** 「ザ・ホテル・インターナショナル」 **
苦い思い出は沢山ありますが、最大のものは、現在のセントラルスクエアに計画されていたホテルのことでした。大きな心配の種でした。
あのホテル計画は、第一生命と長野電鉄が中心になって“ザ・ホテル・インターナショナル”として、オリンピックのメイン・ホテルになる予定で計画が進んでいました。(当時の土地所有者は、鈴木土地さんと第一生命でした。)
長野市財界も皆で協力しようということで、私の会社も一旦は確か2千万円ぐらい出資した記憶があります。(この出資金のことですが、ホテル計画が中止になってしまったのち、当時高金利時代でしたので、ホテル会社が出資金を運用して金利を稼ぎ、準備経費も含めて稼いだお陰で、出資者に表面上は損させることなく満額返還されました。)
ただ、いずれにしろ中心になる第一生命が計画から下りてしまったのですから、これには参りました。次なるスポンサー探しは困難でした。努力の末のことでしょうが、八十二銀行から“ザ・ホテル・インターナショナル”に出向されていた小林清吾さんが、市内の財界関係者に「このプロジェクトは失敗だ、傷口を大きくする前に撤退すべきである。」と説いてまわったあの情熱はすごい迫力でした。良い意味での撤退策だったと私は思います。
シテイ・ホテルというのは、ビジネスホテルとは根本的に違い、設備も運営費も桁違いにお金がかかるのだそうで、例えばホテルのサービス部門の社員数は、ホテルの部屋数と最低限同数の人員が必要だということだそうですから、合理化されたビジネスホテルの経営とは全く違うし、それなりに都市の顔になるものですから、部屋のレベルは勿論、社員の教育訓練も必要、優秀なレストランや売店等も出店してもらわなくてはならない等々、簡単に経営できるものではなく、最初から大変な苦労が予測されるものだったようです。(リレハンメルの計画みたいなものなら、楽だったのでしょうが・・・)。
結論としては、“ザ・ホテル・インターナショナル”のプロジェクトは、第一生命が下りてしまったことで、代替えスポンサーが見つからず中止になりました。そのためオリンピックのメイン・ホテルは、ホテル国際21におちつきました。
もし中央通りに大きなホテルが出来れば、また違った都市の構造が生まれたのではないかと残念に感じたことも事実ですが、当時の長野市の都市の容量を考えれば仕方のない選択だったと思います。