2014年3月7日金曜日

徒然の記 №16 長野オリンピックでの私の役割 (4/8)

** リレハンメル・アトランタ **

1991年長野オリンピック開催が正式決定してから、1998年の本番までの7年間、道路・競技施設・ホテル等の建設は、すさまじい速度で進行しました。
公共事業で行う、新幹線・道路・競技施設など、表彰式会場以外は、順調に進んだと感じています。新幹線に反対する人達が軽井沢で“立木トラスト” (田中元知事等が行ったもので、現地の立木に自分の体を縛りつけて、工事をやらせないぞとの意思表示の表明・・・)という反対行動がありましたが、吉村知事の裁断でしょう、事無きを得て新幹線計画はスムースに進行したこと、大変嬉しかったし、反対運動は大勢に影響は無かったと私は思っています。それより途中でミニ新幹線の提案が出てきて、小諸市などではそちらに傾いた意見も出てきたようで若干心配しました。
オリンピック後の長野市に新幹線がいかに大きな効果を与えてくれたか、現在も続いているわけですから・・・、我々は心から感謝すべきことと思っています。

ただカルガリーやリレハンメルのことを見たり聞いたりしていますと、日本人は本当に気まじめだなあということをつくづく感じました。日本選出のIOC委員さんの話しですが、「アルベールビル、リレハンメルといい加減なオリンピックが二回続いたので、日本なら大丈夫だろうとIOC委員は思っている。長野が勝てた一番の理由はそれだ。」という話をしておられたのを記憶しています。

以下経験したことをまじえて報告しますと、
94年、リレハンメル・冬季オリンピックには、4年後の長野オリンピックにつなげる意味で、フレンズクラブは大挙して出かけました。ノルウエーの首都オスロから、単線の電車でリレハンメルに通ったのですが、長い時間がかかり本当に疲れました。
この電車では、市川浩一郎さんが財布を盗まれ(開会式の入場券も入っていました)開会式に入場できないのではないかと心配しましたし、帰りのオスロ駅では鹿熊さんが、パスポートが入ったバックを盗まれて大使館に飛び込むハプニングも発生しました。
現地にはきちんとしたホテルは少ない(無いと言ってもよいくらい)、IOCの開催地決定時には、ホテルをつくるという契約だったようですが・・・アメリカの会社がプレハブの積み木のようなホテルを持ってきてお茶を濁したようですから、私たちはオスロに宿泊し、何時間もかけてリレハンメルに通うより仕方がなかったのです。リレハンメルの住人は、自宅を選手団や役員に貸して、一時的に移住していた方がおおかったと聞いています。長野オリンピックの開会式の時も、会場周辺で盛大な花火が行われましたが、騒音が凄いということで、あの周辺の方々に温泉地(?)へ避難していただいたと聞いていますが、リレハンメルもそれと同じだったということでしょう。

開会式はジャンプ台の下の観客席で行われました。寒くて、冷たくて参った記憶があります。交通体系は、基本的には“歩く”ことがあの国のテーマかなあと感じたぐらい、オスロの駅から会場までのあるはずのバスが無くて、山の上のジャンプ場とリレハンメルの街、駅まで歩いて移動することが当たり前の感じでした。
いろいろ問題があり、これで良いなら長野はすぐにでも開催できる・・・なんて、私は感じていました。

96年のアメリカ・アトランタでの夏季オリンピックは、コカコーラの本社の所在地ということもあってさすがに凄い取り組みでした。
フレンズクラブも大勢で出かけました。アトランタは、長野からアトラクションとして出場したオリンピック広場での琴や尺八の演奏も花を添えて、人気があったようです。
ただその夜、お祭り広場で爆発騒ぎがあり、既にアトランタを出発していたフレンズクラブのメンバーには関係ありませんでしたが大変心配して、もしかすれば現場へ行かなくてはならないかということで、商工会議所のメンバーともあちこち電話連絡をして、眠れない夜を過ごしました。長野からの訪問団には異状はなかったこと、幸いでした。
日本に帰った時に列車に乗ったら、アトラクションの中心的な役割を担っておられた仁科さんにお会いし、無事だったことが確認できて一安心でした。