9月30日、長野新幹線開業10周年を記念して、メモリアル長
野駅長を務めさせていただきました。
長野駅の駅長室で、駅長の制服に着替えさせていただいてから、
辞令を頂き、メモリアル長野駅長の任務に就きました。
新幹線のホームに出て式典に出席。同席された来賓は、板倉長野
県副知事、轟長野市議会議長、岡田長野市議会副議長、仁科長野商
工会議所会頭、渡辺長野商店会連合会会長などの皆さんでした。
長野高校ブラスバンドのファンファーレに続いて、JR東日本の
伊藤長野支社長、板倉副知事、そして私が、それぞれあいさつ。私
からは万感の思いを込めて、長野新幹線「あさま」の開業から10
年間、オリンピックの成功とその後、無事故で営業された使命感、
努力、そして長野への貢献に感謝をいたしました。
そのあと、10歳の東井幹太君と北原涼子さんの二人に、私から
一日駅長の辞令と手袋、帽子、タスキを渡し、一日駅長を務めてい
ただくことをお願いしました。二人はその後、記念列車に乗車され
るお客様に記念品を配ってくださり、私はほかの来賓の皆さんと一
緒に、加茂神社の神楽保存会の皆さんの獅子舞を鑑賞しました。
11時9分、「あさま」は、私たち3人の「出発進行」の号令、
そして栗田保育園の園児の皆さんの手旗に送られて、東京に向かっ
て静かに出発しました。
この日は県内沿線の各駅で、首長が一日駅長を務めておられたよ
うです。
こんな機会ですので、長野新幹線が開通するまでの歴史を私見を
交えて振り返ってみましょう。
昭和39年10月1日、東京オリンピックの目前、東海道新幹線
が東京・大阪間を走ってから長野新幹線開業までの間、我々はうら
やましいなあ、でも東海道だからできたのであって、長野では無理
だろうなあ・・・。あのころは長野市に新幹線がやってくるとは、
とても考えられませんでした。
それから33年後の平成9年10月1日、長野新幹線は営業を開
始しました。翌年2月の長野冬季オリンピックにぎりぎり間に合っ
たということでしょう。陸の孤島といわれて久しかった長野市から
東京まで約90分間で行くことができるようになって、本当にうれ
しかったですよね。ここに来るまで本当に長かった、今考えても、
当時、夢のように感じたのを覚えています。オリンピックの成功も、
新幹線がなかったら難しかったかもしれません。
調べてみますと、北回り新幹線建設促進同盟会(昭和47年7月
になって北陸新幹線に名称変更)が結成されたのは、昭和42年
12月のことでした。以来、国の政策が変更されるたびに一喜一憂
しながら、そして反対運動に屈することなく、長野市民はその実現
に向け一生懸命努力してきました。しかし、そこには常に、国と地
方の負担割合など資金の問題が争点としてありました。
東海道新幹線の完成後、山陽新幹線ができて、岡山、さらに博多
まで延伸しました。仙台までの東北新幹線、そして上越新幹線まで
は、政治力の故か、かなり早い時期に整備されました。
北回り新幹線は、当初長野市、富山市を経て、大阪に至る路線と
して決められていましたが、なかなか路線決定に至らず、イライラ
したことを思い出します。
昭和50年代に入り、建設促進活動を行ったとき、富山県の議員
さんが「長野経由の整備は時間がかかり過ぎるので、上越新幹線を
長岡分岐で整備する方が早い」と、長野の我々がいることを承知し
ながら、主張していたのにはびっくりでした。
当時、中央高速道の建設に当たって、岡谷ジャンクション周辺な
ど各地区で反対運動などの支障が生じ建設に着手できず、開通のめ
どが立たなかったことが悪い風評となり、高速交通網が長野県を通
過することは、いたずらに時間ばかりかかるという見方が、国や他
県ではあったように記憶しています。
もう一つは、ミニ新幹線問題がありました。フル規格新幹線は事
業費が掛かり過ぎることから、在来線の路盤のままで、狭軌(在来
線幅の線路)に加え、新幹線標準軌(新幹線走行の線路)を導入し、
車両は小型の新幹線車両を走行させるものです。現在は秋田新幹線
で実用化しています。この方式ですと、在来線を使うことによって、
軽井沢-小諸-上田とつながるため、ミニ新幹線賛成の声が上がっ
た地域もあり、長野県はもちろん長野市も、その対応に苦慮したこ
とがありました。
長野駅についてもいろいろ問題がありました。当時の国鉄長野支
社長と長野県知事、長野市長、長野商工会議所会頭の間で、長野駅
は橋上駅とすることが協定されていました。これは、私も勘違いし
ていたのですが、駅が橋上ということで、線路は地上であるという
ことなのですが、ぎりぎりの段階で、線路を橋上にするべきとの意
見がかなりあったことは事実です。
この問題は、現在の長野市の都市計画上で、かなり基本的な問題
を含んでいます。ただ私は、在来線も一緒に橋上にするなら、1階
に車が通れる道もできて、駅の東西の一体感は増すでしょうが、新
幹線だけ2階ではかえって大きな壁になると思いましたし、市内の
みすず橋の上を越えるのは無理でしょうし、改めて環境アセスメン
トを行うのではオリンピックに間に合わないと感じていました。ま
たある方は、浜松駅の例を参考にされたのでしょうか、在来線を含
めて、新幹線を東側へ大きく振って、土地価格の高い西口を広げた
らどうかとおっしゃっていたことも記憶しています。
そして、軽井沢・長野間がフル規格で着工されたのは、平成3年
9月でしたから、その3カ月ほど前の6月、イギリス・バーミンガ
ムで長野オリンピック開催が決定したことが、大きく影響したのか
もしれません。
その後も反対運動(土地買収にはどんな場合でも、トラブルはつ
きものではありますが、あの軽井沢における立木トラスト運動は本
当に憤りを覚えました)などもあって、本当にオリンピックに間に
合うのか・・・長野市民にとっては、かなりイライラした時期だっ
たように思います。
平成9年10月1日、長野行き新幹線(この名称は北陸地方へ配
慮した名前でした。現在は長野新幹線ですが、北陸まで営業が延び
ると、多分北陸新幹線に戻るのでしょう)として営業を開始してか
ら長野オリンピックに大きな威力を発揮し、その後の10年間も、
長野に大きな影響を与え続けていると感じています。
以上、新幹線10周年に当たって、長野新幹線の開業までの私の
記憶している範囲で、お話してきました(若干の勘違いはお許しく
ださい)。
長くなりましたので今回はこれで終わりにさせていただき、次回、
長野新幹線開業後の光と影について、書いてみたいと思います。