2014年3月6日木曜日

徒然の記 №15 長野オリンピックでの私の役割 (3/8)

** City of NAGANO **

オリンピックの招致レースの決勝戦は、イギリスのバーミンガムでした。
フレンズクラブの仲間23人でバーミンガムへ出かけました。バーミンガムに賭博場があることを初めて知りました。フレンズクラブのご婦人方は、日本から持参した和服姿でIOC委員さんの目を引きました。
バーミンガムでは、会場の外で「長野オリンピック反対」のグループも活動していましたが、IOCの委員さんからは「どこでも反対者はいるものです」との話がありました程度で、あまり問題にはならず影響はありませんでした。

総会の会場では、エリザベス女王のお姿も拝見しましたし、有名選手の顔も沢山みえました。一大イベントだったと言って良いでしょう。

総会がはじまり、メインはIOCメンバーによる別室での投票でした。IOC方式による投票で、決まるまでかなりの時間がかかりました。単純投票ではなく、どこかの都市が過半数を獲得するまで最下位の都市をはずして投票を繰り返す方式で、一つの都市を選ぶセレモニーとしては複雑ですが、スリルもあり面白いやり方だなあと感じました。

私は、決定の瞬間を、会場内で今か今かと待っていました。
一方長野の善光寺境内では3000人を超す市民が、深夜にもかかわらず決定を待っていたそうです。私もバーミンガムの会場で、同じように胸をときめかせながら待っていました。

あのサマランチ会長の「City of NAGANO」の声、私たちは永久に忘れないでしょう。


そういえば、バーミンガムでの決定後のことだったろうとおもいますが、こんなこともありました。長野オリンピックの4年前、リレハンメル・オリンピックの閉会式で、会場から「犬そり隊」が、メッセージを持って長野に向かって出発しました。環境問題が重要課題になりつつあった時代、ユーラシア大陸を動力のない犬そりで横断し、ナホトカから帆船で日本にやってくるという壮大な計画で、有意義なことと理解されていました。私も当時リレハンメル・オリンピックの閉会式場で出発シーンを見て知っていました。

ところが、その犬そり隊、シベリアの雪の中で、多分お金が無くなって・・・ストップしてしまったのです。
その隊の中に毎日新聞の日本人記者が乗り組んでいたのですが、彼、困って長野に飛んで帰ってきて「何とかしてくれ」・・・無責任極まる企画で日本では考えられない話ですが・・・
やむを得ず、また私が会議所に泣きついて金集めをし、金額は忘れましたが、約500万円ぐらいだったと思うのですが、用立ててあげました。NAOCにも話をもちかけたのですが、「とにかく犬そり隊を長野まで連れてこい。そうすれば何とかする・・・」が答えでした。

その時、私がその記者に言ったことは「この金は犬そり隊の隊長に渡してはいけない。あなたが必ず管理すること。」という条件をつけさせてもらいました。結局、無事日本に到着しましたので、事業は成功だったということでしょう。

この話には後日談があります。
何日か経ってからのことですが、犬そり隊派遣の責任者(と思われる)リレハンメルの市長が長野にやってきて県と市を表敬訪問したのですが、その間、県庁と長野市役所間の昭和通りで大パレードを行ったのです。
別に言ってほしくもありませんが、「いやーお世話になりました。」くらいの挨拶があってもよいのに・・・何もなく、正々堂々とした態度で本当にびっくり。全くいい加減な話で、我々が面倒を見なければどうなっていたことか・・・。
それにあの犬の始末はどうなったか・・・誰かが引き取ったのでしょうが、かなり高価な価格がついたはずという人がいましたし、全体の決算書も見ていません。