2014年1月10日金曜日

徒然の記 №3 <親父のこと>

親父のこと

昭和4年の祖父の死後、息子・鷲澤文治は平六を襲名し、商家の後継者ですから、当然のごとく、長野商業から横浜高商へ進んでいます。当時の長野商業や横浜高商では、剣道を熱心にやったようです、長野商業の同窓生には、夏目幸一郎氏(長野商工会議所会頭)、加藤邦太郎氏(本久)、中村宗四郎氏(中小企業団体中央会会長)、北野建設・北野次登氏・・・・・当時は商家の後継者は長野商業で学ぶのが当然の時期でした。

母は市内の醸造業あいづやの娘で、左治木静子、宗編流のお茶の師匠でした。
昭和14年、両親は結婚し、私は昭和1511月8日に生まれました。

父は戦時中、金沢師団に召集されて出征。南洋のトラック島に進駐していました、(インターネットで調べると現在はチューク諸島ということで、カロリン諸島の島で248もの島々があり、現在ミクロネシア連邦のチューク州の州都で、主島はチューク岩礁でかつてはトラック諸島と呼ばれていた・・・、地理が複雑でよくわからないので、このメルマガではトラック島の名称で通させていただきます)

トラック島に出征する時、乗船していた多分日本軍の輸送船が、米軍の飛行機に爆撃されて撃沈、海に投げ出され泳いでいるところを日本の巡洋艦に拾われてトラック島に送られたとのこと、父から話を聞いていますが、大変な経験をしたものです。
その時軍刀を海に落としてしまって、家に新しいものを用意するように依頼があったのでしょうか、家の床の間に長いこと袋に入ったサーベル?のようなものが置いてあったのを記憶していますが、戦地に届いたことはなかったのではないかと思います・・・・…

輸送船が撃沈されたときのことですが、船の中で空襲警報が鳴ったそうで、父は船の端のトイレに入っていたので出られなくなりましたが、爆弾は船の中央に命中、偉い人は全員死亡、端のトイレに入っていた父は助かったという嘘みたいな話を聞きました。
戦争時、何が幸いするかわからないものと父は言っていたことがあります。

父が出征して残された家族は、不安があったのでしょうか、戦争が熾烈になってきて、多分西之門の家も危ないということだったのでしょう、二つあった土蔵の一つに大切なものをしまい込み、職人さんがきて入り口、窓等を左官用の小手で封じ込む作業をしていました。空襲で町が火事になった場合、土蔵はきちんと封じてあれば、中のものは無事に残るというようなことを聞いていました。

私は、通っていた本願寺長野別院の幼稚園を退園し、住んでいた西之門の家を他人に貸して(借りてもらって)、私たちは芋井村踏鞴(たたら)の小林常雄さん宅に疎開しました。小林さんは、我が家と同じ別院(正法寺)の檀家で、多分父が出征前に話をつけておいてくれたのでしょう、小林さん宅の奥の一室をお借りし、短い期間でしたが生活させていただきました。一緒に疎開したのは、祖母・志ん、母・静子、正一、伯母・上松さと、従兄弟の恭一、佑二、の6人でした。小林さん宅では私たち子供はあまり窮屈な思いはせず、小林家の子供さんや近所の子供さんたちと、短い期間でしたが、農耕馬に乗せてもらったり、遊んでもらったり、微かな記憶ですが楽しい思い出があります。

ただ一度だけ、多分長野市街地を攻撃する予定だったのかはわかりませんが、米軍の爆撃機が飛んできたとき、私は幼稚園生で白い前掛けをして小林さん宅の前庭で遊んでいたのですが、突然上空でバリバリという凄い音がして、びっくりして家の中に飛び込んだ記憶が鮮明に残っています。地上の白いものは飛行機からはよくわかるのだそうで、私の白い前掛けが原因ではないとはおもいますが・・・・・当時、街の中では白い壁は黒く塗るのが多分義務だったのでしょうか、西之門の家も白壁を煤で黒く塗っていました。

西之門から芋井村まで山道を何度か往復したことを思い出します。石ころだらけの道で、バスもありましたが、母は私を連れてよく歩き、西之門の家からいろいろな荷物を運び出して芋井村まで運んでいたこと、今になれば懐かしい思い出です。

終戦の時、よく聞こえないラジオの玉音放送で、戦争が終わったことを知りました、玉音放送はザーザーという雑音だけしか私にはわかりませんでしたが、祖母や母の話で戦争が終わったことは理解しました。
幸い、西之門の家が戦禍には合わなかったので、間もなく小林さん宅から西之門の家にもどりました、しばらくはお貸しした方の一家と、一緒に住んでいた記憶があります。

ただ、父親が戦地から帰ってきたのは、815日の終戦の日から数か月たってからだったと思います。連絡があったのでしょう、長野駅まで出迎えにいった母と一緒に、父が帰宅して、店のカウンターの向こうから笑顔を見せてくれたときは本当に嬉しかった、今でもはっきり覚えています。でも不思議なのですが抱きついた記憶が無いのです。

父はあまり細かくは私たちに話してはくれませんでしたが、戦争中、トラック島では、弾丸が飛び交うような戦いはほとんど無かったようですが、食料不足、水不足など、生活面では、かなり過酷な環境だったようです。島によっては激戦もあったようですが・・・・

終戦間際、米軍が動いている、トラック島方面に向かっているとの情報があって、衛生将校だった父親まで、地下壕に入り、自決用の手りゅう弾を配られて、決死の覚悟をしたとのことを聞かされたことがあります。

ところが明け方、米軍の艦隊がトラック島の沖合を通過して(戦力の無いトラック島は無視されて)、米軍艦隊は硫黄島に向かい、硫黄島の栗林中将(松代出身)の守備軍が全滅したことは、後に知った歴史の事実です。

前に書きましたが、輸送船でトラック島に向かっての航行中、硫黄島のそばを通過したそうですが、島影を見ながら「この辺に置いておいてくれればよいのになあ」なんて、船中で話をしていたそうで、そうなれば生きては帰れなかったでしょうから、人間の運なんてわからないものだ・・・・と親父は常々話していました。

よく考えてみれば、「歴史にIFはない」といわれますが、もしあの時、父がトラック島で玉砕していたら、あるいは輸送船が撃沈された時、海の藻屑になっていたら・・・・現在の私達がどうなったかは全く想像もできません。ただ父が無事に帰還できた幸運に、感謝するのみです。でも世間には、多くのご遺族がおられるわけで、なおのこと、偶然の幸運に、私は感謝せざるをえませんし、犠牲になった戦没者の英霊に頭を下げること、当然の気持ちです。