** フレンズクラブ **
カルガリー視察でもうひとつ印象に残ったのは、女性のそれも比較的高齢の方が、オリンピック本番一年前なのに格好良いユニホームを着て、ボランテイアセンターで嬉々として活動している姿でした。とても格好良い姿でうらやましく感じました。
1990年のことですが、私は塚田市長さんと市村オリンピック招致委員会の事務総長さんに駅前のホテルに呼び出されました。「オリンピックを前にして、東京の高輪プリンスホテルでIOC総会が開かれる。その前後にIOC委員が開催地の視察にやってくる。開催地決定のIOC総会は、1991年6月イギリスのバーミンガムだが、その前にできるだけ多くのIOC委員を長野に招待したい。IOC委員はほとんど夫婦で来られるので、そのアテンド(接待役)は役人では無理があるので、ぜひ鷲澤さんの人脈でアテンド希望者を募って対応してほしい。ぜひ引き受けてくれ。」という要望でした。
頼まれればいやとは言えない性格ですので、お引き受けすることにしました。オリンピックフレンズクラブの誕生です。
外国人への対応であり、予算もあまり無い中での話ですから、JCの仲間を中心にある程度自腹で取り組むことが出来る人を、そして時間の余裕がとれる人を募りました。原則は、IOC委員の交通費は招致委員会の負担、我々ボランテイアは、行きは招致委員会負担、帰りは自前、宿泊は適宜に対応。私の場合は京都や大阪の花博等までお供しましたが、祇園での酒代も含め、全て自腹だったように記憶しています。まあかなりいい加減な決め事ですが、それが許される社会状況だったと思います。
活動がはじまってからのことですが、IOCの委員さんにはいろいろな方がいらっしゃいました。
私たちは柔道着が不足している国の情報を得ていましたので、その国の委員さんに「長野の中学生たちが学校で使っていた柔道着があります。集めてお国にプレゼントとして送りましょう。」と申し上げましたら「それはどこにあるのか?俺は技術屋で自分の目でみたものしか信じない。」という方がいらっしゃいました。
そんな質問がありそうだという予想もあったのでしょうか、市役所内の招致委員会室の隣の部屋に、長野市中から集めた古い柔道着が山と積んでありましたので、それを見せて満足してもらったことがありました。
京都の金閣寺に案内したとき、あれは金で出来ていると申し上げましたが・・・嘘だと信じてもらえなかったように思います。(もっとも金箔を張ったものという英語はうまく言えませんでしたので誤魔化しました。)
沢山の委員さんが来られました。その都度駅周辺の商店街の方々が中心になって、列車が着くたびに駅頭で万国旗を振っての歓迎行動、そして夜は歓迎パーテーを開いて歓待したのですが、その時参加する市民の方に一人3000円を負担していただいていたのですが、毎回になるとさすがに高いのでしょうね。だんだん出席者が減ってしまいました。あわてて私は会議所へ出かけて専務と交渉、予算を用意してもらったおかげで、一人1000円負担にすることが出来ました。琴の演奏・餅つき・お茶の会等など賑やかに歓迎行事を開催することができ、招致に大きな力を発揮したものと思っています。
東京でのIOC総会直後、北京でアジア大会が開催されました。私たちも東京から北京へ移動するIOC委員さんをおっかけで参加したのですが、その開会式でアジアの首脳が居並ぶなか、江沢民中国共産党主席とサマランチIOC会長が、並んで座席についていたことが印象的でした。
IOCの委員さんはかなり大勢長野においでになりました。(正式記録は、会議所にある資料“NAGANO OLYMPIC FRIENNDS CLUBをご参照ください)。
私は個々の委員さんのアテンドに、フレンズクラブの誰を割り振るか、てんてこ舞いの日を送っていました。委員さんの日程がなかなか確定しない。その都度、NAOCから予定をお聞きするのですが、それでも変わる。それを強引に当てはめていくのが私の仕事ですが、それでも予定が狂ってしまう・・・最後は私がいく覚悟を何度もさせられました。まあ勝手なものだとつくづく感じたことを覚えていますし、にもかかわらずフレンズクラブのメンバーが良く対応して下さったこと、本当に感謝でした。
イスラムの方はアルコールを飲まないという話しでしたが、お帰りになったあと、ホテル仙寿閣の冷蔵庫は空っぽだったという話もありました。地獄谷の猿の温泉は人気だったようです。
オリンピック道路は工事中で片道交通等が多く、白馬から帰りの松本発、あるいは長野発の列車の時刻に間に合わせるために、私の車の運転手に「飛ばせ!責任は俺がもつから」なんて乱暴な発言もありました。県から来ていた招致委員会の職員も冷や汗だったのでしょう。