本年は、善光寺の本堂再建300年記念の年です。300年なん
て昔のことを知っている人はいないのですが、でも記念の年ですの
で、今回、次回と少し昔のことを、振り返ってみたいと思います。
折しも善光寺大本願明照殿の改修工事の現場から、約1300年
前の白鳳時代のものとみられる瓦が出土したとのことです。よく分
かっていなかった善光寺の昔のことが明らかになっていくのかもし
れません。歴史のロマンを感じさせる出来事でした。
尊敬する童門冬二氏の本によると、『歴史には、「事実」と「真
実」とがある。歴史的事実というのは、残されている古記録や史跡
など信じられるものから組み立てる歴史像であり、あるいは歴史上
の人物像だ。一方の歴史的真実というのは、必ずしもそういう古記
録や史跡への考証を厳密に行わずに、「自分が信じる歴史あるいは
人物像」のことだ。歴史的事実は必然性がなければならない。しか
し歴史的真実は蓋然(がいぜん)性があれば足りる。』とのことだ
そうです。
戦後の長野市の歴史は、私を含めて多くの人が知っていますので、
今回は多分あまり知られていない昔のことを、長野市の所蔵する古
い資料から、長野の沿革を調べ、私の雑学的知識を交えて書いてみ
ました。調べているうちに明治から大正、そして戦争前のことが、
大変面白かったので、維新前と維新後の2回ぐらいに分けて書いて
みたいと思います。
北アルプスに源を発する犀川の扇状地と千曲川の沖積地によって
形成された肥沃(ひよく)な長野盆地(善光寺平)には、中世のこ
ろから「三国一の霊場」善光寺の門前町が存在していたようです。
善光寺の本堂の中にある案内板によりますと、善光寺は皇極天皇
(在位は642~645年)の勅願によって創建されたと書いてあ
りました。皇極天皇は大化の改新(645年)当時の女性天皇です
から、1400年ぐらい昔の話です。そのことと、「本田善光(よ
しみつ)が善光寺の本尊を難波の堀江から運んできた。」といわれ
ている善光寺縁起とどういう関係があるのかは分かりませんが・・・
(最近、この案内板が変わっていました。趣旨は変わっていません
が、何かスマートになってしまったような・・・)。
善光寺如来が信州に下向してから宿駅路線が通じ、奈良・平安・
鎌倉・南北朝・室町と時代を経て大集落を形成し、善光寺の門前町
としてその体裁を整え、戦国時代には上杉・武田がその所領を争う
地となったとあります。今年のNHK大河ドラマ「風林火山」の時
代での舞台です。
5回にわたって戦われた「川中島の戦い」ですが、勝敗はどちら
が勝ったのか、いろいろな意見があるようですが、最終的な決着を
つけるより、両勢力は他地域での戦いが忙しくなっていったという
ことでしょうか。
武田氏が織田信長に滅ぼされた(この時の戦いで、高遠城を守っ
ていた仁科(にしな)五郎盛信(もりのぶ)が戦死、彼は武田信玄
の五男で、県歌信濃の国でも歌われています)後、森長可領、上杉
景勝領、松平忠輝領などと変転し、慶長5(1600)年の関が原
の戦いの翌年に長野村、箱清水村、七瀬村、三輪村の一部(のち平
柴村と交換)は善光寺領となり、ほかは真田などの所領として変転
したそうです。大坂冬の陣・夏の陣が終わり、戦国時代の幕が下り、
元和8(1622)年に真田信之が徳川幕府によって、上田から松
代に移封され、松代藩は明治4(1871)年の廃藩置県まで続い
たわけですが、この間、善光寺の門前町は、同時に北国街道の宿場
町や市場町として栄え、まちの基礎が築かれたとのことです。
善光寺の現存する本堂は、江戸時代中期、宝永4(1707)年
に松代藩の援助により建立されたとのことで、以来、本年が300
年目になるということで、お祝い、記念行事が行われているのは、
皆さんご存じの通りです。それまでの善光寺本堂は、現在の位置よ
り少し南に寄った仲見世通り(堂庭)の真ん中あたりにあったよう
ですが、記録によると、過去11回の火災にあったとのことです。
現在地に移ってからは、火災はないとのことです。
木造の家ばかりだった時代、町の真ん中にあって、常に類焼の危
険にさらされていたのかもしれません。弘化4(1847)年の善
光寺大地震は本堂建立より後ですから、地震にも耐えたということ
です。本堂東側階段のところの柱が少しずれていますが、あれは善
光寺大地震の名残だと聞いたことがあります(しかし、この説につ
いては別の見解があり、最近は、宝永4年の再建時に、新しい木材
を使用したために、その後の木材のねじれを計算して設置したもの
ではないか、といわれています)。
弘化4(1847)年の善光寺大地震は、信州北部を中心に稀有
(けう)の大災害をもたらしました。信濃国と越後国の全壊家屋は
3万4,000戸。死者1万2,000人といわれているそうで、
被害の大きさとしては、阪神大震災より大きかったと思われます。
震災・火災による被害に加えて、もう一つの災難は犀川の洪水でし
た。犀川沿いの虚空蔵山(岩倉山)が崩壊して押し出した土砂は厚
さ320メートル、高さ70メートルという巨大な自然のダムとな
って犀川をせき止めてしまったそうです。そして石俵、土俵、材木
を使って必死に犀川に堤防を築いたのですが、約20日後、巨大ダ
ムは決壊し、善光寺平一帯は水浸しとなり、松代藩領の被害は、浸
水家屋1,841戸、死者2,727人にも達したと記録されてい
ます。
善光寺大地震から20年後には、もう明治維新(1868年)で
す。
まさに激動の幕末、ペリーの黒船が来航して日本中が大混乱、松
代藩主真田幸貫侯(寛政の改革で有名な松平定信の子息)が外様大
名としては異例の幕府老中に出世し、松代藩士・佐久間象山が江戸
で大活躍(弟子に吉田松陰、高杉晋作、小林虎三郎、勝海舟など
・・・明治維新の立役者がきら星のごとく象山先生の下に集まった
ようです)、黒船来航時に守備を命ぜられるなど、そして京都で暗
殺される・・・戦国時代以来、松代藩が歴史の表舞台に出た時期で
した(松代藩で有名な人物としては藩財政を改革した「日暮硯」
(ひぐらしすずり)の恩田木工(もく)、そして鎌原桐山、山寺常
山、佐久間象山の松代三山です)。
次回は、明治以降の長野について書いてみたいと思います。