2014年3月11日火曜日

徒然の記 №20 長野オリンピックでの私の役割 (8/8)

** オリンピックが残してくれたもの **

国際化時代になって外国人に接する機会は多くなっていますが、長野市民がそのことに慣れてきたことは勿論、いろいろの催しに夫婦で参加しようという気運もオリンピックを契機に少しすすんだかなと思っています。
招致段階で、子供さん達の手紙を英文に訳してIOC委員さんに送ったこともありました。いずれにしろ、オリンピックを契機にいろいろな行事にみんなで参加していこうという取り組み、市民の盛り上げの気運は確実に上がってきているように思います。

ハード部分については、オリンピックの開催によって確実によくなったのですが、努力をしても、結局身分不相応な投資となってしまい、産業再生法のお世話になってしまったこと、見込み違いであったわけで、お気の毒というより仕方ありません。

オリンピックに関してはマイナス面だけではありません。産業再生法に基づいて経営者は変わりましたが、素晴らしい施設が長野市に残りました。シテイ・ホテルが存在するということは、新幹線・高速道などと共に、長野市の都市としての格が大きく上ったと思っています。オリンピック後、世界的な会合や日本的な会合を、長野に沢山招致することができているのもそのお陰であり、オリンピックのプラス面と評価したいと思っています。

又、オリンピックにはアスリートのスポーツ競技だけでなく、前にもかきましたが、文化プログラムというのがありました。長野ではいろいろなプログラムが行われましたが、その中に大きなものでは、アスペン音楽祭、オペラ信濃の国善光寺物語、北野建設さんが有名な彫刻を沢山用意されて長野市の野外彫刻が発展したこと、ファッションショーや絵画展などもあって、オリンピック種目とは直接関係はありませんが、長野の文化活動に資するものが沢山あったと感じており、評価されるべきものと感じています。
また外国の選手団関係者が、例えばドイツハウスとかイタリアハウス等もつくられ、それぞれ自分の国の人や選手のたまり場になったり、PR活動に務めておられました。ホスピタリテイも大いに進んだように感じています。
ただ、継続的なプロジェクトにならなかったことが残念でした。

オリンピックの期間中、フレンズクラブのメンバーが、IOC委員の車の運転を引き受け、勿論一緒に楽しんだこともありますが、委員とそのご家族のアテンドをしたことも懐かしい思い出です。このことについても、前出の商工会議所の記録に詳しくのっていますから読んでいただければ幸いです。

オリンピックの時の車は、トヨタ自動車が、オリンピックエンブレムのついた素敵な車で、全部ではなかったと思いますがドライバーも一緒に来てくれたと記憶しています。
ただ市外から来て下さったドライバーだと、どうしても地理不案内、カーナビもつき始めたばかりの時期で、わかりやすい案内には難がありました。従ってフレンズクラブが手配した会社の社長や社員の運転は評判がよく、一度頼まれてしまうと重宝されてしまい、そのIOC委員さんが長野を去る時まで仲良くお付き合いした人が多かったようです。

 オリンピックの期間中、私は競技等をみることは全然出来ませんでした。フレンズクラブの皆さんも、競技を楽しむということは無かったように感じていますが、でもあのオリンピックの期間中、何か夢の中にいたようで楽しかったなあというのが私の感想です。

ひとつ、クラブのメンバーから、私が叱られた話をさせて下さい。
過去の冬季オリンピックの例では、来られたIOC委員さんが最後(閉会式)まで居られることは少ない。特に南国の委員方は、自国の選手もいないし寒いので、開会式が終わると帰国する例が多いという情報でした。私はアテンドするフレンズクラブの皆さんを説得するにあたり、その旨を話しており、「多分早くお帰りになるよ。」なんて言っていたのですが、長野オリンピックでは違ったようです。

フレンズクラブの皆さんの対応が良かったせいか、居心地が良かったのでしょうか。閉会式までほとんどの委員さんが残っておられました。そのため皆さんから「お前の話しは出鱈目だ!」と笑いながらですが、私にクレームがつけられてしまいました。まあ良いアテンドで、IOC委員さんには喜んでいただけたのだと思います。
閉会式の翌日、サマランチ会長が私たちに対する挨拶で、過去最高の冬季オリンピックだったと持ち上げてくれたこと、嬉しい限りでした。

以上で、私のオリンピックでの裏話は終了とさせていただきます。
時あたかも、ロシアで冬季オリンピックが開催されていました。何となく懐かしくなって、長野オリンピックにおける私の役割なんておこがましいブログを書いてしまいました。

私が勘違いしている部分は沢山ありそうです。個人とすれば出来るだけ事実を書いてきたつもりですが、「けしからん、おれはそんな気持ちで手伝ったわけではないぞ。」とおっしゃる方もいそうです。私の心で感じたことや感想は書かなかったつもりですが、それは皆さんが、何らかの形で記憶の底から出す時がくるかもしれません。

尚、これ以後については、平成13年以降、市長に就任してしまい、その半年後から、市役所のサーバーを使って、「市長メルマガ」を任期中、週一回、毎週書き続けたことは、御存じの通りです。良かったかどうかは皆さんのご批判に任せますが、やはり公的立場を背負っての執筆ですから、自分の思いのまま勝手に書くことはできなかった。

今回は、市長退任後、実質的には市長就任前も含めて私の履歴書みたいになってしまったこと。当初の意図とは必ずしも同じではなくなってしまったなあと反省していますが、それでも読み返してみて公的な文章とはかなり違ってきていますし、裏話も書きやすかったことは事実です・・・当然違った批判もでてくることは覚悟していますが・・・

いつの日かもう一度長野冬季オリンピックを招致し、長野出身の金メダリストが現れることを祈って・・・

今後メルマガをどうするか、老人ボケにならないよう張り切って生きたい、メルマガも書き続けていきたいなあと考えて、構想を練っていますが・・・