2014年3月10日月曜日

徒然の記 №18 長野オリンピックでの私の役割 (6/8)

** 表彰式会場「セントラルスクエア」 **

オリンピックを当てにしてつくった「公共施設」については、スパイラルやMウエーブ・ビッグハット・野球場(開会式会場)・新幹線・オリンピック道路等いろいろありましたが、まずまず順調にいきましたが、民間でつくったものは大変苦労されたことは事実です。
その代表的なものがホテルということは前述の通りです。国がNTTやJRの株式売却利益を利用した低利の資金を用意し、長野市等自治体を通して融資する制度も出来たのですが・・・、自治体の方は全て銀行の保証付きで融資する。リスクは負わないという建前でした。長野市としてもリスクは無いオリンピックの為という大義名分もあるわけですから、申請があれば銀行の保証をとりつけ、どんどんお貸する。テレビ会社の放送施設や温泉施設などもあったように記憶していますが・・・、銀行も多少のリスクは目をつぶって融資しましたから、都市の整備は全体としては進んだはずです。

ただ、これらは補助金ではなく事業者にとっては、結局全て借金ですから返済しなくてはならない・・・
過去の東京オリンピックや札幌オリンピックの時のように、売り上げがどんどん上がっていく。人口が増え、都市の規模が格段に大きくなっていく時代なら問題はなかったのでしょうが、長野市の場合、人口はオリンピックの前と後でほとんど変わらない。しかもオリンピック開催準備中は増えていた人口も、終了後は社会増が社会減に逆転し、急激に減り始めてしまいました。

オリンピック終了後の不景気は深刻でした。過去オリンピックを開催した東京や札幌のように、長野市の規模がもっと大きくなり、設備投資が十分に成り立つと皆さん考えたのでしょうが、そうはいかなかったのです。行政としても色々なイベントを誘致したり、設備投資が回収できるような応援を出来る限りしたのでしょうが、支えきれなくなってしまったというのが実態でしょう。(NUPRIが出資したMウエーブの経営も、出来れば民間でやっていこうと努力したのですが、結局民間だけでは見通しが立たず三セクになり、行政の比重が高まりました)どうしようもなくなったわけで、借金してつくった施設も、終わってしまえば身分不相応な施設を造ったことになり、大きな悲劇が到来しました。

シテイ・ホテルのうち、従来の経営者で残ったのは、駅前のJR系メトロポリタンホテルだけ。後は、産業再生法に従って銀行が債権の大きな部分を自己償却し、株式も償却して、新たな資本、新たな経営者が登場。苦労して投資された皆さんは、全て新しい経営者にかわりました。資本の論理でやむを得ないとはおもいますが厳しい現実でした。

私の関係した表彰式会場だったセントラルスクエアも、ホテル計画が挫折した後、駐車場として経営すればなんとかなる。借金の重みは大きいけれど、最後は土地を売ればなんとかなる・・・私は高をくくっていたのですが・・・、

たまたまサマランチ会長が、「表彰式会場は競技会場周辺の山の中でやるより、街の真ん中で人が大勢集まる場所でやるのが良い。」という発言があったという報道から、オリンピック成功のために、又市街地の活性化のために、NUPRIとしてもうひと息頑張ろうということになり、どうせやるならセントラルスクエアしかないということになり、多くの出資者を募って第一生命の土地だけは買い取りました。(あの時の私の判断ミスは、全部行政に任してしまえば良かったのですが、我々でも出来るはずだと考えたことです)

表彰式会場は仮設の整備ですから、NAOCから借料はもらえない、(実際には無償でお貸しました)、表彰式会場の整備資金が必要ということで、私が代表を務めていたNUPRI(長野都市経営研究所)とアドビューローの人たちとも色々研究し、頭をひねって、皆さん記憶しておられるかどうか、陶磁器のタイルに名前を自署してもらったものをつくり、販売させていただき、その収益で会場の壁を飾り、設備費を生み出そうという仕組みを考えました。(ただこの案にもクレームがついたことがあります。IOCの公式スポンサーではないタイルの購入者の名前が会場の表面にでることはまずい・・・と言った議論でした。適当に誤魔化しましたが。)

表彰式会場の工事費は、全てタイルの販売収益でまかなったということです。終わってからタイルの処分にちょっと困ったのですが、Mウエーブの壁に移して張ることで、長野市の了解をとりつけ、タイルに関する位置DATA等はMウエーブの事務局が管理することにして、このプロジェクトは終了しました、

私のミスとして今でも悔いていることは、名前を自署したタイルに、住所を入れなかったことぐらいでした。(ただ住所の記録はMウエーブで管理している資料にはあるはずですのでいざとなれば引き出すことは出来ると思っています。オリンピック終了後、50年記念、あるいは100年記念等の時、タイルのことを思い出にするイベントをやるのはどうでしょうか・・・もっとも生存者はいない。名前を自署した人の子や孫の会になりそうですが・・・(私も孫の名前を含め、家族全員でタイルを購入しています。)
悔しい部分もありましたが、このプロジェクトは、大成功だったと今でも感じています。

同じような仕組みで(少し違いますが)、第一生命から購入した土地代の借金については、産業再生法のお世話にならざるを得ませんでした。原因は、私たちが右肩上がりで土地価格は上るものという神話に乗っていたことで、土地の評価額が大きく下がってしまったことに抵抗できなかったことが原因です。大きな火傷を負いました。

ただセントラルスクエアは、表彰式会場としては大成功だったと思っています。長野の中心街にあれだけの賑わいがつくれたこと、一時的ではありましたが、素晴らしい夢を市民に提供出来たことは私たちの誇りです。あの会場はNUPRIとしてNAOCに無償でお貸したものとして記録しておきたいことです。