2002年8月29日木曜日

改革の本質(その1)


 道路公団を「潰す」とか「潰すな」という議論が激しくなってき
ました。小泉さんの改革路線について、スタートは凄かったけれど、
どうも腰砕けで人気も低下してきているとか、言葉で改革と言って
も、実際に改革が進むかどうか分からないといった意見があるよう
です。もちろん、私たちは、国鉄のJRへの転換、電電公社のNTT
への転換など、お役所仕事から民営へ移行することで、素晴らしい
経営体が生まれ、サービスも大変良くなっている。民営化の成果が
上がったなあということを目の当たりにしています。これから先も
ぜひそうなって欲しいとは思いますが、果たしてどうなのでしょう
か。

 小泉首相の次のターゲットは、郵政民営化や道路公団の民営化な
のでしょうし、さらにその先には、学校等の教育機関かなと私は感
じているのです。いずれにしても、全て上手くいくかどうかは、十
分検討していかなくてはならないテーマです。

 今回は、改革の本質とは何かについての4つのポイント、そして、
長野市における改革をいかにして進めていくつもりなのかというこ
とについて、2週にわたり私の考えを配信してまいりたいと思いま
す。

 改革の第1のポイントは、既存の枠組みをとにかく壊すことでし
ょう。既存の枠組みというのは、過去の歴史の中では社会の必要組
織であったものです。ただ時代の流れの中でもう役目は終わった、
いらなくなった、あるいは形を変えた方が良いと思われるものがあ
ることは事実で、そういうものを壊そうということです。しかし現
段階、その既存の枠組みの中で働いている方もいるわけですし、注
文をもらって商売をしている方もいるし、もちろん国家の重要な仕
事をしている、社会的に有用な仕事をしているということで、誇り
をもっている方も沢山いるはずです。抵抗勢力が生まれ、組織温存
を図る動きは当然でしょうし、遅々として進まない場合が多いので
す。また堺屋太一さんがよく言われていますが、人間は過去の成功
体験があるとなかなかそこから離れられないというのは事実でしょ
う。

 また、考えなくてはいけないことは、全てを壊そうというのはい
かがなものか、ということです。そして仮に壊すとしても、壊して
どうするかという見通しを、きちんと説明する必要はあるのだろう
なと思います。守旧派あるいは利権構造がはびこっているという意
見が全て正しいわけではなく、かといってそういうものが全く無い
というのも嘘でしょう。要は何が不要か、改革すれば効果が上がる
かということをきちんと見分けることが大切なのでしょう。

 改革の第2のポイントは、その必要性を国民、あるいは市民に分
かってもらえるか、ということ、すなわち説得責任が果たせるかと
いうことです。民営化が時代の流れということは大多数の国民は、
理念的には理解しているのです。ただ劇的な変化は望まないという
のも一般的なことなのでしょう。小泉さんの持論である郵政民営化
論に対し、反対論を述べている人たちには、それなりのご意見があ
るわけで、国民の幸せを考えて、民業圧迫とか、効率が悪いとかい
われても、公共機関としての必要性を主張される方がいらっしゃる。
その説得が出来るかどうかが全てでしょう。小泉さんが好きだから
といった短絡的な人気投票で決めるべきことではないでしょう。私
見を言わせていただくなら、小泉さんの主張も理念の段階を出てい
ないのではないか。もう少し民営化した場合の郵便局の具体像を、
そして国民の生活にどのような影響があるのか、不利な部分も含め
て説明すべきでしょう。


 来週号では、改革のポイントについてもう2点を申し上げるとと
もに、長野市の改革をどのように進めていくのかについて書いてみ
たいと思います。

2002年8月22日木曜日

上越地域との関係について


 7月31日に海水浴に行ってきました。これは、長野市母子寡婦
福祉会と長野市の共催による市長の一日父親事業ということで、母
子家庭の父親役として新潟県の谷浜海水浴場に行ったものです。
このイベントは、日頃、一家の大黒柱として家庭を支えながら子
育てを行っている皆さんと、その子ども達の楽しい夏のイベントと
なるよう毎年実施しているもので、今回も総勢150人ぐらいの参
加がありました。私個人としては泳ぎは苦手な部類ですが、お母さ
ん方もたくさん参加され、嬉々として賑やかに子ども達と遊泳や
すいか割りをしたり、食事をしたりして過ごしました。
 
 この市長の一日父親事業は、昭和52年に日帰りのキャンプを実
施したことから始まり、昭和54年からは海水浴が実施されるよう
になり、今回で24回目を迎えました。この事業を始めた頃は、現
在ほど自動車の普及率が高くなかったため、経済的に恵まれない母
子家庭が海水浴に行くことがまだ難しい時期でもあり、また、夏の
レクリエーションとしての海水浴は子ども達にとって憧れでもあり
ました。
 平成12年度までは、市内小学校の臨海学校として使っている百
川の海水浴場に行っていましたが、百川の海水浴場の砂浜が狭くな
ってきたうえ、水深が深くなってきたことや、遊泳時間を少しでも多
く確保するなどの事情により、現在では谷浜の海の家を借りて実施
しているものです。

 一口に24回といいましても、ここまでこの事業を継続して実施
してくるには数々の困難があったと思いますが、当初から会長を務
めていらっしゃる荒井会長さんはじめ、役員の皆さんはこの事業が
続いていくことを誇りに思い、何日も前から準備をしているという
話を聞きますと、頭が下がる思いです。また、当日は、安全対策や
イベントの企画に万全の準備をしていただいたおかげで、事故もな
く楽しい一日を送ることができました。

 長野市母子寡婦福祉会では、夏の海水浴の他にも、冬には飯綱で
のスキーを実施しており、これからも子ども達に楽しい時間を提供
できればいいなぁと思いながら戻ってまいりました。

 それにしても、日本海で泳ぐなんて何年ぶりになるでしょうか。
一時は海が汚れ、海岸にゴミが打ち寄せられている時期もあったよ
うですが、最近の環境意識の変化によるものでしょうか、とっても
きれいになっている気がしました。

 長野地域と上越地域との関係は、かなり昔からのものです。明治
以降は県境が設定されたせいか、かえって往来は減ったのかも知れ
ません。江戸時代まではかなり近い地域であったようです。さかの
ぼれば戦国時代、上杉謙信と武田信玄が川中島で大合戦をやったこ
とは有名ですが、小説「天と地と」を読めば、武田に攻められた
信濃の豪族がみんな上杉に助けを求めたように、そんな時代以前か
ら海なし地域の信州にとって、上越との交流はかなり深かったと思
われます。私的なことで恐縮ですが、我が家の先祖は現在の本願寺
長野別院(戦前は正法寺という浄土真宗のお寺)が糸魚川から移っ
てきた際についてきたという伝えが残っていますし、江戸時代には
上越地域から信州にお嫁さんが来たという記録が残っています。こ
のようなことからも、上越地域との交流がかなり昔からあったと思
います。

 近年では、直江津港の整備も進んでガントリークレーン(注)が
設置されたり、外国との定期航路も生まれて、長野の企業の利用も
増えているようです。また昭和40年代の早い頃から、長野と上越の
商工会議所が毎年定期的な交流を続けており、その場に両市の市長、
理事者、議長及び議会関係者も入って毎年交互に開催しています。
長野上越経済協力会もそのことをベースに生まれました。長野オリ
ンピックの時には上越側にも随分応援してもらいましたし、上信越
自動車道の整備、北陸新幹線の長野以北の整備ということでは、協
力して国に働きかけたりしています。そういえば、直江津港の整備
費用として、長野県が毎年わずかではありますが協力していること
も、長い目でみると両者の関係を保つのに、有効でしょう。直江津
港では現在99haに及ぶ大きなふ頭などを造成中なのですが、そ
こに中部電力と東北電力がLNG(液化天然ガス)の火力発電所を
建設する予定になっており、この電力は当面長野県へ向けて送電さ
れるものだそうです。長野の電力は現在中部地域の浜岡原子力発電
所等からのものが多いのだそうですが、その電送路の幹線に、もしも
の事故があった場合は、長野県内は大停電になる可能性があるわ
けで、上越からの送電が確保できることは、長野にとって危険分散
ということでは、大変なメリットになるはずです。

(注)ガントリークレーン=港湾などでコンテナなどを積み下ろす
 ための巨大クレーン

 いずれにしろ、両市が高速道で結ばれ、あまり遠くない将来、新
幹線も繋がるわけで、今後交流は飛躍的に進むと思われます。上越
側の事情とすれば、県都の新潟市へ行くより長野市へ来るほうがは
るかに近いわけです。長野市側からみても、直江津港は長野の海と
いう位置付けで、そこから海外への飛躍が考えられる、夢が膨らむ
関係が進むことを期待しています。ひとつ気になることは、高速交
通網で結ばれて経済交流が盛んになることは嬉しいことですが、長
野の企業が新潟県へ進出するのと、新潟の企業が長野県に進出する
のと、どちらが多いかということですが、今の所、新潟の企業の方
が少し元気が良いのかな・・・・・と感じています。

2002年8月15日木曜日

長野の夏祭りについて


 長野の夏祭りが各地で行われています。篠ノ井合戦まつり、若穂
ふれあい踊り、そして長野びんずる、飯綱火まつり、権堂の七夕ま
つり、長野駅前の盆踊りなど、数え上げればまだまだ沢山あるよう
ですし、秋になれば市内各地の神社で昔からのお祭りも始まります。
その中で最初にあげた三つのお祭り、すなわち、びんずる踊りにつ
いて今日は述べたいと思います。

 長野びんずるは、昭和46年に始まりました。以前、長野市には
夏祭りとして「祇園祭」というものがあり、各地区に引き継がれて
いる伝統の屋台が出て街を練り歩き、夏の風物詩として全国的にも
有名であったようです。でも時代が変わり、交通事情も変わって屋
台を出す年番の町内会もいろいろな面で力を失い、昭和30年代に
は毎年屋台を出すことは難しくなり、商工会議所や青年会議所の力
で、祇園祭の時期に広告祭りをやったり、城山公園で「火と水と音
楽と若者達」というお祭りをやったりしてきました。私も当時青年
会議所のメンバーで一生懸命努力したものです。

 昭和45年の夏祭りが終わって、青年会議所の中で反省会が行わ
れ、翌年には商工会議所に対しいくつかの提言を行いました。その
内容というのは、

 1.祇園祭の時期は梅雨の時期で天気が悪いことが多い、時期を
   変えるべきである

 2.城山公園は市民が集まる場としては不適当、出来たら街の真
   中でやるべき

 3.見るだけの祭りはもうひとつ盛り上がらない、市民が参加す
   る祭りにすべきである

 主としてこんな三つの提言であったように記憶しています。提言
した私達は「すぐ出来るとは思わないし、議論して何年か後にそん
な形になればよいなぁ」ぐらいの軽い気持ちであったようにも記憶
しています。ところが、その時の商工会議所の夏目幸一郎副会頭
(会頭代行)が「生意気なことをいうなら、金のことは何とかする
からお前らやってみろ、それも今年だ」と言われてしまいました。
当時の青年会議所の理事長土屋磯司さん、担当副理事長塩沢堅吉さ
ん、市民祭委員長青木恵太郎さん(後にびんずる大魔王と尊称され、
現在会議所の副会頭です)の面々はかなりびっくりしたようですが、
言い出したのは我々ですから仕方ないでしょう。一気にその年の夏
祭りとしてやろうということになって、時間と戦いながら、準備に
かかりました。

 時期の問題は、一番雨の少ない時期を長野気象台に問い合わせた
ところ、一番は文化の日前後、次は8月上旬ということでした。暑
くなくては駄目ということで、あっさり8月の第一土曜日というこ
とが決まりました。祭りの名前はかなりもめました。当初、青木さ
んは「ピンタ祭り」と訳のわからないことを言っていましたが、語
感が似ているから善光寺の「びんずる」で良いではないか、となり
ました。市民祭という行政も援助する行事に、宗教関連の名前はい
かがなものか、とクレームがかなりあったようですが、当時の夏目
市長の、「まぁ、いいや」の一言で決まり。踊りとお囃子は岩井半
四郎さんに依頼しました。ここまで約半年で決めて、しかも連作り
と踊りの普及もやったのですから、本当に偉いことをやったもので
す。青年会議所が中心となって一生懸命にやったことは当然として、
長野市民舞連の皆さんが市内あちこちに生まれた連を訪問して、熱
心に踊りの手ほどきをして下さいました。自治会や企業は連を作る
ために奔走してくれましたし、警察とは中央通りを全面開放にして
もらうべく、交渉が行われました。当時は市民祭とはいっても踊り
のために道路を開放するなどという発想は画期的なことでありまし
た。歩行者天国も一般的なものではなく、東京の銀座通りの歩行者
天国が始まったのが昭和48年ということですから、中央通りを開
放することに警察も大変苦慮されたようです。
 ちなみに長野の歩行者天国は、何回かの試行を経て、昭和48年
9月から始まりましたが、大変先駆的な取り組みであり、全国で二
番目という話も聞いております。(ただし、一番目が何処であった
か、はっきり覚えていないのですが・・・)

 そんな苦労をして、やっと「びんずる」の当日を迎え、夕刻、交
通規制された中央通りが連で埋まった姿を昭和通りの角から見上げ
て本当に嬉しかったことを覚えています。

 篠ノ井、松代、そして当時は吉田でもびんずる踊りが挙行され、
その後、若穂や川中島でもびんずる踊りが行われるようになりまし
た。現在は行われていない地区もありますが、それぞれ歴史を重ね、
長野市の夏祭りとして定着し今日に至っております。

2002年8月8日木曜日

オリンピック・パラリンピックの資産(その2)


 先週号では、オリンピック・パラリンピックによりもたらされた
有形・無形の資産のうち、ホスピタリティーや国際感覚の向上とい
った無形の資産について書かせていただきました。今週号では、
もう一つの大きな資産である有形資産の整備についてと、日本の
長野から世界のNAGANOへの躍進についてご説明を申し上げた
いと思います。

 有形の資産とは、両大会の実施に関連し整備された公共施設、
すなわち、私たちの生活を便利で快適にしてくれる資産。そして、
目で見て長野市の変貌を実感できる資産と申し上げるのが最も分か
りやすいと思います。

 これらの資産としては、長野市の社会基盤、すなわち各種のイン
フラ(注1)が急速に整備されたということでしょう。国内では景気
が落ち込み始めたあの時期に、長野市では両大会の開催に関連
してビッグ・チャンスに恵まれました。

(注1)インフラ=都市の基盤となる道路・鉄道・上下水道・電気・
 通信などの施設。社会整備基盤

 準備段階によく言われたことですが、21世紀になれば、日本は
急速に老人国になり活力を失う。そして公共のインフラを整備する
ピッチは相当ダウンせざるを得ないということが言われていました。
そんな中で長野は大きな国家プロジェクトを迎えて、いろいろな整
備を短時間に行うことができました。いわば20世紀最後のチャン
スを長野は掴んだのだと言えると思います。インフラについては、
性格の違ういくつかの例があげられるでしょう。

1.なんといっても新幹線、高速道といった高速交通体系の整備で
  ありましょう。オリンピックがなければ、新幹線の開通時期
  も不確定でしたし、オリンピック開催都市になったことにより
  フル規格に決定したものです。建設にあたっては反対運動もあ
  りました。でも、県外から乗り込んで反対した人は別にして、
  最後は長野オリンピックのために合意して間に合わせていただ
  きました。その後、新幹線や高速道の影の部分もありますが、
  素晴らしい世界を創り出してくれたと私は思います。

2.高速系以外の交通網・道路整備は、白馬線をはじめ、いわゆる
  オリンピック道路等、そして市内の道路もですが、大変便利に
  なりました。道路一本で、地域の流れが全く変わってしまうこ
  とに私達はびっくりするくらいです。

3.競技施設として整備された、エムウェーブ、ビッグハット、ホ
  ワイトリング、スパイラル、そして若里市民文化ホール、フル
  ネットセンターもオリンピックの資産です。これらの建物はコン
  ベンション誘致するための長野の大きな武器ですし、スポーツ
  を軸にして街造りをする象徴です。

4.民間でも市内にホテルがたくさんできたこと、街並みが整備さ
  れたことも大きかったと思います。オリンピック後に不況が進
  んで、ホテルの経営者の皆さんは御苦労されているようですが、
  ホテルという都市施設を造っていただいたこと、長野が一流の
  街と言われるためには、絶対に必要なことだったのです。

5.急速なIT社会の進展に先立ち、通信インフラが他都市より早
  く整備されたことも意義あるものでした。NTTさんの協力で、
  光ファイバーが長野市の全ての小中学校に繋がっている、これ
  は凄いことなのです。学校がフルネットセンターと結ばれたこ
  とにより、教育利用の場面では、ビデオ・オン・デマンド(V
  OD)(注2)という、全国がうらやむ環境が出来ており、学
  校もフルに利用しています。以上インフラの整備は、公共事業
  がドンドン減少している中で、約10年分を先取りしたといわ
  れているのが実情だと思います。

(注2)ビデオ・オン・デマンド=見たい映像を見たい時に簡単に
 見ることができるシステム

 これら、様々な分野においてインフラ整備が進んだことからも分
かるように、オリンピック・パラリンピックによって私達は少なく
とも他の市町村にはない素晴らしいモノを手にしたのです。こうい
う便利なものを当たり前のように使いその恩恵を受けていながら、
悪口をいう人の神経は私にはわかりません。

 しかし、残念なことにこれらインフラ整備が急速に進んだことに
より、影の部分も現れたことも事実であります。根本的には、オリ
ンピック招致が決まった頃から始まった日本のバブル崩壊とそれに
伴う平成大不況、さらに、どこのオリンピック開催都市でも経験す
る宴の後の落ち込み、この二つが重なってしまったことは、長野に
とって不運だったと思います。新幹線が出来て、東京からの日帰り
客は増えたが泊まる人が減った、と言う声がありますし、インフラ
整備を10年以上先取りしたが故に、公共事業が激減した、という
話もあります。
 
 資産はまだまだあります。今街づくりの中でバリアフリー(注3)
とかユニバーサルデザイン(注4)の街と言った努力も多分資産の
一つでしょう。2005年、スペシャルオリンピックス(注5)が
長野で開かれます。この大会でも素晴らしい感動を呼んでくれること
でしょうし、そんなイベントにぜひしたいものだと思います。

(注3)バリアフリー=建築設計において、段差や仕切りをなくす
 など高齢者や障害者に配慮すること
(注4)ユニバーサルデザイン=障害者・高齢者・健常者の区別なし
 に、すべての人が使いやすいように製品・建物・環境などをデザ
 インすること
(注5)スペシャルオリンピックス=知的発達障害者に、日常のス
 ポーツトレーニングプログラムと競技会を提供するボランティア
 活動で、IOC(国際オリンピック委員会)からも「オリンピック」
 という名称使用を正式に認められた、もう一つのオリンピック

 最後になりますが、大きな意味での資産の最後は「日本の長野」
から「世界のNAGANO」になったことでしょう。世界中どこへ
行ってもNAGANOという名前を知ってくれていること、これは
直接的な利益はわかりませんが、世界に長野市の文化、人々の
やさしさ、そして感動を発信できたことは、将来の長野市にとって
最大の財産となるでしょう。まぁそれで安住してしまえば、その
うちに忘れられてしまうかもしれませんが、少なくとも現段階では
NAGANO(長野)は、世界中の人々が知ってくださっている。
それを今後どんな風に生かすか、重い課題ではありますが、でも
大きな資産でしょう。

 オリンピック・パラリンピックにより得られた有形・無形の資産。
これらを今後どのように生かし活用し、さらに後世にどのように引
き継ぎ発展させていくのかは、本市にとって大きなテーマでありま
す。
 後ろを振り向いて後悔していてもはじまらない、前向きに考えて、
この難局を切り開いていくため、これからも、市民の皆さんと協働
しながら、これら資産の有効活用を図ってまいります。

2002年8月1日木曜日

オリンピック・パラリンピックの資産(その1)


 1998年の冬に「愛と参加」「ふれあいと感動」をテーマとし
た、あのオリンピック・パラリンピック冬季競技大会が大会史上最
多の国と地域の参加のもと大成功に終了しました。今から思うと何
か夢の中で過ごしていたみたいで、その招致活動からの長い準備活
動を考えると、あっけないようでもあり、また、努力が報われたこ
とへの満足感に私は浸っていたように思います。

 その後、IOCのスキャンダルや招致委員会の帳簿問題などが出
て、若干オリンピックの成功に水を差された感もありましたけれど、
私達に有形・無形の資産を残してくれた喜び、そして、その資産は
長野市が大きく変わるための原動力になったと、今でも私は思って
います。丸四年を過ぎて、次のソルトレークオリンピックが終った
今、長野オリンピックが残してくれた資産を再確認することは、将
来の長野にとって意義あることではないでしょうか。

 これら有形・無形の資産を大きく分類するならば、4つに分類で
きるかと思いますが、これらについては、簡単に説明するだけでも
内容が多種多様になりますので、二週にわたり配信してまいりたい
と思います。
 今週号ではまず、オリンピック・パラリンピックによりもたらさ
れた無形の資産について書かせていただきます。

 一つ目の資産は、長野の人がオリンピックを契機につちかったお
もてなしの心、すなわちホスピタリティーやボランティア精神の醸
成ではないでしょうか。両大会の開催に先立ちましては、市内はも
とより全国から大勢のボランティアの申し込みがあり、輸送や会場
整備、警備の場面など、この方々の協力なしにはこれらの大会が、
これほど立派に行えるとは思えないほど充実したものでありました。
特に冬季競技ということもあり、大変厳しい環境の中で頑張ってい
ただいた皆様への感謝の気持ちを忘れることはできません。
 さらに、オリンピック後に結成されたボランティア団体の数は大
変なもので、スポーツやコンベンション、まちづくりなどで現在も
積極的に活動を進めております。また、商店街の皆さんの応対振り
はかなり変わったように思いますし、タクシーの運転手さんたちの
応答ぶりは、以前と比べ凄く良くなったと思うのは、私だけでしょ
うか。
 全国大会や国際大会が数多く開かれていますが、コンベンション
ビューローが行ったアンケート結果によりますと、長野市を訪問し
たお客様には概ね良い印象を持っていただいているようですし、そ
れらの大会等の運営はボランティアの協力なくては実現できないと
言われるほど、ボランティアの皆さんが一生懸命に目立たない場所
で頑張って下さっています。派手にパフォーマンスしたい人が多い
なかで、本当に頭が下がります。

 二番目の資産は、国際化の流れでしょう。外国人に対する違和感
はほとんどなくなったのではないでしょうか。長野にも外国人の方
がたくさん住んでいます。観光で訪れる人も増えているように思い
ます。海外へ出て活躍する人も多くなっているように思います。
 特にこの国際化にあたっては、市内の全小中学校が取り組んだ一
校一国運動の成果が大きかったと思います。一つの学校が一つの国
を応援し、その文化や人々とのふれあいを持てたことは、大規模な
国際大会が行われたこと故に可能となったものでありますし、こど
も達にとって最高の思い出になったのではないでしょうか。
 一校一国運動を契機につちかわれた国際感覚は、将来国際社会に
飛躍しようとする子どもたちに必ずや心の糧になるはずです。この
交流事業は、IOCの公式プログラムに採用され、今後オリンピッ
クが開催されるたびに、この運動が行われることになります。現に
シドニーやソルトレークでは実施されていました。また、教育環境
が遅れている国や地域に教材やスポーツ用具などの支援をするとと
もに、貧困と紛糾に苦しむ子どもたちに教育支援を行うことを目的
に、長野オリンピック国際協力募金(長野オリンピック・ハーモニ
ー)を設立し、スポーツを通じ平和の大切さを世界に発信すること
もできました。

 余談ではありますが、私の友達に深井克純さんという方がいますが、
彼は経営者協会の職員として、NAOCでオリンピック成功に尽力
した後、国際協力事業団(JAICA)に応募してパキスタンに滞
在し、昨年9月11日のあのテロ事件後は、あのアフガニスタンに
駐在し復興のために必死に頑張っています。ちなみに彼の奥さんは
同じJAICAから派遣されて、ケニヤ駐在だそうです。壮大な国
際別居ですね。そんな国際人が現れてきているのです。

 これ以外にもまだまだ無形の資産はあると思います。世界のトッ
プ選手が繰り広げた最高の競技は、私たちにいつまでも忘れること
のできない感動を与えてくれました。これら、人それぞれの心に残
っているもの全てが無形の資産なのではないでしょうか。 

 来週号では、有形の資産と景気の低迷等に伴う影の部分について
書いてみたいと思います。