2014年1月31日金曜日

徒然の記 №6 <商売のこと>

商売のこと(生コンのこと)

我が家の家業はセメントを中心とした建材業でした。
セメントの販売については県内では明治26年からということ、既に書かしていただきました。
戦前はまだ業者数も少なくセメント輸送も袋ですから、国鉄の貨物が輸送の中心で長野駅の側線や長電権堂駅の側線を倉庫代わりさせてもらって商売をやっていました。戦時中は統制品に指定されて自由な商売は出来なかったようすが、重量製品ですから輸送は常に重要問題だったと思います。

戦後は統制が外れて自由競争になり、当然とことながら胡坐をかいた商売は成り立たなくなり、販売だけでなく、セメントメーカーも、化学会社を中心に沢山セメント業界に進出してきたため、競争は激化、難しい時代になりました。
当時“3白景気”と言われ、“砂糖”・“肥料”・“セメント”は、日本の主力産業だったようで、製造会社は大変な利益を上げていました。親父が新聞を見ながら、セメントメーカーはたいしたものだ。日銀につぐ利益をあげている・・・と言っていたのを記憶しています。その後、三種の神器なんて家電中心、あるいは車や洗濯機中心の景気が生まれて、三白景気なんてどこかに吹っ飛んでしまいましたが・・・

そんな中で生コン業が出現しました。長野県では、東京オリンピック前後からのことだったと思います。セメント業界(特に販売店業界)とすれば袋物のセメント販売が主流だったのに、(売り先は左官屋さんが主でした)生コンという全く別の形態が始まったわけで、新しい分野への進出が重要事項になってきました。

私は学生時代、病院で寝ていた父から命じられて静岡県の生コン事情を調査に行ったことがあります。当時、静岡は東海道新幹線の工事中ということで、生コン重要が大変多く、アジテーターが街の中を走り回っていました。長野県内にはまだありませんでしたが、東海道沿線は生コン工場が林立している状況でした。
静岡で、生コン業界の実情、生コンプラントのメーカーなどについて、父の懇意にしていた販売店のご主人から教えていただき参考になりました。いずれは長野県にも生コンの波が来ると感じながら、帰って病床の父に報告しました。

実際に私が生コン工場を創設したのは、昭和38年、父親の死の翌年で、炭平のセメント販売70周年の記念行事と銘打ってはじめました。
父親が死んだとき、銀行の方が来て「炭平はどうしようもないボロ会社ではないのだから、直ちに新しい事業を行うことは自粛された方が良いでしょう」と代替わり早々の私に、暗に生コン進出をあきらめるようにといった感じの話がありました。ボロ会社なら一世一代の大博打をやっても良いということなのか疑問を感じました。当時の中小企業にとって、ファンドとか増資という手段はありませんでした。銀行からの借金が唯一の資本増強の手段でしたから、銀行の意向はかなり大きかったと感じていました。

銀行とすれば無理のない話なのかなあとも思いましたが、私はあきらめず中小企業金融公庫から資金を借りて、予定よりちょっと遅れましたが生コン事業に進出しました。当時の私とすれば、かなり思い切った投資でしたがお陰さまで順調に発展しました。

その後中央高速道の工事が発注されると言うことで、山梨県にも工場を造り、さらに松本・長野間の工事が出たときは、筑北に生コン工場を造りましたし、大北地区や軽井沢方面にも生コン工場を広げました。

生コン車(アジテーター)の台数は、出荷能力に直接響きますので増える一方でした。
又バラセメントのタンクローリーも、袋セメントの解体(当時セメント袋を破いて、使っていました)は埃にまみれた重労働でしたので、その解消のため導入し、糸魚川や埼玉など、遠隔地のセメントメーカーの工場から長い距離を走って、バラセメントの購入をはじめました。(現在は、セメントメーカーの地域サイロが整備され、遠距離輸送はやらなくても済むようになりました)。その過程で、企業買収をしたり、倒産会社を買い取ったり、骨材工場を建設したり、買収したり・・・炭平の主たる事業に成長しました。

ただ生コン工場というのは他の製造業に比べ、イニシアルの設備投資はあまり大きくなく、テクニカル・ノウハウというものもあまりない(セメント・骨材・水を混ぜれば一応固まる)、小資本でも創業出来るため、どうしても乱立気味になり、安値競争におちいる危険性が高かったのです。しかも生コンクリートの品質は、素人が見ただけではわからない。コンクリート打設後、4週間・28日経過しないと強度が出ているかどうかの答えが出せないという特殊商品であるが故に、安売りを続けると必ず無理が生じてしまうということで、安定化、適正価格の維持が一番重要と考え、話し合いによって業界の安定をはかることを常に考えていました。(現在は私の時代とは違い、新しい技術がどんどん入ってきているのだそうです)
 
そこで、独占禁止法の除外団体である生コン事業協同組合を結成、さらに事業組合連合会、工業組合等を結成し、業界秩序を打ち立てるよう努力をしましたが、そうなると独占禁止法とのからみでいろいろ難しい問題がでてきたことは事実です。
さらに生コン業界には、セメント屋・砂利屋・運送屋・建設会社など、あらゆる業種が参入してきましたし、なかには乱暴な人達もいて、なかなか纏まりがつかないのが実態でした。

一社でも組合に非協力的な会社があると、なかなか価格が上がらずみんなが苦労してしまう、話し合いも独占禁止法すれすれの行為をやらざるを得ないこともあって・・・事業協同組合という自由加入・自由脱退が原則の組合組織には、馴染まない部分があるなあといつも思っていました。
最近は、企業合同などの方向に向かっているように聞いていますが・・・せっかく合同しても、また新設工場ができるということも考えられ難しい業界です。

それぞれの組織の理事長等をさせていただきましたが、ただ業界活動は、直接利害に関連するものですから、いままで述べた通りいろいろ難しい場面がありました。
生コン事業協同組合のことで、国の公正取引委員会に理事長の私が呼び出されたこともありました。調査の結果、上申書を提出することで罪にはなりませんでしたが、気持ちのよいものではありませんでした・・・まあ良い経験を積んだと思うことにしています。

生コン事業以外の商売では、昭和40年代セメント中心の湿式建材から、簡単で早期施工が出来る乾式建材の時代になってきました。
湿式建材とは水を使う建材(セメントは勿論その代表格)で、主として左官屋さんが使うものですが、施工後乾かないと次の工程にすすめない、どうしても時間がかかるのです。それと左官屋の職人さんが小手を使って、丁寧に、凹凸ないように作業をするのですが、どうしても上手・下手がわかってしまう。すなわち全て均一の仕事をするのはむずかしい工法でした。そこへいくと乾式工法は、板を釘で打ち付たり、糊で貼りつけるといった簡単な工法が多く、出来上がりも、勿論上手・下手はあるでしょうが、比較的楽に均一性が保てるということでしょう。
この工法が盛んになるに連れて、重みのある重厚な建物には今でも湿式建材は使われていますが、ほとんどが乾式工法に変わりました。今私たちのまわり、特に個人の家屋では、左官屋さんがやる仕事は極めてわずかになってしまいました。左官業は衰退し、タイル屋さん、塗装屋さん、あるいは全然違う業種に転業されてしまいました。

お客様の流れも変わり商売の仕方も変わりました。そのことは湿式建材に強みを持っていた炭平の商法も絶対ではなくなったことを意味し、少しずつ業様の転換を強いられました。同業者も今までとは違うわけで、競争は熾烈を極めたということです。 OJT(オン・ザ・ジョブ・トレイニング)等で社員教育をしながら、新しいお客、新しい仕入れ先の開拓に力を注ぐ必要があったのです。

ただ建設業界は、高度経済成長の時代で、全体としては右肩上がりで発展していました。発展する業界は当然参入社も多いわけで、競争が激しいことは当然です。増大する需要に対応するためどんどん設備投資が行われ、人も増えて、大きな業界に発展していきました。その流れに乗って我々の材料業界も大きくなり、当社とすれば事業転換はまずまずうまく出来たように思います。一番大変だったのは、社員教育だったかなあと今感じています。

2014年1月28日火曜日

徒然の記 №5 <社長就任・商売開始>

社長就任・別院総代・商売継続・小出弘氏・セメント70周年・生コン工場建設

話は前後しますが、昭和38年1月、私は炭平鷲澤本店の社長に就任(入社は37年4月でした)しました。不安が無かったと言えば嘘でしょうが、家族だけでなく、30人以上の従業員とその家族の生活がかかっている。しっかりしなくてはと感じていたことは事実です。前から多少なりとも会社に興味を持ち、手伝っていたことはよかったなあと後で感じました。

一月、親父の葬儀が済んだ直後、本願寺長野別院から呼び出しがかかり、いきなりお寺の責任役員・参与に就任ということになりました。別院の広間での参与会だったとおもうのですが、中央に座られた袴姿のご老人 倉石十七郎氏が一声「今、皆で相談したら、後任は貴方に決まった。後はうまくやりなさい。」とのこと、学生服姿の私は何もわからないままに、お寺の責任役員・参与ということになってしまいました。
後で京都の本山から正式の任命書をもらったはずですが、祖父や父が死ぬまでやっていた役職ということで、学生の身分なのに有無を言わせぬ任命で、まったく訳がわかりませんでした。でも、その後現在まで務めさせていただいています。

昭和38年4月、篠原迪子と婚約、一年後の39年に結婚しました。迪子とは大学時代からの付き合いで、父も入院中、病院で会っていました。

炭平という会社の経営ですが、同族会社・中小企業の炭平にとって、一番大きな宝ものは番頭さん達というのが私の偽らざる気持ちでした。当時の支配人をはじめ幹部社員は、息子(小生のこと)を何とかしなくては、炭平が、あるいは自分たちの生活も、もたないと感じたのでしょうか、一致して社業に励んでくれました。
仕入先である日本セメント(旧浅野セメント・現在は太平洋セメント)や吉野石膏をはじめ、仕入先との取引契約は維持され、お得意先との関係も古い番頭さん達の努力で、きちんと営業は継続されました。このことは私が現在ある一番の原点だったと思います。
  
銀行取引では日本勧業銀行長野支店がメインでした。支店長は小出弘さんでした。(私の会社経営における第一の恩人)小出さんは八十二銀行頭取の小出隆氏の弟さんで、弘氏は日本勧業銀行を定年退職するにあたって、私を八十二銀行に紹介していただいたことがきっかけで、八十二銀行との本格的な取引がはじまり、徐々に比重が高まり、現在では八十二銀行が当社のメイン銀行になりました。

小出弘さんには、私の大学卒業直後、長野県のことを勉強しなさいというお気持ちだったのでしょう・・・松本から諏訪方面へ、又東信地方まで、私を連れて世間を案内していただきました。二人で旅行しながら、途中いろいろなことを教えていただきました。地域経済社会の人脈、銀行取引のこと、商売の在り方など、言葉には言い表せないくらい教えていただきました。人間の生き方のようなこともあったように思います。
その後も盆・暮れはもちろん、新しい商売をはじめるときなど、稲荷山のお宅や会社の社長室(当時昭和倉庫・現在は昭和建物)へ、常にご相談に伺いお教えをいただきましたこと、本当にありがたいことでした。

私の家族のことですが、年の離れた弟は7歳違いの15歳、妹とは13歳違いの9歳、母はダブルことなく城山小学校のPTAの会員として通っていました。勿論私の親としても通っていましたから都合18年間、加えて母自身も多分通ったはずですから・・・・・・ 
母の城山小との付き合いは、本当に長くて“まるで城山の主みたいだね”と笑っていましたが・・・。私の城山小学校での6年間、隣接する蔵春閣も臨時校舎として使っていましたが、その間に放火等もあって火事が三回ありました。木造校舎の弱点ですよね。(柳原市長さんが登場して、昭和50年代、校舎を全て耐火構造に造り変えたお陰で、学校火災はほとんどなくなりましたが、反面校舎の趣が無くなったことは事実です。昭和56年に耐震法が改正されたため、それ以前の建物は、いずれ立て直さなくてはならなくなったのは誤算だったかどうか・・・)

家庭裁判所で財産の相続手続きを行ったのですが、未成年の二人には、伯父さん達に後見人になってもらう手続きをして、無事相続ができました。そのほか父親代わりの仕事がいくつかありました。特に妹の小学校時代、学校の参観日に出かけたことが記憶に残っています。約15年後、妹が嫁に行った時の結婚式で、これで親父代行の仕事が終わったなあと初めて実感しました。
弟・妹への財産分与も行いましたが、何といっても相続税の重荷が、まだ若い経営者の私を悩ませたことは事実でした。(売却処分することが出来ない自分の会社の株式の評価額が大きく、これが一番大きな財産ではあったのですが・・・お金はあまりなかったと記憶しています)

昭和38年三月、大学を卒業し、四月篠原迪子と婚約し、翌年昭和39年東京オリンピックの年の4月に結婚しました。恋愛結婚がまだ珍しい時代で、周辺の方々にかなり冷やかされ記憶がありますし、親戚と友人、それと若干の会社幹部だけの式でしたので、結婚後も嫁さんを世話したいと言った話もあったくらい、大げさな結婚式をしなかったことがよかったかどうか・・・
迪子は直ぐ妊娠してしまい、大きなお腹のままで、東京オリンピックの時、偶然手にいれた水泳競技のチケットをもって、代々木のプールへ行ったこと、懐かしい思い出です。

この年は、炭平がセメントを扱って70周年でしたので、その記念事業として生コン工場を建設しようということになり、合併前の更北村(現在は長野市)に土地を求めて、創業しました。父はこの年をかなり意識していたようで、「昭和38年は、お前が大学を卒業する年だし、セメント販売70年になる、何か記念事業をやろう」と言っていたことを思い出しますが、残念ながらその記念事業は父が亡くなってからのことになりました。

その二年前の昭和36年に完成した長野市民会館(私の市長任期が終わる直前に取り壊したことはご存じの通りです)を会場として、竣工祝賀会行ったのですが、私の社長就任披露も兼ねていたような会で、八十二銀行の黒沢副頭取さんが祝辞を述べて下さったこと、覚えています。当時、大勢のお客様を前に、私がどんな式辞・挨拶をしたのか、残念ながら記憶にありません。モーニングを着て緊張していたことだけ、覚えています。

その後、長野市は昭和41年に周辺市町村と大合併をはたしました。当時は高度経済成長時代、商売の規模は毎年大きくなりました。
商売も、生コン以外の扱い商品の構成は、湿式建材から乾式建材の転換期になってどんどん変わってきました。当然仕入先メーカーも変わってきました。
まあ時代の変化を何とか読みとって、会社も発展したように思います。

2014年1月20日月曜日

徒然の記 №4 <父逝去>

父が戦地から帰還して、戦前の商売を復活。個人経営から株式会社組織に変更 
「炭平鷲澤本店鷲澤平六商店」という長い商号でスタートしました。父の考えは可能性のある字句はすべて使うほうが、真似される危険がないのだというようなことを言っていた記憶があります。
(私は、称号の中の「炭平」だけ残して、そのほかはその後何度か変更しました。会社に個人名を入れない方が良いと考えたからです)

セメントの商売を中心に、左官材料やタイル、石灰等などの商売を西之門の住まいに併設してはじめました。しばらくして、昭和20年代の末頃だったと思いますが、昭和通りの一角に土地を求めて店舗を構えました。
あの頃の昭和通りは、長野電鉄の踏切はありましたが、建物は何軒もなく、勿論市役所もなく(北陸銀行の建物がポツンとあったのが印象に残っています。記憶違いかもしれませんが?)だだっ広い通りでまばらに店や住宅が存在する、そんな時代でした。今では長野電鉄の地下化も含めて、まるで夢のような変化ですね。

父の商売の腕はどうだったのかについては、子供の私には正直よくわかりません。でもきわめて謹厳・実直な性格で、世間の信頼を集めていたことは事実でしょう。
「平六さんの息子」という肩書は、かなり重かったものと推測できます(私も父の死後同じような経験をしましたが)。

昭和20年代末期から30年代の早いころだったでしょうか、商売の仕組み、街の構造が変わりはじめ、商店街に大型店が進出する時代になり、商店街と大型店のフリクションが発生するようになりました。

昭和通りの四つ角(現在のみずほ銀行の場所)には父の昔からの友人達が丸善という大型店(今に比べれば小さな店舗でした)を出店しました。東急百貨店がその店舗を買収して、じきに駅前に進出、東急百貨店として長野の代表的なデパートに成長したことはご存じの通りです。

それらの大型店が出店するとき、特に権堂にあった丸光百貨店が昭和通りに進出するにあたっては(社長は松代出身の長沢太一氏)かなりの大型の計画だったのでしょう。地域社会の中で大きな議論が起きたようです。
長野商工会議所の議員だった父は、当時、多分まだ40歳前後だったとおもうのですが、商調協(正確な名前は?)の委員長に推されて、大型店と商店街や行政との調整役をやっていたことがありました。私の高校時代のことであまり記憶は定かではないのですが、随分苦労して悩んでいたことを思い出します。

その後、大型店と地域商店街の問題は、現在かなり沈静化していますが、賛成・反対の声は本質的には長く続いているような気がします。
食糧問題の観点から、県や関東農政局は農用地をこれ以上減らしたくないという考えで、常に規制的観点を維持しようする立場にあり、地価が安い、広い土地が確保できるが故に農用地へ出店したいという商業者との確執は、街づくりの観点から、現在でも大きなテーマになっています。
(ちょっと観点を変えますと、現在の長野はオリンピック開催の準備の時期に、本来、改廃出来ない農用地(青地)にスタジアムやオリンピック村のような膨大な施設を造る必要があった為、青地を可能な限り白地に変更して施設をつくってきました。その時、国の方針である、青地を減らさない方針を守るために、残った白地だった場所を、青地に変えて青地の面積を減らさないように努力していますから、国の規制上で言えば、今後農用地を宅地に変えて開発出来る、まとまった白地はかなり少なくなっているということです。
食糧確保の面、国土保全の面から国の規制はやむをえないとおもい、対応せざるをえなかったのでしょうが、農村人口が減ってきて、老齢化が進んでいる現在、TPP問題も絡んで、国や地方自治体は農用地と宅地のバランスについて、どんな政策を打ち出せばよいのか・・・国の規制の在り方と地方自治体の街づくりが問われている問題です)。

話は戻って、商調協の調整がどんな結論になったのかは知りませんが、丸善(のちに東急)も丸光も出店して、今の昭和通りの姿が形成され、街が発展してきたと思いますが・・・
私がびっくりするのは、父の40歳前後の話しで、そんな若僧に調整役を任せたという事実です。当時戦争で多くの方が亡くなったこともあるのでしょうが、街の顔役の方々は、現在より進歩的、あるいは若い者にやらせてみようという決断をする方々だったのかなあということです・・・

昭和30年代、日本は大きくかわりました。「もう戦後ではない」というキャッチフレースが生まれたのは此の頃でした。
昭和30年(1955年)、自由党と民主党が大合併して、自由民主党が誕生、いわゆる「55年体制」ができて、政治が安定し大きく発展する余地が生まれたのでしょう。

昭和35年、1960年安保の年、日米安全保障条約の改定をめぐって国会周辺は騒然としていました。東大生の樺美智子さんが国会前で圧死されたのもそんな時期でした。私も大学生で東京に住んでいましたので、いっぱし三宅坂でデモなどを経験しましたが、私たちのシュプレヒコールは聞こえたかどうかは疑問ですが「安保賛成、岸(首相)よ、やめろ!」ということで、岸首相の政権運営の強引さに抗議したものでした。デモにいくことが当然という当時の風潮に、ささやかな抵抗をしたことを覚えています。

当時ノンポリという言葉がはやりました。私などは、その典型だったと感じています・・・学生運動に熱中していた仲間からみれば、だらしない奴と思われていたでしょう。

時代は、戦後の混乱期を徐々に脱しはじめていたのも事実です。その象徴が1964年(昭和39年)の東京オリンピックでしょう。素晴らしい感動を日本人にもたらしてくれました。でも60年安保のあの大混乱から四年後の64年、東京オリンピック開催ですから、その間隔の短さにはいまさらながらびっくりしますよね。当時の準備状況や世界のオリンピックに対する意義づけについては、現在とは格段の差があったのでしょうが、不思議です。

その頃、父は病に臥せっていました。最初は視界が狭まる“視野狭窄症”という診断で、眼科のお医者さんに診てもらっていたのですがあまり効果がなく、段々意識が混濁してきて、うわ言を言うようになりました。ある日、私が猪苗代湖で行われていた大学のクラブの合宿から東京へ戻ってきましたら、父が上京していて、会社の支店の一室で寝ていたのにびっくりしました。

「脳腫瘍」という病気は、頭の中に“おでき”が出来るもので、あの時代では、あまりよくわからなかった病気だったのでしょう。
当時ベンケーシーというアメリカの脳外科の医師が活躍するシリーズ物のテレビ映画が放映されていて、私は夢中になってみた記憶があります。
脳内に“おでき”が出来ていて、視神経を圧迫してしまい、目が見えなくなってしまったようで、父はいろいろなお医者さんに見ていただき、また親戚中が集まって来てくれたりしたこともありました。みんなが心配してくれたのだと思います、

最後は東大病院で、当時、外来の医局長だった喜多村医師に執刀していただいて、開頭手術をしたのですが、昭和37年12月25日、48歳で帰らぬ人となりました。
今ならMRIなどという脳の中まで診断できる医療機器があり、早期に治療できるのでしょうが、当時は、脳を開けてみるまで本当のことはわからなかったようで、もうすこし早く医学が進歩していたら・・・今でも残念でたまりません。

父がもう少し元気でいてくれたら、せめて祖父の亡くなった年齢の58歳ぐらいまで元気でいてくれたら、会社経営も随分変わっただろうと思いますし、本人も祖父と同じような大きな社会貢献をし、重要な存在感を示しただろうし(父の死後、何人かの方に、平六さんには、いずれは商工会議所の会頭になってもらいたいと考えていた等の、御言葉を頂戴しました)、私も希望だったアメリカ留学も経験できたろうし・・・、そうなれば又違う道も開けてきたかもしれないと今は思っています。

ただ如何せん48歳の逝去、元気で活躍していたのは多分45歳未満でしたから、祖父のような活躍、功績、記録は一切無く、私も父の教えをあまり受けておりません。
ただ家の庭で、上半身裸になって熱心に竹刀を振っていたこと、私が東京の大学へ進学するとき「ネクタイ」の結び方を教えてもらったこと、たまに西洋軒や寿司屋、東京では浅草のすき焼きやなど、旨い外食に連れていってくれたこと、嬉しくて、懐かしい思い出です。

本人は長野商業時代に祖父(父)を亡くし、戦争にひっぱられて苦労し、九死に一生を得て帰国し、戦後の特別税だった財産税等に苦しめられながら、(税金を払うためでしょうが、何軒かの家作を手放したと聞いています)会社経営をはじめ、ようやく軌道に乗り始めた時の逝去ですからさぞかし残念だったろうし、私も可哀そうでなりませんし、申し訳ない思いで一杯です。

私はまだ早稲田大学の学生でした。親父の病気もあったため、東京支店の二階で寝起きし、東京と長野の間を往復したり、新しい仕事のことで視察に出かけたりしていまして、あまり勉強をしたという記憶はありませんでした。

2014年1月10日金曜日

徒然の記 №3 <親父のこと>

親父のこと

昭和4年の祖父の死後、息子・鷲澤文治は平六を襲名し、商家の後継者ですから、当然のごとく、長野商業から横浜高商へ進んでいます。当時の長野商業や横浜高商では、剣道を熱心にやったようです、長野商業の同窓生には、夏目幸一郎氏(長野商工会議所会頭)、加藤邦太郎氏(本久)、中村宗四郎氏(中小企業団体中央会会長)、北野建設・北野次登氏・・・・・当時は商家の後継者は長野商業で学ぶのが当然の時期でした。

母は市内の醸造業あいづやの娘で、左治木静子、宗編流のお茶の師匠でした。
昭和14年、両親は結婚し、私は昭和1511月8日に生まれました。

父は戦時中、金沢師団に召集されて出征。南洋のトラック島に進駐していました、(インターネットで調べると現在はチューク諸島ということで、カロリン諸島の島で248もの島々があり、現在ミクロネシア連邦のチューク州の州都で、主島はチューク岩礁でかつてはトラック諸島と呼ばれていた・・・、地理が複雑でよくわからないので、このメルマガではトラック島の名称で通させていただきます)

トラック島に出征する時、乗船していた多分日本軍の輸送船が、米軍の飛行機に爆撃されて撃沈、海に投げ出され泳いでいるところを日本の巡洋艦に拾われてトラック島に送られたとのこと、父から話を聞いていますが、大変な経験をしたものです。
その時軍刀を海に落としてしまって、家に新しいものを用意するように依頼があったのでしょうか、家の床の間に長いこと袋に入ったサーベル?のようなものが置いてあったのを記憶していますが、戦地に届いたことはなかったのではないかと思います・・・・…

輸送船が撃沈されたときのことですが、船の中で空襲警報が鳴ったそうで、父は船の端のトイレに入っていたので出られなくなりましたが、爆弾は船の中央に命中、偉い人は全員死亡、端のトイレに入っていた父は助かったという嘘みたいな話を聞きました。
戦争時、何が幸いするかわからないものと父は言っていたことがあります。

父が出征して残された家族は、不安があったのでしょうか、戦争が熾烈になってきて、多分西之門の家も危ないということだったのでしょう、二つあった土蔵の一つに大切なものをしまい込み、職人さんがきて入り口、窓等を左官用の小手で封じ込む作業をしていました。空襲で町が火事になった場合、土蔵はきちんと封じてあれば、中のものは無事に残るというようなことを聞いていました。

私は、通っていた本願寺長野別院の幼稚園を退園し、住んでいた西之門の家を他人に貸して(借りてもらって)、私たちは芋井村踏鞴(たたら)の小林常雄さん宅に疎開しました。小林さんは、我が家と同じ別院(正法寺)の檀家で、多分父が出征前に話をつけておいてくれたのでしょう、小林さん宅の奥の一室をお借りし、短い期間でしたが生活させていただきました。一緒に疎開したのは、祖母・志ん、母・静子、正一、伯母・上松さと、従兄弟の恭一、佑二、の6人でした。小林さん宅では私たち子供はあまり窮屈な思いはせず、小林家の子供さんや近所の子供さんたちと、短い期間でしたが、農耕馬に乗せてもらったり、遊んでもらったり、微かな記憶ですが楽しい思い出があります。

ただ一度だけ、多分長野市街地を攻撃する予定だったのかはわかりませんが、米軍の爆撃機が飛んできたとき、私は幼稚園生で白い前掛けをして小林さん宅の前庭で遊んでいたのですが、突然上空でバリバリという凄い音がして、びっくりして家の中に飛び込んだ記憶が鮮明に残っています。地上の白いものは飛行機からはよくわかるのだそうで、私の白い前掛けが原因ではないとはおもいますが・・・・・当時、街の中では白い壁は黒く塗るのが多分義務だったのでしょうか、西之門の家も白壁を煤で黒く塗っていました。

西之門から芋井村まで山道を何度か往復したことを思い出します。石ころだらけの道で、バスもありましたが、母は私を連れてよく歩き、西之門の家からいろいろな荷物を運び出して芋井村まで運んでいたこと、今になれば懐かしい思い出です。

終戦の時、よく聞こえないラジオの玉音放送で、戦争が終わったことを知りました、玉音放送はザーザーという雑音だけしか私にはわかりませんでしたが、祖母や母の話で戦争が終わったことは理解しました。
幸い、西之門の家が戦禍には合わなかったので、間もなく小林さん宅から西之門の家にもどりました、しばらくはお貸しした方の一家と、一緒に住んでいた記憶があります。

ただ、父親が戦地から帰ってきたのは、815日の終戦の日から数か月たってからだったと思います。連絡があったのでしょう、長野駅まで出迎えにいった母と一緒に、父が帰宅して、店のカウンターの向こうから笑顔を見せてくれたときは本当に嬉しかった、今でもはっきり覚えています。でも不思議なのですが抱きついた記憶が無いのです。

父はあまり細かくは私たちに話してはくれませんでしたが、戦争中、トラック島では、弾丸が飛び交うような戦いはほとんど無かったようですが、食料不足、水不足など、生活面では、かなり過酷な環境だったようです。島によっては激戦もあったようですが・・・・

終戦間際、米軍が動いている、トラック島方面に向かっているとの情報があって、衛生将校だった父親まで、地下壕に入り、自決用の手りゅう弾を配られて、決死の覚悟をしたとのことを聞かされたことがあります。

ところが明け方、米軍の艦隊がトラック島の沖合を通過して(戦力の無いトラック島は無視されて)、米軍艦隊は硫黄島に向かい、硫黄島の栗林中将(松代出身)の守備軍が全滅したことは、後に知った歴史の事実です。

前に書きましたが、輸送船でトラック島に向かっての航行中、硫黄島のそばを通過したそうですが、島影を見ながら「この辺に置いておいてくれればよいのになあ」なんて、船中で話をしていたそうで、そうなれば生きては帰れなかったでしょうから、人間の運なんてわからないものだ・・・・と親父は常々話していました。

よく考えてみれば、「歴史にIFはない」といわれますが、もしあの時、父がトラック島で玉砕していたら、あるいは輸送船が撃沈された時、海の藻屑になっていたら・・・・現在の私達がどうなったかは全く想像もできません。ただ父が無事に帰還できた幸運に、感謝するのみです。でも世間には、多くのご遺族がおられるわけで、なおのこと、偶然の幸運に、私は感謝せざるをえませんし、犠牲になった戦没者の英霊に頭を下げること、当然の気持ちです。

2014年1月6日月曜日

徒然の記 №2 <祖父のこと・親父のこと>

明けましておめでとうございます。昨年中はいろいろお世話になりました。
本年もよろしくお願いします。
今年、炭平は400年記念のお祭りをやらしていただきます。そのことについては後に述べさせていただきますが、そんな年ですから少々自慢話的になることもあるかもしれません。お許し下さい。
それでは年末お約束したメルマガを開始します。        

祖父のこと・親父のこと ①

私の父は、鷲澤平六、幼名・文治です。
父は、祖父鷲澤平六(幼名幸作)と祖母志んの長男として、大正三年9月15日、善光寺に近い西之門町に生まれました、祖母は市内小島の榎本家から鷲澤家に嫁に入りました。

炭平は“すみへい”と読みますが、これは重箱読みで辞典的には正しくない発音で、“すみひら”、または“たんぺい”と読むのが正しい読みでしょう。でも炭屋は江戸時代から続く商いを表し、平六は代々の襲名(祖父は14代)ですから、炭平全体で屋号なのです。
善光寺のおひざ元で、祖父の三代前から、薪炭・壁塗りの諸材料、その他、たどん、大福帳などの帳面類、蚕を飼うのに使う器具、などなど雑貨を扱う商店だったようです。
明治になって、どんな商売をやっていたのか、記録は残っていませんが、セメントと出会うまでは、だいたい同じような商売だったと推測しています。

碓井峠のトンネルが開いたのは明治26年ですが、その開通前に、祖父は、馬の背にセメント樽を積んで県内に初めてセメントを販売したということで、もって炭平のセメント商売の嚆矢になりました。
アサノセメント(現・太平洋セメント)の特約店として、セメントや石灰、豆炭、左官材料などを商いながら、炭平の営業に精をだしましたが、「鷲澤平六翁」の本によると、「信あり、義あり、真に天下の侠商であられたが故に、利益も成るべく多きを避けて、少なきに満足したから、勢い、巨富を積む訳にはゆかなかったのである」とあります。
今では考えられない考え方ですが・・・・・

長野商工会議所は明治33年の創立ですが、その別働隊的な存在として、明治42年に長野商工懇話会が設立され、理事長は小坂順造氏で、祖父はその組織の専務理事を務めていたようです。隔月の例会で商工業に関する講話、劇場を借り切って店員・徒弟の慰安会開催、芝居・奇術・落語・講談、郵便局現業員に対する歳末慰問品贈呈、などのほか、大正二年し尿ストライキの解決、大正13年には豆腐屋の争いの仲裁に務めるなど、懇話会は機動的に活動した組織だったとあります。
ある記録によると、鷲澤の懇話会か、懇話会の鷲澤かといった評もあったくらい、祖父は専務として尽力したようです。

えびす講の花火で毎年紹介されることですが、えびす講の花火は祖父が中心になって、懇話会が再興したとのこと、大正10年日本で初めて二尺玉を打ち上げたことで有名です。その時使用された二尺玉用の大筒は、初めて鋼鉄で作られたもので、春雷筒と名付けられ、いまでも長野市博物館に展示されています。製作費は祖父から出ていたようです。

長野商工懇話会から贈られた祖父の胸像の「贈呈の辞」を読むと、昭和17年のことですので、昭和4年の祖父の逝去から13年も経過しており、しかも太平洋戦争の最中、半公的団体である商工懇話会が、私人鷲澤に胸像を送って下さるという行為は、本当にありがたいことですが、いかに熱心に平六翁が社会活動に取り組んだかの証明でしょう。
平六翁の本は、あとでも出てきますが、祖父の死後一年後の昭和5年に、やはり懇話会の手で編纂されています。

平六翁の本で感心した部分を少し書かしていただきます。
一つは、花火に対する見識です。
「東京から、名題の大芝居を招いて、見物するとしても、ざっと、一日に3千円位な金を使い果たしてしまうが、しかも見物人の数は、七八百か、精々千人が止まりじゃねえか、随分高いものだ。それに比べると、煙火の金は三四千円程度で、十何万という人に、貧富老幼の差別なく、顔を外へ差し伸べれば、無造作にみせられるんだから、世の中に、こんな安いものはあるまい」

もう一つは、城山公園の市営球場(今はきれいな公園になっています)建設にあたって、地権者の中でどうしても土地買収に応じない人を説得した話です。相当強引な説得だったようで、今なら訴訟ものでしょう。
その他、本の中には数えきれないほどの逸話が、若干の奇行的な行動も含めて記述されています。つたない文章で十分意を伝えることはできませんが、個人や店の利益ではなく、社会全体の利害を常に考えていたということで、我が家の誇りです。
祖父のことをあまり称揚するのはいかがかとも思いましたが、今では考えられないほどの武士道精神が宿っていたように思い、敢て紹介させていただきました。

そんな祖父は昭和4年に58歳で亡くなりました、当時商工懇話会の編集で編まれた「鷲澤平六翁」の本は、昭和5年に編纂されたもので、その中で“翁”と書かれていますから、昔の人は老けてみえたのですね。この本、今でも古本屋には時々あるようで、先日炭平の管理部で探したら、ある本屋にあって購入してきましたが、8千円だったそうです(当時は、非売品ですから・・・・)

今回は祖父のことで終わってしまいました。次は親父のことを書きます。戦地でのことなどがあって、結興味深いと思います。