2002年8月15日木曜日

長野の夏祭りについて


 長野の夏祭りが各地で行われています。篠ノ井合戦まつり、若穂
ふれあい踊り、そして長野びんずる、飯綱火まつり、権堂の七夕ま
つり、長野駅前の盆踊りなど、数え上げればまだまだ沢山あるよう
ですし、秋になれば市内各地の神社で昔からのお祭りも始まります。
その中で最初にあげた三つのお祭り、すなわち、びんずる踊りにつ
いて今日は述べたいと思います。

 長野びんずるは、昭和46年に始まりました。以前、長野市には
夏祭りとして「祇園祭」というものがあり、各地区に引き継がれて
いる伝統の屋台が出て街を練り歩き、夏の風物詩として全国的にも
有名であったようです。でも時代が変わり、交通事情も変わって屋
台を出す年番の町内会もいろいろな面で力を失い、昭和30年代に
は毎年屋台を出すことは難しくなり、商工会議所や青年会議所の力
で、祇園祭の時期に広告祭りをやったり、城山公園で「火と水と音
楽と若者達」というお祭りをやったりしてきました。私も当時青年
会議所のメンバーで一生懸命努力したものです。

 昭和45年の夏祭りが終わって、青年会議所の中で反省会が行わ
れ、翌年には商工会議所に対しいくつかの提言を行いました。その
内容というのは、

 1.祇園祭の時期は梅雨の時期で天気が悪いことが多い、時期を
   変えるべきである

 2.城山公園は市民が集まる場としては不適当、出来たら街の真
   中でやるべき

 3.見るだけの祭りはもうひとつ盛り上がらない、市民が参加す
   る祭りにすべきである

 主としてこんな三つの提言であったように記憶しています。提言
した私達は「すぐ出来るとは思わないし、議論して何年か後にそん
な形になればよいなぁ」ぐらいの軽い気持ちであったようにも記憶
しています。ところが、その時の商工会議所の夏目幸一郎副会頭
(会頭代行)が「生意気なことをいうなら、金のことは何とかする
からお前らやってみろ、それも今年だ」と言われてしまいました。
当時の青年会議所の理事長土屋磯司さん、担当副理事長塩沢堅吉さ
ん、市民祭委員長青木恵太郎さん(後にびんずる大魔王と尊称され、
現在会議所の副会頭です)の面々はかなりびっくりしたようですが、
言い出したのは我々ですから仕方ないでしょう。一気にその年の夏
祭りとしてやろうということになって、時間と戦いながら、準備に
かかりました。

 時期の問題は、一番雨の少ない時期を長野気象台に問い合わせた
ところ、一番は文化の日前後、次は8月上旬ということでした。暑
くなくては駄目ということで、あっさり8月の第一土曜日というこ
とが決まりました。祭りの名前はかなりもめました。当初、青木さ
んは「ピンタ祭り」と訳のわからないことを言っていましたが、語
感が似ているから善光寺の「びんずる」で良いではないか、となり
ました。市民祭という行政も援助する行事に、宗教関連の名前はい
かがなものか、とクレームがかなりあったようですが、当時の夏目
市長の、「まぁ、いいや」の一言で決まり。踊りとお囃子は岩井半
四郎さんに依頼しました。ここまで約半年で決めて、しかも連作り
と踊りの普及もやったのですから、本当に偉いことをやったもので
す。青年会議所が中心となって一生懸命にやったことは当然として、
長野市民舞連の皆さんが市内あちこちに生まれた連を訪問して、熱
心に踊りの手ほどきをして下さいました。自治会や企業は連を作る
ために奔走してくれましたし、警察とは中央通りを全面開放にして
もらうべく、交渉が行われました。当時は市民祭とはいっても踊り
のために道路を開放するなどという発想は画期的なことでありまし
た。歩行者天国も一般的なものではなく、東京の銀座通りの歩行者
天国が始まったのが昭和48年ということですから、中央通りを開
放することに警察も大変苦慮されたようです。
 ちなみに長野の歩行者天国は、何回かの試行を経て、昭和48年
9月から始まりましたが、大変先駆的な取り組みであり、全国で二
番目という話も聞いております。(ただし、一番目が何処であった
か、はっきり覚えていないのですが・・・)

 そんな苦労をして、やっと「びんずる」の当日を迎え、夕刻、交
通規制された中央通りが連で埋まった姿を昭和通りの角から見上げ
て本当に嬉しかったことを覚えています。

 篠ノ井、松代、そして当時は吉田でもびんずる踊りが挙行され、
その後、若穂や川中島でもびんずる踊りが行われるようになりまし
た。現在は行われていない地区もありますが、それぞれ歴史を重ね、
長野市の夏祭りとして定着し今日に至っております。