2014年3月11日火曜日

徒然の記 №20 長野オリンピックでの私の役割 (8/8)

** オリンピックが残してくれたもの **

国際化時代になって外国人に接する機会は多くなっていますが、長野市民がそのことに慣れてきたことは勿論、いろいろの催しに夫婦で参加しようという気運もオリンピックを契機に少しすすんだかなと思っています。
招致段階で、子供さん達の手紙を英文に訳してIOC委員さんに送ったこともありました。いずれにしろ、オリンピックを契機にいろいろな行事にみんなで参加していこうという取り組み、市民の盛り上げの気運は確実に上がってきているように思います。

ハード部分については、オリンピックの開催によって確実によくなったのですが、努力をしても、結局身分不相応な投資となってしまい、産業再生法のお世話になってしまったこと、見込み違いであったわけで、お気の毒というより仕方ありません。

オリンピックに関してはマイナス面だけではありません。産業再生法に基づいて経営者は変わりましたが、素晴らしい施設が長野市に残りました。シテイ・ホテルが存在するということは、新幹線・高速道などと共に、長野市の都市としての格が大きく上ったと思っています。オリンピック後、世界的な会合や日本的な会合を、長野に沢山招致することができているのもそのお陰であり、オリンピックのプラス面と評価したいと思っています。

又、オリンピックにはアスリートのスポーツ競技だけでなく、前にもかきましたが、文化プログラムというのがありました。長野ではいろいろなプログラムが行われましたが、その中に大きなものでは、アスペン音楽祭、オペラ信濃の国善光寺物語、北野建設さんが有名な彫刻を沢山用意されて長野市の野外彫刻が発展したこと、ファッションショーや絵画展などもあって、オリンピック種目とは直接関係はありませんが、長野の文化活動に資するものが沢山あったと感じており、評価されるべきものと感じています。
また外国の選手団関係者が、例えばドイツハウスとかイタリアハウス等もつくられ、それぞれ自分の国の人や選手のたまり場になったり、PR活動に務めておられました。ホスピタリテイも大いに進んだように感じています。
ただ、継続的なプロジェクトにならなかったことが残念でした。

オリンピックの期間中、フレンズクラブのメンバーが、IOC委員の車の運転を引き受け、勿論一緒に楽しんだこともありますが、委員とそのご家族のアテンドをしたことも懐かしい思い出です。このことについても、前出の商工会議所の記録に詳しくのっていますから読んでいただければ幸いです。

オリンピックの時の車は、トヨタ自動車が、オリンピックエンブレムのついた素敵な車で、全部ではなかったと思いますがドライバーも一緒に来てくれたと記憶しています。
ただ市外から来て下さったドライバーだと、どうしても地理不案内、カーナビもつき始めたばかりの時期で、わかりやすい案内には難がありました。従ってフレンズクラブが手配した会社の社長や社員の運転は評判がよく、一度頼まれてしまうと重宝されてしまい、そのIOC委員さんが長野を去る時まで仲良くお付き合いした人が多かったようです。

 オリンピックの期間中、私は競技等をみることは全然出来ませんでした。フレンズクラブの皆さんも、競技を楽しむということは無かったように感じていますが、でもあのオリンピックの期間中、何か夢の中にいたようで楽しかったなあというのが私の感想です。

ひとつ、クラブのメンバーから、私が叱られた話をさせて下さい。
過去の冬季オリンピックの例では、来られたIOC委員さんが最後(閉会式)まで居られることは少ない。特に南国の委員方は、自国の選手もいないし寒いので、開会式が終わると帰国する例が多いという情報でした。私はアテンドするフレンズクラブの皆さんを説得するにあたり、その旨を話しており、「多分早くお帰りになるよ。」なんて言っていたのですが、長野オリンピックでは違ったようです。

フレンズクラブの皆さんの対応が良かったせいか、居心地が良かったのでしょうか。閉会式までほとんどの委員さんが残っておられました。そのため皆さんから「お前の話しは出鱈目だ!」と笑いながらですが、私にクレームがつけられてしまいました。まあ良いアテンドで、IOC委員さんには喜んでいただけたのだと思います。
閉会式の翌日、サマランチ会長が私たちに対する挨拶で、過去最高の冬季オリンピックだったと持ち上げてくれたこと、嬉しい限りでした。

以上で、私のオリンピックでの裏話は終了とさせていただきます。
時あたかも、ロシアで冬季オリンピックが開催されていました。何となく懐かしくなって、長野オリンピックにおける私の役割なんておこがましいブログを書いてしまいました。

私が勘違いしている部分は沢山ありそうです。個人とすれば出来るだけ事実を書いてきたつもりですが、「けしからん、おれはそんな気持ちで手伝ったわけではないぞ。」とおっしゃる方もいそうです。私の心で感じたことや感想は書かなかったつもりですが、それは皆さんが、何らかの形で記憶の底から出す時がくるかもしれません。

尚、これ以後については、平成13年以降、市長に就任してしまい、その半年後から、市役所のサーバーを使って、「市長メルマガ」を任期中、週一回、毎週書き続けたことは、御存じの通りです。良かったかどうかは皆さんのご批判に任せますが、やはり公的立場を背負っての執筆ですから、自分の思いのまま勝手に書くことはできなかった。

今回は、市長退任後、実質的には市長就任前も含めて私の履歴書みたいになってしまったこと。当初の意図とは必ずしも同じではなくなってしまったなあと反省していますが、それでも読み返してみて公的な文章とはかなり違ってきていますし、裏話も書きやすかったことは事実です・・・当然違った批判もでてくることは覚悟していますが・・・

いつの日かもう一度長野冬季オリンピックを招致し、長野出身の金メダリストが現れることを祈って・・・

今後メルマガをどうするか、老人ボケにならないよう張り切って生きたい、メルマガも書き続けていきたいなあと考えて、構想を練っていますが・・・

徒然の記 №19 長野オリンピックでの私の役割 (7/8)

** オリンピック聖火 **

オリンピック直前の1997年12月、年末押し詰まったなかで、ギリシアのアテネで、聖火の採火式に参加し、その聖火を皆で日本まで運んでくるというイベントが行われました。NAOCが日本からアテネまで、ジャンボ旅客機を借り上げ、「聖火の翼」ということで日本中から希望者を募り、成田からアテネへ直行便を飛ばしました。勿論長野市の人が多かったと思います。私も頼まれて運賃を払って御一緒させてもらいました。
アテネに着いて、オリンポスの遺跡の中で太陽光から採火式が行われ、クーベルタンの森でトーチに移し、まずギリシア国内をランナーが走り始め日本国内に繋がりました。
日本国内では有名人も含め、色々な方がランナーを務められました。私も最終日、丹波島の橋から、約800mぐらいでしたが、軽井沢に来ていたオリンピックキャンプに参加していた若い女性と並んで、トーチを持って走らせていただきました。開会式はその流れの中でスタンドの高い処へ連れていかれ、伊藤みどりさんの点火の瞬間は比較的近い場所で見ることが出来ましたが、でも折角用意していた良い場所のチケットは無駄になりました・・・

** チーム98 **

オリンピックの本番に向けて、ボランテイアを広く求めたいということがあって、NAOCの公式組織として、「チーム98」と命名されたボランテイア組織がありました。フレンズクラブ代表の私が、たまたまその組織の代表も務めることになってしまい、混同していた面もあるかと思いますが、どちらも長野オリンピック開催に大きな力を発揮したと思っています。チーム98には全国から、数万人のボランテイアの皆さんが集まり、汗を流して下さいました。会場の整備・警備・駐車場整理など、ボランテイアの皆さんがいて下さらなければ、どうなったことか・・・本当に感謝です。

フレンズクラブについては、必ずしも公的扱いではありませんでしたが、それぞれの工夫で素晴らしい活動をしていただきました。皆さんが自前のお金で、自由に取り組んでいただいたことは前述の通りです。
チーム98についてはNAOC組織の一部でしたから、オリンピック成功のため、NAOCの要請を受けて多方面で努力していただいたのですが、動きはフレンズクラブのように気軽に動くことは出来なかったということでしょうか・・・でもスパイラルの応援を現在も行っていただいている浅川地区の皆さん、Mウエーブの応援を一生懸命やっていただているM友の皆さん、どちらもオリンピック終了後、まだまだ頑張っていただいていること、本当に有難いことです。

2014年3月10日月曜日

徒然の記 №18 長野オリンピックでの私の役割 (6/8)

** 表彰式会場「セントラルスクエア」 **

オリンピックを当てにしてつくった「公共施設」については、スパイラルやMウエーブ・ビッグハット・野球場(開会式会場)・新幹線・オリンピック道路等いろいろありましたが、まずまず順調にいきましたが、民間でつくったものは大変苦労されたことは事実です。
その代表的なものがホテルということは前述の通りです。国がNTTやJRの株式売却利益を利用した低利の資金を用意し、長野市等自治体を通して融資する制度も出来たのですが・・・、自治体の方は全て銀行の保証付きで融資する。リスクは負わないという建前でした。長野市としてもリスクは無いオリンピックの為という大義名分もあるわけですから、申請があれば銀行の保証をとりつけ、どんどんお貸する。テレビ会社の放送施設や温泉施設などもあったように記憶していますが・・・、銀行も多少のリスクは目をつぶって融資しましたから、都市の整備は全体としては進んだはずです。

ただ、これらは補助金ではなく事業者にとっては、結局全て借金ですから返済しなくてはならない・・・
過去の東京オリンピックや札幌オリンピックの時のように、売り上げがどんどん上がっていく。人口が増え、都市の規模が格段に大きくなっていく時代なら問題はなかったのでしょうが、長野市の場合、人口はオリンピックの前と後でほとんど変わらない。しかもオリンピック開催準備中は増えていた人口も、終了後は社会増が社会減に逆転し、急激に減り始めてしまいました。

オリンピック終了後の不景気は深刻でした。過去オリンピックを開催した東京や札幌のように、長野市の規模がもっと大きくなり、設備投資が十分に成り立つと皆さん考えたのでしょうが、そうはいかなかったのです。行政としても色々なイベントを誘致したり、設備投資が回収できるような応援を出来る限りしたのでしょうが、支えきれなくなってしまったというのが実態でしょう。(NUPRIが出資したMウエーブの経営も、出来れば民間でやっていこうと努力したのですが、結局民間だけでは見通しが立たず三セクになり、行政の比重が高まりました)どうしようもなくなったわけで、借金してつくった施設も、終わってしまえば身分不相応な施設を造ったことになり、大きな悲劇が到来しました。

シテイ・ホテルのうち、従来の経営者で残ったのは、駅前のJR系メトロポリタンホテルだけ。後は、産業再生法に従って銀行が債権の大きな部分を自己償却し、株式も償却して、新たな資本、新たな経営者が登場。苦労して投資された皆さんは、全て新しい経営者にかわりました。資本の論理でやむを得ないとはおもいますが厳しい現実でした。

私の関係した表彰式会場だったセントラルスクエアも、ホテル計画が挫折した後、駐車場として経営すればなんとかなる。借金の重みは大きいけれど、最後は土地を売ればなんとかなる・・・私は高をくくっていたのですが・・・、

たまたまサマランチ会長が、「表彰式会場は競技会場周辺の山の中でやるより、街の真ん中で人が大勢集まる場所でやるのが良い。」という発言があったという報道から、オリンピック成功のために、又市街地の活性化のために、NUPRIとしてもうひと息頑張ろうということになり、どうせやるならセントラルスクエアしかないということになり、多くの出資者を募って第一生命の土地だけは買い取りました。(あの時の私の判断ミスは、全部行政に任してしまえば良かったのですが、我々でも出来るはずだと考えたことです)

表彰式会場は仮設の整備ですから、NAOCから借料はもらえない、(実際には無償でお貸しました)、表彰式会場の整備資金が必要ということで、私が代表を務めていたNUPRI(長野都市経営研究所)とアドビューローの人たちとも色々研究し、頭をひねって、皆さん記憶しておられるかどうか、陶磁器のタイルに名前を自署してもらったものをつくり、販売させていただき、その収益で会場の壁を飾り、設備費を生み出そうという仕組みを考えました。(ただこの案にもクレームがついたことがあります。IOCの公式スポンサーではないタイルの購入者の名前が会場の表面にでることはまずい・・・と言った議論でした。適当に誤魔化しましたが。)

表彰式会場の工事費は、全てタイルの販売収益でまかなったということです。終わってからタイルの処分にちょっと困ったのですが、Mウエーブの壁に移して張ることで、長野市の了解をとりつけ、タイルに関する位置DATA等はMウエーブの事務局が管理することにして、このプロジェクトは終了しました、

私のミスとして今でも悔いていることは、名前を自署したタイルに、住所を入れなかったことぐらいでした。(ただ住所の記録はMウエーブで管理している資料にはあるはずですのでいざとなれば引き出すことは出来ると思っています。オリンピック終了後、50年記念、あるいは100年記念等の時、タイルのことを思い出にするイベントをやるのはどうでしょうか・・・もっとも生存者はいない。名前を自署した人の子や孫の会になりそうですが・・・(私も孫の名前を含め、家族全員でタイルを購入しています。)
悔しい部分もありましたが、このプロジェクトは、大成功だったと今でも感じています。

同じような仕組みで(少し違いますが)、第一生命から購入した土地代の借金については、産業再生法のお世話にならざるを得ませんでした。原因は、私たちが右肩上がりで土地価格は上るものという神話に乗っていたことで、土地の評価額が大きく下がってしまったことに抵抗できなかったことが原因です。大きな火傷を負いました。

ただセントラルスクエアは、表彰式会場としては大成功だったと思っています。長野の中心街にあれだけの賑わいがつくれたこと、一時的ではありましたが、素晴らしい夢を市民に提供出来たことは私たちの誇りです。あの会場はNUPRIとしてNAOCに無償でお貸したものとして記録しておきたいことです。

2014年3月8日土曜日

徒然の記 №17 長野オリンピックでの私の役割 (5/8)

** 「ザ・ホテル・インターナショナル」 **

苦い思い出は沢山ありますが、最大のものは、現在のセントラルスクエアに計画されていたホテルのことでした。大きな心配の種でした。
あのホテル計画は、第一生命と長野電鉄が中心になって“ザ・ホテル・インターナショナル”として、オリンピックのメイン・ホテルになる予定で計画が進んでいました。(当時の土地所有者は、鈴木土地さんと第一生命でした。)
長野市財界も皆で協力しようということで、私の会社も一旦は確か2千万円ぐらい出資した記憶があります。(この出資金のことですが、ホテル計画が中止になってしまったのち、当時高金利時代でしたので、ホテル会社が出資金を運用して金利を稼ぎ、準備経費も含めて稼いだお陰で、出資者に表面上は損させることなく満額返還されました。)

ただ、いずれにしろ中心になる第一生命が計画から下りてしまったのですから、これには参りました。次なるスポンサー探しは困難でした。努力の末のことでしょうが、八十二銀行から“ザ・ホテル・インターナショナル”に出向されていた小林清吾さんが、市内の財界関係者に「このプロジェクトは失敗だ、傷口を大きくする前に撤退すべきである。」と説いてまわったあの情熱はすごい迫力でした。良い意味での撤退策だったと私は思います。

シテイ・ホテルというのは、ビジネスホテルとは根本的に違い、設備も運営費も桁違いにお金がかかるのだそうで、例えばホテルのサービス部門の社員数は、ホテルの部屋数と最低限同数の人員が必要だということだそうですから、合理化されたビジネスホテルの経営とは全く違うし、それなりに都市の顔になるものですから、部屋のレベルは勿論、社員の教育訓練も必要、優秀なレストランや売店等も出店してもらわなくてはならない等々、簡単に経営できるものではなく、最初から大変な苦労が予測されるものだったようです。(リレハンメルの計画みたいなものなら、楽だったのでしょうが・・・)。

結論としては、“ザ・ホテル・インターナショナル”のプロジェクトは、第一生命が下りてしまったことで、代替えスポンサーが見つからず中止になりました。そのためオリンピックのメイン・ホテルは、ホテル国際21におちつきました。

もし中央通りに大きなホテルが出来れば、また違った都市の構造が生まれたのではないかと残念に感じたことも事実ですが、当時の長野市の都市の容量を考えれば仕方のない選択だったと思います。

2014年3月7日金曜日

徒然の記 №16 長野オリンピックでの私の役割 (4/8)

** リレハンメル・アトランタ **

1991年長野オリンピック開催が正式決定してから、1998年の本番までの7年間、道路・競技施設・ホテル等の建設は、すさまじい速度で進行しました。
公共事業で行う、新幹線・道路・競技施設など、表彰式会場以外は、順調に進んだと感じています。新幹線に反対する人達が軽井沢で“立木トラスト” (田中元知事等が行ったもので、現地の立木に自分の体を縛りつけて、工事をやらせないぞとの意思表示の表明・・・)という反対行動がありましたが、吉村知事の裁断でしょう、事無きを得て新幹線計画はスムースに進行したこと、大変嬉しかったし、反対運動は大勢に影響は無かったと私は思っています。それより途中でミニ新幹線の提案が出てきて、小諸市などではそちらに傾いた意見も出てきたようで若干心配しました。
オリンピック後の長野市に新幹線がいかに大きな効果を与えてくれたか、現在も続いているわけですから・・・、我々は心から感謝すべきことと思っています。

ただカルガリーやリレハンメルのことを見たり聞いたりしていますと、日本人は本当に気まじめだなあということをつくづく感じました。日本選出のIOC委員さんの話しですが、「アルベールビル、リレハンメルといい加減なオリンピックが二回続いたので、日本なら大丈夫だろうとIOC委員は思っている。長野が勝てた一番の理由はそれだ。」という話をしておられたのを記憶しています。

以下経験したことをまじえて報告しますと、
94年、リレハンメル・冬季オリンピックには、4年後の長野オリンピックにつなげる意味で、フレンズクラブは大挙して出かけました。ノルウエーの首都オスロから、単線の電車でリレハンメルに通ったのですが、長い時間がかかり本当に疲れました。
この電車では、市川浩一郎さんが財布を盗まれ(開会式の入場券も入っていました)開会式に入場できないのではないかと心配しましたし、帰りのオスロ駅では鹿熊さんが、パスポートが入ったバックを盗まれて大使館に飛び込むハプニングも発生しました。
現地にはきちんとしたホテルは少ない(無いと言ってもよいくらい)、IOCの開催地決定時には、ホテルをつくるという契約だったようですが・・・アメリカの会社がプレハブの積み木のようなホテルを持ってきてお茶を濁したようですから、私たちはオスロに宿泊し、何時間もかけてリレハンメルに通うより仕方がなかったのです。リレハンメルの住人は、自宅を選手団や役員に貸して、一時的に移住していた方がおおかったと聞いています。長野オリンピックの開会式の時も、会場周辺で盛大な花火が行われましたが、騒音が凄いということで、あの周辺の方々に温泉地(?)へ避難していただいたと聞いていますが、リレハンメルもそれと同じだったということでしょう。

開会式はジャンプ台の下の観客席で行われました。寒くて、冷たくて参った記憶があります。交通体系は、基本的には“歩く”ことがあの国のテーマかなあと感じたぐらい、オスロの駅から会場までのあるはずのバスが無くて、山の上のジャンプ場とリレハンメルの街、駅まで歩いて移動することが当たり前の感じでした。
いろいろ問題があり、これで良いなら長野はすぐにでも開催できる・・・なんて、私は感じていました。

96年のアメリカ・アトランタでの夏季オリンピックは、コカコーラの本社の所在地ということもあってさすがに凄い取り組みでした。
フレンズクラブも大勢で出かけました。アトランタは、長野からアトラクションとして出場したオリンピック広場での琴や尺八の演奏も花を添えて、人気があったようです。
ただその夜、お祭り広場で爆発騒ぎがあり、既にアトランタを出発していたフレンズクラブのメンバーには関係ありませんでしたが大変心配して、もしかすれば現場へ行かなくてはならないかということで、商工会議所のメンバーともあちこち電話連絡をして、眠れない夜を過ごしました。長野からの訪問団には異状はなかったこと、幸いでした。
日本に帰った時に列車に乗ったら、アトラクションの中心的な役割を担っておられた仁科さんにお会いし、無事だったことが確認できて一安心でした。

2014年3月6日木曜日

徒然の記 №15 長野オリンピックでの私の役割 (3/8)

** City of NAGANO **

オリンピックの招致レースの決勝戦は、イギリスのバーミンガムでした。
フレンズクラブの仲間23人でバーミンガムへ出かけました。バーミンガムに賭博場があることを初めて知りました。フレンズクラブのご婦人方は、日本から持参した和服姿でIOC委員さんの目を引きました。
バーミンガムでは、会場の外で「長野オリンピック反対」のグループも活動していましたが、IOCの委員さんからは「どこでも反対者はいるものです」との話がありました程度で、あまり問題にはならず影響はありませんでした。

総会の会場では、エリザベス女王のお姿も拝見しましたし、有名選手の顔も沢山みえました。一大イベントだったと言って良いでしょう。

総会がはじまり、メインはIOCメンバーによる別室での投票でした。IOC方式による投票で、決まるまでかなりの時間がかかりました。単純投票ではなく、どこかの都市が過半数を獲得するまで最下位の都市をはずして投票を繰り返す方式で、一つの都市を選ぶセレモニーとしては複雑ですが、スリルもあり面白いやり方だなあと感じました。

私は、決定の瞬間を、会場内で今か今かと待っていました。
一方長野の善光寺境内では3000人を超す市民が、深夜にもかかわらず決定を待っていたそうです。私もバーミンガムの会場で、同じように胸をときめかせながら待っていました。

あのサマランチ会長の「City of NAGANO」の声、私たちは永久に忘れないでしょう。


そういえば、バーミンガムでの決定後のことだったろうとおもいますが、こんなこともありました。長野オリンピックの4年前、リレハンメル・オリンピックの閉会式で、会場から「犬そり隊」が、メッセージを持って長野に向かって出発しました。環境問題が重要課題になりつつあった時代、ユーラシア大陸を動力のない犬そりで横断し、ナホトカから帆船で日本にやってくるという壮大な計画で、有意義なことと理解されていました。私も当時リレハンメル・オリンピックの閉会式場で出発シーンを見て知っていました。

ところが、その犬そり隊、シベリアの雪の中で、多分お金が無くなって・・・ストップしてしまったのです。
その隊の中に毎日新聞の日本人記者が乗り組んでいたのですが、彼、困って長野に飛んで帰ってきて「何とかしてくれ」・・・無責任極まる企画で日本では考えられない話ですが・・・
やむを得ず、また私が会議所に泣きついて金集めをし、金額は忘れましたが、約500万円ぐらいだったと思うのですが、用立ててあげました。NAOCにも話をもちかけたのですが、「とにかく犬そり隊を長野まで連れてこい。そうすれば何とかする・・・」が答えでした。

その時、私がその記者に言ったことは「この金は犬そり隊の隊長に渡してはいけない。あなたが必ず管理すること。」という条件をつけさせてもらいました。結局、無事日本に到着しましたので、事業は成功だったということでしょう。

この話には後日談があります。
何日か経ってからのことですが、犬そり隊派遣の責任者(と思われる)リレハンメルの市長が長野にやってきて県と市を表敬訪問したのですが、その間、県庁と長野市役所間の昭和通りで大パレードを行ったのです。
別に言ってほしくもありませんが、「いやーお世話になりました。」くらいの挨拶があってもよいのに・・・何もなく、正々堂々とした態度で本当にびっくり。全くいい加減な話で、我々が面倒を見なければどうなっていたことか・・・。
それにあの犬の始末はどうなったか・・・誰かが引き取ったのでしょうが、かなり高価な価格がついたはずという人がいましたし、全体の決算書も見ていません。

2014年3月5日水曜日

徒然の記 №14 長野オリンピックでの私の役割 (2/8)

** フレンズクラブ **

カルガリー視察でもうひとつ印象に残ったのは、女性のそれも比較的高齢の方が、オリンピック本番一年前なのに格好良いユニホームを着て、ボランテイアセンターで嬉々として活動している姿でした。とても格好良い姿でうらやましく感じました。

1990年のことですが、私は塚田市長さんと市村オリンピック招致委員会の事務総長さんに駅前のホテルに呼び出されました。「オリンピックを前にして、東京の高輪プリンスホテルでIOC総会が開かれる。その前後にIOC委員が開催地の視察にやってくる。開催地決定のIOC総会は、1991年6月イギリスのバーミンガムだが、その前にできるだけ多くのIOC委員を長野に招待したい。IOC委員はほとんど夫婦で来られるので、そのアテンド(接待役)は役人では無理があるので、ぜひ鷲澤さんの人脈でアテンド希望者を募って対応してほしい。ぜひ引き受けてくれ。」という要望でした。

頼まれればいやとは言えない性格ですので、お引き受けすることにしました。オリンピックフレンズクラブの誕生です。

外国人への対応であり、予算もあまり無い中での話ですから、JCの仲間を中心にある程度自腹で取り組むことが出来る人を、そして時間の余裕がとれる人を募りました。原則は、IOC委員の交通費は招致委員会の負担、我々ボランテイアは、行きは招致委員会負担、帰りは自前、宿泊は適宜に対応。私の場合は京都や大阪の花博等までお供しましたが、祇園での酒代も含め、全て自腹だったように記憶しています。まあかなりいい加減な決め事ですが、それが許される社会状況だったと思います。

活動がはじまってからのことですが、IOCの委員さんにはいろいろな方がいらっしゃいました。
私たちは柔道着が不足している国の情報を得ていましたので、その国の委員さんに「長野の中学生たちが学校で使っていた柔道着があります。集めてお国にプレゼントとして送りましょう。」と申し上げましたら「それはどこにあるのか?俺は技術屋で自分の目でみたものしか信じない。」という方がいらっしゃいました。
そんな質問がありそうだという予想もあったのでしょうか、市役所内の招致委員会室の隣の部屋に、長野市中から集めた古い柔道着が山と積んでありましたので、それを見せて満足してもらったことがありました。

京都の金閣寺に案内したとき、あれは金で出来ていると申し上げましたが・・・嘘だと信じてもらえなかったように思います。(もっとも金箔を張ったものという英語はうまく言えませんでしたので誤魔化しました。)

沢山の委員さんが来られました。その都度駅周辺の商店街の方々が中心になって、列車が着くたびに駅頭で万国旗を振っての歓迎行動、そして夜は歓迎パーテーを開いて歓待したのですが、その時参加する市民の方に一人3000円を負担していただいていたのですが、毎回になるとさすがに高いのでしょうね。だんだん出席者が減ってしまいました。あわてて私は会議所へ出かけて専務と交渉、予算を用意してもらったおかげで、一人1000円負担にすることが出来ました。琴の演奏・餅つき・お茶の会等など賑やかに歓迎行事を開催することができ、招致に大きな力を発揮したものと思っています。
 
東京でのIOC総会直後、北京でアジア大会が開催されました。私たちも東京から北京へ移動するIOC委員さんをおっかけで参加したのですが、その開会式でアジアの首脳が居並ぶなか、江沢民中国共産党主席とサマランチIOC会長が、並んで座席についていたことが印象的でした。

IOCの委員さんはかなり大勢長野においでになりました。(正式記録は、会議所にある資料“NAGANO OLYMPIC FRIENNDS CLUBをご参照ください)。
私は個々の委員さんのアテンドに、フレンズクラブの誰を割り振るか、てんてこ舞いの日を送っていました。委員さんの日程がなかなか確定しない。その都度、NAOCから予定をお聞きするのですが、それでも変わる。それを強引に当てはめていくのが私の仕事ですが、それでも予定が狂ってしまう・・・最後は私がいく覚悟を何度もさせられました。まあ勝手なものだとつくづく感じたことを覚えていますし、にもかかわらずフレンズクラブのメンバーが良く対応して下さったこと、本当に感謝でした。

イスラムの方はアルコールを飲まないという話しでしたが、お帰りになったあと、ホテル仙寿閣の冷蔵庫は空っぽだったという話もありました。地獄谷の猿の温泉は人気だったようです。
オリンピック道路は工事中で片道交通等が多く、白馬から帰りの松本発、あるいは長野発の列車の時刻に間に合わせるために、私の車の運転手に「飛ばせ!責任は俺がもつから」なんて乱暴な発言もありました。県から来ていた招致委員会の職員も冷や汗だったのでしょう。

2014年3月4日火曜日

徒然の記 №13 長野オリンピックでの私の役割 (1/8)

** 冬季オリンピックの招致 **

この運動は数年がかりの活動でしたので、色々な場面がありました。
先日来、市民新聞で塚田元市長さんが、ご自分のやってこられたIOC委員の招致活動等を詳細に語っておられます。いずれは纏めて単行本などになるだろうと予測していますので、私はそれとは違う観点、特に裏話を中心にオリンピックのソフト面も含め、フレンズクラブやチーム98(ボランテイア)の活動についても、何らかの記録を残しておくべきと考えまとめてみました。ただ詳細・公式な記録は、長野商工会議所内にある「フレンズクラブのあゆみ」に載っていますのでご参照ください。
私は私なりに、自分の関係してきたことを記録として残しておきたい、そんな思いでこの文章をつくっています。

1998年長野冬季オリンピックが行われ、長野は世界の”NAGANO“になりました。そのことに大きくかかわれたこと、私は誇りに思っています。

 長野オリンピック招致が話題になりはじめたのは、1980年代、昭和で言えば60年以後の話でしょう。塚田元長野市長の登場は昭和60年、あの地付山地滑りの年です。
長野市議会で青木誠元市議が、議会質問で最初に声を上げたと聞いています。県議会でも話題になっていたようで、いずれにしろ、どういう人が、どういう経緯で声をあげていくか、その後の発展に大変重要な関係がある。最近そんなことを感じています。
公式に考えればいろいろ難しい問題はあるのでしょうが、「まあいいや、やってみよう!」くらいの感覚だったのでしょうか。米国の“アスペン”へ、夏目幸一郎さんに連れられての旅行もそんな時期だったように思います。

最近、塚田元市長さんの回顧録が市民新聞の紙面を飾っています。特に外国の方との折衝は、市長さん独特の英語を駆使しておやりになったこと、招致活動の実質的な責任者として、お亡くなりになった奥さんと一緒に世界を飛んで歩いたこと・・・まさに招致への“正史”として、よく書けていると感心しています。
それとは違う私のオリンピックとのかかわり、何年か経てば、多分忘れられてしまう歴史を、まさに裏話として市民の皆さんの心の隅に何らかの形で残ってくれたら・・・

JOCの中での争いだった日本での国内予選。記憶は定かではありませんが、1989年、旭川、山形、盛岡、長野、四都市の争いだったでしょうか。私たちはJCや会議所会員が中心になって、この予選を戦い抜くためにJOCに投票権のある方々を(当然のこと、スポーツ団体の会長さん達でした)、大学の先輩・後輩等の御縁をいかしながら、東京方面へでかけ、ぜひ長野に投票を・・・とお願いして歩きました。
幸い、この争いは4都市がプレゼンテーションを行ったあとの投票で、長野が一発で立候補の権利を取得しました。そのときのJOCの役員さんのコメントをテレビでみていたのですが、「実際のオリンピック本番は約10年以上後の「1998年」の話、その時まで、市長として責任をもてそうなのは、4人の市長のうちで長野の塚田市長だけだ・・・」とおっしゃっていたのが、印象的でした。(もうひとつ私が気の毒だと感じたのは、その時の旭川の得票が“0”だったことでした。)

長野は、過去、第二次世界大戦で中止になった幻の東京オリンピックの時も含めて、冬季五輪には何度か立候補しようとしたことがあったそうですが、当時は長野県内すら一つにまとまらず、正式立候補はできなかったと聞いています。そこで今回は、長野県経営者協会会長・八十二銀行の小林頭取さんが音頭をとり、県内の行政やスキー場関係者を纏め、オリンピック開催の栄誉は「都市」に与えるというIOCのルールに基づき、国内的には「長野市」と決めて県内一本化に成功したとお聞きしています。

それより少し前、1987年 カナダのカルガリーへ出かけました。88年は韓国で夏季オリンピック、カナダのカルガリーで冬季オリンピックが開催される年ということで、その一年前のカルガリーの準備状況を視察に行こうということで、塚田市長さん、会議所の高木副会頭さん等々で視察にでかけました。

カルガリーは石油の町で、長野市よりはるかに大きな都市でした。
スキー場は、遥か離れたロッキー山脈の中で、そこでも雪が足りない可能性があるということで、ゲレンデにスノーマシーンを用意しているとの話を聞いて、大変だなあとの感想をもちました。

平原の町ですから、ジャンプ台はすごい工夫の産物でした。平地に大きな穴を掘って、その掘った土を片方に盛り上げて大きな丘をつくり、その頂上に、ジャンプのスタートタワーを建て、そこからジャンプ台のアプローチが出来ていて、掘った穴の手前部分の斜面がランデイングバーン、そして穴の底から向こう側が当然上り坂になっていて、そこで選手が止まる・・・これで良いなら平原や町の中でもジャンプ競技はできそうだなあと感じました。
ボブスレーのコースは、プラスチックの筒状のものがあったような記憶があります。
スケートの会場は、カルガリー大学の体育館。カリガリー大学の学生寮がオリンピック村になる予定とか。

圧巻はアイスホッケー会場の大きさ、素晴らしさでした。会場の一番後ろの高い席から見下ろすと、アイスホッケーリンクが、ボクシングのリンクより小さく見えました。さすがにカナダのアイスホッケーは、北アメリカの世界一のリーグと同一プロリーグということで、桁違いに素晴らしい施設でした。