2008年9月18日木曜日

中山間地域の物語


 先日、鬼無里地区の地域審議会の皆さんが来られ、いろいろ話を
した際に、『谷の京物語 伝説の鬼無里』と『秘境の谷 鬼無里の
自然』という2冊の本をいただきました。早速読ませていただいた
のですが、面白い。そして、科学が発達した現代の感覚からすると
少々荒唐無稽(こうとうむけい)な(失礼)・・・と感じるところ
もあるのですが、しかし、何か信じたくなるロマンを感じさせる本
でした。

 『谷の京物語 伝説の鬼無里』の内容を少しご紹介します。
 日本最古の歴史書『日本書紀』には、飛鳥から都を遷(うつ)す
場所を探すため、天皇が信濃の国に使者を派遣したという記事があ
るそうです。それは、天武天皇13年(684年)のことで、二人
の使者が信濃の国へやって来て、検分して帰ってから、天武天皇に
信濃の国の地図を奉り、そして翌年も三人の使者が来て、束間(つ
かま)の湯(筑摩郡山辺)に行宮(あんぐう)を造らせたのだそう
です。
 束間の湯とは、松本市の浅間温泉のことでしょうから、信憑(ぴ
ょう)性はありますよね(天武天皇は壬申(じんしん)の乱で、兄
の天智天皇の後継をめぐって戦い、勝利した天皇だったと思います。
戦いで荒れた近畿地方に嫌気が差して、遷都を考えた・・・なんて、
私は愚考をしているのですが・・・)。そしてその時、鬼無里にも
調査があったらしいのです。

 この『日本書紀』の記事と呼応するように鬼無里には、天皇の使
者が水無瀬(みなせ)の里(のちの鬼無里)へ来て、ここを都にし
ようとしたという伝説があるのだそうです。実際に遷都した藤原京
が大和三山の真ん中にあるように、戸隠・新倉(あらくら)・虫倉
の三山に囲まれた谷あいの水無瀬の里は、水がきれいで、地形の占
いでも都城を造営するにふさわしい場所だということで、天皇にこ
この地図を差し上げたというのです。

 ところが、ここに住んでいた鬼どもが、われわれのすみかへ都を
遷されてたまるものかと、皆で相談して、一夜のうちに山を運んで
きて、谷の真ん中に据え、用地をふさいでしまったというのです。
これが一夜山です。
 惜しいことをしたと思いませんか。もしかすれば、天武天皇が造
ろうとした都は、鬼無里にあったかもしれない、そしてその後も都
が続いて今の京都みたいになっていた可能性もある・・・。
 戸隠、新倉、虫倉の三山の中央にある一夜山を取り除いてみると、
この盆地は、藤原京はもちろん平城京に匹敵する広さがあって、遷
都の話があってもまんざらおかしくないそうですし、現在の鬼無里
にある西京(にしきょう)・東京(ひがしきょう)といった地名、
白髯(しらひげ)神社や加茂社・春日社の存在・・・。

 真偽の程は私には分かりませんし、この本にあるような伝説を正
確に話してくださる鬼無里の方に、お会いしたこともありません。
でも、ロマンを感じます。鬼無里の魅力を高めるために、この伝説
を、鬼無里の物語の中心に据えて、もっと広めてみませんか?

 そのほか鬼無里には、時代は下りますが鬼女紅葉物語、木曾殿ア
ブキなどの伝説もあり、こちらも惹(ひ)かれるものがあります。
とにかく鬼無里は、伝説の宝庫であることを教えられました。
 もう1冊の『秘境の谷 鬼無里の自然』もなかなか読み応えのあ
る本です。詳しくは述べませんが、白馬方面から鬼無里に入る三本
の道の記述が一番面白かった・・・。

 実は戸隠にもたくさん伝説があるようです。長野市との合併前に、
当時の横川村長さんが私を訪ねて来られた際に、戸隠に関する本を
何冊かいただきました。そして村長さんいわく「戸隠はいろんな方
が書いてくれた本が山ほどあります」と言っておられました。
 いただいた本、そのときは興味深く読ませていただいた記憶があ
るのですが、今回、あらためてメルマガに書かせていただけるほど
は覚えていません。確か、戸隠支所の元村長室にいろいろな本があ
ったように思います。時間があればゆっくり読ませてもらおうと思
っています。

 話は変わって、8月23日(土)、戸隠の迎え火・送り火の会に
お招きをいただき、戸隠を愛する若い皆さんと移動市長室を開催さ
せていただきました。
 この会の目的は、地域の大切な文化である民俗行事、伝統行事に
加えて新しい戸隠の魅力をつくることによって、地域住民はもとよ
り、地域を離れた人々にも故郷を敬愛する思いを抱いていただき、
「また戸隠で暮らしたい」という気持ちになってもらいたい。その
ために、戸隠の魅力に気付いてほしい、という願いを込めて設立さ
れた会とのことです。

 具体的な活動としては、地蔵盆祭に合わせて、宝光社区の地蔵堂
(お寺)から戸隠神社“宝光社”の鳥居前までの参道に住民参加に
よる手作りの灯籠(とうろう)を並べ、灯籠の明かりの演出による
魅力づくりをしているのだそうです(約100から120基、小学
生にも手伝ってもらって作るのだそうで、平成19・20年度の市
の「ながのまちづくり活動支援事業補助金」を獲得して活動してい
るとのことです)。
 また、戸隠神社“奥社”の二年参りの際にも、参道に手作り灯籠
を設置、点灯しているとのことです(これは約200基設置予定と
のこと)。

 懇談が終わった後、宝光社の階段の上から順々に灯籠に灯をつけ
ながら、地蔵堂まで下っていき、堂の中を見せていただきました。
 堂の前の広場は大勢の方が集まって来ており、お聞きすると、間
もなく神社の神主さんと地蔵堂の住職さんが来られて、お二人でお
祭りをされるとのことでした。まさに神仏混交ですよね。そして皆
で盆踊りをするのだそうです。

 また話は変わりますが、中山間地域の道路についてです。中山間
地域にも市道は多くあるのですが、幹線道路のほとんどは県道で、
整備が遅れている路線も目立っています。そこで、私(長野市長)
が会長になって、それぞれの道路の改良促進期成同盟会を組織し、
県に早期整備をお願いしています。その中の一つ、一般県道小川長
野線の期成同盟会が先日開かれました。

 この県道は、小川村の日本記(にほぎ)を起点に、中条村、長野
市七二会・小田切の両地区を通り、小鍋の国道406号に至る総延
長34キロメートルの道路です。この地域にお住まいの方以外(私
も含めて)は、この道路を通る機会がなかなかないのではないでし
ょうか。
 私は、小田切支所や青少年錬成センターなどへ向かう時などにこ
の道路を使いますから、長野市内分の様子はある程度知っているつ
もりでした。しかし、全線を通る機会はなかったものですから、私
が会長をやっている以上、きちんと実態を見ておきたいと思い、先
日の土曜日、運良く空いた時間を利用して視察に出掛けました。

 小川村の起点からこの県道に入ったのですが、国道406号と合
流する終点まで、全線にわたり山の中をうねうねと曲がり、上った
り下ったりする道路で、全線を一気に踏破するには、ちょっと大変
な道路でした。ただ、景色は良いですし、車は少ないですし、快適
な部分もあって楽しかったのですが、七二会や小田切地区の見覚え
のある道路に来たときに、ホッとしたことは事実です。

 長野市街地から大町や白馬方面に行く車の多くは、県道長野大町
線、あるいはオリンピック道路を通るのだと思います。この県道は、
それに並行して北側の山の中を横断していく道路です。現実には、
この道路を通過する車はそれほど多くはありませんが、周辺に住ん
でおられる方々にとっては、重要な生活路線です。決して大きな集
落ではありませんでしたが、この県道が幾つもの集落をつないでい
ることを、私は今回の視察で実感してきました。

 このように県道でもまだまだ整備不足ですが、市道には整備が必
要な道路がもっとたくさんあることを認識しています。そして、中
山間地域の活性化には、基盤となる道路整備が大切な事業であるこ
とをあらためて痛感させられた日でした。