2014年1月31日金曜日

徒然の記 №6 <商売のこと>

商売のこと(生コンのこと)

我が家の家業はセメントを中心とした建材業でした。
セメントの販売については県内では明治26年からということ、既に書かしていただきました。
戦前はまだ業者数も少なくセメント輸送も袋ですから、国鉄の貨物が輸送の中心で長野駅の側線や長電権堂駅の側線を倉庫代わりさせてもらって商売をやっていました。戦時中は統制品に指定されて自由な商売は出来なかったようすが、重量製品ですから輸送は常に重要問題だったと思います。

戦後は統制が外れて自由競争になり、当然とことながら胡坐をかいた商売は成り立たなくなり、販売だけでなく、セメントメーカーも、化学会社を中心に沢山セメント業界に進出してきたため、競争は激化、難しい時代になりました。
当時“3白景気”と言われ、“砂糖”・“肥料”・“セメント”は、日本の主力産業だったようで、製造会社は大変な利益を上げていました。親父が新聞を見ながら、セメントメーカーはたいしたものだ。日銀につぐ利益をあげている・・・と言っていたのを記憶しています。その後、三種の神器なんて家電中心、あるいは車や洗濯機中心の景気が生まれて、三白景気なんてどこかに吹っ飛んでしまいましたが・・・

そんな中で生コン業が出現しました。長野県では、東京オリンピック前後からのことだったと思います。セメント業界(特に販売店業界)とすれば袋物のセメント販売が主流だったのに、(売り先は左官屋さんが主でした)生コンという全く別の形態が始まったわけで、新しい分野への進出が重要事項になってきました。

私は学生時代、病院で寝ていた父から命じられて静岡県の生コン事情を調査に行ったことがあります。当時、静岡は東海道新幹線の工事中ということで、生コン重要が大変多く、アジテーターが街の中を走り回っていました。長野県内にはまだありませんでしたが、東海道沿線は生コン工場が林立している状況でした。
静岡で、生コン業界の実情、生コンプラントのメーカーなどについて、父の懇意にしていた販売店のご主人から教えていただき参考になりました。いずれは長野県にも生コンの波が来ると感じながら、帰って病床の父に報告しました。

実際に私が生コン工場を創設したのは、昭和38年、父親の死の翌年で、炭平のセメント販売70周年の記念行事と銘打ってはじめました。
父親が死んだとき、銀行の方が来て「炭平はどうしようもないボロ会社ではないのだから、直ちに新しい事業を行うことは自粛された方が良いでしょう」と代替わり早々の私に、暗に生コン進出をあきらめるようにといった感じの話がありました。ボロ会社なら一世一代の大博打をやっても良いということなのか疑問を感じました。当時の中小企業にとって、ファンドとか増資という手段はありませんでした。銀行からの借金が唯一の資本増強の手段でしたから、銀行の意向はかなり大きかったと感じていました。

銀行とすれば無理のない話なのかなあとも思いましたが、私はあきらめず中小企業金融公庫から資金を借りて、予定よりちょっと遅れましたが生コン事業に進出しました。当時の私とすれば、かなり思い切った投資でしたがお陰さまで順調に発展しました。

その後中央高速道の工事が発注されると言うことで、山梨県にも工場を造り、さらに松本・長野間の工事が出たときは、筑北に生コン工場を造りましたし、大北地区や軽井沢方面にも生コン工場を広げました。

生コン車(アジテーター)の台数は、出荷能力に直接響きますので増える一方でした。
又バラセメントのタンクローリーも、袋セメントの解体(当時セメント袋を破いて、使っていました)は埃にまみれた重労働でしたので、その解消のため導入し、糸魚川や埼玉など、遠隔地のセメントメーカーの工場から長い距離を走って、バラセメントの購入をはじめました。(現在は、セメントメーカーの地域サイロが整備され、遠距離輸送はやらなくても済むようになりました)。その過程で、企業買収をしたり、倒産会社を買い取ったり、骨材工場を建設したり、買収したり・・・炭平の主たる事業に成長しました。

ただ生コン工場というのは他の製造業に比べ、イニシアルの設備投資はあまり大きくなく、テクニカル・ノウハウというものもあまりない(セメント・骨材・水を混ぜれば一応固まる)、小資本でも創業出来るため、どうしても乱立気味になり、安値競争におちいる危険性が高かったのです。しかも生コンクリートの品質は、素人が見ただけではわからない。コンクリート打設後、4週間・28日経過しないと強度が出ているかどうかの答えが出せないという特殊商品であるが故に、安売りを続けると必ず無理が生じてしまうということで、安定化、適正価格の維持が一番重要と考え、話し合いによって業界の安定をはかることを常に考えていました。(現在は私の時代とは違い、新しい技術がどんどん入ってきているのだそうです)
 
そこで、独占禁止法の除外団体である生コン事業協同組合を結成、さらに事業組合連合会、工業組合等を結成し、業界秩序を打ち立てるよう努力をしましたが、そうなると独占禁止法とのからみでいろいろ難しい問題がでてきたことは事実です。
さらに生コン業界には、セメント屋・砂利屋・運送屋・建設会社など、あらゆる業種が参入してきましたし、なかには乱暴な人達もいて、なかなか纏まりがつかないのが実態でした。

一社でも組合に非協力的な会社があると、なかなか価格が上がらずみんなが苦労してしまう、話し合いも独占禁止法すれすれの行為をやらざるを得ないこともあって・・・事業協同組合という自由加入・自由脱退が原則の組合組織には、馴染まない部分があるなあといつも思っていました。
最近は、企業合同などの方向に向かっているように聞いていますが・・・せっかく合同しても、また新設工場ができるということも考えられ難しい業界です。

それぞれの組織の理事長等をさせていただきましたが、ただ業界活動は、直接利害に関連するものですから、いままで述べた通りいろいろ難しい場面がありました。
生コン事業協同組合のことで、国の公正取引委員会に理事長の私が呼び出されたこともありました。調査の結果、上申書を提出することで罪にはなりませんでしたが、気持ちのよいものではありませんでした・・・まあ良い経験を積んだと思うことにしています。

生コン事業以外の商売では、昭和40年代セメント中心の湿式建材から、簡単で早期施工が出来る乾式建材の時代になってきました。
湿式建材とは水を使う建材(セメントは勿論その代表格)で、主として左官屋さんが使うものですが、施工後乾かないと次の工程にすすめない、どうしても時間がかかるのです。それと左官屋の職人さんが小手を使って、丁寧に、凹凸ないように作業をするのですが、どうしても上手・下手がわかってしまう。すなわち全て均一の仕事をするのはむずかしい工法でした。そこへいくと乾式工法は、板を釘で打ち付たり、糊で貼りつけるといった簡単な工法が多く、出来上がりも、勿論上手・下手はあるでしょうが、比較的楽に均一性が保てるということでしょう。
この工法が盛んになるに連れて、重みのある重厚な建物には今でも湿式建材は使われていますが、ほとんどが乾式工法に変わりました。今私たちのまわり、特に個人の家屋では、左官屋さんがやる仕事は極めてわずかになってしまいました。左官業は衰退し、タイル屋さん、塗装屋さん、あるいは全然違う業種に転業されてしまいました。

お客様の流れも変わり商売の仕方も変わりました。そのことは湿式建材に強みを持っていた炭平の商法も絶対ではなくなったことを意味し、少しずつ業様の転換を強いられました。同業者も今までとは違うわけで、競争は熾烈を極めたということです。 OJT(オン・ザ・ジョブ・トレイニング)等で社員教育をしながら、新しいお客、新しい仕入れ先の開拓に力を注ぐ必要があったのです。

ただ建設業界は、高度経済成長の時代で、全体としては右肩上がりで発展していました。発展する業界は当然参入社も多いわけで、競争が激しいことは当然です。増大する需要に対応するためどんどん設備投資が行われ、人も増えて、大きな業界に発展していきました。その流れに乗って我々の材料業界も大きくなり、当社とすれば事業転換はまずまずうまく出来たように思います。一番大変だったのは、社員教育だったかなあと今感じています。