2014年11月10日月曜日

徒然の記 №40 青春時代・・・


順序が逆になってしまいましたが、時代を少し遡って見ましょう

 私の青春時代

中学校時代

陸上競技をやっていました、(主として“走り幅跳び”)校内大会や長野市内の大会では常時優勝でしたが、県大会では常に2位でした、飯山に内藤君というとんでもない強い人がいて、敵わなかった。

(当時文部省は、生徒達の宿泊を伴う遠征試合を禁じており、長野から精々松本、上田へ遠征するのがやっとでした。それを補う為か、「全国放送陸上競技大会」が開催されていました。中学生が泊りの大会を開催することが許されなかった時代、私たちには憧れの大会でした。)

高校・大学時代、昭和31年頃から昭和38頃のことです。

当時は、父平六は健在で、毎朝、庭に出て、上半身裸で気合を入れて“竹刀”を振っていたのを記憶していますが・・・、父は、長野商業・横浜高商時代、剣道の名選手だったそうで、卒業してからも、多分身体を鍛えるつもりで毎朝竹刀を振っていたのでしょう・・・。私の記憶のなかでは、商売のことやどこかへ遊びにいったという記憶はなく、父はひたすら仕事、私はひたすら遊びだったように思います。でも言い訳じみていますが、後半は親父の病気のせいか、あまり勉強に身を入れてはいませんでした。

 60年安保の時代、日米安全保障条約について、親父がどんな意見の持ち主だったか・・・聞く機会はありませんでした。

 大学時代、一度だけですが、私も人並みにデモにも参加し、東京・三宅坂で、スクラムを組んで、シュプレヒコールやジグザグ行進をした記憶があります。
 

 シュプレヒコールの内容な「安保!!!!岸よ!やめろ」でした。

 東大生の樺美智子さんが、国会前で圧死されたのは、そんな時期でした。

  親父の病気が徐々に重症化し、眼の病気と思われていたのが、脳腫瘍と診断され、(アメリカのテレビ映画で「ベン・ケーシー」という脳外科のお医者さんの映画を、夢中になって見た記憶があります。昭和37年夏、東大病院で脳の開頭手術を行いましたが・・・約半年ほど寿命は延びたのかもしれませんが・・・昭和337年12月25日、48歳で、帰らぬ人となりました。

  新年になって、即ち昭和38年一月、松が取れて、確か葬式は一月中旬だったように思います。
 

 葬儀の前後、一応、株主総会をやったことにして、私が炭平の社長に就任しました。

 本願寺長野別院から呼びだされて、責任役員に就任したことは、既にお話しました。

そして、三月、早稲田大学商学部卒業しました。

(前年昭和37年4月、父の病が重くなっていたので、周りが心配して、学生のまま、炭平へ入社して、社員になっていました。)

 まあ本来は大学を卒業したら、アメリカへ行ってみたい。留学なんて格好良いことではないのですが、暫く遊んできたい・・・と夢見ていたのですが・・・。父の病気が重くなったこともあって、諦めざるをえませんでした。親父に、病床の親父に、「留学は諦めて、卒業したら、直ちに仕事をする」と伝えたら、えらく喜んでくれたこと、私の出来た唯一の親孝行だったかなあ・・・と思っています。

 会社の経営のほうは、親父の病気療養中から、番頭さん(幹部社員)達が纏まって頑張って頂いたお陰で、炭平の“のれん”を守ることが出来ました。私が今日あるのは、まさに番頭さん達のお陰だったと、今でも感謝しています。

 仕事の方は、東京オリンピックが終わった直後、山一証券や山陽特殊鋼の倒産騒ぎがありましたが、右肩上がりの状況、私が目論んだ生コン業への進出は順調に推移しました。

2014年10月24日金曜日

徒然の記 №39 12年間書き続けた「舵取り通信」


市長退任後、約9カ月(ブログ執筆時)。私の所属する長野東ロータリークラブで、「市長退任後について」というテーマで卓話をさせて頂きました。卓話は通常30分間ですから、市長在任中は、話題はいくらでもあって、市政の話を少しお話して理解してもらうだけで・・・、あまり気を使うようなことはなかったのですが・・・。今回は、久しぶりに結構緊張しました・・・。市長を止めたら、だらしない男になったと思われるのが嫌で、俺はまだまだ頑張っているんだぞと感じてもらえるかどうか、社会復帰が順調に進んでいるかどうか・・・、今回はその時喋ったことを中心に、このメルマガを書いています。

話はデカンショ節からはじめました。私たちの高校時代、“デカンショ・デカンショで半年暮らし、後の半年は寝てくらす、ヨーイ・ヨーイ・デッカンショ・それデッカンショ”とコンパ(今なら居酒屋での飲み会みたいなものでしょう)等で、みんなで放吟したこと、懐かしい思い出です。そして私は今でも感心するのは、当時未成年ですから当然ですが、席上アルコールが無かったことです。古い高校の体育館で、車座になって、何をしていたかは覚えがないのですが、歌を唄ったり、弁論彷彿だったような気がしますが、“酒”と“タバコ”は無かったことは事実です。我ながら真面目だったんだなあ・・・今になって感心しています。

デカンショの意味は、デカルト、カント、ショーペン・ハウエルという三人の高名な哲学者で、先の二名については、誰でも知っている有名な哲学者ですが、三人目のショーペン・ハウエルという人については、恥ずかしながら私は知りませんでした、”デカンショ“という調子の良さに釣られて、大きな声を出して唄っていたに過ぎません。

 「本なんて読むな、本から得られる知識なんて、人から考えを押し付けられているだけで、何にもならない。自分で考えて、自分の意見を確立すべきである」・・・大意こんな文章でした。

(今回のメルマガのきっかけは、著名な評論家の池上彰さんの評論に刺激されて、あわてて文庫本を買いました)

これにはびっくり、私の知識なんて、本やラジオ・テレビ、他人の話し、今ならばパソコン・スマホから得ている知識も沢山ありますが、自分で考えたことは何だと言われると、お恥ずかしい限り・・・、ショーペン・ハウエルさんに言わせるなら、そんなのは何にもならない、全て他人の意見の受け売りに過ぎないということでしょう。

その後、私は自分の意見を大切にしよう、自分のアイデイアを大切にしよう、それが出来なければ黙っていよう・・・そんな心境です・・・。でも多分出来っこないですから、三日坊主で終わるのでしょうが・・・。

私の市長現役時代12年間、何をやったか、自分でも考えてみますが・・・正直よくわかりません。いろいろやったようにも思いますし、何もやらなかったようにも思います。

唯一、これは俺がやったと感じていることは、週一回発信の「舵取り通信」を約12年間、一回もサボることなく書き続け、市政報告会で、毎年本を作って出版したことでしょう。

(ただこれとて、経験したことを書いただけともいえるわけで、自分の考えたことなど、ほんのわずかだと思います。)

最初のうち、ゴースト・ライターは誰だ?と言われたり、いつまでやるつもりだ?なんてことも言われました。もともと、当時の小泉純一郎首相がメルマガをはじめて大変な評判になっている、それを読んだ長野市の広報の連中が、あれは難しいですよね、無理ですよね・・・。と言ったものですから、私はその言葉を、挑戦と感じ、「あの程度のこと、俺だってやってみせる」と受けてしまったことが、苦労の始まりでした。

正直最初は簡単でしたが・・・、段々苦痛を伴うようになったことは事実です。毎週月曜日の朝までに広報課に原稿を渡すということでスタートしたのですから、前週の土曜日あたり、「まだ原稿が来ていませんが・・・。」と催促したそうな秘書課や広報課の職員の顔を想像しながら・・・ようし、夜中かけてもちゃんと書いて、原稿を送ってやる・・・といつも思っていました。

数を勘定してみたら、

1年365日ですから、約52周・・・週1回発信ですから年間52回。
任期4年間ですから、一期で208回。三期務めましたので、624回・・・、まあ臨時・号外もありましたし、公職選挙法上の自主規制分もありましたから・・・回数は、嘘800として・・・ぐらいにしておきますか・・・。でも印刷は、後援会名義で、年度ごとに作っていただき、12冊になりました。


メルマガと選挙絡みのことで、困ったことがありました。選挙戦術のこともプロにはかなわないなあと感じたこともありました。

    選挙運動は、告示から投票日前日まで、HPは動かしてはいけない(変えてはいけない)。

    候補者の写真、主張は選挙管理委員会が作成するチラシのみ・・・。

まあそのほかいろいろあるようですが、私は良く知りませんが、私がびっくりして選挙プロの手口を書かして頂きますと

    候補者のHPは、確かに一つですが、他人が作るHPは無制限なのです(これは、私の私的意見です)。候補者名を入れても構わないようですから、「この人に投票して下さい」とさえ書かなければ良いそうです。

候補者のホームページに関する規制なんて、有名無実ですよね。

    動画もOKらしいです。

    一番びっくりしたのは、告示になって、選管の管理のもとで街に張り出すポスターのことですが・・・

3名の立候補者がいる場合、告示日の朝、代理人が来てくじを引いて、順番を決め、上が1番、その下に2番、次の上に3番となります。当然1番が一番目につく位置ですし、それが駄目でも3番が上にきますから、出来れば低い場所の2番はひきたくない・・・。

びっくりしたのは、告示の朝の抽選に(多分わざと)遅れてくる候補がいたことです。わざと遅れて3番になる戦術です。そうすれば上になりますよね。

考えてみたら、昔から、告示日に抽選で何番を引くか、選挙事務所では重大関心事でした。少しでも早く順番を知って、ポスターを張りだしたい、選挙運動を開始したい・・・ワザと遅刻して順番を下げるなんて、素人には思いつかない戦術でした。

でも、これもアイデイアかもしれませんね。

知らないということは困ったもので、もうひとつ私はあとになって知ったことですが、公共放送であるNHKは、選挙に出る噂の人の映像を、告示前3カ月から映像を出さない、という規制があったようです。

私は3回、選挙をやりましたから、1回目はそんなことは関係なかったのですが、2回目、3回目は、現職ですから、この規制にひっかかると思い、ホームページではない私のメルマガも、市役所のサーバーから発信することは遠慮すべきと考え、従来のメルマガは休止し、別に契約したサーバーから、計6カ月(二回の選挙分)、選挙に関係ない内容のメルマガを書き続けました。でも考えてみたら、あれはNHKの自主規制に過ぎない、公職選挙法には何の関係もないはず・・・、ですから選挙に関係ない従来から書いているメルマガは、そのままでも良かったはずなのです。選挙管理委員会に問い合わせればよかった、余計な気を使わずに済んだのに・・・、後の祭りでした。

IT時代の選挙戦略、規制することは多分出来ない・・・全てフリーにするのがよいのでしょう・・

市の職員から良く言われたことは、「市長さんは、タフですね・・・何時書いて、おられるのですか・・・?」「一番多いのは日曜日の夜中だなあ!」


 
 



2014年10月20日月曜日

徒然の記 №38 無駄も必要・・・

 モータリーゼーションの発達は、社会構造を大きく変えました。人口増加時代、土地価格の安い郊外に住宅団地を作ったら、郊外店が増えて、車が増えて、道路が広くなって、とても便利な社会にはなってきました・・・。私も善光寺さんのそばで、先祖伝来の土地に住んで商売をしていましたが、車の騒音を何とかして、日当たりのよい場所へ移して、目が見えない親父が住みやすくしてやりたい、私も便利に暮らしたい・・・。そんな気持ちから、新開地の上松に住居を移転、古い自宅を壊して、お寺が駐車場にほしいということでしたので、私の欲しい土地と交換しました。今になればもったいなかったなあと若干後悔していますが、その時点ではやむを得ない選択だったと思っています。

 いまになって、街づくりを一生懸命やっても、街中は、シャッター通りは増える一方で、これも随分無駄をやっているような気がしています。(私は昭和40年代、日本の都市計画で工業団地を作ったのは正解だが、住宅団地を、街から分離して造成したことは、間違っている。都市は、本来「混在した町並」が必要なのだ、と随分主張したことがあります。確かに日照権問題とか騒音問題はあったと思いますし、どちらが良かったのかは、わかりませんが、無味乾燥な町並は避けられたのかもしれません。いずれにしろ大きな意味での国家戦略に抵抗することは、個人の場面では難しいと思います。)

 統合することによって、効率がよくなることは多いと思います。

日本も市町村合併が、平成の大合併ということでしょうか、かなりの市町村で合併がすすみました。私も市長としてその片棒を担いだ一員ではありますが、長い目で見た場合、それでよかったかどうかわかりません。当初私は合併ではなくて「連邦都市」という発想を打ち出しましたが、中途半端で実現はしませんでした。(実際の合併は、豊野町、戸隠村、鬼無里村、大岡村、信州新町、中条村と長野市の7市町村でした)国家の流れが合併に向かって流れていましたから、私の主張は犬の遠吠えにすぎなかったわけですが、その後、広域連合の中に、市町村だけでなく、県の地方事務所をいれるべきだという主張を繰り返しました。これは法的には可能なはずで、全体の分離・統合への一里塚になると思っていました。)

 全体を統合しながら、それぞれの地域が独自性を発揮する・・・、矛盾したテーマではありますが、これをどう実現するか、地方自治の最大のテーマだと思っています。大いなる政治力が必要でしょう・・・。前向きな主張、そして自由な言論を担保するシステム、それには一定の価値観の共有が必要です。格差是正も行きすぎてはなりませんが、重要な要素です。

 社会の進歩はどうなるか・・・、社会は幸福に向かって歩いているのか。

 信じられない犯罪が起きている、その流れかどうかわかりませんが、道州制の議論がはじまってきています。一方小さな町村は人口減少で、どんどん消えていく運命にある。

 談合問題、大手ゼネコンの出鱈目は許せませんが・・・、ただ談合はいけない、と言うだけでは、問題は解決しないように思います。話し合いと談合はどこが違うのか、下請け企業は、商売上、案外伸び代があって良かったということも言われていますし、社員教育もやれたし、倒産しないように救ってくれるゼネコンもあった・・・。あまりにも建設関係をいじめすぎた為に、東北大震災や東京オリンピックの決定で、人手不足、資材不足、が顕著になってきている。

 口減時代、グローバル社会の進展・・・、中小企業の倒産問題、社会は合理的になってはいるのでしょうが・・・、無駄を省くことは正義なのでしょうが、社会は幸せになっているのでしょうか。ゆとり、余裕がほしいなあ・・・。

 銀行の対応も昔とは随分違うなあと感じています。冷たいと感じるのは、私だけではないでしょう・・・。昔は、借金を申し込む場合。営業部で相談し、審査部で油を絞られ、また営業部門で詳細な話をする・・・。銀行の部門の中で一番力があったのは、審査部だった、今は格付け会社が一番のパワーなんでしょう。その分審査部門は、手を抜いて、格付け会社の判断になっているのではないか・・・、一番楽でしょうね・・・。

 無駄をなくす・・・中央通りがシャッター通りになる。
 道州制の論議が出てくる・・・。

 現在の社会が経験した最大の統合は、EUではないでしょうか。二度の世界大戦を経験したヨーロッパ社会が二度と戦争をしない為に、EECヨーロッパ経済統合に踏み出し、ECに、EUと発展統合がすすみ、いずれは一つの国家にしようとしておられるのか。

 ギリシア問題とかイタリア、スペイン、ポルトガルというラテン系の国々は紆余曲折がありますが、世界を統合して、戦争の無い社会を目指そうという潮流は、かなり有効な施策だったように思いますが、民族に違い、経済力の違い、気質の違い、常識の違い、宗教の違いなどで、一本道には進まないようですよね。

 でも問題は逆の方向へ動いているようにも見えてしまうこともありますよね・・・。

  全て程度モンなのでしょう・・・。

 無駄が必要な社会もありそうです。

2014年10月10日金曜日

徒然の記 №37 合理性


私たちの社会では、合理性というのは、凄く大切です。

ただこの合理性という言葉の意味が、必ずしも同じではないなあ・・・年をとったせいか、最近痛感しています。一面からみれば合理的で、当然と思われることも、もう片方からみれば、不合理だと思われること、沢山ありますよね。

 国営賭博である宝くじを考えてみても、国民から等しく搾取しているだけですから、国家の富は増えていないことは事実でしょう。運の良い何人かの人は儲かっているけれど、多くの国民は無駄をやっている・・・・でもその無駄を楽しんでいる、夢をみている・・・でも合理的とはどうみても考えられない・・・(大いに儲けている人が税金を払わされているという話、最近知ってびっくりですが、ぜひそんな身分になってみたいことも事実です。)

 無駄な努力といっても、宝くじで何億円も獲得しようという努力も、ルーレットで大金を稼ごうという努力、麻雀で稼ごう・・・博打の相手が、国家なのか、仲間なのか、胴元なのか、といった違いはありますが、まあ国家を相手にするのが、安全でしょうし、良心の痛みをかんじないことが、大切です。

 博打とは、結局、確率の問題でしょう・・・必勝法なるものは、不正をしない限り、ありっこない。でもやりたい!! あのスリルは何物にも代え難いと昔外国の賭博場で感じたことがあります。ヨーロッパだけでなく、アメリカ、アジア、世界中にある、日本だって、宝くじ、競輪。競馬、競艇、パチンコ、スマートボール、日本は世界一のギャンブル大国なんだそうです。オリンピック招致でイギリスのバーミンガムに行った時も、友人に誘われて賭博場に行った思い出があります。

 政治家を志し、選挙に打って出るのも、合理的でしょうか????これは不謹慎といわれそうだから、一言で止めます。

 私の会社の東京の社員で、昭和40年代に宝くじで、500万円以上の大口の賞金があたった人がいました。彼はそのお金を頭金にして、ワンルームマンションを購入、それを他人に貸して家賃稼ぎをし、本人は会社の寮にはいって、つましく生活をしていました。順調に返済が進んでいたのでしょう、彼はもう一室、ローンを組んで購入しました。

ところが昭和48年、第一次オイルショックが発生・・・借家人は二人とも出てしまい、空き室になってしまいました。結末は申し上げませんが、気の毒な話でした。ただあぶく銭が入らなかったら、手堅く、合理的な、生活設計をしていたのかもしれませんね・・・

 博打は私も大好きですが、あくまで楽しみです。勝てないことを基本において、100回に一回ぐらいは、勝つかもしれないことを、楽しむだけにしておきましょう。

勿論、賭博場で、儲かっている人を、何人もみています。が、私みたいに長く楽しんでは駄目ですね

 博打は論外ですが・・・アイデイアを求めて、生産的と思われる努力を、することは、必要なことです。言葉を変えれば損をする可能性があっても、可能性を信じて頑張る・工夫をすることは大切な時代なのです。

繰り返しになりますが、個人も社会も、アイデイアを生かして頑張ることが、何となく閉そく感の漂う社会では、重要になってきているように思います。

 でも合理性の追求だけで、人間社会が幸せになるでしょうか。人間社会は全て良いこともあれば、まずいこともある。裏腹です。

2014年9月19日金曜日

徒然の記 №36 個人の資格


個人事業者が重要になってくるようです。個人事業者というより個人の資格ということでしょうが・・・。

「士業」と言う言葉があるかどうか、良く知りませんが・・・例えば会計事務所の経営をお父さんがやっておられてお亡くなりになり、息子さんが資格をもっていない場合は、かなり苦しいことになりますよね、廃業せざるを得ないことは、十分起こり得る話です。

 その場合、そのお父さんの会計事務所が法人組織になっていれば、他から資格のある方を連れてきて後をついでもらえば、お父さんの地盤をひきついでもらえるわけで、自分の立つ位置も確保できるでしょう・・・法人化が重要なことは、仕事の継続という点では、重要なことだと私は信じています。ただ、仕事の継続と家業の継続は別でしょうがね。

 すべてに国家資格が必要かどうかわかりませんが、組織内で、資格を活用している方もおられますし、資格をもって独立しておられる方も、沢山おられます。

立派な資格(試験が難しいほど、立派な資格であることは原則でしょう)をもっておられる方から、かなりいい加減(悪いということではありません)な“自称資格”まで、いろいろです。

 組織だけでなく、個人に資格がないと、従事できないことも沢山あります。個人営業の方もいらっしゃいます。

勿論企業内で仕事をされる人もおられるでしょう、昔IBMと取引する時、営業的な話が終了しても、最後に組織内弁護士が出てきて、契約のやり直しをせざるをえなかったことがありました・・・。世界企業と称していたIBMの社内規定だったのでしょう。当時は大企業でもそんなことをする日本企業は皆無でした。(私が恐れているのは、弁護士さんがあふれてきたとき、「一定以上の規模の組織は、必ず常勤弁護士を組織内で雇用しなくてはならない」といった規制が加わることです)

 弁護士・会計士、医師、司法書士、税理士、薬剤師、学校の教師、など国家資格が必要なものがあるでしょうし、自動車の免許証はポピュラーですが、鉄道や航空、船、重機、等の交通手段の操作も、資格がないと、運転できない性質のもので、沢山あるでしょう。

経営コンサルタントも正式な資格の人もいるのでしょうが、自称コンサルタントは、沢山おられるようですし、昔からの職人さんも、個人営業が多かったと思っています。

  最近では、国際的に進出する企業や外国人を雇用する企業もあり、通訳の仕事も重要になっています。英語だけでなく、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語・・・いろいろありますが、正式資格かどうかはわかりませんが、何年間か、其の国で生活されて、正式資格がなくても、はるかにネイチブな言葉を喋る優秀な方もいらっしゃいますよね。

  私は旅行者として海外を訪問した経験からいうと、日本語の上手な通訳者に感心したことがあります、そういう人は、日本の歴史や文化にも素養が深いのでしょう・・・。

 30年以上前、私のJC現役時代、JCIの事務局長のような人が演説をする時、最初は英語で、途中からフランス語で、最後はスペイン語で締めくくっていたのを、驚異の目で見ていたことがあります。いくら通訳者が居ても、日本人にとって、そういう場で発言するのは気後れがしてしまいますよね・・・。

  エスペランド語という世界共通の言語を作ろうという試みが行われ、私たちの学生時代には、それを習って世界を旅行しようなんて言う方達もいたように記憶していますが、・・・あまり盛んになってはいないように感じます。

英語やフランス語、勿論日本語もそうですが、学習するには、例外規定が多くてエスペラント語という人工語の方が覚えやすいとかんじたことは、事実ですが・・・言葉の習得には「王道無し」が事実でしょう。英語圏に生活や事業を営む人は、羨ましいとこの年になっても、感じています。

でも合理性だけでは、解決出来ない問題でしょうね・・・。

2014年9月13日土曜日

徒然の記 №35 同族会社の欠点克服


先日、日経が発行した「倒産」次にでた「林原健」という本を読みました、同族会社の問題について、改めて考えさせられました。

同族会社の欠点克服は、

    内部対立(忠誠心・求心力の維持)を発生させないことが大切

    情報の偏り、即ちコミュニケーション不足にならないよう

    風通しの良い会社で有り続けられるか

この三つであると、私は結論しました。これが上手くいけば、大企業や上場企業より、同族会社の方が、はるかに効率がよい組織であるということでしょう。

もうひとつ忘れていました。後継者が重要であることは、言うまでもない話です。

理屈は大切であり、当たり前です。その総合力が後継者の人物であることは、これまた当然です。

 最近の議論の中に、会社の留保金が膨大になっているから、「課税すべきだ」という意見が一部でているらしいことに怒りを感じています。まさかとは思いますが、これはとんでもない意見で、企業社会の根幹を崩す議論だと思います。

資本主義が生まれて100年以上、戦争や大不況を通じて、企業は必至になって、会社の将来のために、税法に基づいて多額の税金を払った残りを、内部留保として、営々と貯めてきているわけですから、溜まった分を、出しなさいというのは、おかしな議論ですし、残金に課税しようというのは、まことに阿漕な話です。貯め込んできた資本を吐き出させようとする試みは、企業経営者として許せる話ではありません。

2014年9月6日土曜日

徒然の記 №34


竹下蔵相時代、日本も間接税の導入が必要ということで、売上税の導入が計画されたことがありましたが、私は大いに賛同していました。学者・先生方から、日本は、所得税10%、売上税10%の徴収をすれば、国家としての収支バランスは、取れるのだという説を聞いて、所得税の重さに苦しんでいた我々企業家は、その売上税が実現出来ればよいなあと夢をもったことがありました。

 その時点では、政治的理由から売上税は実現しませんでしたが、数年後、消費税という形で実現しました。税率も徐々に上がってきているようですが、先進国の例をみると、20%ぐらいになることは、覚悟しておく必要があると言われていますが、現在はそのスタートに立ったということでしょう・・・。

私はそれ以上に問題点を申し上げれば、消費税制度は、格段に簡単・単純になると思っていたのに、以外に複雑だなあということでした、そしてさらに、今後の方向として、例えば食品だけに低減税率を適用するといった意見もあるようで、さらに制度が複雑になりそうな話題があって心配です。制度をなるべく単純にしてほしいなあということが、みんなの希望ではないでしょうか・・・。

 理屈はよくわからないのですが、日本は、失われた10年を克服するために、黒田日銀総裁に言わせると、2%のインフレが必要だと言われています。あるいは円安誘導が必要と言われているのですが・・・、消費税はインフレ要因のはずですから、その面では、2%インフレは望ましい方向なのでしょうが・・・。たしかに、景気は少し上向いているようですが、でもインフレで景気が良くなるなんて話は、どうしても理解できません。

まあ問題はインフレになっても、給料が上がらないから、生活は苦しくなるという論理でしょうが・・・。

 私の感覚とすれば、インフレだけは避けてほしいということが願いです。

戦後のあのすさまじいインフレは、私など小学校に上がる前後のことですから、あまり記憶にはないのですが、あの昭和48年の第一次オイルショックの時のインフレ、人件費が一挙に30%も上がりましたよね、経営者(だけではありませんでしたが)は、恐怖に震えあがりました。

 円が強くなること、即ち円が高くなることが、何故いけないのか・・・。確かにあまりにも急激に円高がすすむことは、対応が難しいのでしょうが、徐々に円が高くなることは、日本の国力があがっていることですから、歓迎すべきことではないでしょうか。

日本の輸出が打撃を受ける、企業が円高を嫌って、外国へ逃げ出す、国内の人件費が上らない・・・、そういう意見は主流を占めているのでしょうし、確かに、日本企業の競争力が劣化する可能性はあるのでしょう。そうなれば雇用問題などで、問題が発生するかもしれません・・・。でも短期的な金融政策で円安を誘導することはやむを得ないとしても、長期的なインフレが必要だという発想は、どうしても理解できないのです。一ドル100円ぐらいになってくれれば、換算するのに楽で良いですよね、戦前は1ドルが1円だったという話は本当ですかねえ・・・。

 先日、街を歩いて、自分で買い物をしてみて、街には安い品物があふれていることにびっくり、消費税が上った価格より、価格が下がった影響が、はるかに大きいのではないでかと感じてしまいました。消費税が上った影響があるなんて、信じられませんでした。売れないとすれば、欲しいものがないのでしょう。

でもいろいろ聞くと、街の物価が安いのは、根本を知らないからだそうです、「物価は間違いなく上がっている、それは石油価格の上昇が原因だ」、街の物価が安く見えるのは、ほんの一部で、全体は上昇傾向にあることは、注意を要する・・・。

 それよりあの価格では、街のお店屋さんでは太刀打ちできない・・・、スーパーや大手小売店の進出は、すさまじい・・・、昔から卸を抜いて、メーカーの直接販売が必要と言われてきましたし、今まさにそんな時代がきましたよね。

私は郊外店が発展してきた当時から、中心市街地で日用品を販売する小売屋は、多分成り立たないと主張してきました。シャッター通りが増えてしまうだけ。小売の商売は、お客様も大切ですが、仕入が重要なんですね。

 新しく出来る店は、飲み屋(レストラン)と理・美容、そしてお医者さん、福祉施設だけというのは、単なる悪口ではなく、公的な補助金対象事業、それに匹敵する付加価値の高い商売しか、成り立たない・・・、買い物の楽しみが薄れてきているのは残念です。

中山間地では、お店が無くなって、買い物難民が生まれる・・・、出張販売を試みるが、量とコストのバランスが難しく、採算がとれない・・・。

 あれでは従来からの商店が、経営出来ない、

インフレはいつの時代でも良いことではないと私は信じています。

同時に輸出産業にはマイナスだと言われている“円高”は、日本の国富を増やす意味で、重要なのではないでしょうか?これ以上の円高は、国内産業の衰退を招くという説は、近未来を考えると、説得力があるように思いますが・・・。高付加価値を生み出すことで、新たな産業の台頭を夢見ていくことが重要だと私は思います。

 いわゆる所得税万能時代から、間接税、外形標準課税へ転換し、日本の税制も大きく変わってきていますし、これからも大きく変わる可能性があるのですから、企業もそれに備えて体制を考える必要はありそうです。売上税の失敗から、現在の消費税が実現したこと、私はよかったと思っています。

2014年8月29日金曜日

徒然の記 №33 企業組織


前に、公益団体や宗教団体、さらには政治団体については、私の考え方をお話しましたが、企業関係の話はほとんどしてありませんでした。でも、なんだかんだと言っても、私は企業人として生きてきているわけですから、今日はその話をしましょう。

  企業組織は、合名・合資・有限・株式など、古くからいろいろな形態がありますが、現在は、中位以上のほとんどの企業組織は、株式会社形態が多くなっており、自由社会の根幹をきめる社会制度であると言っても良いと思います。組合などは、個々の組織を温存しながら、多くの力を結集して成果を上げようという組織ですから、根本的には会社組織の延長線上にあるものと考えるのが正しいのでしょう。農業法人も規制は多いけれど、根本は同じ組織の一つと言えるのではないでしょうか。戦後の農地解放によって受けた農家のメリットと大地主撲滅の流れが、現在の農業の惨状を引き起こしている、即ち自由社会の中で規制を温存している社会・・問題を私は感じています。

会社組織は、自由に設置できるものであり、運営もあまり制約がないものであるべきと、私は考えていますが、いろいろな矛盾もあると感じています。即ち「株式」というのは個人や企業等が集まって、出資してつくるものですから、目的に賛同する多くの人達が出資者になることが重要です。そして出資した金額に応じて議決権を有するべき組織であるべきでしょう。

 昔と言っても、私が息子の小学校のPTAの役員をやっていた頃、校長室で、尊敬する校長先生と二人で雑談していた時、次のような会話をしたことがあります。

校長先生「鷲澤さんの会社の資本金はいくらですか?」

 鷲澤  「2100万円です」

 校長先生「株主さんは、誰ですか?

 鷲澤  「名義上は良く分かりませんが、実質は私一人です。私の自由に 出来ます」

校長先生「それで、会社の売り上げは・・・・?」

鷲澤  「100億円近いでしょう」

校長先生「何故・・・そんなことができるのですか?」

鷲澤  「うーん・・・先生、そのことにお答えするためには、簿記学からはじめて・・・経営学等・・・・とても短時間では、答えられません・・・・」

 私はこの先生が大好きで、折にふれていろいろな話をさせていただきましたが・・・・・正直に言って、教育の世界の常識は、経済社会とは違うなあということが多かったように思います。私の住む経済の世界の方が良いと言うわけでは、全くありませんでしたが・・・自由という立場だけは、私の方が有難いのだと思ったことは事実です。

 会社を興す場合、一人、あるいはその関係者(親類など近親者)のみを出資者に限ることは、本来ではないはずですが、株式というのは物と同じで売買も出来ますし、長い間には株主間の意見の違いなどもあって、喧嘩わかれや組織が集約されていくこともあります。

 ただ最近はコンプライアンスが重視され、あらゆる組織は自由であるはずなのですが、社会的な影響がおおきくなってきますと、法律でいろいろな規制がうまれてくることは避けられないわけです、独占禁止法が生まれて、競争に一定の制限が加えられたり、農業は国の根本という発想からか、株式会社の参入は制限されている面もありますし・・・日陰や騒音、排水、廃棄物から、企業の行動の自由が制限されてくるのは、当然ですし、人を雇用する場合、法で定められた最低賃金や労働時間、未成年者の保護、外国人労働者問題等が、最低限守られなければならない法律として、定められていることは当然ですし・・・

自由であるべき企業活動も、徐々に規制が強まってくることは、仕方がないことでしょう。

 さらに道徳面からも、正義に基づく活動が重視されてきています。

企業は儲けることばかりでは尊敬されず、きちんと「社会の為の行動」をすべきであることも大切であるいうことが、世間一般に認識される時代になったように感じています。企業ボランテイアとかメセナとか文化活動という言葉が大切になってきています、経営者は常にそのことを意識しなければならない時代でしょう。

 
 企業の社会的活動と私益の追求を一致させるのが、理想なのでしょうが、なかなか難しい、また「社会のための行動」といっても、全て同じではありませんし、本業をおろそかにしては駄目でしょう。

私が所属した長野青年会議所の目標は「明るい豊かな社会を築こう」でした。でも青年会議所の活動に熱心すぎて、会社がおかしくなった例(それだけの理由では無いでしょうが)は、枚挙にいとまがありません。まず自分の基盤をしっかりさせることも、当たり前ですが、必要です。

 単独の組織(個人も含めて)ではなかなか難しいことも、商工会議所、商工会、協同組合、中小企業団体中央会、農業協同組合(中央会)、経営者協会など、経済関係の諸団体は、皆の力で目的を達成しようとする団体でもありますから、仲良く協力しあって仕事に取り組んでいくことは、大切です。(個々の利害は違いますから、難しい場面もありますが)

 企業組織を考えるうえで、重要なことがあります。

より良くしよう、より儲けたい、永続的な企業にしたい、より高く、大きく、誇り高い企業でありたい・・・当たり前のことですが、二つの重要ポイントがあります。

    株式の公開をしている会社かどうか

上場会社か非上場会社かでは、大きな違いがあります。

株主総会、取締役会、議事録の整備、監査役等を整備し、組織運営をきちんとやる必要があります。

これは上場会社の場合、他人に資本を出してもらうわけですから、自分(社長)の会社という観念を捨てないといけないと思うのです。(捨てるというのは無理でしょうから私物では無いという観念でしょうか)

    同族会社かどうかも、大きなポイントです。

 会社の大小には関係なく、特定の株主の支配権が、特定の人に集中している場合(その比率は忘れました)、同族会社ということになり、普通会社と比べれば税法上は、不利な点があるようです。ただ個人経営と違って、法人経営にはそれなりに有利なことがあるのですから、感謝の気持ちを忘れてはいけません。

   

私は、ひと頃、自分の会社を公開して、上場会社にしたいと夢をみたことがあります。一種の株式公開ブームのようなものがあり、株式を売り出して創業者利潤で、税金が安いことを利用して、大きな資金を獲得する成功物語が、かなりあったようで、私も羨ましく思ったものでした。

株式会社ですから、多くの方に、株式を持ってもらうことは、それが可能ならばよいことでしょうし、資金的に豊かになり、大企業の仲間入りをし、有名にもなりますし、今後の投資資金も獲得できれば・・・・良いことづくめで嬉しいし、個人的にも株式売却で、お金儲けが出来ればいいなあ!・・ただ個人的な利益については具体的にあまり考えていませんでしたが、何となく憧れていたと思います。(本当かどうかは定かではありませんが、アメリカの例では、自分で会社を起業し、良い会社になったら、他人に会社を高く売り付けて、自分は、悠々自適の生活をするのが理想だという話をきいたことがあります。私には考えられない発想ですよね)

 証券取引所には面倒な規約があって、それをクリアしなくては、上場できないことはわかっていました、東証一部とか二部の区分けがあって、それなりのステイタスもあり、企業の格も重要でした。当時、私の会社に株式公開の資格があったかどうか、必ずしも自信があったわけではないのですが、まあ大丈夫だろうといった軽い気持ちでした。

 ただ、熟慮した結果、自社の株式の公開計画は、中止しました。

    まず、炭平は、我が家の家業であること、他人に経営を左右される危険性があることをすべきではない。親父が戦地から引き揚げて事業を再開してしばらくして、個人事業から株式会社にしたようですが、きっかけは個人営業では税金が高くてかなわないと親父が言っていたことをなんとなく記憶しています・・・が、それだけではなかったと、今は感じています。法人化はしたけれど、・・・・何が変わったかははっきりしていませんが、実態は個人営業と変わりはありませんでした。ましてや株式公開なんて夢にも考えていなかったはずです。ただ個人営業のままでは、現在の規模には成長していなかっただろうなあと思っています。(一番は人が集まらなかったでしょう)

    確かに親戚や知人に、株式を持ってもらうことは考えたらしい形跡はあるのですが、実現せず、名義上の株主はいたはずですが・・・家族や少数の親戚の名前でした。私が社長になってから、この辺の整理には頭を使いました。

    確かに株式を売り出す(出資してもらう)ことにより、多分、会社の借金はその分少なくて済んで、自前の資金(出資してもらった資金は、会社にとっては自己資金)だけで運営できれば、当面は楽ですよね。

    ただ、他人資本に対しては、当然のこと金利に相当する配当を出さなくてはならない、意見も聞かなくてはならない・・・・自己資本とは言え、他人さまに出資していただいているのですから、配当分は税金と同じ、社外流出ですよね

    借金に頼ることが不必要な体質が出来るとすれば、ありがたいけれど、そんなことをしなくても、幸い当社には、戦後の株式会社設立以後に限っても、過去の蓄えは、かなりあるし、信用度もまずまず、取引銀行との関係も良好、社員も信頼できるし、得意先とのコミュニケーションも良好、商社活動に重要な仕入れ先との関係も良好で、さしあたっての資金需要に困ることはない。・・・鷲澤個人の信用は、当時の規模の店を運営するのに、十分だったようです。

    何よりも経営に他人の介入を招きたくない、自由に、自己責任で、やっていきたい。

    景気は常に変動することを覚悟しておく必要がある、景気の悪い時、あるいは当社の経営が何らかの理由でピンチになったとき、他人資本がはいっていたら、迷惑をかけることになる。一番怖いのは、取引先の経営難(即ち倒産)だが、取引先の動向に注目して危険を予知する能力を磨いていく必要は、常にある。

 いろいろな理由をつけていますが、結局他人資本を使って経営をする自信がなかったということですか。まあ借金だって他人資本をつかうのと違いはないのですが・・・・

何年か経ってから、即ち将来、株式を公開する可能性はないわけではないと感じていますが、多分それは、後継者の責任で考えることでしょう。

 いずれにしろ、同族会社の在り方などについて、私の社長時代には、同族会社にはどう見ても不利な税法があったこと、悔しい思いをしたものです。「社内の留保金に一割の課税がプラスされる、いわゆる留保金課税」「行為計算の否認」など・・・まあ、そう言った問題は、国の税制改革で、現在はかなり改善されてきているようですから、当時とすれば仕方ない面もありますが、その分(過去獲られた分)を返してもらえれば、いいがなあなんて夢みています。