社長就任・別院総代・商売継続・小出弘氏・セメント70周年・生コン工場建設
話は前後しますが、昭和38年1月、私は炭平鷲澤本店の社長に就任(入社は37年4月でした)しました。不安が無かったと言えば嘘でしょうが、家族だけでなく、30人以上の従業員とその家族の生活がかかっている。しっかりしなくてはと感じていたことは事実です。前から多少なりとも会社に興味を持ち、手伝っていたことはよかったなあと後で感じました。
一月、親父の葬儀が済んだ直後、本願寺長野別院から呼び出しがかかり、いきなりお寺の責任役員・参与に就任ということになりました。別院の広間での参与会だったとおもうのですが、中央に座られた袴姿のご老人 倉石十七郎氏が一声「今、皆で相談したら、後任は貴方に決まった。後はうまくやりなさい。」とのこと、学生服姿の私は何もわからないままに、お寺の責任役員・参与ということになってしまいました。
後で京都の本山から正式の任命書をもらったはずですが、祖父や父が死ぬまでやっていた役職ということで、学生の身分なのに有無を言わせぬ任命で、まったく訳がわかりませんでした。でも、その後現在まで務めさせていただいています。
昭和38年4月、篠原迪子と婚約、一年後の39年に結婚しました。迪子とは大学時代からの付き合いで、父も入院中、病院で会っていました。
炭平という会社の経営ですが、同族会社・中小企業の炭平にとって、一番大きな宝ものは番頭さん達というのが私の偽らざる気持ちでした。当時の支配人をはじめ幹部社員は、息子(小生のこと)を何とかしなくては、炭平が、あるいは自分たちの生活も、もたないと感じたのでしょうか、一致して社業に励んでくれました。
仕入先である日本セメント(旧浅野セメント・現在は太平洋セメント)や吉野石膏をはじめ、仕入先との取引契約は維持され、お得意先との関係も古い番頭さん達の努力で、きちんと営業は継続されました。このことは私が現在ある一番の原点だったと思います。
銀行取引では日本勧業銀行長野支店がメインでした。支店長は小出弘さんでした。(私の会社経営における第一の恩人)小出さんは八十二銀行頭取の小出隆氏の弟さんで、弘氏は日本勧業銀行を定年退職するにあたって、私を八十二銀行に紹介していただいたことがきっかけで、八十二銀行との本格的な取引がはじまり、徐々に比重が高まり、現在では八十二銀行が当社のメイン銀行になりました。
小出弘さんには、私の大学卒業直後、長野県のことを勉強しなさいというお気持ちだったのでしょう・・・松本から諏訪方面へ、又東信地方まで、私を連れて世間を案内していただきました。二人で旅行しながら、途中いろいろなことを教えていただきました。地域経済社会の人脈、銀行取引のこと、商売の在り方など、言葉には言い表せないくらい教えていただきました。人間の生き方のようなこともあったように思います。
その後も盆・暮れはもちろん、新しい商売をはじめるときなど、稲荷山のお宅や会社の社長室(当時昭和倉庫・現在は昭和建物)へ、常にご相談に伺いお教えをいただきましたこと、本当にありがたいことでした。
私の家族のことですが、年の離れた弟は7歳違いの15歳、妹とは13歳違いの9歳、母はダブルことなく城山小学校のPTAの会員として通っていました。勿論私の親としても通っていましたから都合18年間、加えて母自身も多分通ったはずですから・・・・・・
母の城山小との付き合いは、本当に長くて“まるで城山の主みたいだね”と笑っていましたが・・・。私の城山小学校での6年間、隣接する蔵春閣も臨時校舎として使っていましたが、その間に放火等もあって火事が三回ありました。木造校舎の弱点ですよね。(柳原市長さんが登場して、昭和50年代、校舎を全て耐火構造に造り変えたお陰で、学校火災はほとんどなくなりましたが、反面校舎の趣が無くなったことは事実です。昭和56年に耐震法が改正されたため、それ以前の建物は、いずれ立て直さなくてはならなくなったのは誤算だったかどうか・・・)
家庭裁判所で財産の相続手続きを行ったのですが、未成年の二人には、伯父さん達に後見人になってもらう手続きをして、無事相続ができました。そのほか父親代わりの仕事がいくつかありました。特に妹の小学校時代、学校の参観日に出かけたことが記憶に残っています。約15年後、妹が嫁に行った時の結婚式で、これで親父代行の仕事が終わったなあと初めて実感しました。
弟・妹への財産分与も行いましたが、何といっても相続税の重荷が、まだ若い経営者の私を悩ませたことは事実でした。(売却処分することが出来ない自分の会社の株式の評価額が大きく、これが一番大きな財産ではあったのですが・・・お金はあまりなかったと記憶しています)
昭和38年三月、大学を卒業し、四月篠原迪子と婚約し、翌年昭和39年東京オリンピックの年の4月に結婚しました。恋愛結婚がまだ珍しい時代で、周辺の方々にかなり冷やかされ記憶がありますし、親戚と友人、それと若干の会社幹部だけの式でしたので、結婚後も嫁さんを世話したいと言った話もあったくらい、大げさな結婚式をしなかったことがよかったかどうか・・・
迪子は直ぐ妊娠してしまい、大きなお腹のままで、東京オリンピックの時、偶然手にいれた水泳競技のチケットをもって、代々木のプールへ行ったこと、懐かしい思い出です。
この年は、炭平がセメントを扱って70周年でしたので、その記念事業として生コン工場を建設しようということになり、合併前の更北村(現在は長野市)に土地を求めて、創業しました。父はこの年をかなり意識していたようで、「昭和38年は、お前が大学を卒業する年だし、セメント販売70年になる、何か記念事業をやろう」と言っていたことを思い出しますが、残念ながらその記念事業は父が亡くなってからのことになりました。
その二年前の昭和36年に完成した長野市民会館(私の市長任期が終わる直前に取り壊したことはご存じの通りです)を会場として、竣工祝賀会行ったのですが、私の社長就任披露も兼ねていたような会で、八十二銀行の黒沢副頭取さんが祝辞を述べて下さったこと、覚えています。当時、大勢のお客様を前に、私がどんな式辞・挨拶をしたのか、残念ながら記憶にありません。モーニングを着て緊張していたことだけ、覚えています。
その後、長野市は昭和41年に周辺市町村と大合併をはたしました。当時は高度経済成長時代、商売の規模は毎年大きくなりました。
商売も、生コン以外の扱い商品の構成は、湿式建材から乾式建材の転換期になってどんどん変わってきました。当然仕入先メーカーも変わってきました。
まあ時代の変化を何とか読みとって、会社も発展したように思います。