しました。
この日は県内沿線の各駅で、首長が一日駅長を務めておられたよ
うです。
こんな機会ですので、長野新幹線が開通するまでの歴史を私見を
交えて振り返ってみましょう。
昭和39年10月1日、東京オリンピックの目前、東海道新幹線
が東京・大阪間を走ってから長野新幹線開業までの間、我々はうら
やましいなあ、でも東海道だからできたのであって、長野では無理
だろうなあ・・・。あのころは長野市に新幹線がやってくるとは、
とても考えられませんでした。
それから33年後の平成9年10月1日、長野新幹線は営業を開
始しました。翌年2月の長野冬季オリンピックにぎりぎり間に合っ
たということでしょう。陸の孤島といわれて久しかった長野市から
東京まで約90分間で行くことができるようになって、本当にうれ
しかったですよね。ここに来るまで本当に長かった、今考えても、
当時、夢のように感じたのを覚えています。オリンピックの成功も、
新幹線がなかったら難しかったかもしれません。
調べてみますと、北回り新幹線建設促進同盟会(昭和47年7月
になって北陸新幹線に名称変更)が結成されたのは、昭和42年
12月のことでした。以来、国の政策が変更されるたびに一喜一憂
しながら、そして反対運動に屈することなく、長野市民はその実現
に向け一生懸命努力してきました。しかし、そこには常に、国と地
方の負担割合など資金の問題が争点としてありました。
東海道新幹線の完成後、山陽新幹線ができて、岡山、さらに博多
まで延伸しました。仙台までの東北新幹線、そして上越新幹線まで
は、政治力の故か、かなり早い時期に整備されました。
北回り新幹線は、当初長野市、富山市を経て、大阪に至る路線と
して決められていましたが、なかなか路線決定に至らず、イライラ
したことを思い出します。
昭和50年代に入り、建設促進活動を行ったとき、富山県の議員
さんが「長野経由の整備は時間がかかり過ぎるので、上越新幹線を
長岡分岐で整備する方が早い」と、長野の我々がいることを承知し
ながら、主張していたのにはびっくりでした。
当時、中央高速道の建設に当たって、岡谷ジャンクション周辺な
ど各地区で反対運動などの支障が生じ建設に着手できず、開通のめ
どが立たなかったことが悪い風評となり、高速交通網が長野県を通
過することは、いたずらに時間ばかりかかるという見方が、国や他
県ではあったように記憶しています。
もう一つは、ミニ新幹線問題がありました。フル規格新幹線は事
業費が掛かり過ぎることから、在来線の路盤のままで、狭軌(在来
線幅の線路)に加え、新幹線標準軌(新幹線走行の線路)を導入し、
車両は小型の新幹線車両を走行させるものです。現在は秋田新幹線
で実用化しています。この方式ですと、在来線を使うことによって、
軽井沢-小諸-上田とつながるため、ミニ新幹線賛成の声が上がっ
た地域もあり、長野県はもちろん長野市も、その対応に苦慮したこ
とがありました。
長野駅についてもいろいろ問題がありました。当時の国鉄長野支
社長と長野県知事、長野市長、長野商工会議所会頭の間で、長野駅
は橋上駅とすることが協定されていました。これは、私も勘違いし
ていたのですが、駅が橋上ということで、線路は地上であるという
ことなのですが、ぎりぎりの段階で、線路を橋上にするべきとの意
見がかなりあったことは事実です。
この問題は、現在の長野市の都市計画上で、かなり基本的な問題
を含んでいます。ただ私は、在来線も一緒に橋上にするなら、1階
に車が通れる道もできて、駅の東西の一体感は増すでしょうが、新
幹線だけ2階ではかえって大きな壁になると思いましたし、市内の
みすず橋の上を越えるのは無理でしょうし、改めて環境アセスメン
トを行うのではオリンピックに間に合わないと感じていました。ま
たある方は、浜松駅の例を参考にされたのでしょうか、在来線を含
めて、新幹線を東側へ大きく振って、土地価格の高い西口を広げた
らどうかとおっしゃっていたことも記憶しています。
そして、軽井沢・長野間がフル規格で着工されたのは、平成3年
9月でしたから、その3カ月ほど前の6月、イギリス・バーミンガ
ムで長野オリンピック開催が決定したことが、大きく影響したのか
もしれません。
その後も反対運動(土地買収にはどんな場合でも、トラブルはつ
きものではありますが、あの軽井沢における立木トラスト運動は本
当に憤りを覚えました)などもあって、本当にオリンピックに間に
合うのか・・・長野市民にとっては、かなりイライラした時期だっ
たように思います。
平成9年10月1日、長野行き新幹線(この名称は北陸地方へ配
慮した名前でした。現在は長野新幹線ですが、北陸まで営業が延び
ると、多分北陸新幹線に戻るのでしょう)として営業を開始してか
ら長野オリンピックに大きな威力を発揮し、その後の10年間も、
長野に大きな影響を与え続けていると感じています。
以上、新幹線10周年に当たって、長野新幹線の開業までの私の
記憶している範囲で、お話してきました(若干の勘違いはお許しく
ださい)。
長くなりましたので今回はこれで終わりにさせていただき、次回、
長野新幹線開業後の光と影について、書いてみたいと思います。