父が戦地から帰還して、戦前の商売を復活。個人経営から株式会社組織に変更
「炭平鷲澤本店鷲澤平六商店」という長い商号でスタートしました。父の考えは可能性のある字句はすべて使うほうが、真似される危険がないのだというようなことを言っていた記憶があります。
(私は、称号の中の「炭平」だけ残して、そのほかはその後何度か変更しました。会社に個人名を入れない方が良いと考えたからです)
セメントの商売を中心に、左官材料やタイル、石灰等などの商売を西之門の住まいに併設してはじめました。しばらくして、昭和20年代の末頃だったと思いますが、昭和通りの一角に土地を求めて店舗を構えました。
あの頃の昭和通りは、長野電鉄の踏切はありましたが、建物は何軒もなく、勿論市役所もなく(北陸銀行の建物がポツンとあったのが印象に残っています。記憶違いかもしれませんが?)だだっ広い通りでまばらに店や住宅が存在する、そんな時代でした。今では長野電鉄の地下化も含めて、まるで夢のような変化ですね。
父の商売の腕はどうだったのかについては、子供の私には正直よくわかりません。でもきわめて謹厳・実直な性格で、世間の信頼を集めていたことは事実でしょう。
「平六さんの息子」という肩書は、かなり重かったものと推測できます(私も父の死後同じような経験をしましたが)。
昭和20年代末期から30年代の早いころだったでしょうか、商売の仕組み、街の構造が変わりはじめ、商店街に大型店が進出する時代になり、商店街と大型店のフリクションが発生するようになりました。
昭和通りの四つ角(現在のみずほ銀行の場所)には父の昔からの友人達が丸善という大型店(今に比べれば小さな店舗でした)を出店しました。東急百貨店がその店舗を買収して、じきに駅前に進出、東急百貨店として長野の代表的なデパートに成長したことはご存じの通りです。
それらの大型店が出店するとき、特に権堂にあった丸光百貨店が昭和通りに進出するにあたっては(社長は松代出身の長沢太一氏)かなりの大型の計画だったのでしょう。地域社会の中で大きな議論が起きたようです。
長野商工会議所の議員だった父は、当時、多分まだ40歳前後だったとおもうのですが、商調協(正確な名前は?)の委員長に推されて、大型店と商店街や行政との調整役をやっていたことがありました。私の高校時代のことであまり記憶は定かではないのですが、随分苦労して悩んでいたことを思い出します。
その後、大型店と地域商店街の問題は、現在かなり沈静化していますが、賛成・反対の声は本質的には長く続いているような気がします。
食糧問題の観点から、県や関東農政局は農用地をこれ以上減らしたくないという考えで、常に規制的観点を維持しようする立場にあり、地価が安い、広い土地が確保できるが故に農用地へ出店したいという商業者との確執は、街づくりの観点から、現在でも大きなテーマになっています。
(ちょっと観点を変えますと、現在の長野はオリンピック開催の準備の時期に、本来、改廃出来ない農用地(青地)にスタジアムやオリンピック村のような膨大な施設を造る必要があった為、青地を可能な限り白地に変更して施設をつくってきました。その時、国の方針である、青地を減らさない方針を守るために、残った白地だった場所を、青地に変えて青地の面積を減らさないように努力していますから、国の規制上で言えば、今後農用地を宅地に変えて開発出来る、まとまった白地はかなり少なくなっているということです。
食糧確保の面、国土保全の面から国の規制はやむをえないとおもい、対応せざるをえなかったのでしょうが、農村人口が減ってきて、老齢化が進んでいる現在、TPP問題も絡んで、国や地方自治体は農用地と宅地のバランスについて、どんな政策を打ち出せばよいのか・・・国の規制の在り方と地方自治体の街づくりが問われている問題です)。
話は戻って、商調協の調整がどんな結論になったのかは知りませんが、丸善(のちに東急)も丸光も出店して、今の昭和通りの姿が形成され、街が発展してきたと思いますが・・・
私がびっくりするのは、父の40歳前後の話しで、そんな若僧に調整役を任せたという事実です。当時戦争で多くの方が亡くなったこともあるのでしょうが、街の顔役の方々は、現在より進歩的、あるいは若い者にやらせてみようという決断をする方々だったのかなあということです・・・
昭和30年代、日本は大きくかわりました。「もう戦後ではない」というキャッチフレースが生まれたのは此の頃でした。
昭和30年(1955年)、自由党と民主党が大合併して、自由民主党が誕生、いわゆる「55年体制」ができて、政治が安定し大きく発展する余地が生まれたのでしょう。
昭和35年、1960年安保の年、日米安全保障条約の改定をめぐって国会周辺は騒然としていました。東大生の樺美智子さんが国会前で圧死されたのもそんな時期でした。私も大学生で東京に住んでいましたので、いっぱし三宅坂でデモなどを経験しましたが、私たちのシュプレヒコールは聞こえたかどうかは疑問ですが「安保賛成、岸(首相)よ、やめろ!」ということで、岸首相の政権運営の強引さに抗議したものでした。デモにいくことが当然という当時の風潮に、ささやかな抵抗をしたことを覚えています。
当時ノンポリという言葉がはやりました。私などは、その典型だったと感じています・・・学生運動に熱中していた仲間からみれば、だらしない奴と思われていたでしょう。
時代は、戦後の混乱期を徐々に脱しはじめていたのも事実です。その象徴が1964年(昭和39年)の東京オリンピックでしょう。素晴らしい感動を日本人にもたらしてくれました。でも60年安保のあの大混乱から四年後の64年、東京オリンピック開催ですから、その間隔の短さにはいまさらながらびっくりしますよね。当時の準備状況や世界のオリンピックに対する意義づけについては、現在とは格段の差があったのでしょうが、不思議です。
その頃、父は病に臥せっていました。最初は視界が狭まる“視野狭窄症”という診断で、眼科のお医者さんに診てもらっていたのですがあまり効果がなく、段々意識が混濁してきて、うわ言を言うようになりました。ある日、私が猪苗代湖で行われていた大学のクラブの合宿から東京へ戻ってきましたら、父が上京していて、会社の支店の一室で寝ていたのにびっくりしました。
「脳腫瘍」という病気は、頭の中に“おでき”が出来るもので、あの時代では、あまりよくわからなかった病気だったのでしょう。
当時ベンケーシーというアメリカの脳外科の医師が活躍するシリーズ物のテレビ映画が放映されていて、私は夢中になってみた記憶があります。
脳内に“おでき”が出来ていて、視神経を圧迫してしまい、目が見えなくなってしまったようで、父はいろいろなお医者さんに見ていただき、また親戚中が集まって来てくれたりしたこともありました。みんなが心配してくれたのだと思います、
最後は東大病院で、当時、外来の医局長だった喜多村医師に執刀していただいて、開頭手術をしたのですが、昭和37年12月25日、48歳で帰らぬ人となりました。
今ならMRIなどという脳の中まで診断できる医療機器があり、早期に治療できるのでしょうが、当時は、脳を開けてみるまで本当のことはわからなかったようで、もうすこし早く医学が進歩していたら・・・今でも残念でたまりません。
父がもう少し元気でいてくれたら、せめて祖父の亡くなった年齢の58歳ぐらいまで元気でいてくれたら、会社経営も随分変わっただろうと思いますし、本人も祖父と同じような大きな社会貢献をし、重要な存在感を示しただろうし(父の死後、何人かの方に、平六さんには、いずれは商工会議所の会頭になってもらいたいと考えていた等の、御言葉を頂戴しました)、私も希望だったアメリカ留学も経験できたろうし・・・、そうなれば又違う道も開けてきたかもしれないと今は思っています。
ただ如何せん48歳の逝去、元気で活躍していたのは多分45歳未満でしたから、祖父のような活躍、功績、記録は一切無く、私も父の教えをあまり受けておりません。
ただ家の庭で、上半身裸になって熱心に竹刀を振っていたこと、私が東京の大学へ進学するとき「ネクタイ」の結び方を教えてもらったこと、たまに西洋軒や寿司屋、東京では浅草のすき焼きやなど、旨い外食に連れていってくれたこと、嬉しくて、懐かしい思い出です。
本人は長野商業時代に祖父(父)を亡くし、戦争にひっぱられて苦労し、九死に一生を得て帰国し、戦後の特別税だった財産税等に苦しめられながら、(税金を払うためでしょうが、何軒かの家作を手放したと聞いています)会社経営をはじめ、ようやく軌道に乗り始めた時の逝去ですからさぞかし残念だったろうし、私も可哀そうでなりませんし、申し訳ない思いで一杯です。
私はまだ早稲田大学の学生でした。親父の病気もあったため、東京支店の二階で寝起きし、東京と長野の間を往復したり、新しい仕事のことで視察に出かけたりしていまして、あまり勉強をしたという記憶はありませんでした。