明けましておめでとうございます。昨年中はいろいろお世話になりました。
本年もよろしくお願いします。
今年、炭平は400年記念のお祭りをやらしていただきます。そのことについては後に述べさせていただきますが、そんな年ですから少々自慢話的になることもあるかもしれません。お許し下さい。
それでは年末お約束したメルマガを開始します。
祖父のこと・親父のこと ①
私の父は、鷲澤平六、幼名・文治です。
父は、祖父鷲澤平六(幼名幸作)と祖母志んの長男として、大正三年9月15日、善光寺に近い西之門町に生まれました、祖母は市内小島の榎本家から鷲澤家に嫁に入りました。
炭平は“すみへい”と読みますが、これは重箱読みで辞典的には正しくない発音で、“すみひら”、または“たんぺい”と読むのが正しい読みでしょう。でも炭屋は江戸時代から続く商いを表し、平六は代々の襲名(祖父は14代)ですから、炭平全体で屋号なのです。
善光寺のおひざ元で、祖父の三代前から、薪炭・壁塗りの諸材料、その他、たどん、大福帳などの帳面類、蚕を飼うのに使う器具、などなど雑貨を扱う商店だったようです。
明治になって、どんな商売をやっていたのか、記録は残っていませんが、セメントと出会うまでは、だいたい同じような商売だったと推測しています。
碓井峠のトンネルが開いたのは明治26年ですが、その開通前に、祖父は、馬の背にセメント樽を積んで県内に初めてセメントを販売したということで、もって炭平のセメント商売の嚆矢になりました。
アサノセメント(現・太平洋セメント)の特約店として、セメントや石灰、豆炭、左官材料などを商いながら、炭平の営業に精をだしましたが、「鷲澤平六翁」の本によると、「信あり、義あり、真に天下の侠商であられたが故に、利益も成るべく多きを避けて、少なきに満足したから、勢い、巨富を積む訳にはゆかなかったのである」とあります。
今では考えられない考え方ですが・・・・・
長野商工会議所は明治33年の創立ですが、その別働隊的な存在として、明治42年に長野商工懇話会が設立され、理事長は小坂順造氏で、祖父はその組織の専務理事を務めていたようです。隔月の例会で商工業に関する講話、劇場を借り切って店員・徒弟の慰安会開催、芝居・奇術・落語・講談、郵便局現業員に対する歳末慰問品贈呈、などのほか、大正二年し尿ストライキの解決、大正13年には豆腐屋の争いの仲裁に務めるなど、懇話会は機動的に活動した組織だったとあります。
ある記録によると、鷲澤の懇話会か、懇話会の鷲澤かといった評もあったくらい、祖父は専務として尽力したようです。
えびす講の花火で毎年紹介されることですが、えびす講の花火は祖父が中心になって、懇話会が再興したとのこと、大正10年日本で初めて二尺玉を打ち上げたことで有名です。その時使用された二尺玉用の大筒は、初めて鋼鉄で作られたもので、春雷筒と名付けられ、いまでも長野市博物館に展示されています。製作費は祖父から出ていたようです。
長野商工懇話会から贈られた祖父の胸像の「贈呈の辞」を読むと、昭和17年のことですので、昭和4年の祖父の逝去から13年も経過しており、しかも太平洋戦争の最中、半公的団体である商工懇話会が、私人鷲澤に胸像を送って下さるという行為は、本当にありがたいことですが、いかに熱心に平六翁が社会活動に取り組んだかの証明でしょう。
平六翁の本は、あとでも出てきますが、祖父の死後一年後の昭和5年に、やはり懇話会の手で編纂されています。
平六翁の本で感心した部分を少し書かしていただきます。
一つは、花火に対する見識です。
「東京から、名題の大芝居を招いて、見物するとしても、ざっと、一日に3千円位な金を使い果たしてしまうが、しかも見物人の数は、七八百か、精々千人が止まりじゃねえか、随分高いものだ。それに比べると、煙火の金は三四千円程度で、十何万という人に、貧富老幼の差別なく、顔を外へ差し伸べれば、無造作にみせられるんだから、世の中に、こんな安いものはあるまい」
もう一つは、城山公園の市営球場(今はきれいな公園になっています)建設にあたって、地権者の中でどうしても土地買収に応じない人を説得した話です。相当強引な説得だったようで、今なら訴訟ものでしょう。
その他、本の中には数えきれないほどの逸話が、若干の奇行的な行動も含めて記述されています。つたない文章で十分意を伝えることはできませんが、個人や店の利益ではなく、社会全体の利害を常に考えていたということで、我が家の誇りです。
祖父のことをあまり称揚するのはいかがかとも思いましたが、今では考えられないほどの武士道精神が宿っていたように思い、敢て紹介させていただきました。
そんな祖父は昭和4年に58歳で亡くなりました、当時商工懇話会の編集で編まれた「鷲澤平六翁」の本は、昭和5年に編纂されたもので、その中で“翁”と書かれていますから、昔の人は老けてみえたのですね。この本、今でも古本屋には時々あるようで、先日炭平の管理部で探したら、ある本屋にあって購入してきましたが、8千円だったそうです(当時は、非売品ですから・・・・)
今回は祖父のことで終わってしまいました。次は親父のことを書きます。戦地でのことなどがあって、結興味深いと思います。